第35話 涙腺がだらしない女
エスランディアの貴石を持っている私たち一行の資金は潤沢だ。テーブルの上には数々の化粧セットが並べられている。ひっそりと傍らにひげそりのナイフも置かれていた。
「動くな」
羽光君が少しでも身じろぎすると飾西君の叱責が飛ぶ。
彼の大きな爪は、飾西君によって丹念に塗り固められていた。桜色をベースに、帯状に金色の粉が散らされてなかなかお洒落だ。
羽光君のメークは終わっていて、まるで演劇の人みたいになっている。
「地味に塗っているのに、地味にならない」塗りながら飾西君がうめいていたのを思いだす。
「乾いたらこれがはげないように爪にトップコートを塗る。動くなよ、埃も立てるな」
飾西君は厳格な表情で言い渡すと、マニュキアの小瓶に蓋をする。
「それにしても詳しいな、お前」
「姉のマニキュアを塗らされることが多いんだ」
端から見ていると生活感がない彼だが、会話の中で日常が垣間見えて笑ってしまう。
「次は黒田さんのお化粧ですよ。下地はできましたか?」
鏡を見て塗り残しがないことを確認して私はうなずく。
高校は原則禁止だったので、化粧をするのは初めてだった。言われるがままに顔に化粧品を重ねていくのはまるで壁塗り。建築工事をしているようだ。
「じゃあ、黒田さん。まずはちょっと眉毛を整えます」
彼は慣れた手つきで眉毛を剃って、小さな刷毛でなぞる。
「次は目の上、暗めのアイラインにしますね」
彼は次の工程をぼそりぼそりとつぶやきながら淡々と仕上げていく。鏡とは別の方向を向いているので自分の顔がどのようになっているかはわからないが、すべて飾西君にお任せだ。彼のことだ、悪いようにはするまい。
「おい、乾いたみたいだけど俺はこのままか」
「そのまま待ってくれ、こっち佳境だから」
私の顔にハマったようで、羽光君はそっちのけである。羽光君は大きなため息をつくが、私の目の前の化粧職人さんには聞こえていないらしい。
「口の周りもっと下地を塗りましょう、ちょっとすみません」
彼は私の唇の上までスポンジで押さえ始めた。
「唇の色は、肌に近い桜色で」
口紅を塗り終わった彼は唇の一部に、何かキラキラしたジェルを塗る。
「全体に塗らずに、中心の一部だけにしますね」
「こんなの、よく売っていたな」小瓶を見た羽光君が感心したように首をひねる。
「変装も必要かと思って特殊なものはあっちから無断で持ってきた。帰ったら姉さんに怒られそうだ。お待たせしました、できましたよ黒田さん」
促されて、鏡の前に立つ。
私じゃない人がそこに居た。
この数日の冒険で、私は明らかに痩せていた。まん丸な顔の輪郭が細くなっている。
荒れ地のようだった眉毛は細くすっきりと整えられて、大きかった目もなんだか小さく見えている。唇の上まで重ねられたファウンデーションで大きな口が消されて、唇は描いた部分しかないように見える。
家のリフォームの番組であれば、『まあ、なんということでしょう』という
「姫のご希望に沿うように仕上げてみました」
飾西君。君、騎士の仕事を首になってもエステティシャンでやっていけるよ。
「あちらの世界の技術であれば、ほとんどの場合顔なんてどうにでもなるのです。でも、顔には人間の心が透けて見えます。いくら顔が整っていても心にすさみがあれば、顔は美しくなりません。王子があなたを大好きな理由は、あなたが心の綺麗な人だからだと思いますよ」
彼の言葉が心を直撃して、まとも、いや、私的には『とっても綺麗』に造ってもらった顔がいきなり歪む。
ぼろぼろと涙がこぼれる。
せっかくの力作が土砂崩れしているに違いない。
もう、私ってなんて涙腺がだらしない女なの。
「ごめんね、飾西君。せ、せっかく、化粧して貰ったのに……」
ハンカチを化粧で茶色に汚しながら私は号泣していた。
「大丈夫ですよ、今日は予行練習ですので。全体的にとてもいい感じだと思います」
「でもさあ、黒田さん」羽光君が口先を尖らせてマニュキアを吹きながら言った。
