第5話 獣脚丸
はっ、と我に返る。な、何をしたの、私。なぜこんなことができるの?
いや、それよりも。
「王子……怪我は?」
私は小塚君のほうを振り向く。少し乱れた髪以外は、全く変わりが無い。私はほっと胸をなでおろした。
「ありがとう、大丈夫だ。さすが並みいる敵を造作も無く滅ぼした姫だ、鮮やかな戦いだったよ。それに、なんて君は美しいんだ」
小塚君はそっと私を抱き寄せる。そしてそのまま抱きかかえるようにしてベンチに座らせた。
「えっ」
「そのまま、座っていて」
王子は私の足元に跪いて、そっと私の左足を持ち上げた。くるぶしに冷たい指先が触れる。そして丁寧にビニールの残骸と化した私の靴とぼろ布になった靴下を脱がせ始めた。
足は普通の私の足に戻っていて、でも、変身の時の激しい擦過のためか所々赤く腫れ上がり、幾筋もの裂傷からは血が滲んでいる。傷を見てしまうと、今まで気にも留めていなかったずきずきとした痛みを急に感じ始めた。
「や、止めてください。はずかし――」
ああ、私がシンデレラのような白くて華奢な足の持ち主なら、この状況に身を委ねることができたに違いない。
でも、乙女のくせにゴツゴツとして薄汚れた私の足は、私を羞恥の沼に蹴っ飛ばす。女子といえども思春期、分泌が盛んな足の先は男子ほどではないが、やはり臭うはずだ。
先ほどの緊張が解けたのと恥ずかしさで身悶えする。思わず涙があふれて頬に流れた。
「可哀想に」
王子は私の拒否の言葉など聞こえなかったように、脱がせ終わると両手で右足先を持ち上げそっと頬ずりした。
そして左手の上に私の右足を載せると、右手で愛おしそうに薄汚れた私の足を撫でる。
なんですか。そ、それは私にとって……異次元の体験ですっ。
頬が噴火しそうなくらい赤くなる。興奮と羞恥で涙が止らない。
小塚君は私の狼狽に気がつかない様子で、足をさすり続ける。右足の後は左足。彼はポタポタと落ちる私の涙を手に受けて、それを足にすり込んでいた。彼の指が触れるとうそのように痛みがすうっと無くなっていく。
それにしても。やっと私は混乱から我に返る。
「襲ってきたあれは何? 私は……」
一体どうなってしまったの? なぜあんな事ができたの。あの獣の様な爪は、足を覆った鳥のような羽毛は、まるで本当に恐竜だった。
そしてなぜ私は小塚君を臆面も無く王子って呼んでるの? ずっと昔からそう呼び続けてきたような――違和感の無いこの感覚は何?
彼は大きめの白いハンカチを2枚取り出すと私の足先を包むように結んだ。
「ありがとうございます」
私は肩をすぼめて頭を下げる。
「でも、なぜ私……」
「今度ゆっくり話そう。そのうち全部思い出すよ。助けてくれてありがとう、姫」
小塚君はベンチに座った私の肩をそっと抱き寄せる。否応なしに顔が小塚君の胸に埋まる。ごわっとしたブレザーの上着、かすかな小塚君の匂いが鼻をくすぐる。
「いつか、君を連れ去っていいかな」
耳元でささやかれて、脳内幸せメータの針が振り切れる。
?マークで充満した頭は静かに停止し、私はそのまま闇の世界に突入してしまった。
気がつくと、そこは家で、私は自分のベッドの上でボンヤリと天井を見ていた。
「大丈夫なの?
