第20話 平穏な日々
あのオムレツパーティから1週間。
日曜日の朝、頬杖を突きながら私は自室の勉強机から窓の外を見ていた。朝からしとしとと雨がふり続く。今朝のテレビでは、今年は梅雨入りが遅かったせいか梅雨明けの気配はまだないとお天気キャスターが言っていた。
よかった、例年は梅雨明けが楽しみなのに、今年は憂鬱だ。
梅雨が明けたら、また王子を狙ったイスパニエルの襲来があるだろう。飾西君と羽光君と私で今度も彼を守れるだろうか。それにしても今後どうするのかな彼、いつか国に帰るのかな――。
いきなり胸がどきん、と音を立てた。
もしかして、私も誘われるのかしら。
『君を連れ去ってもいい?』
彼と一緒にエスランディアに行くということは、もしかしてこの世界に一生別れを告げるの? 私は意味も無く部屋の中をぐるりと見回す。
最近学校が楽しくなっている。話すことのできる女子も増えてきたし、男の子達も私を今までとは違った目で見るようになった。ちょっと残念だけど、付き合っている小塚君が素敵だから私まで価値が上がったように見られているのかもしれない。救いと言えば、お話しした男子の中で数人くらい『あいつけっこう面白い』と言ってくれる子がいること。
思えば、今までの私の学校生活の中で一番穏やかで幸せな日々かもしれない。
で、私はやっと築いた人間関係をすべて捨てていくのか。そして大切な家族も。
お母さんとお父さん、そして仁志の顔も目に浮かぶ。みんな大好き。この三人は私の顔がどんなに醜くても、無償の愛情を注いでくれる。私がなんとか自暴自棄にならずに生きて来れたのも、家族のおかげだ。
でも、小塚君のいない世界には居たくない。
まだ誘われたわけでも無いのに、涙がぽろぽろとこぼれて机の上に小さな水溜りを作った。なんて簡単に出る涙。涙腺がだらしない女で、自分でも腹が立つ。
コーヒーでも飲んで気分を変えよう。そして、まずは目先の宿題を片付ける。
「元気がありませんね、どうしたんですか」
リビングダイニングのドアを開けて立ちすくむ。台所では小塚君が仁志とコーヒーを飲んでいた。
「今日は姉ちゃんのお客様じゃなくて、僕のご招待だから。へへっ、メルアド交換してたんだ」
口をアワアワさせる私に、仁志はすまして言った。「ちょっと勉強を教えて貰うんだ」
小塚君が悪戯っぽい瞳で私に頭を下げる。
「お邪魔しています」
「あの二人は?」
「たまに休暇もあげないとね。君の近くにいれば、彼らも安心して自由を満喫できるだろうし」
私は無意識のうちに左胸ポケットに入った獣脚丸を触る。この子がいれば、変身して彼を守れる。通常は気が弱くて鈍足で運動ができない私が、なんであんなに勇猛果敢に戦えるのか、自分でも不思議だ。
「姉ちゃん、お菓子とか買ってきてくれよ。僕、勉強があるからさ、兄貴と」
「僕は、おせんべいとか、かりんとうが食べたいなあ」
小塚君はなんかお洒落なケーキとコーヒーの印象だったけど、実はおせんべいとお茶という純日本風の取り合わせが好みらしい。
私は近くのコンビニで両手に抱えるほどのおせんべいとかりんとうを買って帰り、気合い入りすぎと弟に大笑いされた。
小塚君を家に送って帰る。まだ夕方だから一人で帰れると言い張った彼だが、護衛の二人がいないのに一人にさせるわけに行かない。イスパニエルからの襲撃は無いとしても、ここに居着き彼を狙っている者が襲ってくる可能性は否定できなかった。結界が張ってある彼の住まいまでは絶対に送り届けると頑張った私に、ようやく彼が折れた。
外は細い雨。二人で傘をさして歩く。誰に聞かれているかわからないので、当たり障りのない会話だけ。でも、最近は沈黙を避けるため一生懸命会話しないといけない、という気持ちがなくなった。時々訪れる沈黙の時間を共有するのも、また幸せだ。
彼の住んでいるアパートは予想よりずっと質素なワンルームだった。飾西君はこの世界に家族と住んでいるし、羽光君は同郷からこの世界に来た支援者の家にホームステイしている。だが、小塚君は支援者の戸籍に入れて貰っただけで、一人暮らしをしているようだった。
「支援者と一緒に暮らしていると、彼らが危険な目に会う可能性もある。迷惑がかかってはいけないからね」
ドアを開けると生活感の無いガランとした部屋が垣間見えた。
「じゃ、わ、私はここで」
何か彼の心の孤独さを見たようで、私は慌てて目をそらす。彼の目が一瞬寂しげに光った。それに気がついた私は、立ちすくむ。
彼はたたんだカサを壁に立てて、両手で私の肩をそっと掴む。
「黒田さん」
こ、これは、この状況はっ……。全身がびくりと震えた。
周囲に誰も居ない。それは私の耳が無意識のうちに確認していた。
じっと私の目を見つめる、彼。
苦節十七年、ついにこの日が来た。私は思わず息を止め、彼を見上げる。
私の心は決まっている。あなたの世界で、大好きなあなたを一生守りたい。
彼の顔が近づいて――。
だが、急に彼は私の肩から手を下ろして、顔を背ける。
張り詰めた空気が一気に緩む。今のは、なんだったの?
