第40話 真汐
時間を、浪岡城落城のこの天正六年から、十年以上戻さなければならない。
ちょうど、浪岡北畠氏の姫君が津軽の大浦城で没したと伝わる永禄七年(一五六四年)初冬のことであった。
そのさらに北、蝦夷島松前は雪に覆われている。
ここで安東家家臣として蝦夷代官をつとめる蠣崎若狭守の近臣に、村上某という者がいた。
某呼ばわりはいけない。村上季儀というこの老人がなお当主をつとめているのは、もとの松前大舘副守護の家系である。すぐる永正十年(一五一三年)、蝦夷蜂起で松前大舘が陥落し、主君の松前守護家相原氏が滅亡、そのときの当主である父政儀も自害してしまったため、代わって大舘に翌年に乗り込んできた蠣崎家に仕え、今日に至っている。
だが村上家は、かつての和人豪族の勃興時代に道南十二舘などと呼ばれた舘のうちの有力な一つを、副守護として固めていた。いまに続く安東家の蝦夷地支配の伝統に照らせば、若狭源氏などと称しても素性のあやしい蠣崎家などよりは、はるかに折り目正しい血筋であった。
安東家の蝦夷支配の画期は、南部氏に圧迫された下国安東家の安東師季が一時蝦夷地に脱出した、享徳三年(一四五四年)の「蝦夷御渡海」であったが、これに付き従ったのは鎌倉期以前に奥州に移り住んでいた関東武士の裔であった。村上氏もそれである。
それが、娘―季儀にとっての孫娘を蠣崎などという成り上がり者の家の息子に、嫁がせねばならない。蠣崎家の大舘支配に従ってから五十年にもなるから、ふだんはそんな意識はない。家中での「おやかたさま」呼び―僭称もいいところであったが―も堂に入ってきた当代、蠣崎若狭守季広には老臣として自然に忠節を尽くしているのだ。だが、こうして我が家のことを一義に考えるとき、ほんらいなら隠居の齢の村上家当主の念頭にも、複雑な感情が今になって上って来るのである。
しかも、悩んでいた。
まずは、その「蠣崎の息子」である。候補が二人いた。
「ふたりのうちから、よさげな者を選んでくれるがよい。どちらがおぬしの目にかなうか、知りたいものじゃ。楽しみに待っておる。」
おやかたさま―蠣崎季広はこともなげに言ったのだ。そこに潜む意図に考えをめぐらすと悩むしかなく、村上老人は主人が恨めしく思えてくる。
蠣崎季広は艶福家でもあり、また家運隆盛を当然考えたから、複数の室に生涯で三十人を超える子を産ませている。天文十七年には、三人の男子を授かっている。さすがにひとりは早々に寺にやって坊主にしたが、正室河野氏の子を三男、女房(城内の使用人)あがりの側室の子をその弟として、大舘で育てた。それらが少年期を脱し、縁談が持ち上がる年頃になった。
三男と四男のことだから、どちらにやろうかと村上家が悩むような話ではなかったはずなのである。所詮は、嫡男である兄の「家の子」(家来)になるだけの若者たちであった。
ところが、三年ほど前、長男と次男が相次いで南条広継室であった長女に毒殺されるという変事があった。怪事件と呼んでよい。
真相には表ざたにされたものだけではない、おそろしい事情が潜んでいるのではないか。事実として、重臣の名門・南条家がこれで逼塞してしまった感があるが、村上家なども、かつては蠣崎家を見下した家格という点では南条家と似ていた。村上老人は、これ以来内心では肝を冷やしている。現に、村上家にも被害は及んでいる……。
何にせよ、これで蠣崎家の後継者が不分明になった。
(新三郎さまの目は薄いのではないか。)
村上老人も考えている。童子の時期の終わりまで松前にいた聡い「天才丸」さまを覚えているが、津軽でひとかどの者に育ったのは聞き及んでいた。そもそも正妻の子で、いまや長子であった。
(だが、後ろ盾が悪い。今や浪岡御所は、心もとないどころではない。)
「川原御所の乱」という怪事件の噂は、対岸にも勿論届いていた。下剋上の内紛はやむを得ないが、どうもその後がよくない。浪岡宗家の幼い当主を支えるのは叔父にあたる英邁な男だと聞くが、内紛と外圧に苦しみ続けているようだ。
(家運と言うものは、いったん傾いてしまえば、容易なことでは戻らぬ。)
自らも傾いてしまった家の当主として、村上老人はそう考えざるを得ない。
(天才丸さまには、運が無かった。ご出仕先が沈んでは……。)
もとより、浪岡北畠氏と誼を通じようとは、おやかたさま―蠣崎季広も危うい碁を打つ、思い切った場所に石を置くものだと思っていたのだ。それが、どうやら“駄目”になってしまった。自分で出仕の先を選んだわけでもないのに、天才丸―新三郎はその煽りを避けられぬだろう。それに比べて、同年齢のその弟はどうだ。兄に少し遅れて、今度は主家である秋田安東氏に出仕し、つつがない。
(やはり安東さまこそが我らの変わらぬおん主。その檜山屋形さまのお側に侍るのが、どうあっても吉じゃった。)
おやかたさまも最初からそれはわかっていたのではないか、と村上老人は思うのだ。
(ご側室の腹の子たる四郎(正広)さまのほうを、どうやら好かれておる。だから、檜山屋形に出仕させたのであろう。いまや家督も継がせたいのではあるまいか?)
