30
「トーハっち、ダイジョーブだった?」
そんな緩い問いを受けていると、何だか帰ってきた実感があった。
8月2日、水曜日。熱された蒸気に閉じ込められたみたいに、息苦しい灼熱の季節。毎年毎年、懲りもせず更新される、史上最高気温。そんなある日の朝。
夏休み中の登校日である。
あの放火・殺人騒動の後始末はまだ済んでおらず、しかし一区切りはついて目処が立ってきたくらい。
“穴”は、その
鳶羽のように、暴力沙汰に参加しなかった生徒は、今回限りで不問となった。クラスの異様な雰囲気が、脅迫と同じだと判断されたのだ。
が、積極的に加担したメンバーに関しては、最低でも停学、最悪は逮捕し拘束された。佐布悠邇殺害の共犯扱い、というわけだ。
それで言えば、択捉芹香が最も重い罪科を背負う。首謀、教唆、主犯、そして実行犯なのだから。“穴”の中身と共に灰になっていなければ、世間が集中して粘着しただろう。実際は、彼女の家族、生徒も含めた学校関係者、警察組織、そして神螺家、それらに対象がバラついた。
その中でも
神螺日向は、表舞台から離れたままだ。神螺阿藤曰く、精神を病んで療養中、面会謝絶とのことだ。この事件の中心に居るだろうことはわかっているが、現時点では被害者側の立場であるため、警察も強くは要求できず、捜査は難航しているのだと言う。ただ、メディアによる追及に容赦は無い。そう遠くない内に、出て来ざるを得なくなるだろう。
そういったゴタゴタがあり、7月の授業は丸々休校、そのまま夏季休業に入ってしまった。
8月の登校日を増やすことで、辻褄を合わせるのだそうだ。
そして今日、鳶羽は鳩子と、久しぶりに対面した。
「ほんと心配性なんだから。ピンピンしてるよ」
「でも、あのあとすぐお腹壊してたじゃん。セーシンテキに、来てたりとか………」
「確かに色々とビックリしたけど、もう心の整理はついたから」
鳶羽は彼女を撫で繰り回して、
「ありがと~、こんなに私を想ってくれて~」
「わ、ちょちょちょ、乱れる、髪が乱れる~このぉ~」
そうは言いながら、大して抵抗せずに受け入れてくれる、そんな鳩子が好きだった。
「それにしても、ケガしてなくて良かったよ。あ、でも、あんな事になっちゃったのに、『良かった』ってフキンシンかな?」
「ううん、私も同じ。鳩ちゃんに何も無いまま終わって、本当に良かった、そう思ってる」
「え、えへへ~照れますなあ……」
やっと愁眉が晴れたようだ。
一時期の不穏さは見る影もなく、大分安らいだように思える。予想もしなかった展開だらけだったが、最後には元の平穏へと収まってくれた。
だから「良かった」というのが、鳶羽の噓偽りない本心だ。
この藤有高校に関わる人間に対する、世間からの風当たりは、これから先も強いままだろう。けれども二人でなら、そんな苦境にも打ち克てると、彼女はそれを信じている。
その胸を充たす熱き脈動が、力を貸してくれるなら。
「はい授業を始めますよ。席に着いて」
日常的なチャイムのメロディ。新しい担任が入って来る。前任の宍戸は、襲撃事件の顛末に責任を感じ、現在は休職中とのことだ。事件前後で変わった事の一つである。もしかしたら、教員を辞めるのかもしれない。
出席が粛々と進行する中で、
「あ、椅さん」
「え、あっはい」
「ちょっと用があるから、放課後に生徒指導室まで来て下さい」
「えー……、何かやらかしました……?」
「ああいえ、ほんの形式的な挨拶だけだから、身構えないで欲しい、らしいです」
「らしい」、とは?
