第7話 猿 × 雷


 体重60㎏弱の俺が放ったキックなんて、巨体の怪物猿にとってはなんてこともないだろう。

 そう思ったはずなのに……何故か怪物猿が車に撥ねられたように勢いよく吹き飛んだ。


「グモオッ!」


「あれ……効いてる?」


『当たり前じゃろう。妾の加護を受けているのだから、アレくらいはできて当然じゃろうに』


「よくわからないけど、これならやれるか……!」


 理屈は知ったことではないが、やはり俺の身体は『常世の媛』の力によって強化されているようだ。

 この身体にどれほどの力が宿っているのかはわからないが……あの怪物猿にも対抗できるかもしれない。

 俺は拳を握りしめて、地面から起き上がった猿の顔面を殴りつける。


「うりゃあ!」


「グウッ!?」


「これが俺の分、これも俺の分……そしてこれが俺の怒りだあああああああああっ!」


 浮気された怒り、殺された怒り、自分が置かれている理不尽な状況への怒りを込めて、何度も何度も怪物猿に拳を叩きこむ。

 怪物猿は女性を襲って油断していたところでの不意打ちに、されるがままにサンドバックになっている。


「このまま倒す……!」


 いける……そう思った矢先、怪物猿がギョロリと赤い眼球でこちらを睨みつけてきた。


『ギャオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』


「うわっ!?」


 不意に怪物猿が顎が裂けるほどに口を開き、絶叫を放った。

 文字通りの猿叫えんきょうを近距離からぶつけられて、俺は思わず身体をのけぞらせてしまう。


『何をやっている! 気を抜いてはいかんっ!』


『常世の媛』がどこからか叫んでくるが、直後、怪物猿が太い腕を振るった。

 丸太をぶつけられたような衝撃が胴体を襲い、堪らず横に吹っ飛ばされてしまう。


『油断をしおって……みっともない!』


「ゲホッ、ゲホッ……う、うるさいなあ……」


「ギシャアアアアアアアアアアアアアアッ!」


「ッ……!」


 怪物猿が大きく跳躍して、俺を踏みつけようとする。

 慌てて横に転がって回避すると、「ズドン!」と大きな音を立てて怪物猿が地面に着弾した。

 見れば、踏みつけられた公園の地面に大きなひび割れが生じている。いったい、どれほどのパワーと体重で踏みつけたら、あんなふうになるのだろう。


「最悪だ……参るなあ、これは……」


 恐ろしい。怖い。痛い。

 殴られた右脇がズキズキする。ひょっとしたら、肋骨が何本か折れているかもしれない。

 身体能力では負けていないと思うのだが……いかんせん、実戦経験が足りなさすぎる。

『常世の媛』に命を握られ、死にたくない思いだけで戦ってきたが……正直、逃げ出したくて仕方がなかった。


『わかっていると思うが、逃げたら命を返してもらうぞ? わかっておるな?』


「わかってる……本当に最っっっ悪だよ……」


 うめきながらも、慎重に距離を取って怪物猿に向き合った。

 怪物猿もまたこちらを警戒している様子だ。こちらを睨みながら、「カチカチ」と上下の牙を合わせて挑発的に鳴らしている。


「グルルルル……」


「さて……どうしようかな……」


 正直、攻めあぐねていた。

 身体能力では負けていないと思う。殴られた胴体は痛むが、行動に支障があるほどではない。

 しかし……こちらの攻撃もそこまで大きなダメージを与えている様子はなかった。どうやら、相手も見た目の通りにタフなようだ。


「決め手がない……せめて、武器があればいいんだけど……」


『小僧、見当違いなことを言っておるな。武器ならばあるではないか』


「は?」


『妾とて、無手で神に挑めと命じるほど鬼ではないわ。小僧、お主はすでに武器を持っておる。使い方がわかっておらぬだけじゃよ』


「……いや、武器が何処にあるんだよ。黄泉の国に忘れてきたんじゃないか?」


 周囲を見回すが、武器らしいものはもちろんない。

 俺は理不尽な状況に唇を噛みながら、怪物猿を睨みつけるが……ふと、恐ろしげな形相が明後日の方向に向けられる。


「ギイッ!」


「あ!」


 そして、一瞬の隙をついて怪物猿が駆けだした。

 まさか逃げるのかと怪物猿の進行方向を見ると……四本足で走っていく先に、気を失って倒れている少女の姿がある。


「まさか……!」


「ギハハハハハハハハハハッ!」


 怪物猿が片手で少女の身体を抱きかかえて、そのまま背を向けて遁走していく。


『ああ……どこぞに連れていって、ゆっくりと喰らうつもりじゃな。奴らは武神でも闘神でもない。若いおなごを食えれば正々堂々と戦う理由などないのじゃ』


