第2話 死亡 × 黄泉

『起きよ……』


「ん……?」


『起きよ……小僧、起きぬか……』


 微睡まどろみの中、誰かの声が聞こえてくる。

 聞き覚えのない声だった。しかし、耳朶じだにこびりつくような不思議な存在感のある声である。


『おい、起きよと言っているだろう……いいから、さっさと起きろっ!』


「うわっ……!?」


 大声で怒鳴られて目を開くと、眼前には深淵のような暗闇が広がっていた。

 月明かりも星々の瞬きもない。街灯もスマホの明かりすらない、漆黒の闇がどこまでも広がっている。

 現代日本ではなかなかお目にかかれないような深い暗黒だった。


「僕はいったい……そういえば、詩織は……?」


 ぼんやりとした意識の中で真っ先に思い出されるのは、愛していたはずの恋人……舞原詩織の姿である。


「俺は確か、詩織を待ち伏せして………………あ、もしかして夢か?」


 夢。

 そう……全てが夢だったのではないか。

 詩織が他の男と腕を組んでいたことも。ラブホテルに入ろうとしていたことも。

 全部全部、悪い夢であり、現実の出来事ではなかったのではないか。


「そうだ……最後の出来事も、アレもきっと夢で……!」


『夢ではないは。まだ寝ぼけておるのか、小僧』


「へ……?」


 闇の中から呆れ返った声が響いてきた。

 姿は見えない。声にも聞き覚えはなかったが、それが女性のものであることは声質からハッキリとわかる。


「誰だ、アンタはいったい……」


『妾に向かって「誰だ」とは無礼な小僧よのう! だが……いいじゃろう。死んだばかりで混乱しているだろうし、今回だけは見逃してやる』


「死んだ、ばかり……?」


 ゾワリと悪寒を感じて、俺は胸に手をやってしまう。

 最後に目にした光景がフラッシュバックする。

 詩織が両手に白銀に光る刃を握りしめていて、俺の胸を刺し貫いている光景が。


「ッ……!?」


 胸に手を当てると、そこにはぽっかりと空洞が開いていた。

 心臓は鼓動を止めており、触れた胸からは温かみが感じられない。

 まるで……そう、まさしく死体にでも触れているような感触だった。


『その通り。ようやく状況を理解できたようじゃのう。死人の小僧よ』


「死人……まさか、俺は死んだのか……?」


 否定して欲しい……そんな思いを込めてつぶやくが、闇の向こうからカラカラと笑い声が返ってきた。


『その通りじゃ! 貴様はあの忌々しい盗人の小娘に剣で刺され、息絶えておる。ここは黄泉平坂よもつひらさか……即ち、あの世の入口じゃよ!』


「そんな……まさか、本当に……?」


 自分が置かれている状況を受け入れることができず、胸に手を当てたまま首を振る。

 しかし……いくら口で否定しても、理性よりもはるか深くにある本能が理解していた。

 この女性の声は正しい。自分はもう……死んでいるのだと。


「最っっっ悪だ……彼女を他の男に寝取られて、挙句の果てにその彼女に刺されて殺されるだなんて……! 俺がいったい、何をしたって言うんだよ!」


 あまりの理不尽な状況に声を荒げてしまう。

 浮気をされた俺が、勢い余って彼女や浮気相手を刺してしまうのならばわからなくもない。

 しかし、どうして浮気していた恋人に殺されなくてはいけないのだ。立場が逆だろうが。


『それはな、あの女が『堕神』を狩り殺すことを生業としている『退神師』じゃからよ。あの時、お主は『禍津霊まがつち』に憑かれておったからの。やむを得ず殺めたのじゃろうて』


「は……?」


 闇からの声に俺はフリーズした。

 情報量が多すぎる。ダシンとかタイシンシとかマガツチとか、聞き覚えのない単語ばかり出されても困る。

 できれば、もっと順を追って話してもらえないだろうか?


『面倒じゃのう……まあ、良い。そうじゃな、お主は『黄泉の国』については知っておるか?』


「えっと……死後の世界のことだよね? 天国とか地獄とか」


『外様の神の教えについては知らぬ。『黄泉』というのは日ノ本ひのもとにおける死後の世界であり、世に邪悪をもたらす『堕神』と呼ばれる神々が封じられている牢獄でもある。日ノ本に生きる全ての人間はいずれ黄泉の国へと旅立つことになり、不死の神も罪を犯せば同じく黄泉に閉じこめられる』


「…………」


『そして……妾は黄泉の管理者であり、罪人どもを管理している獄卒。神々の間では『常世ノ媛トコヨノヒメ』と呼ばれておる』


「とこよのひめ……」


『ウム、尊敬と崇拝を込めて「姫様ひいさま」と呼ぶことを許してやる。喜ぶが良いぞ』


「…………」


 喜べない。

 自分が死んだかもしれないというのに、どうして喜ぶことができるだろう。

 黙り込んでいる俺を見て(?)、常世の媛……姫様は言葉を続ける。


『妾は獄卒としてあの世にやってきた人間、そして、罪を犯して閉じこめられている神々を監視している。じゃが……ここ百年、黄泉から逃亡して現世に逃げ出す神が増えておる。それが『堕神』。人の世に災いしかもたらさぬ神……邪神や悪神とも呼ばれておる存在じゃな』


「堕神……それじゃあ、さっき言ってた『たいしんし』っていうのは……?」


『退神師。人の世に仇をなす堕神を討ち取ることを生業としている異能持ちの人間のことじゃよ。どうやら、お主と交際していたという小娘も退神師の一人だったようじゃな』


「詩織が……そんな、聞いたこともない……」


 詩織とは一年以上も交際しているが、そんな話をしてもらった覚えはない。

 俺に秘密にしていたのだろうか……他に男がいるのを隠していたように。


『小娘が貴様を刺したのは、『禍津霊まがつち』という堕神に憑りつかれていたからじゃ。この神は憎しみや欲といった心を持つ人間に憑依し、人ならざる魔性に変えてしまう力を持っておる。あのまま放置していれば、お主は理性を失って人を襲うだけの怪物となっていたじゃろうな』


「……だから、殺したっていうのか? 仮にも、恋人だったのに」


 俺は奥歯を噛みしめて、表情を歪める。

 詩織が俺を刺した理由はわかった。彼女なりの正義があったことも。

 だけど……それで俺が許すことができるかと聞かれたら、答えは『NO』である。


「……そもそも、詩織が浮気なんてしなければ良かったんだ。アイツが裏切らなければ、俺は禍津霊とかいうのに憑依されることはなかった」


 あの時、確かに俺は絶望と憎しみに憑りつかれていた。

 徐々に理性が失われていく感覚もあったし、姫様が説明したように堕神に憑りつかれていたのだろう。

 だが……その憎しみの原因を作ったのは、他でもない詩織だ。

 彼女を許すことなどできない。自分を裏切って殺した女への憎しみを捨てられなかった。


「許せない、絶対に……!」


『フム、そういうことならば話が早いのう。頼み事がしやすいわ』


 怒りの炎を燃やす俺に、姫様がニンマリと笑う気配が伝わってきた。


『のう……小僧。お主、生き返ってみる気はないか?』


「へ……?」


『お主が妾の頼み事を聞いてくれるのであれば、生き返らせてやらぬこともない。どうじゃ……乗ってみるか?』


「…………」


 顔の見えない姫様の提案に、俺はしばし固まった。

 生き返る……その提案は嬉しかったが、何故か不安と不信が背中を撫でる。

 悪魔から契約を持ち掛けられた人間はこういう気分なのか……頭の片隅にそんな考えが浮かんできた。

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