第16話 涙の奇跡
理科室から脱出後、翼竜が私たちを連れて行ったのは山間の一軒家だった。
羽をすぼめるように家の横の畑に着地したケツァルコアトルスは、皆を下ろした後で四つん這いになったままゼイゼイと肩で息をする羽光君に戻る。
それにしても、この格好――恐竜の姿のままの私は狼狽する。
「いらっしゃい。お待ちしていました」
家から出てきた中年の夫婦は私の姿を見ても、動じずに迎え入れる。
「お嬢さん、着替えをお持ちします。お風呂場でどうぞ」
きょとんとする私に、すべての事情を理解している様子の奥さんが耳元でささやいた。
「獣脚丸を離すと姿が元に戻ります。あなたは今何も着ていない状態なんですよ」
そ、そうでした!
余りにも切羽詰まった極限状態が続いたため、全く忘れていました。
あの時、敵に言われたまま獣脚丸を渡していたら……今更ながら、背中に冷や汗が流れる。
「で、でも」
ケツァルコアトルスの羽光君は人間に戻っても服を着ていた。
「あれは、エスランディアの特殊な詠唱で織られた獣人用の服です。変身時は消え、変身から戻れば自然に普通の服に戻るんですよ」
「小塚君は、自分の来た世界では科学はあまり発展していないような事を言っていたけど、すごい技術ね」
「経験則からあみ出してきた技法なのです。理論が系統だって解明されれば、科学と言って良いかもしれませんが、どうも私たちが来た世界の住人は発展にあまり興味をもっておらず、文明の発展は偶然の発見に寄るところが大きいのです。解明できていない事も多く、『魔法』と言った方が良いでしょう」
言いながら女性が棚から取り出して私に差し出したのは、破れたものと同じセーラー服だった。
「もっと早く用意できて差し上げていれば良かったのですが、作るのに時間がかかって。ここに用意しておきますね」
女性が姿を消す。私は獣脚丸を手から離す。二メートルぐらい離れたところで恐竜の姿は人間に変わった。早速下着とセーラー服を身につける。靴下とハンカチ、それに靴も用意されていた。
サイズはまるであつらえたかのようにぴったり。もしかしたら、着る人によって形を変えるのかもしれない。
こんな技術、この世界で特許をとればすごいお金になるのに。
「お着替えは終わられましたか、皆さんはこちらで休んでおられます。どうぞ」
着替え終わった頃、この家の奥さんが再びやって来た。
「あなたは、エスランディアから来たの?」
「ええ。先の戦乱で姫が行方不明になったときに、私たちは主人と二人、この世界に派遣されたのです。時々、二つの世界の座標が合った接日にエスランディアと行き来しながら、ずっとあなたのおいでを待っていました」
良く聞けば、こちらの世界に百人程度の移住者がいるらしい。中にはこの世界の人と結婚したエスランディアの人もいるようだ。
小塚君達の一時的な親代わりも、みなその移住者が勤めているとのことだった。
「温和な人々の多い平和なエスランディアに戻りたいと言えばそうなのですが、この文明もなかなか刺激的で、この任務は楽しく行わせていただいています。しかし、王子があなたを見つけられたからには、程なく私たちにも帰還命令が下るでしょう。双方の文明はおたがいにできるだけ不可侵であらねばならぬと言い伝えられていますから」
見回すと部屋の中は荷造りが始まっているようだった。
『君を連れ去ってもいいかな』
もしかして、それは遠くない未来かもしれない。小塚君の言葉が耳に蘇り、私は耳まで赤くなった。
こじんまりした応接室に案内される。奥のソファベッドにはぐったりと飾西君が横たわっていた。顔の血は拭き取られ額の傷も手当てされているが、息をするのも苦しいのか、時折うめき声にも似たため息を漏らす。
「右手や肋骨が折れているようです」この家の主が悲痛な顔で告げる。
私は息をのむ。
「早く病院に……」
「彼は人間なんですが、わずかに獣人の血も混じっているため、この世界の通常の薬や治療では治らないかもしれません」
羽光君が目を伏せて首を振る。
「命に別状は無いと思いますが、数週間はこのまま痛みが続くでしょう」
