萌黄優菜③
新しい学校に転校してきた際、私は自己紹介で転校の理由が父親の仕事だと話した。
だけど……それは間違い。真っ赤な嘘だった。
本当の理由は、両親が離婚したことで母親の実家に越してきたからだ。
私達は東京に暮らしているごく普通の家族だった。
父親がそれなりに有名な企業の役員をしていることを除けば、別段、おかしなことはない。
ホムラさんのように特別な力もなければ、キサラちゃんのような天才でもない。
私は時々、男の子から告白されることがあったが……男性は苦手なので、それを優れたことだとは思っていない。
ごくごく普通で、幸せな家族だった。
しかし、そんな普通の幸せは突如として崩れ去ってしまった。
父が勤めている会社の会長が病気で退陣して、後継争いが始まったのである。
止せばいいのに、中途半端に権力を持っていた父親は騒動の渦中に身を投じて、その結果として敗北して会社を追われることになった。
そこから先は地獄のよう。
父は自分の失脚を認めることができず、会社の部下や同僚の手を借りて復権を試みた。
しかし、すでに新しい会長の下で役員は固められており、父が入る隙間はない。
役職の無い平社員としてなら雇うことはできると言われたが、父はプライドが高く、一からやり直すことを受け入れられなかった。
仕方が無しに新しい仕事探しをする父であったが……四十代からの転職の窓口は狭い。
選り好みしなければ何か見つかったかもしれないが、栄華を忘れられない父は妥協することができなかった。
結果、仕事が見つからずに家で酒を飲む毎日。
挙句の果てに、私や母に暴力を振るうようになったのだ。
苦しかった。
痛かった。
辛かった。
だけど……それでも、耐えていた。
いつか優しかった父親が帰ってきてくれる。
そんな思いで、母と二人で身を寄せ合うようにして耐えてきた。
だけど……私と父の関係に決定的な答えを下す出来事が起こってしまった。
高校の授業が終わって家に帰った私は、待ち構えていた見知らぬ男達に襲われてしまった。
後から知ることになったが……その男達は父が借金をした債権者だった。
父は彼らに娘の私を売り飛ばすことで大金を手にして、それで再起を図ろうとしたのだ。
幸い、最悪の事態は避けられた。
私の悲鳴を聞いて近所の人が警察を呼んでくれて、未遂で終わったのである。
私を襲った人達も、そして、父も逮捕された。
父がどういう罪になるのかはわからないが……弁護士を通じて、両親は離婚した。
私は母親の実家がある八雲市に引っ越して、新しい生活を始めることにたったのだ。
クラスメイトの語った転校の理由は全て噓。
そうであったら良いなという、私の虚構の願望だった。
新しい学校に入って、友達ができて。
鬼島君やキサラちゃんと不思議な体験をして。
全てが終わったと思っていた。清算されたはずだった。
だけど……過去は追いかけてきた。
目の前に、過去を体現したようなの亡霊が立っている。
「お父さん……」
「優菜……ごめんよ……」
血の海に立つ父親が私を見ている。
ガラス玉のような空虚な瞳から涙を流して。
父の身体は私が知るよりもずっとずっと痩せていた。
子供の頃はあんなに大きく見えたのに、まるで枯れ木のようである。
「お母さんに何をしたの……お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに何てことを……!」
「ごめんよ、優菜。ごめんよ……」
「お父さん……!」
私が震える声で叫ぶと、父がゆらりと身体を揺らしながらこちらに近づいてくる。
「嫌……来ないで……」
「違うんだ……謝りたかっただけなんだ……ただ、やり直したかったんだ……」
「どうして、なんでこんな……」
「謝りたかったんだ。ひどいことをしたから……傷つけた、から……」
父の手にはいまだに包丁が握られている。
尖った先端からポタポタと血の雫が落ちていく。
あれで母を刺したのか。祖父を、祖母の命を奪ったというのだろうか。
「でも、こいつが優菜とは会わせないって……帰れって……だから、仕方が無く……」
「仕方がない? 仕方が無く、皆を刺したの……?」
「違うんだ……こんなことしたかったわけじゃ……」
「嫌! 来ないで!」
私は恐怖に耐えきれなくなり、踵を返して逃げ出そうとした。
「優菜!」
「キャッ……!」
しかし、背中に衝撃を受けて床に倒れてしまう。
いったい、枯れ木のような体のどこにそんな力があるのか……私を片手で押さえつける。
「ごめん、ごめんよ……こうするしか、ないんだ……」
「お父さん……いたい……」
「痛いよな。苦しいよな……僕もなんだ。でも、すぐに楽になるから……」
父は泣いていた。
本当に悲しそうに、苦しそうに泣いていた。
「おとう、さ……」
そこでようやく、私はふと気がつく。
優しかった父が会社を辞めさせられて、酷い人になってしまったと思っていた。
だけど……それは違う。
父は弱い人だったんだ。弱いから流されて、失敗を認められなくて。
周りに自分の弱さをぶつけることしかできなかったのだ。
「ごめんよ、優菜……ごめんよ……」
「かは……」
父が包丁を振り下ろしてきた。
腹部が貫かれる。息ができない。寒い。血が流れる。制服が汚れる。
明日も学校なのに。
(ホムラさ……)
ダメだ。
こんな制服じゃ、彼に会えない。
私だって女の子なのだ。血で汚れた服を着ているところを見せたくはない。
それに胸に傷がついてしまった。
ホムラさん、授業中にしょっちゅう私の胸を横目で見ていた。
他の男の子だったら不快なだけなのに、彼に見られると不思議と悪くない気持ちになる。
「…………やだ」
嫌だ。
このまま死にたくない。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。
「ごめんよ。痛いね。ごめんよ……」
こんな男に、全てを奪われたくなんてない。
「ごめんよ……ごめ……がっ!?」
「…………?」
そこで不思議なことが起こった。
刺された胸から、傷口から血液とは別の黒い何かが溢れ出す。
粘性を帯びた漆黒のそれが蛇のように父の首に巻きつき、細い首を絞めていた。
「ゆ……な……」
父が苦しそうにこちらに手を伸ばすが……私にしてあげられることは何もない。
「…………」
いつの間にか傷口から痛みが消えている。
私は父の身体を押しのけて、立ち上がった。
「ゆう……たすけ……」
「サヨウナラ」
私はかつての彼を真似して、そう別れの声を告げた。
次の瞬間、グキリと鈍い音が鳴って父の首があらぬ方向に折れ曲がった。
「…………」
少し目をずらすと、リビングの惨劇が目に映る。
家族の死体がそこに横たわっているその部屋には、うっすらと輝く光の玉が浮かんでいた。
「……来なさい」
私が手をかざすと、そこにあった三つの光玉が掌に吸い込まれる。
美味しい。とても美味だ。
「あなたはいらない」
父親の遺体からも同じものが出ていたが、私はそれを足蹴にする。
淀んだ光の玉は悲しそうに瞬いてから、消えてしまった。
「……キサラちゃん、あなたはただしい」
答えを出すのは恐ろしいことだ。
わからないまま曖昧でいたのであれば、追求し続けることができるのに。
答えが出たら終わるだけ。ただ終わってしまうだけなのだ。
父は答えを出した。
私も答えを出してしまった。
もはや未来に可能性はない。選べるのは終わり方だけだろう。
「……ホムラさん」
ああ、彼に会いたい。
無性にホムラさんの顔が見たくなった。
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