「僕から言わせて貰えば化粧してもあんまり変わった気がしないんですよ。あなたの笑顔は元からとってもチャーミングだったし、内面が好きになれば、顔なんてどうでもいいんです。僕たちは世界でたった一つのあなたの顔が好きなんだから」
上手いんだから羽光君、モテる理由がわかるわ。
全く、ツボをついてくれて。
そんなこと言われたら、私……。
「ハーミ、さっきより泣かせてどうするんだよ」
「え、え、悪いの俺? どうして……」
怒られた羽光君がうろたえていた。
夜。
私は獣脚丸を胸に当ててみる。毎日胸にあてるが、今までは小塚君の姿を見ることができなかった。獣脚丸はあまりに酷い光景だと通信しないようだ。今日は……。
頭の中に、倒れている小塚君が映る。
今日は、つながった。でも、現状をみるのが不安で胸が痛い。
倒れている彼の身体の上に、細い格子の影が映る。きっと牢獄の中なのだろう。服はボロボロになっているが、皮膚は治癒が早いのか傷ついていなかった。
「小塚君、小塚君」
叫んでみる。
身体を起こした彼が頭をふって薄暗い部屋の中を見回した。
「黒田です。小塚君、大丈夫ですか」
彼はどちらに視線を合わせていいかわからない様子でうなずく。
聞こえているんだ、私の声。初めて会話が成立して、心の底からほっとする。
「大丈夫。君の涙とそして甘い口づけのおかげだよ」
かすれた声で、そんなこと言われたら泣いてしまう。
「わ、私、イスパニエルに来たの」
「みたいだね」彼は寂しげに微笑んだ。「笑ってくれてもいいよ、ふがいない僕を」
どうしたの、感じが違う。
がっくりと肩を落とし、自信なげにつぶやく彼ははつらつと高校生活を送っていた『小塚君』とは全く別人だった。
「本当にありがとう。でも、黒田さんはもとの世界にお帰り。ご家族も心配しているだろう。僕は君を危ない目にあわしたくないんだ」
「だめよ、私の口づけの効力もすぐになくなるわ。だからそれまでにあなたを救い出さなきゃ」
「無理だ。ここは王宮塔の一番上の牢獄だ。牢獄の鍵を開けても、周りを迷路が取り巻いている。簡単に出られるような所ではない……それに、僕なんて助けても仕方が無いよ」
彼はうつむいた。
「飾西のような才能も判断力も無い、ハーミのような人を引っ張っていく力も無い、僕は自分の地位だけで皆に持ち上げられて、それなのに、みんなに迷惑を掛けてしまう仕方ない人間だ」
「な、何を言っているの?」
「僕は、精神的に強い君に甘えていたのかもしれない。王子だなんて言われているけど、僕には何の力も無い、全然役に立たない厄介者のお荷物だ」
「お荷物上等よ!」叫んだ私の声に、彼は目を丸くした。
「小塚君は小塚君であればいいの、それ以上何もいらない。王子様じゃなくても、学校のアイドルじゃなくてもいい、権力も財力も要らない。私は優しいあなたが大好きなの」
ありのままの自分であればいい。
それを一番最初に私に教えてくれたのは、小塚君、当のあなたですよ。
あなたが私を救ってくれたのよ。
「ありがとう。やっぱり、黒田さんは素敵な人だ。あの二人の前ではこんな姿はさらせないし、弱みを見せられるのは君だけだ。でも、こんな情けない僕を嫌いにならない?」
「なるわけない。私にはあなたしかいない」
会いたい、私で良ければ、会ってぎゅっと抱きしめてあげたい。
こんなにも、近くに見えるのに。手を伸ばせば届きそうなほどに。
いつもとは違う弱ったあなたは私の心をわしづかみにして、全身がせつなさで震える。
「待っていて小塚君、絶対に助けに行くから」
「だれ、誰と話しているの」
突然、とがめるような女の声が響いた。
「今日もお楽しみの時間よお。さあ、獣脚丸はどこにあるのかしら」
鞭の柄で、小塚君の顎が引き上げられた。
ランプの灯りが顔に近づいて、小塚君がまぶしそうに顔をしかめる。
小塚君の顔が苦痛に歪んだところで、通信が切れた。
あの声は、誰。外動ではない。
だが、私はあの声を知っている……私は凍り付いた。
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