第36話 さ栄

 このひと月、さ栄は朝夕の読経を欠かさない。城外に出て、寺社でも祈った。

(どうか、新三郎を無事にお返しください。)

 それだけを願っている。金木館に囚われた身の浪岡の者たちは、一向に解き放たれる気配がない。大御所の助命が決まり解放でもされない限り、家臣たちの身も等しく危ういのであろうか。

(まさか、いまさらに首を打たれはすまいが、暗に殉死を強いられることはある。)

 新三郎が妙に悟った表情になって、自分が必死に止めるのも聞かず腹を切ってしまう夢を見て、悲鳴をあげたこともある。よもやという気掛かりが夢の形をとっただけだ、と自分に言い聞かせても、震えが止まらなかった。

(案じずともよい。あのひとが、さ栄との約定を破るはずがない。何としても生き残ってくれる。)

 そうは信じていても、文のやり取りができるわけでもなく、金木館からか細く伝わってくる噂を耳にしては、一喜一憂するばかりであった。

「どうやら、南部三戸さま(南部氏の有力家系である三戸家)が間に立って、和議がまとまるらしい。」

 そう聞いたときには、矢も楯もたまらず、内館に行ってみた。甥の御所さまや嫂の大み台所さまには会えなかったし、話をしてくれる何人かの取次クラスの重臣もあまり多くは知らないようで、落胆した。

(ご書庫……?)

 新三郎が時々話してくれた、図書頭という訳知りの知恵者を思い出した。

「このようなむさくるしいところに、姫君さまがお越しとは……。」

「気にせずともよい。お仕事の邪魔になるが、このたびのご和議について、教えてくれることがあるかと思うて参った。前触れもなく、あいすまぬ。」

「滅相もございませぬ。姫さまのお耳に入らぬことまで、何故わたくしめが知り得ましょうや。」

「図書頭こそ、城一番の早耳。そして、余人に見えぬものを古証文から読み取れるとな。蠣崎新三郎が申しておった。」

 新三郎の名を口に上らせたとたん、さ栄は胸が潰れるような思いがした。這いつくばるように平伏する図書頭に、顔を上げるように言った。ふくをいったん下がらせる。ふくはむしろ、助かったという顔でこの埃臭いご書庫から抜け出した。

「浪岡御所は、多くを喪うを耐えねばなりますまい。郡のひとつは南部さまに召し上げられ、その実は大浦のものとなる。」

「……やむをえまい。それで大御所さまがお帰りあそばすが、かなうならば。」

「あとは、阿芙蓉でございましょう。」

「阿芙蓉? ……あっ、兄上の……?」

 さ栄は兄が受け継いでしまった妖薬のことを思い出した。

「大浦は、阿芙蓉を欲しがっております。花畑の作り方、毒液の搾り方、薬の丸め方……。」

「何に使うかは知らぬが、むしろ悪からず。やってしまえばよいのじゃ、ひとを狂わせる毒の作り方など!」

「毒にも薬にもなるものでございますから……。亡きご先代さまは、じゃからこそ浪岡御所が一から十まで面倒をみて、よい痛み止めとしてのみ世に広めるとのお考えでございました。大御所さまのお考えが如何様かは存じませぬ。大浦の考えとなると、なおさらに……。ただ、莫大な儲けを産む。浪岡にそれを差し出せと言うのは、まずは道理にございましょうな。」

 しばらく物思いに沈んださ栄は、自分が何のためにここに来たのかを思い出した。

「とにかく、そのご和議がなれば、大御所さまはお帰りになられますな?」

「そのためのご和議にございます。」

「お供回りも、当然ながら、お帰りじゃな?」

 それはそうだろう、と図書頭が頷いてくれたのでさ栄の気は明るんだが、肝心なのは、

「ご和議、必ずなろうか?」

「……今申しましたような、浪岡御所からの贖い……ご無礼申し上げましたが、このたびは無念の負け戦が歴然としておりますから、さように申さねばなりませんが、……それで大浦は、なかなか満足はいたしますまい。」

「……!」

「じゃが、呑む。厭々ながら、受け入れるでございましょう。南部さまが間に立っておられるからでございます。大浦が如何に独り立ちの望みをあからさまにしておろうと、今は南部の家臣に過ぎぬ。その命を聞かぬは、ありえぬ。」

 さ栄はまた胸が弾むのを覚えた。

「おお、では、金木館にとどめ置かれて居る人たちも、ご無事にお戻りか。」

 図書頭は思わず低頭した。姫さまのお顔に現れた喜色が、まぶしいほどだった。しかし、顔を伏せながら、内心で呟いている。

(いま一つ、考えられることがある。それも、南部が間に立つからこそ、じゃ。……しかし、それは言うまい。)