どことなく母の声が弾んでいる。嫌な予感しかしない。
「びっくりしたわ、学校で倒れたって村田先生から連絡があったし、溝に落ちて気を失ったって裸足で男の子におぶわれて帰ってくるし」
「お姉ちゃんをおぶってきた男の人、カッコ良かったねえ」
中学一年生の弟、
「ちょっと、今日は貧血ぎみなの」
動揺を悟られまいと、頭の上まで掛け布団を引っ張り上げる。
「食事は? お粥でも作ってこようか」
「あんまり欲しくない」
なんだかいろんなことがありすぎて胸が一杯なのだ。
昔から感極まるとよく失神していた。脳波とか頭部から首のMRIとかいろいろ調べたが特に問題なく、最終的に『昔のフランスの貴族のお姫様みたいですね』で片付いている。昔の貴族の女性達は殿方の前でよく失神したらしい。
「病院に行く?」
「心配ご無用」
私は身体を起こして、ガッツポーズをしてみせる。母は少し安心したように微笑んだ。
「今日はお母さん深夜帯勤務で病院に居るから、何かあったら連絡しなさい」
「あ、連れてきてくれたのは小塚君という同学年の人で、私とは別に何の関係も無いからね」
まるで言い訳をするように、台所に向かう母の背中に呼びかける。
「と、いうことにしといてあげましょう。お大事に」
意味ありげににやりとして、弟は部屋のドアを閉めた。
足音が遠くに行ったことを確認して、私は起き上がるとそっと布団から足を出してみる。
靴に擦れてできた赤味がまだかすかに残っている、だけどそれ以外はいつもの足。そっと、手で足の先を触ってみる。
この足を、小塚君の両手が包み込んで頬ずり――。思い出すだけで足先がくすぐったくなって全身が熱くなる。
しかし、突然ビニールの靴を引き裂いて鋭いかぎ爪が飛び出た光景が脳裏に浮かび上がった。そして襲いかかってきた透明な人型の敵。
なんだったの、あれは。
目がポールハンガーに掛かったセーラー服の胸ポケットに泳ぐ。そこには銀色の細い棒が入っていた。
「獣脚丸……」
その名前に、頭の中心が揺れるほどの拍動を感じて、思わず頭を抱える。
獣脚――獣脚類って、確か恐竜の分類だったわ。
本棚から小学生の時に買ってもらった図鑑を取り出す。ボロボロになったカバー。怪獣とか恐竜が幼い頃から好きだった私は、恐竜の図鑑を弟に譲ることを断固拒否して、結局弟は私のお下がりではなく新しいものを買って貰っていた。さすがに私も恐竜の本を読まなくなって何年も経つが、どこに何が書いてるかはおぼろげに記憶している。目次を見るまでも無く、ぱらりとめくると恐竜の分類の項目が開いた。
今の一般的な分類では、恐竜は骨盤の形の違いで、鳥盤類と竜盤類に分けられる。現在の鳥の骨盤に似ているのが鳥盤類、トカゲの骨盤に似ているのが竜盤類だ。竜盤類の中で、かぎ爪と中空の骨の特徴を持つのが獣脚類。長いかぎ爪と鋭い歯を持つ小型の恐竜ヴェロキラプトルや、巨大な肉食恐竜ティラノサウルス、そしてトロオドンなどがこの獣脚類に含まれる。
「トロオドン……」
復元図の足に描かれたかぎ爪はなんだか私が変身した時の爪と似ている気がした。この恐竜は身長約180cm、推定体重50kg、感覚器の発達を思わせる大きな目を持ち、脳の容積からかなり知能が高かったと推定されている。
全身に悪寒が走る。私は、自分の知らない何かを内に飼っているの? きっとその秘密を小塚君は知っているのだ。近づいてきてくれたのも、何か特別な理由があるに違いない。
やはり、好きだなんて言うのは私に近づくための口実、私は欺されているのかも。
心の中で、私はしまいかけたパラシュートを再び引きずり出す。『信じません』と大書してある白いキャノピーが開く限り、私はどんなに酷い失恋をしても心のダメージを最小限に抑えられるはずだった。またまだ状況は不安定、お前は一緒にいてちょうだい。私は脳内でパラシュートを抱きしめる。
「だけど、私の足、まるで本当の恐竜みたいだった」
私、不細工だけでは
でもいいの。
小塚君を守れるのであれば、私は人外のものに成り果ててもいい。
ちょっと、自分。彼のことは信じないんじゃなかったの?
自虐的に笑うと、布団の中に潜り込む。
「明日、いろいろな事を小塚君に確かめてみよう」
恥ずかしいだの、自己嫌悪だの、だまされているだの心の中は千々に乱れているが、正直、彼のことはどうしようもなく、絶望的に大好きなのだ。だまされていたっていい、好き、好き、大好き……。私のパラシュートにはすでに穴が開いている。
身の程知らずの厚かましい女だと思われると嫌なので、自分から話しかけることができないが、必要があれば話は別だ。恐竜足にせよ何にせよ、小塚君にこちらから話しかける口実ができたのは嬉しかった。
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