第37話 浪岡に還る

「蠣崎、滄浪トシテ還ル。」

 書き留めておくべき一句を、図書頭は呟いた。御書庫の陰から、新三郎の姿が御所の本館の中に消えるのを見届けている。部屋に戻り、部下の若い役人―安岡の目に入るように、もう一度呟いた。安岡はいつもの無表情のまま、ひとつ頷いた。

「ご猶子さま(新三郎)は、大御所のお命を救うたに違いない。負け戦の中で功労第一とすべきじゃろう。」

 それが、あたかも咎人のように扱われている、と図書頭は言いたい。その意は安岡に、表情で伝わった。安岡はまた静かに頷いた。

 和議がほぼ成ると、金木館に幽閉状態にある大御所は、新三郎とその一党に先に浪岡に帰城するよう命じた。浪岡御所からの使者たちは、新三郎たちをなかば連行するかのようにして、御所に戻った。

 ところが城に入ってからは、新三郎ひとりが無名館に戻るのを許されなかった。詮議と監視を受けるように内館に留め置かれている。

「無理はない。無名館の姫さまのことがある。大み台さまもご重臣たちも、懸念があろう。」

 新三郎は、邪魔者なのである。

 万が一の行動を起こされて、姫さまの身に何かあれば、浪岡御所が転覆してしまう。姫さまを差し出すかのような、和議の条件をすでに知らされていた。心の中に悲嘆と痛憤が渦巻いているに違いない。その恨みは、残ると考えざるを得ない。

(姫さまご出立ののちは、いっそお命をとられるやも知れぬ。)

「……安岡よ。もしご猶子さまが殺されることになろうものなら、お前たちでお救いできるか?」

 安岡は、はじめて哀し気な表情に首を振った。

「お前たちでもか? 御所に忍び入って逃がしてさしあげるくらいできよう? いっそ、今すぐ姫さまごと松前とやらにお連れするのであっても、難しくはあるまい?」

(図書頭らしくもない。さような真似が許されようか。)

 書庫の片隅から、何者かの呟きが聞こえてきた。安岡の仲間のひとりであろう。

「……わかっておる。せめて口に上らさずにおられなかった。」

 図書頭は、顔を見たことのない「その連中」の一人が潜んでいる筈の闇の奥に向って、苦々しい思いで吐き捨てた。

 安岡の亡父がその頭目であったらしい一団が、この浪岡城内には人知れず潜んでいた。今まさに病床でか細い老いの命の火を消しつつある四位さま―浪岡北畠中興の祖である浪岡具永が、誼を通じた伊勢北畠氏から貰い受け、津軽まで連れて戻った特殊な諜報工作の技能者たちであった。

戦乱の世には必ず要る、草ないし忍びと呼ばれる一団だが、それを当主直属の秘密部隊として使いこなしたのは四位さまだけ、それも老人が健康を損なう前までであった。

 「川原御所の乱」で命を落とした先々代さま―浪岡具統は、自分に代を譲って「大御所」になった父の四位さまが早くに老耄-やや早発性の認知症でもあったろう―で実権を喪うと、先代の統治のあちこちをそそくさと改めた。一団の頭目であった安岡の亡父たちを飼い殺しにしたのも、その一環であった。

 耳に生まれながら障害を抱えた安岡は、それでも亡父譲りの高い能力を持ち、さまざまな形で城内に潜り込んで任務に備える一団を率いていた。影のように寄り添う者がいて、文字通り影の中から一歩も姿を見せぬままで過ごしてきた。

 ご先代-浪岡具運は安岡たちの存在をよく知っていた。このご書庫で図書頭のような男の下に安岡を付けたのにも、一つの考えであったろう。浪岡具運は、情報活動(インテリジェンス)の在り方に理解があったのだ。だが、かれらを駆使する機会は少ないままに、あのように突然死んだ。「川原御所の乱」を未然に阻止できなかった安岡が、無言のままで自分を責めるさまを、図書頭は目にしたものである。

 そして西舘―いまの大御所さまは、膝元にいるこうした連中に冷たく、半ば敵視しているかのようですらあった。「川原御所の乱」では、かれらを出し抜くのに苦労したからであろう。その後の内紛でも、安岡たちの活用をわざとのように怠った。冷遇したと言えるが、おそらくはかれらへの怖れがあったのだろう。

