第2話 幸せが怖すぎます
「せんせー、黒田さん大丈夫ですかあ」
「まだ、休んでいるわ。あなた達どうしたの?」
「倒れたあとだから、一緒に帰ってあげようかと思って。小塚君は来ましたか?」
「彼は後でのぞくって言ってたわ。休むつもりだったけど、やっぱりちょっとだけ部活に出てから来るって。彼、律儀だから」
「ええ~、私たちも一緒に帰りたい。黒田さん、小塚君を襲わないかなあ」
「こらこら、人の事をそんなにいう人は品性下劣よ」
底意地の悪い声が保健室の空気をひっかくようにかき回す。いつもは私のことなんか無視しているくせに、きっと小塚君が私と二人で一緒に帰るのを阻止しようとしているに決まっている。
「じゃあ、帰ります。小塚君、腕は大丈夫だったのかなあ。黒田さんけっこう体重ありそうだし」
「大きなお世話でしょ。彼、軽々とお姫様抱っこしてたわよ」
きゃー! ホラー映画を見たかのような甲高い悲鳴が上がる。
「さあ、暗くなるから用がないならさっさと帰りなさい」
私と言えば、先ほどの『お姫様抱っこ』に息を飲む、どころではない、気管につばが飛び込んで咳を我慢するため布団の中に潜り込んで目を剥いて
不満げな返事と共に、建て付けの悪い保健室のドアが閉まる音がした。
やっと嵐が過ぎさった頭の中で、もう一度さっきの村田先生の台詞を反芻する。
『彼、軽々とお姫様抱っこしてたわよ』
数十回の反芻の後、頑なに理解を拒否していた私の理性が折れる。
と、同時に嫌な汗が全身に噴き出した。
あの
私、重いのよっ。
足、ぶっといし。
一瞬光景を想像しただけで、頭の芯がガンガンして、
この学校に私の安住の地は無いのか。理科の実験動画で見た、水の上に落とされて悶えるように跳ね回るリチウムの小片を思い出す。まさに今の私は苦しげに舞うあのアルカリ金属の気分だ。
「黒田さん、もう大丈夫。目がつり上がった女の子達は帰ったわよ」
意味ありげな笑みを浮かべて保健室の主が近づいてくる。
ああ。ここは最後の砦。一歩出ていったら、保健室の周りを取り囲む小塚君推しの鬼女軍団に刃の着いた言葉で切り伏せられるのが目に見えている。
「いいわねえ、先生もちょっと嫉妬よ。あの、小塚君にお姫様だ――」
「ぐわあああああっ」
大脳辺縁系から呼び出された太古の叫びが声門を震わせる。保健室の美女姫、村田先生が目を丸くして半身を起こして悶絶する私を見ている。
「ぐわっ、ぐわっ、ぐわっ」
人間の言葉を忘れた様に頭を抱えて身を震わす姿が、開けられたカーテンの向こうの鏡に映って、醜いったらありゃしない。とかしても、なでつけても、跳ねまくる赤茶色のボサボサの髪。よく言えばムーミン、悪く言えば猿人風に突き出た下顎。必要以上に大きいまん丸な目と無意味に赤い頬。女性にあるまじき大口。おまけにずんぐりとした肢体。醜い、を通り越して奇怪ですらある。
この容姿だから、私は自分の人生に全く期待していない。
陰で、トカゲを意味するラテン語の『サウルス』と呼ばれているのも知っている。多分、あの人たちのそのネーミングにはトカゲどころか、恐竜の意味も含まれているんだろうけど。
今更言われなくても充分わかってる。この容姿とは十七年の長いお付き合いなのだ。
『拙者生まれも育ちも白亜紀後期、テチス海で産湯を使い、食いつ食われつ生存競争。天変地異から逃げまどい西や東へ大移動、土地土地の主さん達のお情けをいただき日々食いつなぐ、ケチな恐竜でございますが、これも何かのご縁、以後お見知りおきを』
なあんて、すらすら
でもね、諸君。乙女なのだよ、この醜い姿の中で震えているのは。柔らかい心を傷つけられるのが怖い、へたれ女なんだよ。
外は取り繕っても、目の中に飛び込む彼らの表情からは、いつも隠しおおせない嘲笑がにじみ出ていた。彼、彼女たちのどす黒い心は、自分よりもずっと美しい外見で武装されていて、見るだけで私を卑屈のどん底に突き落とす。この抗いようのない自己嫌悪は慣れようったって慣れるはずがない。