「悠長なことを言って……逃げちゃうぞ!?」


『逃がせば、お主に与えた命を返してもらうことになる。黄泉に逆戻りじゃな。あの娘も喰い殺されるじゃろうし……さてさて、どうするかのう』


「…………!」


 自分が死ぬのも嫌だったが……それ以上に、自分の間抜けのせいで無関係な誰かが死んでしまうことが許せない。

 俺がもっと警戒していれば、あの怪物猿に気後れしていなければ、彼女を救い出すことができたはずなのに。

 どうにかしなければ……そう強く思った時、胸からこみ上げてくる熱い何かがあった。


「熱っ!? こ、これって……!?」


『ほう? 己の命よりも他者のために力を発現するとは……意外と情に厚い小僧ではないか。見直したぞ』


「おい、これが加護なのか? どうやって使えばいいんだよ!?」


『使い方は説明せずとも、己が魂に聞けばわかるじゃろう。ほれ、やってみよ。今ならばできる。さっさと抜くが良いぞ』


「魂に聞けとか最悪にいい加減な説明だな! もう、どうなっても知らないぞ!」


 俺は歯噛みしながら叫ぶ。

 少女を抱えて逃げ去ろうとしている怪物猿にめがけて、胸から噴き出してきた灼熱のごとき力をぶつける。


「『八雷神やくさのいかずち』」


 その言葉は自然と口から出てきていた。

 胸の奥にある何かを右手で引き抜き、そのまま振り抜くと……ほとばしる電撃が怪物猿の背中を切り裂いた。


『グギャアッ!?』


 電撃に打たれた怪物猿が少女を投げ出し、そのまま地面に転倒した。

 一方で、投げ出された少女の身体が宙をクルクルと回転していき、公園にあったジャングルジムに激突しそうになっている。


「あぶな……」


 危ない……そう言い切るよりも先に身体が動いた。

 稲妻のごときスピードで空気を切り、少女との間にあった十数メートルの距離を一瞬でゼロにする。

 直後、俺は少女の身体を空中でキャッチしており、そのままの勢いでジャングルジムを両足で踏みつけて着地していた。

 金属の支柱が衝撃と熱によって変形し、グニャリと折れ曲がって俺達の身体を受け止める。


「お、おお……!? 何だあっ!? 何をしたんだ俺は!?」


『驚くほどのことではなかろうに。妾の力があれば、それくらいできて当然じゃよ』


 人間にはあり得ない動きをしてしまったことに驚く俺であったが、本当に驚愕させられるのはここからだった。

 少女を抱きかかえる両腕の片割れ……右手に怪物猿を切り裂いた『それ』を握りしめていたのである。


「これは……日本刀、なのか?」


 手の中にあったのは一本の刀だった。

 刃渡り90センチほどの長さの大太刀。刃は透き通るように美しく、淡く青白く光っていた。長く伸びた刀身は帯電しているかのようにバチバチと瞬く雷光をまとっており、刀の鍔は蛇の形状をしていて俺の右腕に巻きついて一体化している。

 手と融合しているのだから当然かもしれないが……驚くほどの一体感だ。

 刀を握るのは初めてなのにもかかわらず、まるで先端の切っ先にまで神経が通っているかのように感じられた。


 この刀こそが『常世の媛』より賜りし力の顕現。

 あの世から逃げ去ろうとする者をどこまでも追いかけ、その身を焼き尽くす地獄の雷の化身。

 黄泉を統べる女王の身体よりでし八柱の雷神の集合体……『八雷神やくさのいかずちのかみ』である。


『グウ……ギイイッ……』


 雷撃によって背中を焼き切られた怪物猿が起き上がり、のそりのそりと這ってどこかに逃走しようとしていた。

 あの猿神は人間を喰らう。特に若い女性の血肉を好んでいる。

 ここで逃がしてしまえば、腕の中の少女のように被害が出てしまうに違いない。


「…………殺す」


 覚悟はすぐに決まった。

 俺は少女の身体を地面に横たえて、紫電を纏った日本刀を上段に構える。


「スー……」


 ゆっくりと息を吸うと、頭の中から恐怖や痛みなどの雑念が消える。

 感覚が極限まで研ぎすまされていく。敵を斬るという覚悟が雷へと変換され、刀身から溢れ出る紫電が勢いを増していった。


「『大雷おおいかずち』!」


 刀を振り下ろすと、特大の雷撃が怪物猿の身体に降りそそぐ。

 目を焼くような雷電が猿の巨体を包み込み、全身を余すところなく焼き尽くした。


『ギ……ハ……』


 喉の奥から小さなうめきを残して、黒い体毛に覆われた巨体がサラサラと砂のように崩れていく。

 やがて完全にその身体が消滅し、夜の公園に静寂が訪れたのである。

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