 いま、安岡の一党の何人が、この浪岡城を見限らずに潜んでいるのか、図書頭ですら知らない。 

 たとえ安岡ひとりでさえも、自分が口走ったような荒事に不自由はない筈であった。しかし、たれの命でもなく、新三郎のために独断でそれをしてしまえば、自分たちの居場所も溶けるようになくなってしまうのがわかるから、安岡らも動くに動けぬのであろう。

「さようよな。……ご猶子さまとて、居場所を津軽にも、蝦夷島にすら喪う。」

 闇の奥で、頷く気配がした。そして、また囁く。

(そして、さ栄姫さまは決してそれを望まれないであろうよ。)

(新三郎さまよ、御短慮なきように……。)

 図書頭はただ祈ってやらざるを得ない。


「蠣崎新三郎、大儀であった。」

 幼い声が降ってきた。御所さまである。

(この子は、何もご存じない。)

 新三郎の隠しようのない憤懣は、御所さまを取り巻いている大人たちに勿論向いている。金木館に残っている大御所さまと、そして上段で御所さまの隣にいる、大み台さまである。

「大御所さまにはお変わりないのじゃな?」

(このひとたちが、姫さまを大浦になどやろうとしておる。……おれから姫さまを奪おうとしておる!)

「蔵の中におりましたゆえ、あまりお目にかかれませんでしたが、いまは御息災と伺っております。」

 大み台さまは安堵のものらしい溜息をついた。平伏のままそれを聴きながら、新三郎はやりきれない思いに打たれる。

 新三郎の気持ちは、背中を見下ろした大み台にも容易に想像がついた。

(やはり、生かしておけぬのか? 女一人のこととは言い条、主家と主人に恨みを抱いた者を、郎党として置いておくわけにはいかぬか?)

「ご書状をお預かりしたと聞く。」

「は。いま、ここに。」

 新三郎は、懐に入れていた油紙の包みを解き、書状を掲げて見せた。

(これが、おれの命の綱じゃった。)

 浪岡城に入れたのも、姫さまに逢えぬままに足止めをくらわされているとはいえまだ殺されたりせずに済んでいるのも、大御所から直に預かった書状のためであった。

 大御所自ら、蠣崎某から御所さまに直接渡すように、と添え書きしていた。新三郎はそれを言い立て、意地でも役人には預けなかったのだ。

 書状が大み台の手に渡った。その場で封を解き、読みだした。

「蠣崎。大儀であった。下がれ。」

 重臣が声をかけた。

(どこへ行かされるか? 無名館には戻してくれまいが……。)

「待ちや。」

 下がろうとした新三郎に、大み台が声をかけた。

「蠣崎新三郎に申し伝えあり。」

 新三郎は平伏した。

(もし、死罪や永牢とでも言われたならば、ただちにここにおる者、みなごろしにする。……まだ無名館におられるのか、姫さまは? ……そうじゃ、大み台か御所に、この刃つきつけ、人質にとって案内させてやろう。姫さまを奪って、どこへなりと逃げてやる。必ずそうしてやる!)

「大御所さまよりのお言葉を伝える。……このたびの働き殊勝、ますます励め。爾後、お馬回りを命ず。」

 新三郎は平伏した。

(なにも、うれしうない。)

命は助かったようだが、先ほど一瞬頭を廻った考えのとおりに振舞うほうが、はるかにましだったように思えた。うまくいかずに死んでしまったとしても、最後に一目、姫さまに逢えたではないか。

「無名ノ館の宅に戻り、待命せよ。」

「え?」

(帰してくれるのか?)

「……との、大御所さまの有難きご命じじゃ。」

 はっと気づいた新三郎は、慌ててまた平伏した。

 上段の方々が先に出られるらしい。立ち去りながら、大み台さまが小さな声をかけた。

「蠣崎新三郎……。お家のためじゃ、わかってくりょう。」

 新三郎はかすかに歯噛みした。

(なにを言われる? わかるものか……!)


 無名館の蠣崎の屋敷の周りは、ものものしかった。離れを取り囲むことこそ遠慮しているが、姫さまを監視しているには違いない。

(ここにおられたのか。……だが、戻ってきたところで、おれはお目にかかれない?)

