第39話 浪岡北畠氏

 以下は、大半が失われてしまった浪岡北畠氏に関する記録のなかにあって、今日も残されたほんの断片による記述である。

 永禄五年春の「川原御所の乱」以降の浪岡北畠氏は、内紛にゆれた。浪岡城内の一族親類衆との戦闘すら経験した浪岡宗家は、苦慮のあまり、直面する脅威となった大浦氏との関係も模索しなければならなくなった。

 領内で頻発した離反や叛乱の背後に、津軽の一円支配を狙う大浦氏の意図が働いているのは知ったうえであった。  

 むしろ、それがゆえの接近であったと考えられている。大浦氏を陰の後ろ盾に、宗家に取って代わろうとする親類衆を、その頭越しに一気に押さえてしまいたい。

 幼い「御所さま」である甥の名代をつとめていた浪岡左衛門尉顕範は、異腹の妹を大浦為則に嫁させることを決意した(伝永禄七年)。この婚姻自体、家格からいってつり合いがとれない感がまだあったが、ありえないほどのことに、正室としてですらない。今の為則正室を押しのけるまででもないというのを、受け入れた。

屈辱的な外交であるといえた。

(あまりにも一方的な印象を与えるため、後世、大浦為則と浪岡顕範との間で合戦があり、浪岡顕範が大敗した後の、助命と引き換えの講和の結果だという説が出たくらいである。しかし、これには確たる証拠がないうえ、戦勝した側の大浦家―のちの津軽家がこれを記録に残していないのが疑問ともされている。一度の敗戦がきっかけになったのではなく、やはり長期にわたって大浦氏が浪岡氏に圧迫を加え続けた結果と考えるべきであろう。)

 顕範の妹―この時代の女性の常として、生前の呼び名は伝わっていない―のような、貴人扱いで育ったはずの姫君本人にとって、素性がやや不明で、せいぜい南部氏の庶流でしかない大浦氏の側室に下るのは、愉快ではなかったはずである。敵方に身を寄せる不安はもちろんのことである。

 しかし、事実上の当主の命令を拒めるものではなかったであろう。早い結婚―これも政略結婚であった。この時代の領主の家族にとっては普通のことである。―に一度破れて、実家に出戻った身だったとも伝わるから、遠慮もあったかもしれない。婚家を離れた自分を庇護してくれていた亡父、亡兄の仇を討った次兄の役にたつという使命感を奮い起こしても不思議はない。粛々として嫁いだ。

 この婚姻の直後は、たしかに大浦と浪岡の両家の仲は小康状態となった。内紛を鎮めたいという浪岡宗家の意図が当たったとも評価される。

 この津軽に影響力をもった南部、安東という在来勢力の角逐の隙間を縫ってのし上がってきた大浦氏にとっては、衰えたとはいえなお津軽中央部を領有する浪岡北畠氏との間の講和には、少なくとも手間と時間を稼ぐ利益はあった。そのうえ、五位程度の官位を持ち、尊貴に疑いのない血統を家に入れることに、いくばくかの意義も感じたであ ろう。

 またこの頃の大浦氏は、依然として南部氏を名目上の主君に仰いでいた。浪岡北畠氏もまたかつては南部氏の客将扱いであったから、双方が仲介者として現れた南部氏を無視するわけにはいかない。南部氏にとって両者の和解と共存は、北奥州一円の支配権を手放していない証という意味があった。一連の動きの背景には、両家いずれかが力を得るのを嫌い、津軽の宗主権を主張したい南部氏の掣肘もあったとの見方もあり、にわかには否定しがたい。


 こうした経緯が考えられるものの、やや病がちで四十過ぎの大浦為則と、側室浪岡氏との仲は濃やかだったとされる。嫁いでまもなく、懐妊の報が伝わった。

 だが、結局はこの側室浪岡氏の懐妊が、皮肉にも、浪岡と大浦の同盟をきわめて短く終わらせてしまったのである。

月足らずで生まれた子は死産となり、浪岡氏女も産褥の床からは起き上がれず、間もなく息を引き取った。享年、伝二十四。当時としてはやや高齢の初産だったかもしれないや大浦為則は、亡き側室に公林院の号を贈った。

 浪岡氏女―公林院のすぐれた人柄を伝える挿話は―野史や伝説によるものばかりであるが―少なくない。一年にも満たぬ月日ではあったが、大浦氏の家中においてその人気が高かった証だろう。またそれらの麗しい夫婦仲や感心な新妻の姿を映す挿話は、現代の目には、彼女の並々ならぬ努力と、そこに込められた婚家ならぬ実家への献身をうかがわせるものでもある。


 そうした女性の死は、大浦氏と浪岡氏との関係をすぐに元どおりにしてしまった。

 大浦氏での代替わりもあれば、なおさらである。為則の病死後、若く野心的な養子の為信が大浦氏を継ぎ、より積極的な侵攻に乗り出した。南部氏から自立し、津軽全土を掌握する意図を露わにする。

浪岡顕範の外交方針も、激化する南部と大浦の対立を軸にするものに変わらざるをえなくなったが、それは隣接する自分たちが大浦為信の攻撃を一身に受け続けるのを意味した。大光寺南部氏がまず倒れ、浪岡北畠氏は南からも圧迫をこうむることになる。

 顕範は、津軽になお関心を示す秋田安東氏から、まだ若い当主の妻を迎えて大浦を南から牽制するなど、懸命の外交でこれに対抗した。

 だが、北奥州の情勢は複雑であり、安東氏ですら必ずしも縁戚になった浪岡に絶えず友好的ではなかったとされる。巨大な南部氏は一枚岩ではなく、その姿勢はときに浪岡北畠氏に対して冷酷ですらあった。

 大浦城での公前院の死から十年あまりの後、天正六年(一五七八年)、浪岡城はついに落城した。大浦為信は武士ではない浮浪の者を城内にひそかに侵入させておく奇策を用いたとされるが、そもそも、すでに往時の浪岡城ではなかった。一族と家臣団は四分五烈し、浪岡城をとりまく支城の大半が落ちるか、大浦方に寝返っていた。

崩れ行く浪岡北畠氏を懸命に支え続けた浪岡顕範はこのとき、すでに病没していたとも、また、押し寄せる大浦勢と戦い、討死したともされる。

 最後の「御所さま」浪岡顕村もまた落城のさいに自害したといわれるが、一説には舅にあたる安東愛李を頼って秋田に落ち延び、そこで保護されたともいう。秋田安東家には、たしかに北畠氏を継ぐ家が残り、こののち豊臣・徳川期に急速に縮小した安東家(秋田家)の一門的な家臣として、幕末に至る。

なおこのとき、松前にある蝦夷代官家の継嗣(のちに当主)蠣崎新三郎慶広が顕村一家を救い出し、ひそかに安東家まで同行したという言い伝えも残る。


 蠣崎慶広は少年期に浪岡北畠氏に出仕し、元服に際しては先代当主浪岡具運、別名顕慶より偏諱を受けているほどであった。また蠣崎家は安東家の被官である。この浪岡城攻防戦、さらに大浦(津軽)側の記録には大浦の辛勝に終わったとある南部氏・安東氏連合軍による大浦討伐戦に参陣していた可能性は皆無ではないが、このときの蠣崎家について信用に足る記録はない。

 野史のひとつでは、夜空に火を噴きあげて崩れる城内から、蠣崎慶広と蝦夷地から連れてきたその家臣たちが、血路をひらいて若い城主とその家族を救い出す様などが、いかにも見てきたように描かれるが、空想の域を出ないであろう。

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