第38話 津軽の空
それから、わずかに七か月の後でしかない。
産褥が、死の床に変わってしまった。
大浦為則は、北畠氏から来た側室の玲瓏とした容姿と物静かな人柄が気に入ったようであった。
早々に懐妊があったとの報せには、ひどく喜んだ。ひとつには、我の強い娘婿である養子を跡継ぎに定めるのに、なお躊躇があったためでもある。
側室の子とは言え、北畠氏の血を受けた直系男子であれば、嫡男にも立てるべきであろう。そうした意見は、継嗣に擬せられた若者に不安を持つ重臣たちの間からも出た。
したがって、「浪岡の方さま」と呼ばれる側室の懐妊は、どこの家でもそうではあろうが、大浦城内に内政の上の緊張をもたらした。一族と家臣団には、ともに分裂が生じかけていた。
当のさ栄は、そうした動きからは極力無縁であろうと努めていた。自分自身の秘め事がある。それをこそ守り通さねばならない。
さ栄にとって幸いなことに、爪や牙を隠すのを大浦家の中でふだん特には意識せずに済んだとも言えた。このことは、さ栄の大浦での日々を、思ったよりもやや明るいものにしてくれたとできよう。
当初こそは浪岡北畠氏の姫をおのが褥に入れたという昂ぶりが見えた大浦為則は、すぐにさ栄に当たり前の好意を抱いたようで、床の所作も数夜を経ずして齢相応に柔らかく、いたわりのこもった、節度を守るものになった。
普段の生活でも、こちらが懐妊を隠している気の咎めもあったからだろうか、実家の敵ではあったが、とりわけ奸悪な人物ともさ栄は感じなかった。騙されておるわ、という軽侮の念は、あまり抱けない。
自分の胤と信じて早々の懐妊を喜んださまには、病弱の身で新興の家を担ってきた初老の男の人間らしさを覚え、それを報せたときのさ栄は、わけのわからない涙が浮かぶのを覚えて当惑した。
御正室ですら、跡継ぎのはずの若い娘婿とは何故かそりが合わぬらしい分、夫の子を産んでくれる貴家から下ってきた側室に、悪意はないようだった。正室の座が危うくなるわけではない。自分が嫡男を残せなかった分、娘ほど齢の離れたおとなしい「浪岡の方」をかわいがりたいようにも見えた。
ご正室やその他の側室が生んだ姫たちですら、若い夫を迎えた阿保良姫ひとりを除いては、末の弟―かどうかすらもまだわからないと言うのに―に期待しているのは、不思議であった。
(いったい、大浦弥四郎為信とか言う若者は、どのような人物なのか。)
さ栄は興味すら湧いたが、ただ一度か二度だけ顔を見たことのあるこの大浦の継嗣扱いの娘婿のことは、あまり気にかけないほうがよさそうだった。こちらは敵視されているに違いないし、それほど周囲に嫌われている人物というのならば、万が一のこともある。毒でも盛られてはかなわない。
(この家には、兄上の阿芙蓉が入ったばかり……。赤子を腹に抱えた身にあんなものを飲まされてはたまらぬ。)
ふと思えば、新三郎よりもいくらかまだ若いはずの、まだ少年と言ってよい大浦為信は、どこか兄―小次郎に佇まいだけは似ていた。恵まれた資質を持ちながら、抜き難い不遇感と憤りを人生のどこかで抱え込んでしまい、それを激しい攻撃性に代えて、隠しきれない若者。
(あの子も、おそらくは哀しいのじゃろう。心の底のどこかに、哀しみをよどませておろう。)
と言って、何をされても仕方がないものではないわ、と今のさ栄は、小さく身震いせざるを得ない。
さ栄は、付き従ってきたふくとともに、口にするもの、触れるものにはできる限りの用心を重ねた。妊婦として細心の注意を挙止動作に払うさまは、周囲の人びとを感心させたとも言われる。
無事に新三郎の子を産み落とすこと、それを立派に育てることが、大浦でのさ栄のひそかな戦いであり、生き甲斐であった。
(……この戦、しかし、敗れたようじゃな。)
「無念にございます。」
と、死の床で大浦為則に呟いたのは、それだけの、ほんとうのことであった。しかし、申し訳ござりませぬ、と枕からやや頭を起こして詫びた言葉には、いくらかの複雑な意味がある。
実際にやや早産であった赤子は、臍の尾を首に巻き、窒息して出てきた。そのまま息を吹き返さなかった。男子であったが、とそれを聞かされて、さ栄は気絶寸前の苦しい息の下で、新三郎の顔をまず思い浮かべた。
(すまない。さ栄がまず、約定を果たせなかった。)