私は吸い込んでいた息を思わず鼻から吐き出す。
キスは延期になった――らしい。
「黒田さん、夏休みに……」気まずい雰囲気を払拭するかのように小塚君が私に微笑んだ。「ピクニックに行こう。どこか遠くに」
「は、はい」
大きく頭を振って返事をする。
夏休みのピクニック。それはきっと最高に楽しい思い出になる――はずだった。
7月に入るとともに気分はテスト一色。あのオムレツパーティ以来敷居が低くなったのか、小塚君たち三人は試験期間中、私の家に集まって勉強するようになった。私の家族もすっかりこの三人組を気に入った様子で、出入り自由のお墨付きが出ている。
あのたった一人の部屋を見てしまった私は、ここで彼が心からくつろいだ表情をしてくれるのが本当に嬉しかった。ストレスのたまるテスト中だが、私にとっては幸せな時間になっている。
クラスが別だから今まで小塚君の勉強している姿は見たことが無かった。
カリカリとシャーペンを動かして問題を解きながら、時折左手で髪をかき上げる。絵になるくらい美しくて私はうっとり眺めてしまい、見かねた仁志に後ろからまごの手でカツを入れられて我に返る――の繰り返しだ。
小塚君は理数系は完璧だが、どうも古典と歴史に苦戦しているようだ。他国の歴史は参考になるから興味深い、とは言いつつもさすがに来て数ヶ月では人類の歴史は覚えきらないだろう。現代語はなんとかなるものの、やはり古典は苦手な様子だ。
これでこの学校に転校すぐのテストが十番以内って、どれだけ理数系の点数が良かったのやら。
羽光君は、ヤマをかけてそこしか勉強していない。余った時間はなんとゲームをしている。成績が悪いとは聞かないので、要領がよくてうらやましい。飾西君は文系中心にまんべんなく参考書を持ってきてはいるが、どうしても情報科学のほうが好きな様子で一旦PCを開くと延々と試験とは別なことをしていた。賢そうなのに成績上位者に名前が見当たらない理由がよくわかる。
「真面目だねえ、黒田さんは」問題集を延々と解き続ける私を、羽光君が心底感心したように褒めてくれる。
「私、きちんと勉強しないと全然点数取れないから」
ピンポーン。
「宅配便だよ。要冷蔵で、ケーキみたい」
玄関に飛びだして行った仁志は、荷物を受け取ってすぐダイニングに入ってきた。
「これ、姉ちゃん宛になってる、あれ? 兄貴も連名になってるよ」
勉強をしていた全員が一斉に顔を上げた。仁志は30cmくらいの細長い箱を持っている。
「誰から?」
正直私に荷物を送ってくれる人など思い当たらない。小塚君が連名に入っているとなると、なにか罠かもしれない。
「貸してください」飾西君がひったくるように箱ごと取り上げると、ベランダで箱の上に携帯電話を掲げた。
別機能が搭載されているのだろうか、本来の使い方とは違う。何か探査しているみたい。
「爆発物などでは無いようです」彼は部屋に小さな荷物を持って入ってきた。
「お、大げさな……」弟は目を丸くしている。
だが。
「うっ」送り状を見た羽光君が一瞬言葉を飲んで、皆に見せるように机の上に置いた。
備考欄には、
『今までご迷惑をかけて本当にごめんなさい。心を込めて私が焼いたケーキです。お詫びのしるしに受け取ってください
平穏な日々に水を差す不吉な名前に私はどんよりする。
「なんで私の住所を知っていたのかしら」
「彼女の父親はかなり権力をもった政治家です。娘に頼まれれば、私立探偵を雇って住所や人の出入りなどは簡単に調べられるでしょう」飾西君が答える。「とりあえず危険物ではなさそうです。多分記載してあるとおりケーキ、かと」
羽光君が包みをあける。
そこから出てきたのは、表面が輝かんばかりにつやつやしたアップルパイだった。表面に施された細かな模様が高級感を醸し出している。
だが、それを見た三人が息を呑んで固まった。
「た、食べてみていいかな」呆然とケーキを見つめながら小塚君がつぶやく。
「こ、紅茶を入れるわ」
急にどんよりと重くなってしまった空気をどうにかしたくて席を立つ。お湯を沸かして紅茶パックを取り出す。勝手知ったるなんとやら、小塚君一行は手分けして食器を用意してくれた。
「それでは、まず僕が」
いただきますも言わずに、羽光君がパイの中央に切り込みを入れて小片を口に入れる。獣人で頑強な免疫力を持つ彼がお毒味役をかって出たのだろう。食べてからしばらくして大丈夫とばかりに顔を縦に振る。
まあ、私には毒をもりかねないけど、さすがに小塚君にはないだろう。
「外動さんにお礼を言っておかないといけないわ」
「それは、僕が言っておくよ。黒田さんは近づかない方がいい」
さりげなく、だが有無を言わさない調子で小塚君が私を見ながら首を振った。
「僕も食べていいですか」食いしん坊の仁志がパイをのぞき込む。
「もちろんだよ」答えながらも、小塚君の目は笑っていない。なんだか上の空である。
アップルパイはスパイスの利いたエキゾチックな味だった。仁志は口に合わなかったのか途中からフォークが動かなくなって、残りを紅茶で流し込むようにして飲み込んでいる。
食べ終わった頃には、小塚君たち三人は黙りこくって何も話さなくなっていた。そしてその日は早々に帰って行った。
ケーキに何かあったのかしら。
忘れそうになっていた外動さんの登場。何か一波乱ありそうな予感して、私は大きなため息をついた。
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