第36話 絶望 × 希望


 変わり果てた優菜の姿を前にして、俺は全身の血が凍りついたような衝撃を受けた。

 あるいは、黄泉に堕ちて変貌したイザナミを目にしたイザナギもまた、こんな心境だったのかもしれない。


「何だよ、優菜。その姿は……」


「…………!」


「いったい、お前の身に何があったんだ? 大丈夫、絶対に助けるから……俺が何とかするから、事情を話してくれ」


 俺は手に持っていた刀を消して、優菜に向かってゆっくりと近づいていく。

 しかし、優菜はその顔を俺以上の絶望に染めて、口を大きく開いた。


「嫌ッ!」


『小僧!』


 優菜が叫び、八雷神も叫ぶ。

 同時に……胸に受ける衝撃。俺は後方に突き飛ばされた。


「わっ!」


 庭に尻もちをついて、気がついた。

 攻撃を受けたわけではない。ただ掌で突き飛ばされただけである。


「見ないで……私を、見ないでっ!」


「優菜!」


 俺を突き飛ばした優菜が塀の上に跳躍する。人間離れした身体能力。

 そのまま、夜の町をどこかに跳んでいってしまった。


「クソ……何だよ、どうして優菜があんな姿に……!」


『憑りつかれたのじゃろうな。禍津霊に』


「そんな……いや、だっておかしいだろ? 禍津霊に憑依された人間は何人も見てきたけど、あんな化物じみた姿になってはいなかったはず……!」


 現実を受け入れることができずに首を振ると、胸の奥から八雷神の憐れむような声が返ってくる。


『おそらく、学校で奴らの破片を身体に入れてしまったんじゃろうな』


「破片……あの巨人の残骸か?」


『それやもしれぬし、異界に行って連中に襲われた際に微弱な……それこそ、我らがまるで存在を気取ることができない程度の禍津霊が入り込んだのやもしれぬ』


「嘘だろ……そんな小さな禍津霊が身体に入って、あんなことになっちゃうのか?」


『普通は有り得ぬ。おそらく、悪い条件が重なったのじゃろう』


 八雷神が溜息をつく気配がした。


『おそらく……あの娘は退神師の血を引いておるのじゃろう。力を発現した様子はなかったから、おそらくは先祖返りか。盗人どもの遠い血縁なのやも知れぬな』


「そんな……でも、彼女は東京からの転校生だぞ?」


『妾に言われても知らぬよ。小僧、そなたがあの娘に己の事情を黙っていたように、娘にもまた話していないことがあったのじゃろう』


「…………」


 俺は黙り込んだ。

 考えても見れば……当然である。

 俺と優菜は出会ってから一ヵ月も経っていない。

 一年以上、付き合った恋人の事情すらも把握できていなかったのに、会って間もない相手の家庭や血統など知るものか。


『ただ……退神師の血縁というだけでは、この状況は説明がつかぬな』


 八雷神がなおも言う。


『あの娘……完全に変異が始まっておった。禍津霊と一体化して、その影響が肉体にまで及んでいた。それほどまでの膨大な負の感情を孕むような何かが、この短期間に生じたということじゃな』


「…………」


 俺は黙ったまま、優菜の家に足を踏み入れる。

 一刻も早く彼女を追いかけたい気持ちはあったが、まずは状況を把握しなければ。


「これは……!」


 そこには悪夢のような光景が広がっていた。

 中年女性と男女一組の老人。

 リビングに倒れている三人の人間。いずれも胸や腹、首などをめった刺しにされて殺害されている。

 状況から察するに、優菜の家族と思われるが……。


「……優菜がやったわけじゃない、はず。強盗にでも襲われたのか?」


 床を見ると、血の痕が足跡のように廊下まで続いていた。

 追いかけていくと、そこには別の人間が倒れていた。

 こちらは中年男性。リビングにあった死体と異なるのは、刺殺ではなく首の骨を折られて殺害されている。


「……ロープじゃないな。手で絞めつけたのとも違う」


 首についた痕跡。

 俺の脳裏に優菜の腹部から生えていた黒い触手が思い浮かぶ。

 よくよく見れば、近くには血の付いた包丁が転がっていた。


(この男が強盗で優菜の家族を刺し殺した。その現場に居合わせてしまった優菜も殺されそうになって、生じた負の感情を食って禍津霊が目覚めた……)


 完全な憶測であったが、そんなに見当違いではない気がする。


「……事情はわかった。優菜を助けないと」


 優菜は完全な被害者だ。

 こんなことで、彼女を失って良いわけがない。

 追いかけて保護。どうにか人間に戻す。


『無駄じゃよ、小僧』


 しかし、そんな俺の決意を否定する言葉が胸から漏れる。


『無駄じゃ。あそこまで事態が進行してしまえば、もはや人には戻れぬ。以前の小僧と同じじゃ……殺すしかない』


「……黙れよ、八雷神」


『わかるじゃろう? あの小娘はもう……』


「黙れと言っただろう……殺すぞ」


 俺の口から忌々しげな殺意が溢れる。

 人生でここまで誰かを憎み、殺したいとまで思ったことがあっただろうか。

 詩織に裏切られたときでさえ、ここまでの感情は出てこなかった気がする。


「優菜は助ける……これは決定事項だ。反論は許さない。絶対にだ……!」


『…………ハア』


 憐れむような溜息を聞かなかったことにして、俺はすぐたま惨劇の現場を後にする。

 優菜を助ける。絶対に。

 その揺るがざる覚悟を決めて、夜の町を駆けだしていった。

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