 それは、あまりにむごい。図書頭は、自分の憶測にとどまっている限り、そんなことを姫さまの前で口には出すまいと思った。希望だけを抱いて、あの新三郎を待ちわびていてほしい、おそろしい悲嘆と苦しみを舐めてきた姫君に、そればかりの明るい日々が残されてもいい筈だ。

(ご先代さまも、きっとそれをお望みじゃ……。)


 さ栄の心は軽くなって数日がたったが、何故か躰の調子が思わしくない。よくあることなので、一人を幸いにまた床に臥せっていたが、何やら胸から胃の腑にかけての具合が悪かった。

 いまは大み台さまと呼ばれることの多い、嫂からの使いにも、まずは物憂い気分が勝る。そして、ふと自分の錯覚に気づいて、慌てて起き直った。

 嫂は昔の、ただ物静かなみ台所さまではない。幼い御所さまの後ろ盾として、大御所が不在の今は、宗家の家長代わりであった。どこにそんな力があったのか、この大み台所は北畠の残りの一族を味方につけて、裏切り者の北畠中書を追い払い、重臣たちを見事に従えている。

(何かの報せが?)

 わざわざに、さして気も合わぬに違いない無名館の厄介を呼びつけるとしたら、「何か」はあるはずであった。

(まさか新三郎の身に異変が?)

 それを思うと、体調の悪さなど構っていられなかった。ふくを従えて、内館に急ぐ。

「さ栄どの。大御所さまは勿論、金木館の者どもにも大事は何もございませぬ。最初にそれを言うておく。」

 さ栄は、思わず息をつく。ただ、周囲から人を遠ざけて、女二人きりの部屋なのが気になった。

「……お戻りが、決まったのでございましょうか?」

 嫂-大み台さまは、やや哀し気に首を振った。

「それは、まだ……。」

 さ栄も溜息をつく思いだが、それにしても、では何の用事で呼ばれたものか。

「待ち遠しうございますね。大み台さまにもご心労と存じますが、どうか南部さま、大浦どのとのお話うまくおまとめくださいまして、みな無事に浪岡にお帰りになられればと存じております。」

 嫂はますます哀し気な色を表情に深めて、黙っている。

 そのまま、二人黙り込んでしまった。

(どうも様子がおかしい。ご機嫌がお悪い……今、さほどよい筈もないが、それと言うばかりではない。)

 さ栄は嫂の固い表情を訝しがったが、今はこのおひとが浪岡御所を支えているのだと思うと、見直した気分を持っている。

 あの仁者とも言える御所さまの妻であったのに、知らぬとはいえ真の仇にあたる義弟に盗まれてしまい、そればかりかその相手に喜んで身を任せている、と苦々しくも思っていた。その結果、左衛門尉を「大御所」にしてしまったのは、危惧したとおり、浪岡御所を一層危機に陥れたとも言える。女のあさはかよ、と蔑む気持ちすらあった。

 しかしそれもあって一層揺らいだ御所の屋台骨を、このおとなしかった女が今は一身で支えてくれているのだ。

(ひとは、変わりうる。いや、み台所さまにおさまっていたときには出せなかった自分を見つけられたのか?)

 これから自分もそうしていかねばならぬ、とさ栄は思った。松前に行くのならば、たとえどのような形で新三郎に添うにせよ、いまのさ栄ではいられまい、と。

「大み台さまには、大変なお勤め、まことに有り難く存じます。」

「……。」

「さ栄などには、何のお役にも立てず、心苦しう存じますが、義姉上さまには何卒……。」

「さ栄どの!」

 嫂は小さく叫んだ。そして、深々と頭を下げたので、さ栄は小さく後ずさるほどに驚いた。

「相済みませぬ! 頼みまする!」

 さ栄は茫然としている。この嫂に頭を下げられるなど、考えたこともなかった。

 そして、咄嗟に自分の身が容易ならぬ目に遭うと気づいた。

 図書頭との会話が目まぐるしく頭を駆け巡った。

(ご和議のことか?)