良く分からないが、身体が強張ってしまう。そんな事言われたって、教師からの急な呼び出しなんて、緊張するに決まっている。
結局、その日は朝から気が気じゃなかった。
問題の時刻。
授業は午前で終わり、放課後は曇天と南中に近い日光とを、行きつ戻りつしていた。
部活を再開したらしい合唱部が、アヴェ・マリアを歌っている。いつもと曲調が違い、歌詞も一つを繰り返すだけのものになっていた。
「お腹ペコペコだよお……」などと不平を垂れる鳩子に、先に帰っているように言い、最近よく足を運んでいる気がする生徒指導室へ。
意味もないのに、足音を殺すように歩き、扉の前で深呼吸。震える手で三回ノック。
「どうぞ」
男の声に従い扉を開けて、
「失礼しま——」
身構えが萎え、空気が抜ける。
「ようよう、なんか久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
来客用ソファに座って、串に刺さった鳥のハツを噛んでいたのが、最早お馴染みの顔だったからだ。
「日下さん。あの日から一体何を?」
「ま、俺なりに色々と、な」
炎天下でも変わらずに、長袖黒手袋と狂気のコーデ。
空惚ける日下創を見て、ガクリと肩を落とした鳶羽。何が「色々」なのだか。最重要場面で、不在だったクセに。結果的には、もしあの場に彼が居たとして、役には立たなかっただろうが。
「『用がある』って、あなたですか………」
「その後、どんな感じか気になってな」
外様からの協力者である為、責任も無く暢気なものである。しかし悪い人間でもないので、すげなくあしらってしまうのも気が引ける。鳶羽は彼の向かいに腰掛け、素直に話すことにした。
「なんとか、元の通りにやれてると思います。戻せないこと、修復できないことも多いですが、失うばかりじゃないと、そう考えるようにしてます」
「そうか。たとえ強がりでも、それくらいの心構えでいられるなら、頼もしい限りだ」
「誰かさんは頼りないですけど」
「言ってくれるな」
端々に忍ばせる棘の苦さに笑いながら、日下は勝手に淹れたであろう茶を啜る。
鳶羽の前にも申し訳程度に置かれていたが、長居するような話でもなし、手をつけるつもりはあまり無かった。
「ヴラディーミル・ヴァヴィロフ」
ハツの弾力に苦戦しながら、彼は急に名前を出した。
「え?誰ですって?」
「ソ連時代の作曲家だ。知らないか?傑作・ヒット作を飛ばすのに、名声に頓着しないのか、はたまた厭わしく思っていたのか、名義を昔の作曲家のものに、コロコロ変えていたらしい」
「は、はあ……」
「代表的な曲も、いつの間にかジュリオ・カッチーニが書いたことになっててな?ああ、カッチーニってのは、16世紀くらいの音楽家の名前なんだが……。そっちはいいか。兎に角、そいつの作品とされた中で一番有名なのが、『ルカによる福音書』の引用を元にした聖歌の、数あるバージョンのうちの一つ。そう——」
——『アヴェ・マリア』だ。
「今流れてる、この曲だな」
作者がすり替わっていた、祈禱歌。
「????」
雑談にしては、込み入りすぎて取っ付きにくい話題選びだ。前から彼女は思っていたが、この男、会話が下手なのだろうか?
「お前さんに、聞いておきたいことがあってな」
ようやく空となった容器を置き、まだ熱いのだろう緑茶を口に含み、ゆっくり嚥下した後に、彼はふと、そんな事を言った。
「答えられる範囲なら、どうぞ」
「好きに答えてくれていい。嘘吐いたって構わねえ」
何だか、身も蓋も無い事を言っている。それでいいなら、聞く意味とは何か。
「お前さん、後悔、してるか?」
「成程」と、鳶羽には合点がいった。
隼人を失った事で、彼女が自分を必要以上に責め苛んでいないか、それを探る為に来たのか。余計なお世話でもあるし、有難いお人好しとも言えた。
「してません」
だから、彼女は正直に答えた。
「私は、自分に出来る精一杯をやりました」
日下は彼女と正対し、その目を一直線に合わせていたが、ふと下を向き、何事か呟きながら蟀谷を掻き、首を捻り、少しして懐から小物を取り出した。
「それは?」
見たところ、テスト前や受験シーズンによく見かける、単語の暗記用シートのような、小さな紙の束のように見える。
「ちょっと、これを見て欲しい」
「はい?……はい………」
意図不明だが、顔を近づけてみる。何か描いてあると思ったが、棒人間だった。彼が束を指で曲げ、親指を僅かにスライドさせていき、紙が伸びるに任せれば、勝手にページが捲れていく。
棒人間が躍動する。
「これって………」
「夜なべして作った」
「暇なんですか?」
「手心をくれ」
これは誰だって言うだろう。探偵助手とは、こんなに遊んでていい職なのか。
「この少年は、どっちに行った?」
「少年かどうか、それ以前に男女の別すら覚束ないですけど、右に飛んで行きましたね」
「そう見えるよな」
自作のパラパラ漫画を見せて、クオリティを自慢したかったのか?