 案の定、離れへの出入りは許されていないようだった。

 新三郎は御前に出るさいの装束のままで、甲冑姿すらある警固の列をかき分けるようにして、離れに近づこうとする。こやつら、もし邪魔するなら殺してでも通る、という気持ちを抑えられない。

「蠣崎新三郎。よく生きて戻った。」

 蠣崎家が属していた組の頭が、短い年月にずいぶん老け込んだ顔を懐かし気に見せた。

「久しくご無沙汰をいたしております。ここに蠣崎が移りまして以来でございましょうか。」

「お目にかかりたい者も、一切通すなと命じられておる。」

(やはりか。)

「姫さまは御輿入れをお控えになった大切な御身ゆえ、万が一のことがあってはならぬ。」

「わたしはその、万が一を起こす者じゃと?」

 この懐かしい組頭さまに皮肉を言っても仕方がないのだが、そんなことでもしないと新三郎は、すぐに抑えが効かなくなりそうであった。

 組頭は、うむ、と頷いた。

「じゃろう?」

「わ、わたしは……!」

 新三郎が振り切って警固の列を突っ切ろうと身を翻しかけたとき、組頭が慌てたように言った。

「新三郎、おぬし、御恩賞があったと聞いたぞ。」

「あったが、それが如何いたしました?」

「お馬回りにおなりになったとか。」

 組頭は、驚いたことに片膝をついて命を受ける仕草になった。

「姫さまのお守りのご差配は、蠣崎さまとお聞きした。さ、我らに命をくだされ。」

 そんなことは聞いていない。

「大御所さまは、おれに宅に戻っておれと書かれただけらしいが……。」

 組頭は黙っているが、顔をあげて、そういうことにしておけ、と無言で伝えた。

「あなたさま方は、困らぬのか。いや、組頭さまの上にはどなたかがいて、この場を差配されているのでは? その方は……?」

「お馬回りほど、お偉くはござらぬゆえ。……いや、お馬回りのご命じを待て、と仰ってくれました。」

 組頭から、あらかじめ話をつけてくれていたのだろう。それに、城内に事情を知る者も少なくない。蠣崎新三郎がお家の邪魔者として排除されるのではなく、むしろ栄達したことで、本来の同情をあらわにできるようになったとも言える。

「……有難し。」

 新三郎は、素直にそう感じた。

 たれもが、まず自分の身を守らなければならない。この組頭とて、もし逆の命が下っていれば、容赦なく自分を斬ろうとでもしたであろう。だが、今はすすんで、多少の犠牲を払っても新三郎を助けようとしてくれる。それを有り難いと思わなければいけないと思った。

「命じます。姫さま御警固はこれより解く。わたしひとりがあたるゆえ、懸念に及ばず。……お離れには、内館よりどなたか見張りに入られておるのですか?……そのご女中たちをお守りし、お返しする者以外は、めいめいの宅に戻り、追っての命を待て。」


「新三郎どの。よくお戻りになりました。さ栄は、これほど嬉しいことはない。」

 形通り、さ栄姫さまに拝謁する新三郎は、恋しい女の声を耳にして震えた。

 新三郎は顔をあげた。部屋には二人きりだ。ふくすら、引き上げてしまっていた。

(姫さま……!)

 声でわかったように、さ栄さまの表情は穏やかだ。泣いたりしておられない。たしかに喜びの色しかそこにはない。

(何故、さほどに穏やかにおられましょうか? おれは、……お目にかかれた今になって、頭がおかしくなりそうじゃ!)

「新三郎どの?」

 心のなかに渦巻いている想いに喉が塞がれたように声が出ない新三郎を、姫さまは訝るようだ。

(あっ、いかぬ!)

 新三郎は、視界がぼやけて揺らぐのに気づいた。

(おれが、泣いてしまっては……!)

 顔を隠そうと、慌てて平伏し、そのまま、声を絞り出す。

「このたびは、新三郎などの身をご案じくださり、恐縮至極にございます。」

「当たり前ではないか! 新三郎どのの、ご無事ばかりを祈っておりました。お怪我もなく、さ栄は、安堵いたしました。」

「あ、ありがたき仕合せに存じます。」

 沈黙があった。さ栄が何か口を開きかけた気配を察して、新三郎がまた声を絞り出す。

「……こ、このたび、……このたびは、まことにおめでたきお話を伺い、まことに、……およろこびいたしまする!」

 小さく叫んだ。姫さまが息を呑む気配がする。

(言うてしもうた……! こんなことを、おれは、口に出してしもうた!)