「南部さま……?」

 思わず声に出た。嫂が驚いて顔をあげた。

「お気づきか? たれにも聞かれるはずはない。いま気づかれたのか?」

「何をでございまするかっ?」

 さ栄の声は震えている。もう、半ばわかった気がしていたから、そうなった。

「済まぬ……! さ栄どの、どうか頼まれてくだされ!」

 さ栄の全身が硬直した。嫂の顔は真っ青であった。しかしやや落ち着いたのか、姿勢を直して、語り始める。

「このたびのご和議は、南部さまが間に立たれてのこと。ご存知のとおり、我らは―浪岡も、大浦も、大光寺も-南部さまから津軽をお預かりして治めておる。近頃の浪岡と大浦の揉め事、先年ついに戦となり、ようやく収まったかと思えば、また今回の仕儀と相成りました。南部さまは、津軽に平穏を望んでおられる。領地だの、銭金だののやり取りだけでは、宿怨はおさめ難かろうと伝えられたそうな。そこで、ひとつお命じになった。……いや、われら浪岡北畠には、お奨め下さった。大浦にお命じなれど、北畠にはお奨めに」

「何をで、ございましょうか?」

 さ栄はもうわかっている。だが、聞かずにはいられなかった。自分の思い違いで、大したことではなければどんなにいいだろうと、はかない望みをまだ抱いている。震えが走った。

「……両家の縁固めを、と。」

「わ、わたくしは……!」

(新三郎!)

 さ栄は心の中で絶叫している。

(南部さまは、北畠から大浦にだれかを縁付かせよと言われたのか! そして、それはわたくしだと?)

(厭じゃ、何故わたくしなのじゃ? たれでもよいではないか? いや、大浦からこちらの御所さまにお嫁が来てもよかろう? 何故、このさ栄が大浦に行かねばならぬ……? )

(新三郎! 新三郎! 助けて、新三郎!)

(……あっ。)

 さ栄は気づくと、崩れかけていた姿勢をゆっくりと元に戻した。

「大み台さま。ご和議の条、いろいろにございましょうが、さ栄が―北畠の女が大浦に輿入れすると言うも、その条のひとつなのでございますな?」

「……。」

「それは決して落とせぬもの、と?」

 嫂は、また無言で頷いた。何か言おうとするのを、さ栄は目で押しとめて、

「このご和議、もし成らなければ、如何なります? ……ご領地も銭金も話はついたが、この件は受け入れられぬ、と言うことにもしなれば、如何なことに?」

 今度は、嫂が目に見えて震えだした。

「な、浪岡からの輿入れによる両家の和合とは、……南部さまのお持ちかけになられた話。それを受け入れぬともし浪岡が言えば、南部さまのお顔を潰すことになりましょう。そこでご和議の話はおしまいになる。となると、大浦は、得たりとばかりにこの浪岡を攻めましょう。」

「その前に、金木館の方々は、如何なりまする?」

「ご和議を蹴ったのじゃ。戦に戻ったわけじゃし、……」

(さようか。新三郎も、金木で討たれるのか!)

「もう、南部さまがそれを押しとどめて下さるとは思えぬ。」

 「それ」つまり大御所の死をまざまざと思い描いたのだろう、大み台こと志まは、今度は崩れるように、また平伏した。背中が波打った。

「頼みまする! 大御所さまをお救いあれ! あのお方を死なせとうない!」

 さ栄もまた黙っている。新三郎の死を想像した衝撃のあまりであったが、義妹の沈黙にうろたえた志まは、ついに言った。

「さ栄どのが、あのお方をお恨みなのは知っております。」

「……な、何を仰いますか?」

「あのお方は、非道のひと。さ栄どのにもおそろしい、むごいことをなさった。」

(知っていたのか? 亡き御所さまが喋られたわけもないのに?)

さ栄は愕然とする。

「……わかるのよ。」

 志まは、涙に濡れた顔をあげて、凍り付いたようになっているさ栄に笑いかけた。

「あのお方のつまになりましたもの。あのお方は、妹のあなたさまがお好きじゃったらしい。……いや、今でも道ならぬ想いを抱かれておられる。」

「義姉上っ?」

「つまになってしまってから、いろいろとわかった。……あのお方が、御所さまの仇らしいことも。……いえ、さようなのでございましょう? 川原御所の謀叛の糸は、きっとあのお方が後ろで引いていたのね。」

(それまでもわかりながら……!)