「そんな目をするな、………ほんと待ってください、これ見てこれ」
萎んでいく関心と信頼を感じ取り、慌ててもう一つの紙束を出す日下。
「まさかの二作目ですか?」
「いや、拡張パーツ、それも違うな、未公開シーンだ」
彼は一つ目の最後尾の数枚をまとめて開き、そこに生まれた
「そいでこいつが、ディレクターズカット版だ」
彼はまた、再生を始める。
やはり棒人間が右上に跳び、
右端を蹴って真左へと方向転換、
そのまま左方へと消え、壁からの反作用による衝撃波だけが残される。
「な?左に飛んでるだろ?」
「『な?』って言われましても」
「してやったり」な、腹立つ顔をやめて欲しい。
「間のワンアクションが抜かされただけで、お前はまったく逆方向を、それも壁があって通るのが不可能な方角を見て、そっちに行ったと答えたんだ」
「日下さんの絵がヘタだから、そう見えただけです」
「腐すなよ。こういう意識できない情報不足ってのは、時に深刻な大間違いを引き起こすって、俺はそう言いたいんだ」
欠落があっても、認識はそれを認めない。
「森で狩猟する種ってのは、幹や枝葉に遮られた視界の中、獲物を見つけなければならない。だから肉食や雑食の動物は、視覚以外が発達したり、或いは見る力を増強したりする。それら手法の一つがこれだ。獲物の一部が覆われていても、残った部分から補完する。隠された箇所を補って、全体像を掴んで狙う」
それは能力だ。進化に選ばれた脳機能だ。
だがそれが、錯視を招く瞬間がある。
「悪用すると、水玉コラとか作れるぞ?見た事ないか?水着部分だけ上手く隠して、全裸みたいに見せるヤツ」
「下品な手法ですね」
「そう言うなよ、面白いぞ?ああいうのを見ると、脳味噌って手合いが案外ヘッポコなのが分かる」
「それで?その下衆の発想が、なんなんですか?」
「人は見落とす生き物だ、って話をしたかったんだ。それでいて、『全部を見ている』と思い込む、そんな困った生き物でもある、ってな」
それを踏まえて、
「俺はもう一度、お前さんに聞きたい。本当に——」
——後悔してないか?
禁を破るような、消費期限切れの食品を口にしてしまうような、そんな不快感があった。
もう二度と、この時点には戻って来れない。
それでも彼女には、鳶羽にとってこれだけは、自信と自負を持って言い切れる。
「はい。私は、後悔していません」
「そうか」
何の変哲もない相槌だった。彼の発言の多くと同じく、意味の無い文字列だった。
ただ、何かが変わった。彼の目が?口調が?姿勢が?分からないが、何かが。
「昔話を、しようじゃないか」
男は言った。
「はい?」
「そこからだ。そこから始めるべきだ。そうだな、そこからになる」
彼は歯切れ悪く頷いているが、彼女には何も伝わらない。
「あの、もういいですか?話は終わりましたよね?」
「いいや、始まった。お前さんが始めた」
「意味が、分かりません」
「お前さんが少しでも後悔していたら、そう見えたら、俺はこの話をしないつもりだった。だが、このまま放置すれば、次はもっと酷い事になるかもしれない」
だから、今ここで、禍根を絶つ。
「よく分からないんですって。何言ってるんです?『次』って、何ですか?」
「ここから先は、『推理』だとか、そういう高尚なモンじゃねえ。言うなれば俺の妄想の開示だ」
妙な顔だった。
苦渋を噛み潰し、吐き出したくて堪らないのに、顎の運動を止められないような。
「探偵が、それでいいんですか?」
「俺は、助手だからな」
「だから、試しに言わせてもらうが」、彼はそう言って人差し指を突き付け、
「お前、蛇頭隼人を食っただろ」
それは、指弾だった。
「本気で、」
正気で、
平気で、
混じり気無しに、
「それが真実だと、思ってるんですか?」
誠実に?
確実に?
「それをこれから確かめる」
日下の言葉が、
最後の、
そして今更な、
ディナーベルとなった。
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