となると、この村上家から嫁がせるならば四男のほうしかない。蝦夷島南端の武家の頭目に、我が家の血を持つ者をつける絶好の機会を逃すべきではなかった。この点で、村上老人の心は固まりつつあったのだ。
(だが、こちらのほうが……。)
孫娘の名は、真汐。まだ九つでしかないが、祖父の欲目を離れても、なかなかの美貌を予感させた。我が孫ながら、いかにも人品もよさげだ。しかし、
(あれが、ああでなければ……。)
その真汐が、老人の居室にひとりで入ってきた。ひどく大人びた所作に見える。おとなしすぎるほどの子だが、今日はそれとは別種の、落ち着きすら感じられた。
「お爺さま、近頃、真汐の身の振りにご心配下さっていらっしゃるご様子ですが、……。」
「あっ、お前、真汐?」
村上老人は驚倒せんばかりになった。幼い孫娘はそれには関せぬ様子で、続ける。
「真汐の望みを申し上げて、よろしうございましょうか?」
「真汐、お前、喋れるのか?」
老人が孫娘の声を聞くのは、二年ぶりであった。
生まれながらならばやむを得ないが、ある時から、貝が蓋を閉ざすように、心ごと口を開かぬようになってしまった。その日まで、明るい、はっさいな幼女であったのが、一瞬で変わってしまった。ときには自分でももどかしげな様子は見えるのだが、どうにも言葉が口をついて出ないらしい。声を絞り出そうと苦しむさまを、祖父は何度も見た。
(もとはと言えば、あれも蠣崎家のせいではないか。)
老人は口には決して出さぬものの、恨めしく思っている。
南条広継室による毒殺事件の余波は大きかった。
代官家の嫡男があいついで、有力家臣に嫁いだ姉の手で殺されたと言うのだ。個人の怨恨を理由に思った者はひとりもいない。一時は、家じゅうが真っ二つになる騒ぎであった。すべての責めを負った南条広継とその一門が滅びても事態は収拾されず、直接は無関係のはずの家にまで流血の沙汰が広がった。
老人の息子―真汐たちの父は、日頃、南条の人となりをよく知っていた。いかにも不自然な事の成り行きに不審を口にして憚らなかったが、それをめぐっての酒席の言い争いの果てに、発作的に―だと言われたのだ―腹を切ってしまった。
(切らされたも同然ではないか? おやかたさまのご沙汰に疑いを鳴らすなど、不用心が過ぎた。……家中の見せしめにされてしまったのじゃ。)
と言って、代官―おやかたさまから直接に口封じの指示が下りていたのではないだろう、と村上老人は考えている。その場の雰囲気や勢いで、腹の一つや二つ切ってしまうのが、武家である。おそらく息子は、同輩との激論の末に引っ込みがつかなくなり、赤誠をおのれの腸で見せてやる羽目になったのだろう。
ようやく家督を譲る直前であったのに、と老人は落胆したが、それはもう、やむを得ない。むしろ家が絶えなかったのに安堵しなければならなかった。
(が、あの場に真汐がいなくてもよかった……。あれは男の子ではない。武家の者とは言い条、あの齢で、父親が真っ赤な腸を溢れさせ、介錯に首を落とされるのを目に焼きつけてしまえば、……。)
真汐が喋れなくなったのは、父の凄惨な死を見てしまって以来だったのだ。そして、外界がおそろしいのだろうか、しきりに部屋に籠るようになってしまった。喋れなくなれば、友だちとも交流がなくなる。親きょうだいや使用人くらいしか、相手をしてやれない。最近は、成長したからだろうか、かえってそれさえ避けるきらいがあった。
(なんということじゃ。なにが起こった?)