「……そこまでわかってしまっても、悪い男だと、おそろしい大悪党じゃったと知りながら、……いかにしても、死なせたくない! 死なないでほしい! ……許してくださいませ、さ栄さま。あなたさまでなければならぬ。大浦は、ならばせめて北畠の血が欲しいと言い出しおった。縁を結ぶにしても、北畠の家に女を遣るのではないと。南部の臣に過ぎぬ大浦の家を貴種の血で飾りたいと言うのであろう。……北畠宗家の血を受けた女子は、いま、あなた以外にいない!」

「……。」

「大御所さまは、……あのひとはお断りになられたと聞きます。あなたを犠牲(にえ)にしたくないとお考えのようじゃった。あなたのことを、一番にお考えじゃから。」

「義姉上! ……さ栄は、不出来な妹でしかございませぬ。」

 嫂は、黙って首を振った。

「……あなたのことが持ち掛けられたとき、それはならぬ、とまずは言われた。自分が腹を切るから、金木に留め置かれた家臣を解き放ってやってくれ、それで済ませたいと南部さま方にお伝えあったそうな。とても聞き届けられはしなかったが。……さなくとも大御所さまは、死にたがっておられます。何度も腹を切るとおっしゃり、金木に付き従った者が力づくでお止めしたと聞く。……妹を売って命を拾うかの如き真似で、生き恥をさらし続けるなど、あのお方には耐えがたかろう。」

 さ栄は、それらの言葉が腑に落ちてならない。亡き御所さまも、あまりに鋭敏な弟の、もろさを危惧していた。その未亡人がいま、男の弱さを見抜いている。

(じゃが、兄上がお腹を召したからと言うて、それで新三郎たちが放免されるわけではない! むしろ逆じゃ! もしも和議を投げ捨ててあるじが勝手に逝ってしまえば、残った家臣こそ囚われのまま嬲り殺されても不思議はない……。)

「その大御所さまを説き伏せたのは、許してくりょう、この志まじゃ! 何度も文や使いを送り、ついに浪岡北畠のお家の為に私情を捨てろとまで書いた。怒るがよい、このわたくしがじゃ! 夫の仇を生かしたい、それどころかその男と添い遂げたいと願うわたくしが!」

 志まはついに声をあげ、全身を大きく震わせて泣いた。

 さ栄は、にじり寄って、その肩に手を置いた。

「義姉上。ご案じなさいますな。……黙ってしまったのは、義姉上が何もかもご存知で驚いたまで。さ栄はもう、心決めております。喜んで、大浦に参りましょう。」

「……。」

「ただ、これだけはご他言あそばすな。……さ栄が参るは、大御所さまのためではございませぬ。兄上のお身を案じる女子は、義姉上おひとりで十分でございます。」

「あ、ああ、さ栄どの、それは……!」

「さよう。さ栄が喜んでいるのは、……別の者をこれで救えるから。」

 さ栄は微笑んだ。一瞬、新三郎の元気な笑顔を、目の当たりにできた気がしたからだ。

「さ栄どの! すまぬ、すまぬ! 耳に入ってはおる。よく知っておった。それなのに、頼んでしもうた。むごい、むごい真似を、わたくしどもは……!」

「兄上には、いずれお恨みを申しましょう。」

 さ栄は笑った。その目に、涙はない。

(新三郎! ようやくさ栄は、ぬしさまの為に何かできるようじゃ……。)


 自分の部屋に戻ったとき、さ栄はただうつろな気分になっている。不安げな表情のふくが、何事かと尋ねるのも下がらせ、ただ一人で過ごした。夕の食事も退け、ぼんやりとした表情のままでいる。

 新三郎と松前でいかなる形にせよともに暮らすという夢が、砕け散ったことだけがわかる。あとは、考えがまとまらなかった。

 夕闇が忍び入ってくる縁に立って、赤暗い空を見上げた。

 嫂は不倫とも邪恋とも呼ばれるべき愛欲を貫けると言うのに、自分たちは割にあわぬことだとは、ふと思った。

(じゃが、義姉上も地獄……。夫の仇、わが子の父の仇と知りながら、添い続けたいと願うのじゃから。力の限りに仕合せを求めて、不仕合せに堕ちていかれるのじゃ。)

 それにくらべて、では自分は不仕合せではないと言えるのか。さ栄にはわからなかった。

 敵方の城に閉じ込められ、和議がならなければ殺されるであろう新三郎を、この身で救うことができる。そう思い返せば、痛いほどの昂揚がある。その熱は冷めない。それだけを思えば、喜びすらあった。これは、幸福と言えるのではないか。

(じゃが、……じゃが、じゃが! まことにこの道しかないのか、わたくしには?)

 さ栄は膝を落とし、うずくまった。

(新三郎に会いたい! せめて一目、無事な姿を見たい。……それからでないと、何も考えられぬ。考えたくない……!)

 そのとき、胸に苦しさを覚えた。苦いものが急にこみあげてくる。さ栄は耐えきれずに縁の外に身を乗り出し、それを少量吐いた。

(鱗の浮かぶ、あれではない?)

 今まで知らなかった、胸の悪くなる気分であった。口の中が、まだ苦い。

 さ栄は目を見開いた。自分の躰に、生まれてはじめての変化が生じているのに気づいた。

 

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