「……新三郎。そなた、祝うてくれるのかえ?」

 冷え冷えとして平板な声が降ってきた。

「まことに喜ばしく、おめでたき仕儀に存じ上げます。」

「喜ばしいか。」

(ああ、おれは、なんてことを……! 腹立ちまぎれのように聞こえたに違いない?)

「お家のためにございますれば……。」

「本意(本心)で、申されたのかえ?」

(そのはずがないではないか! おれは、あなたを大浦なんぞに行かせたくないのじゃ! 別れたくない。姫さまは、おれのものじゃ!)

 新三郎ははっとして顔をあげた。姫さまの声が震えている。

「新三郎どの……さ栄は、このたびのこと、等閑でなく(本気で)、喜んでおる。」

 新三郎は愕然とした。だが、すぐに姫さまの目にも涙が浮いているのに気づいた。面持ちは変わらず穏やかに見えたが、そうではなかった。血の気が失せ、薄く笑みを浮かべた表情が固い。思いつめた気配が、ようやく新三郎にも感知できたのである。

「無事に生きて戻ってこさせるためじゃったから。それが、できた。ここに、ぬしさまがおられる。……さ栄が、この手で新三郎どのを戻したのじゃ。喜ばぬで如何しましょう?」

「姫さま! お礼を申し上げます。新三郎は戻って参りました……!」

(言いたい! 今から一緒に逃げましょう、と!)

 さ栄姫は、うれし気に頷いた。

「ご約定、ぬしさまは、やはり守ってくれましたな。」

 新三郎の膝はたまらず、床を蹴った。姫さまが手を広げて、こちらに躰を傾ける。それを受け止めるようにして、抱きしめた。姫さまも懸命にしがみつく。

「ああ、新三郎どのがおる。ぬしさまが、ここにおられる……!」

「姫さま……。さ栄さま!」

 新三郎はなにを言っていいのかわからない。ただ呼びかけた。姫さまはそのたびに、はい、はい、と肩越しに頷いて答える気配だ。


 悲しみの涙をひとしきり流してはじまり、ときに気が触れそうな心の痛みに襲われつつ、だが、やがてはすべてを忘れてしまえるひと時がすぎた。

 慣れ親しんだ、そして囚われの日々にしばしば自然に蘇った、女の髪の匂い、肌の匂いに包まれながら、新三郎は茫然としている。

 やがて、息を整えたさ栄さまが、抱き寄せられた胸のなかで目をあげるのがわかった。

「……三日後に、大浦に参ります。」

「三日!」

 新三郎は固く、さ栄の汗の浮いた裸の肩を抱きなおした。

「痛いよ。……はい。ああ、それくらいがよい。ちょうどよい。うれしい。……明日までは、かように一緒におられましょう。」

(明日までしかおられぬと言われた。……明日、このひとをおれは喪うてしまう!)

 新三郎は、腕のなかの柔らかい生き物を離さぬように、また抱きなおすしかないが、

「……何故、さようにお急ぎになられましょうか? 大御所さまのご無事はもう動きますまい。ご入室とあらば、そ、双方に……ご準備もおありじゃ。ひと夏越して、……いや、せめてあとひと月……?」

 さ栄さまは微笑んだようだ。

「ひと月か。それでも、遅いかもしれぬ。」

(まさか大浦の側室に早くなりたいと仰せではあるまい! なぜじゃ?)

「早く行きたいはずはないが、……行かねばならぬ。……いや、大御所や大み台のご指図ではないよ。さ栄が決めて、頼んだ。」

「……なぜでございます?」

 さ栄は躰をずらして、まっすぐに新三郎に向かい合うように、顔を覗き込んだ。そして、はにかむようにまた微笑みを浮かべる。

「新三郎どの、今日も、きつく、なさった。」

「あ。……申し訳ございませぬ。つい、気が逸ってしまい、……」

 さ栄は首を振って、

「よいのです。さ栄も、へんになってしもうた。待っておった。うれしくて、仕方なかった。……じゃけれども、今日は少し心配。ぬしさまが強すぎるのも、結句、自分があんなに……おかしくなってしもうたのも、気に懸かりました。もしかしたら、おなかに障りはしないかと。」