老人は孫娘の小さな両肩を揺らして問い詰めたい気分だが、つい先刻までの暗い様子とはうって変って、表情が静かななかにも明るい。この落ち着いた様子を崩してやりたくない。下手に口を差し挟むのがおそろしい気がして、黙って頷くと、孫娘に続けさせた。
「真汐は、お代官さまのお家の、新三郎さまに嫁ぎたく存じまする。どうか、おやかたさまに、お願いくださいませ。」
「新三郎さま?」
婚姻の話など、意外であった。それも、どうやってこの幼い者に、そんな大人同士の内々の取り決めがもう伝わっているのか、老人にはわからない。
「如何でございましょうか。どうか、真汐の願いをお聞き届けくださりませぬでしょうか。」
真汐は首をやや傾げながら、微笑を浮かべていた。老人は驚かされながらも、それだけでうれしくてならない。
「真汐、真汐。お前、喋れるようになったのじゃなあ。」
「……はい。」
「よかった。さようか、喋れるのか。よかった。」
祖父は涙を浮かべたが、もうよいだろうと思って尋ねてみた。
「ひとつ尋ねるが、なにゆえ新三郎さまに嫁ぎたいと思うた? ……そもそもお前、新三郎さまにお目にかかったこともあるまい? もう五年も松前にお帰りでないのじゃぞ? お噂をうかがったのか?」
「はい、うかがいました。」
真汐はうれしげに笑った。その笑顔は、つい先ほどとも違う年齢相応の屈託のなさで、村上老人はまたうれし泣きしそうになったが、そうか、と尋ねた。
「たれに? 母者か? お代官のお家のお方か?」
少し考えると、幼女は大人びた表情に戻って、
「お爺さまには、またご心配をおかけはせぬかと案じられまするが、まことを申します。少しく、不思議なことにて……。」
先刻の昼下がり、雪がいったんやんだころ、真汐はいつものように、ただ一人の侍女を相手に無言で過ごしていた。何十度となく読み返した草紙を所在なくめくっていたが、ふと外から呼ばれた気がした―と言うのだ。知らぬ女の声だった。
ちょうど侍女は別の用で席を外した。真汐はまた名を呼ぶ声を聞き、それに引かれて、自室から外に出た。屋敷の裏手にひとりで回る。さほど広くもない敷地の中だが、そこには昼間も人けがない。
高貴な佇まいの女性が、白く光る雪の上にひとり立っていた。いや、ひとりではない。胸に生まれたばかりとも見える赤子を大事そうに抱いていた。真汐が来るのを、待っていたようだ。やさしく微笑まれたという。
真汐は反射的に冷たい雪の上に平伏したが、起きよ、顔をあげよ、ときれいな声がした。
(天女さま?)
それに違いなかった。別に後光が差しているわけでも宙に浮いているわけでもない。しかし、どうも、生身の人間ではありえないのがわかった。
「村上の家の、真汐がそちか?」
真汐はなんとか答えようとしたが、やはり声が出ない。無言で頷くと、天女さまはすべておわかりで、むごい目にあったゆえじゃな、と言って下さった―のだそうだ。
「真汐。そちに頼みがあります。蠣崎新三郎慶広どのに、嫁いでおくれ。……お代官の家の、ご三男。会ったこともないじゃろうが、そちが添うべきおひとであるのは、わたくしが知っている。どうか、そちのお爺さまにそれをお願いしておくれ。」
(わたしは口がきけないのです。どうしてお代官さまのお家にお嫁に行けましょうか?)
真汐が頭を振ると、天女さまは心配には及ばない、とまた微笑まれたそうだ。
「案じずともよい。お代官のご三男は、魚になってしもうた者すら、ひとに戻してくれた。そのお方に添えば、言葉を取り戻すなど、造作もない。」
また喋れるようになるのか、ならば是非その新三郎さまに嫁ごう、と少女は決意した。
「まことに有り難く存じます。その、新三郎さまと言われますお方のつまになりましょう。……あ?」
「……ほら、また喋れました。」
天女さまはやさしく笑い、胸の赤子に顔を寄せて、うれしげにあやした。
「真汐。いまひとつ、頼みがあります。これも大事な頼み、聞いてくるれるかえ?」
天女さまが語る望みを聞き、真汐はむしろ喜んで頷いた。
「さようか。かたじけない。礼を言います。」
天女さまはまことにうれしげな表情を示した。そして恐縮する真汐に近づいて、見上げる少女の頭の上に、赤子を大事そうにかざした。そして、白い右手をそっと置いた。
村上老人は新三郎と孫娘との縁組を願い出たが、不思議な女との話は主君に一切伝えなかった。狐狸や怨霊の類に化かされたと思われてはつまらない上に、気味悪がられて話が壊れてしまいかねない。
(ありがたいお方だったには違いないが、よしんば狐狸妖怪でも構わぬ。真汐の言葉が戻ったのじゃからな。)
村上老人はそう思っている。
それに、真汐のほうも次の日にはもうあまり不思議な話をしなくなった。本人に尋ねてみても、なにかきょとんとしているくらいだ。それなのに相変わらず喋れているから、老人としては、そのほうがずっとありがたい。
おやかたさまー蠣崎季広は、新三郎のほうか、それでよいのか、と尋ね、村上が強く肯うと、何か納得した表情になった。
胸中では、村上老人の目の確かさに感心する思いがある。だから、何故かとは尋ねなかった。
「あれは、近々にこちらに戻る。……いや、浪岡御所からの使いとのことよ。よい機会だから、許婚者として会わせてみるか?」
「ありがたきご仕儀にて。……お使いでお帰りとは?」
「まだ余所では言うな。これも縁談じゃ。蠣崎家に間を取り持ってもらいたいのじゃと、浪岡御所のお望みがあった。」
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