どうやら、迎えを待つこともできなさそうだ、とさ栄は覚悟をした。血が止まらず、流れすぎたらしい。強烈な痛みが去ったあとも、躰を起こしておけず、感覚が遠のいていくのがわかる。
生かして産んでやれなかった子の後を追うらしい、と妙に落ち着いて思った。
(母があと少しで迎えに行く。それしか、お前にやってやれることがありませぬ。)
少しだけ待っていなさい、と死んだ子に呼びかけたときには、もうしばしば意識が途切れていた。
大浦家の、この短い期間に仮初にも誼を通じたと言える人びとが、出産の為にさ栄が下がっていた一室に集まってきたのが、閉じた目にもわかった。
さ栄は力を振り絞って目を薄く開け、覚えのある人びと一人ひとりに礼を言い、別れを告げた。「とのさま」である大浦為則には、お世継ぎになりうる子を流してしまったこと、早々にお家を去ることをまた詫び、どうか浪岡御所の幼い甥―浪岡顕村にご同心とご助力を、と頼んだ。大浦為則は頷いたとされる。
辞世の歌を詠む暇はなかったようである。それよりも、したいことがあった。
遠くに下がっている、ふくの名を口にした。自分の身内はことごとく世を去っていく、との思いに、気を失わんばかりに嘆いているのがわかる。
大浦の家の者が、ふくを枕頭に近づけてやった。
さ栄の乾ききって白い唇に耳を寄せると、姫さまの弱った、ごく小さな声が聞き取れた。
「……口惜しい。」
まことにござります、とふくは、最後の望みが潰えた不幸な主人の為に涙をほとばしらせたが、さ栄はまだ一言を足した。うっすらと笑っただろうか。ふくの大好きな、さ栄姫さまの表情だった。
「……ふく。……今まで、よく、……。」
礼を言おうとしていた。ふくの目に涙が溢れた。
「姫さま……!」
「た、……の、む。……を、……たい。」
「あっ? なんでございましょうか?」
ふくは嗚咽を止めて、主人の声を聞き取ろうとした。だが、さ栄はもう声が出ないのだろうか。その代りに、視線をある方向にしきりにやろうとした。
「……空? 空をご覧になりたいので?」
さ栄の顎がかすかに動いた。ふくは周囲の使用人とともに、床を動かさせた。冷たい色の、しかし雪を呼ぶ雲は不思議に少ない空が、女主人の眼に入るだろうようにした。
(空……! ああ、新三郎どの……天才丸どのが、言われていたのう! 離れた土地も、空はつながっているから、広い空を見たかった、とあのお子は言うた。覚えておいでじゃったか。そして。姫さまも……!)
「どうか、ご覧あそばせ。」
ふくは、すでに虚ろに薄く開いているだけにも見えるさ栄の黒い瞳に、たしかに空が映っているかをたしかめた。
のち、このふくの行為は大浦家の人びとの間で疑念の種になった。
「浪岡の方さま」はあきらかに、その場におらぬ何者かにこそ最後は会いたがっておられる様子ではなかったか、それは大浦の家の者として、殿さまに仕える身として、不埒ではなかったか、と言うのであった。しかし、大浦為則の一言でそれは収まった。
「『浪岡の者』はこちらに来て、なな月でしかなかった。儂らに塩染むには短すぎたであろう。末期に会いたい者が故郷におるのは、自ずから然るべしとしか言いようがあるまい。」
そして為則は、おそらく一目会いたかったのは、……と言い足した。
「浪岡侍従―兄の小次郎どのであろう。兄妹、仲睦まじさで知られたそうな。あれの口から聞いたことがあるわ。」
さ栄の瞳は物理的にはもう像を結んでいなかったが、たしかに青い空を見た。
(新三郎……ぬしさまもこの空、仰いでおられるか?)
そのとき、急に周囲に冷たい水が満ち、溺れるように息が詰まった。水の中で息ができず、胸が苦しい。手足の感覚はとうに乏しい。鰭に形を変えていくのかもしれない。
(おや、やはりわたくしは、魚になってしまうのか?)
さ栄はやや慌てた。魚に変じて、それでいて溺れてしまうのでは埒がいかぬ、と不満を覚えた。
しかしそのとき、ふっと息が楽になった。
いよいよ魚か、と思ったとき、水の中から持ち上げられるように浮き、宙に向かって軽々と上がっていくのがわかった。もはや手足も楽に動き、腕をかざして見たところ鱗も出ていなければ、そもそも痛みも痒みもない。
雲を抜け、高い空に浮いているのが、さ栄にはわかった。
有難い、これならば浪岡にも松前にもらくに行ける、と思う。
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