「……?」

「新三郎どの。申し上げます。さ栄は、お子を授かっております。新三郎どの、ぬしさまのお子が、中にいらっしゃる。」

 新三郎は息が止まった。それを女に告げられた男がたいていそうであるように、あり得ることをあり得ないかのように錯覚していたから、ただ驚愕したと言ってよい。

 さ栄はその瞳を覗き込んで、若い男がただ茫然自失したのはわかっているので、いたずらっぽい調子で訊ねる。

「……お厭?」

「あっ。」

 新三郎は我に返った。そして、打ちのめされた。激しい感情に全身が揺さぶられた。

「さ栄さま! なんということ……! 逃げましょう! おれについてきてくだされ! お城を抜ける! どこにでも二人で……いや、三人、三人で逃げましょう。行ってはならぬ、大浦になど! 三人で暮らすのじゃ。」

「……津軽はおろか、松前にも行けますまいね?」

「どこだってよいのじゃ! 松前なぞ、もうどうあっても構わぬ! 捨てる! おれは、……蝦夷地でも、……いや、京でも堺でもよい。上方の大きな街でなら、親子三人、何とか暮らせましょうぞ。おれは、さ栄さまと離れたくないのじゃ。ましてや、お子を、……おれの子を身籠られたと言うのに、どうして別れられよう? 敵の家に入らせるなどできよう?……お願いいたします。一緒に、おれと一緒に来てくだされ! 今すぐ、城を抜ける! ご一緒くださいませ! その子と、三人で……!」

 さ栄は激しい勢いで新三郎にまた抱きついた。伸びあがって、肩から首に手を巻いた。

「……そのお言葉を聞けた。聞きとうございました。」

「ならば、夜が明けぬうちに……!」

「お言葉が聞けたので、十分。」

 さ栄は躰を離し、首を振った。目はうるんでいるが、笑みが浮かんでいる。

「さ栄さま! 何故じゃ。……あっ、もしや? さようか! 大み台さまに申し上げましょう。身籠られたお方が大浦に嫁ぐわけにはいかぬ。そのお考えでございますか。」

 何もかも振り捨てるまでもないのか、それどころか浪岡で一緒になれるかもしれぬのか、と新三郎は一瞬目を輝かせたが、すぐに落胆した。さ栄は言ったからだ。

「いえ、それはぬしさま以外のたれにも申しませぬ。隠して、大浦に参ります。……それがゆえの、三日後の出立。愚図愚図していては、お腹が膨らんでしまう。」

「何を、……何をおっしゃっておいでか。わからぬ。」

「……さ栄は、大浦の城でこの子を産みます。大浦の子として産まれるじゃろう。」

「な、なじょう(なぜ)に、そのような……。」

 新三郎は今度こそ打ちのめされた気分になる。

「新三郎どのは、天才丸の頃から励み、よく戦われました。亡き御所さまも、いまの大御所さまも、大浦とは戦ってこられた。……大み台さまとて、幼い御所さまとて、今、戦っておられるな。」

 新三郎はわけがわからぬままに、首を縦に振った。それがどうしたというのだろうか?

「さ栄も戦って参りましょう。憎い大浦を、この子とともに平らげてやります。」

「……あ、さ栄さま、まさか?」

「新三郎どの。お子がもし男であれば、大浦の家督をとれる身にもなります。」

 大浦為則には現在、明確な世継ぎが決められていない。幼い男子は何人もいるらしいが、わざわざ若い血縁の者を娘婿として養子に取ったとも聞こえる。だが、その者で家の継承が正式に決まったわけではないらしいのである。

「面白うはございませぬか? ぬしさまのお子が、もしかしたら大浦の世継ぎじゃ。……ご養子を取られたらしいが、もし実の男の子ができれば、話は変わって来よう。あちらの城のなかで、わが子が家督を取れるように、さ栄も戦って見せよう。新三郎どの、ぬしさまのお子が、大浦の家を治めることにもなれば、なかなか面白くはござろう? 大浦にいいようにされておる北畠の血を引く者が、あのお家を手に入れると言うだけではないぞ。それは蠣崎のお子でもあるのじゃ。」

