無辜漬

1

「君は、」



 だからだろう。僕はその月を憶えていた。



 幾歳いくとせにも亘る苦役の中では、箸が転がっただけでも心を楽しませる。渇いた砂漠が一滴の水を、瞬間全力で吸い上げるように。まるで意味の無い無力な様まで、その喩えにぴったりである。つまりは何も定着しない、広くはじく不毛である。恒常的な潤いなど無い。


 それでも、その蒼褪めた夜の女王を覚えていたのは、見知らぬ原風景と結びついたからだと、僕はそう思っている。



 柔らかで真っ青な光の中で、僕はドギマギしながら聞いた。

 彼女のことを、また一つ。


「君は、誰?」


 返事は無かった。

 この時には、悪意の不在を知っている。

 これが、この瞑目不感無表情な彼女の、常態であると分かったからだ。

 

 彼女は言葉を持たない。

 いや、もしかしたら、内包しているのかもしれない。

 宝物みたいに、大事に抱え込んでいるのかも。

 そうだとしても、それを見せない。

 外へ出すことは、決してない。


 でも、彼女は微笑んで見えた。

 名前も知らない奇跡は、僕の何にも応えてはくれないけれど、それでも僕を受け入れてはくれた。

 僕から発せられる、全てを吸い込むように。


 僕は考える。

 今日は厄日のように、思い詰めるようなことばかり起こった。

 だけれどもそれは、この時の為だったのではないか。

 一人が持つ幸福と不幸は、きっちり同量でないといけなくて、僕がこの最上の祝福と出逢う為、最下層へと飛び降りる、その必要があったんじゃないか?


 命を捨てた果てがここだとして、正しさで照らされる天国よりも、命無き冥光みょうこうが抱き留めてくれる、この場所の方がよっぽどいい。

 温かい。

 とても温かな液体に身を浸すような、安穏と捨て鉢の合いの子みたいな、そういった心地に包まれる。沈んでいるのに、溺れはしない。甘い匂いは、嫌悪感を蝕んでいく。記憶に無いのに、懐かしい。


 いつかはそこを後にして、出て行かなくてはならないだろう。そう予感する。

 真っ暗闇の中で、一箇所だけの出口が明白。だけれどここで、守られていたい。

 その想いを振り切って、外へと這い進まなければ。


 でも、今は、まだ………


「月、見える……?綺麗だよ………」


 僕はそう言った、と思う。

 言えるとしても、それが精一杯だからだ。


 

 言うとしても、それが全てで良かったからだ。

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