何も見えない、何も見えない、何も見えない。
ただ、耳だけはそばだたせる。敵が来る足音をいち早く察知して反応するために。
私はそっと目をつぶって、闇の中に逃げ込む。
「なんぴとたりとも、私を見ることはできない」
「え? 僕はいつも見ているよ」
思わず見上げたその先に……。
いつの間にか小塚君が目の前に居る。
ウギャッ。ウギャッ。ウギャッ。
「止めて、止めてって、どうして? 黒田さんは僕と話すのがそんなに嫌なの?」
「わかるの? 私の声の意味」
パニックを起こすと言葉の代わりに出てしまうこの意味不明な鳴き声。今まで親からも理解されることなく、声帯の異常かと耳鼻科に連れて行かれたこともある。
「うん、なんとなく。君の事をもっと知りたいと思っているからかな。まあ、元気になって良かった」
そっと出された彼の手が裏返り、白い掌が顔の前に差し出される。
「一緒に帰りましょう、僕のお姫様」
まるで口いっぱいに砂糖の塊を突っ込まれた気分。ごめんなさい。極甘すぎて気持ちが悪い。
もしからかっているのなら、あなた極悪非道の大悪人ですよ。
万が一、本気になった後で裏切られたら、高度一万メートルに浮かび上がるような心持ちから一気に地面に自然落下するようなダメージを喰らうに違いない。
それを防ぐために私は心の中で常に『信じません』と大きく書いたパラシュートを背負ってる。
黙っている私を見て、小塚君は困ったような笑みを浮かべる。
「か、からかわないでください」
思わず両目から涙があふれてポロリと――。
え?
急に真顔になった彼の顔がそっと近づいてきて、落ちる前に目の下の涙を吸い取った。
ふひゃあああああああああああっ。
「君のリゾチームは、濃厚でゾクゾクする。たまらない……」
り、リゾチームって、涙の中に含まれている殺菌作用のある物質ですよね。
それが、たまらないって、どゆことですか???
いや、リゾチームにこだわっている場合ではなかった。急に小塚君がそっと私の両肩に手を添えて、耳元でささやく。
「我慢、できなくなりそう」
今度は目じゃない。
唇が狙われている。って……下
ほ、保健室で王子様とファーストキスですか? これって、キュンキュン萌えキャラの女の子専用のシチュエーションですよね。私のようなサウルスなんか、望んでもかなえられるはずもない……。
目の前で小塚君の顔が止る。
「本当に、好きなんだ。いい?」
ああ、神々しくて目がひっくり返るっ。
言葉なんか出ない。
まるで壊れたロボットのように顎をガクガクさせながら顔を下に向ける。小塚君、わかったかしら。私が「ハイ」って言ってること。
これから、人生最高の一瞬が――。
「ごめん、ごめん、お待たせえ」
ガラリ、と戸が開いて村田先生が帰ってきた。
「小塚君、留守番ありがとう。ちょっと至急の用事があって、黒田さんを一人にしておけなかったから助かったわ、ん?」
村田先生は、目をパチパチして私たちを見て首をかしげる。
「お邪魔だったかしら?」
女の勘は鋭い。
「い、いえ」
さすがに小塚君も先ほどまでの肉食系オーラを消している。しかし、
「彼女を送って帰ってくれる? もう親衛隊の女の子達も居なくなったようだし」
保健室の美女姫は、ぽんと小塚君の背中を叩いた。
「彼女は真面目だし、勉強家で妙にいろんな事を知ってるし、一途だし、選んで間違いは無いわよ」
「はい、僕の目に狂いはありません」
自信たっぷりに微笑んだ小塚君の目が、チラリと私の方にスライドする。
「一目惚れなんです」
「あらあら、ごちそうさま」
村田先生は肩をすくめて、机に向かった。
「さっさと帰ってちょうだい。独身女にはちと刺激が強すぎるから」
私たちは保健室を追い出された。
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