 新三郎は頭を抱えるようにして、震えた。何か、とてつもなく恐ろしく、そして悲しい。

「……姫さま、何故、そのようなお考えを? ……わたしはわからない! 面白くなどございませぬ。」

「さようかな。……ぬしさまは軍師も務まりそうに知恵が回るくせに、正直者じゃ。」

 さ栄は笑った。そんなところが昔から好ましく、愛おしくてたまらぬ、と思った。天才丸はよい子じゃったが、蠣崎新三郎はそのままに逞しく、強くなってくれた。

「わたしのことなどではございませぬ。たとえ憎い敵であろうと、ひとを騙すなど、尊い御身の、……あなたさまのおやりになっていいことにはあらず。わたしは、姫さまに、そのような真似をさせとうない!」

 さ栄は息を呑んだが、また羽交いのなか躰をずり下げて、頬を男の胸にあてた。

「それほどまでに、さ栄のことを大事に思って下さり、お礼いたします。……前も言うたの? さ栄はさほどに立派な者ではない。ぬしさまが思って下さるよりも、ずっと小狡くて、嘘ばかりじゃったよ。いや、ひとですらなかった。ひととして、生きてはおらなんだ。……さような者が、ぬしさまとここまでのご縁があった。お子が授かれるほどの深いご縁があった! わたくしはそれが有難うて、うれしうて、……。」

「……その子! その子とて憐れじゃ。姫さまが、自分のお子にさような運命を与えられるなど、あってはならぬ。……その子は、大浦の血を受けぬとは知らずに育つのか? 他人を父に仰ぐのか? 実の父親とは、もしかすると戦場でまみえるやもしれぬ! そして、もし、まことのことを知れば、……知らせるのでございますか? あわれじゃ! ありえぬ! さ栄さま、大浦へおくだりはおやめ下され! あなたさまは、罪もない子にむごい目のできるお方ではない!」

「新三郎どの、有り難いお言葉。そして、うれしい。ぬしさまはやはり、わたくしの慕うてきたとおり、子どもの頃から変わらず、心真直ぐなおひと。」

「お願いにござります。わたくしが罰せられても構わぬ。大み台さまにご懐妊を打ち明けて下さいませ! 大浦に行ってはならぬ……! さような不徳義の真似をなさっては、ならぬ……!」

「不徳義か……。」

さ栄は目を閉じた。そして、教え子に静かに言い聞かせる、懐かしい口調になった。

「新三郎どの。ぬしさまが尽くしてくれた、この浪岡の城内では、絶えず人がひとを騙し、嘘をつき、背信と裏切りが続いてきた。ぬしさまもそれを見てきた。それなのに、このおそろしい浪岡の迷路の中で、よくぞ心惑わずにこられたもの。蠣崎新三郎のような見事なお人に出会えたは、さ栄の生涯の仕合せと、また思いましたぞ。」 

「……わ、わたしとて、似たようなものじゃ。つっと、このお美しいお城の迷い道で、惑って参りましたとも。何人もなんにんも、この手で死に追いやった。……わたしのことなどよろしい。姫さま、何より、あなたのお身とて、危ない。そんな企みがもし知れようものなら、お子ごと命とられましょう! さような危ない目に、あわせられぬ!」

 さ栄は、自分の身を案じてくれる新三郎の言葉を、頷きながら聞いたが、

「有り難い。新三郎どの。まことに、おやさしい。愛しいおひと! ……じゃが、言うぞ。そのおやさしさでは、この忌まわしい世で、ぬしさまのお志を全うできぬやもしれませぬ。」

「おれの、志?」

「蝦夷島のあるじになられるのじゃろ?」

 さようなことはもうよいのだ、と新三郎は叫びかけたが、さ栄がそれを目と、相手の唇に当てたひとさし指で制した。

「言うてはなりませぬ。口に出すは、もう許されぬ。ぬしさまは蠣崎新三郎慶広じゃ。蠣崎の家督をとり、いずれ蝦夷島を外のたれのものでもない、蝦夷島の人びとのものにする。それが蠣崎慶広の志であり、天の与えた使命じゃ。あだやおろそかにも、天命を蔑ろにする言葉を口にするでないぞ。」