「そんな、可哀想な」
「彼は学校のいろいろな場所に結界を張ってくれていたんだ。あいつらが来れないように。だけど――」
ちらりと羽光君が外動と冷石を睨む。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。こんなことになるとは思っていなかったの」
女子二人は叫びながら頭を下げる。
「あいつらの言うことを聞いたら、黒田さんから小塚君を引き離してくれるって言っていたから。まさか小塚君を誘拐しようとしているなんて思わなかったの」
「黒田さんの優しさがわかっただろう、これからは二人とも彼女をいじめるのをやめてくれ」
小塚君の言葉に大きくうなずく二人。
「ご、ごめんなさあああい」
どさくさに紛れて外動さんは小塚君に抱きついて泣き始めた。
彼は一旦受け入れたものの、延々と泣きつかれどうしていいやらわからない様子で助けを呼ぶように周りを見回す。
見かねたこの家の奥さんが、引き剥がすように座らせると、落ち着くようにハーブティーをコップに入れて飲ませた。
「飾西は誰にでも優しいからな、こんな奴らに欺されるんだ」
羽光君は許せないとばかり、二人をにらみつける。
どうやら、屋上で呪力を持たせたアンテナを設置していた飾西君を、冷石さんがトラブルに巻き込まれた様な芝居を打って倉庫に誘導したらしい。待ち構えていたイスパニエルの術者の手に落ちた飾西君は、相当酷い目にあったようだ。
最近小塚君が私を避けていたのも、イスパニエルの大軍がやってくるとの噂を聞いて、結界を張るのに忙しかったから。そして飾西君がいなくなってからは、ことさらに危機感を感じて私を遠ざけていた、らしい。
よかった。私を嫌いになった訳では無いんだ。
「こんな目にあわせて本当にすまなかった、飾西。許してくれ」
小塚君が潤んだ目でそっと髪を撫でる。
だが、「い、痛いっ」額に皺を寄せてうめく飾西君を見て彼は慌てて手を離す。熱があるのか、飾西君の頬は赤く上気して、小刻みな息が苦しげだ。
本当に辛いんだ、どうにかしてあげたい。
飾西君は私が憩い園で酷い目に会わされている時に助けてくれた。教室でも、廊下でも。いや、もっと影ながらいろいろ助けてくれていたのかもしれない。彼はそれを口にするような人ではないから知る術は無いけど。その人がこんな目に……。私の目に涙が湧き上がる。
そうだ。もしかすると。
私は飾西君の寝ているソファベッドに駆け寄る。そして、かれの唇にそっと目を寄せた。
ほろり。熱で紅色に染まった唇に涙が落ちる。一粒、二粒……。
頑張れ、私の免疫力。どうか彼を助けて。
飾西君の喉が小さく動く。
すると。頬の赤味がすうっと消え、荒かった呼吸が静かになった。
うつろだった目がぱっちりと開く。
折れて動かなかった右手が動き、額に当てられていたガーゼを取った。
「傷が消えてるわ」
谷間のように深かった額の傷が、綺麗に治っている。
「ぼ、僕は……」素早く身体を起こし、飾西君は周りを見回した。「理科室から脱出した所までは覚えているんですが。王子、よくぞご無事で」
「ご無事で、じゃないよ」
さきほどまでの狼狽はどこへやら、王子は不機嫌な半眼で飾西君を睨む。
「お前、こんなに豹変するなんて。苦しそうだったのも実は演技だったんじゃないのか?」
「え、ええっ」
王子の塩対応に、訳がわからず周囲を見回す飾西君。
「姫に手を出すと許さないぞ」
「は?」
王子の予想外の反応に、絶句する飾西君。
「焼き餅だよ、焼き餅。おまえ姫の涙を飲んだろう」飾西君の肩を引き寄せて、耳元で羽光君がささやく。「お怒りなんだよ、可愛いじゃないか」
「お、覚えてないよ、そんなこと」
狼狽する飾西君、そしてふくれっつらの小塚君。周りからほっとしたような笑い声が上がった。
しかし、外動さんだけがなぜかむっつり黙って一人窓から遠くを見ている。
それは何か別なことに思いを巡らしているようにも見えた。
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