「……はい。」

 答えたとき、新三郎の目から、涙が溢れた。

「姫さま……お許しください。じゃが、おれは、姫さまを離したくない。姫さまとお別れしては、もう生きておられぬ気がする。」

「新三郎……。言いましたな? ぬしさまには」

「志。そうじゃ、捨てはしませぬ。天命と信じ、拒みはせぬ。……じゃが、姫さまを喪って、それになんの甲斐がございますか。姫さまに、ご覧いただきたかった。それがかなうたとき、姫さまとともに喜びたかった……!」

 さ栄も、泣き叫びたかった。天才丸に戻ってしまったかのように、若者がぼろぼろと涙を流している。心から慕う、この世で一番好きなひとが悲しんでいる。自分も泣き喚きたい。

 そして、できることなら、ほんとうに新三郎が言ってくれた通り、この城など抜け出して京や堺を目指したいのである。それがかなえば、なんと素晴らしい日々が待つのだろう。お城暮らしには想像もつかぬほど貧しい暮らしだろうが、そんな中でも、賑やかな都会の隅では、この若者がまた夢を見せ続けてくれるに違いない。

(じゃが、さような真似できぬ。新三郎の身を危険にさらす。たとえうまく逃げおおせたところで、その志を奪う羽目になる。そのようなこと、あってはならぬ。)

「新三郎どの。ぬしさまはまだお若い。もう二十歳過ぎたさ栄などいなくなっても、よいではないか。きっとすぐに、ぬしさまに相応しい、若く見目良い娘が現われよう。そのひとを奥方に迎えるがよい。さ栄など、潔く身を引こう。」

「何を言われるか? 」

「……なんぞとは、言うてあげませぬよ、新三郎どの?」

「え?」

 さ栄は茶目を言って舌を出すような表情をしてみせた。

「別れてさしあげませぬ。つっと、さ栄は新三郎どのと切れてやらぬ。新三郎どのがどんなに疎ましがっても、離れてやらぬのじゃ。」

「……それはよろしいが、……疎ましいはずなどないから、……うれしいが、……なにを申されているのか。あっ、姫さま、大浦には……?」

「大浦には参らねばなりますまい。」

「……。」

「じゃが、別れてはあげませぬ。さ栄は、新三郎のつまじゃろう? お子までなした、つまじゃから。」

「さようにございます。しかし、……?」

「……最後まで、お聞きあれ。お頼みがあるぞ、必ず迎えに来てくだされ。わたくしと、わたくしたちのお子と二人ながらに、取り戻してくだされ。」

 取り戻す、と新三郎はぼんやりと呟いた。泣き疲れたようになっている。

 さ栄はその新三郎の虚ろな表情を黙って見つめ続けた。やがて、新三郎がはっと気づいた様子で、みるみる頬が紅潮するのに、何か安堵したような、好ましい思いを抱いた。

「おわかりか?」

「……さ栄さま、お命じになられたのか?」

「はい。屹度、あなたのつまと子を、取り返してくだされ。大浦どのに預けたままは、許しませぬよ。……大浦を討つもよし、年月はかかりすぎるかもしれぬが、もしもその子が大浦のお家を継ぐ者になれば、親子の名乗りをあげてくれてもよい。……いや、もしも、この津軽で、もう浪岡も大浦もない日がいずれ来れば、……。うん、やはり、大浦を討って貰うが早いか、の? この浪岡から兄上とともにでも、ひとり対岸の松前からでもよい。……命じたのではない。約定のお願いじゃ。さにご約定くだされば、わたくしたちはけして、離れ離れではない。」

 新三郎は、こみ上げてくる感情に震える。姫さまが言われるのは、途方もないことだ。そこには、まだ何のあてどもない。それなのに何か、悲しみの色を濃く帯びているのに勁い気持ちが湧く。悲壮な決意の力が、再びみなぎる気がしてきてならない。

「……姫さまは、待ってくださいますのか? 浪岡御所が立ち直るには、臥薪嘗胆の年月がいりまする。」

さ栄は頷いたが、あっ、と新三郎はまた気づいた。

「……それまでに、わたしたちの子は、大きくなってしまう。男にせよ女にせよ、大浦の子として育ちましょう。その子が、あわれじゃ、やはり……?」

「あわれではないよ。さようにはならぬ。」

「何故でございますっ?」

「新三郎どのの子じゃもの。けして、おのが出生の運命を恨んだりはせぬ。たとえ大浦の血ではないと気づいても、苦しみ悩みを必ず乗り越えられる。」

「さようなことっ?」

「……いや、母が必ずさようにする。させてみましょう。……うん、さ栄のせめての意趣返しじゃ。仕返しして差し上げねば、間尺に合わぬ気がして参ったわ。」

 そんなことを言いながらさ栄は、屈託もなさげに笑顔になっている。新三郎は、不思議がらざるを得ない。

「……たれに、仕返しなさるのか? おれに?」

「滅相もない。……兄上じゃ。大御所さまには、さ栄は、やはり些か含むところがあってな。思い出してみれば、やり返せたことがなかった。せめて、少し性悪(さがわる)(意地悪)を言うてさしあげたい。」

 冗談なのか、と訝しく思いながらも新三郎は、姫さまの明るい口調にやや安堵する。

「性悪とは……?」

「たとい、生まれの悩みを持ったとて、必ず、迷い路に踏み込んで取返しもつかぬ過ちを犯すものではありませぬ、それを振り切り、心正しく生きられる者の方が多いのじゃ、とさように兄上に教えて差し上げよう。」

 新三郎は、北畠宗家の秘密について何か決定的なことを打ち明けられた気がした。だからこそ、何も言うまいと思う。


 たしかにさ栄は、この後、金木館で大御所に面会したとき、ひそかにそれを告げた。

 憔悴の色が濃い兄は、自分と捕虜の引き換えのように―いや、それに違いないが―ここで大浦勢に側室として出迎えられる妹と、最後に二人だけで茶の席に向かい合っていた。衝撃をうけたあまり、茶碗を取り落とした。

「……腹に赤子がいる、だと?」

 さ栄は微笑んでみせた。

「よせ、さ栄。産むのはいかぬ。すぐにおろしてしまえ。……薬をやる。きっと効く。」

「厭でございます。」

「さ栄、お前は、……おれのような者をこの世に生むと言うか? 我が子に、地獄の苦しみを与えると言うか?……まさか、お前はそれで、大浦の家に災いをなすつもりか? その子も、やがて、まるでおれのように……と?」

「なるほど、それには思い至りませんでした。」

 さ栄は感心したかのように薄く笑った。

「じゃが、残念なことやもしれぬが、さようにはなりますまい。」

「な、何故じゃ?」

「……この子は、兄上とは違う。」

「……。」

 それを言っただけで、大御所はさ栄の意を悟っていた。

「……わかった。さ栄、お前はおれに恨み言を並べたこともなかったな。ただの一度とて、わがことでは怒ってみせなんだ。……今、おれに仕返しをしよったか。酷いことを言いよる。……」

 兄は力なく、苦い笑いを見せた。

 妹は涙を浮かべて、かすかに首を振った。しかし、否定するのではないらしい。

「これで、長きにわたった胸のつかえが、ようやく下りました。あとは、浪岡で兄上に、もとの兄上にお戻りいただくだけじゃ。」

「もとの?」

「悪人どもに迷い路に追い込まれる前の、ご元服の頃の兄上さまに帰られるだけでございますよ。やさしく、賢く、お強い。あれが、さ栄の兄上さま。」


 新三郎は、さ栄の躰を離すと、起き直った。さ栄もまた、同じように着衣を直し、正面で相対した。新三郎は低頭し、そして顔をあげた。

「姫さま。新三郎は、心決めました。どうか、しばし、お待ちくださいませ。必ず、お迎えに参りまする。浪岡に……いえ、新三郎のもとにお帰りくださいませ。」

 それを聞いたとき、はじめてさ栄の目に涙が盛り上がり、流れた。まだ変化のない、下腹のあたりにふと手を置いた。

「待っておりまする。早く来て下されるよう、さ栄も勤めましょう。そして、……そ、そして……また、……」

 とうとう絶句した姫さまを、新三郎はまた抱き寄せた。震える肩の衣に、新三郎の涙が落ちた。

「姫さま! さ栄さま!」

「約定じゃよ、ぬしさま。新三郎どの。」

 若者は、愛おしい女の顔を正面から見つめた。声が出ない。ただ、頷いた。

 互いに寄せた熱い頬の上で、涙が混じるようだった。

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