第41話 松前大舘の姫君 上
(ちょうど五年、戻らなかったか。)
松前の浜に立った時、さすがに新三郎にも感慨があった。故郷に使いに出されるときにも、いよいよ船べりから松前のごつごつした海岸が見えたときにも、十八歳の若者には何も感動はなかった。松前の小さな湊の匂いを思い出したとき、はじめて、刺すような思いが胸に迫る。
(姫さまを、お連れしたかった……。)
いつか姫さまと我が子を取り戻すとの、あてどもない誓いだけにすがって生きようとしていた。それも、八か月もたたぬうちに、さ栄姫の死によって無惨に潰えた。浪岡城内でその報を伝えられた時、大御所の前で新三郎は一瞬、なかば喪神したと言っていい。目の前が昏くなった。
ふたたび視界が明るんだとき、自分の人生に悦びを求めるのは終わった、と当然のように感じていた。これからは、己の与えられた義務を果たすためだけに生きるのだと。
浪岡御所は、生き残りのための外交に勤しまねばならない。大浦家との小康状態は、絆とすべきさ栄姫の死から半年もたたぬうちに、すでに揺らぎ始めていた。また別の者を送り込む政略結婚を、とは考えにくい状況になってしまった。
大御所は、「遠交近略」だと考え始めたのだろうか。大浦家と南の境を接する出羽・秋田との仲を固めるため、御所さまの正室を安東家から迎えようとしている。檜山屋形こと安東氏は南部氏の仮想敵国とも言うべき存在であったが、浪岡北畠氏としての自立を守るためには、南部の庇護を頼りにするわけにはいかなくなったのである。
「おぬしの父、蝦夷代官蠣崎若州に間に立って貰いたい。」
(十三、四の頃のおれならば、武者震いしたろう役目じゃな……。)
その三、四年前が十年も二十年も前のことのように思える。自分も、天才丸や元服のころの自分からは、遠い。
新三郎は、淡々とその任務を受けた。蠣崎季広がこの政略結婚の仲介役を演じることの、蝦夷代官家にとっての損得勘定をまず考えている。
新三郎は、そのようになっていた。まずは松前の蠣崎家が、蝦夷島をどう治めていくかであり、それ以外にはもうあまりない。
さ栄姫の死があった以上、新三郎は変わらざるを得なかった。
(姫さまがご死産の果てに亡くなられたのは、お子を孕ませたおれのせいじゃ。しかし半ばの責は、大浦と、南部と、……浪岡御所とにあろう。大御所さま、大み台さまが大浦に姫さまを差し出さなければ、亡くなられずに済んだのではないか?)
蠣崎新三郎の頭の中では、すでに敵方である大浦も、味方のはずの南部も、この浪岡御所も、同じものであった。自分から姫さまを永遠に奪い、死なせてしまった連中である。生まれて初めて、決して冷めようのない怒りを若者は心の奥に秘めるようになっていた。
そして、それ以上にうずく思いに、新三郎はしばしばひとり苦悶した。
(おれは、お身を犠牲にする姫さまを止められず、すべてを振り捨ててともに逃げようともできず、……みすみす姫さまを死地に追いやってしもうた。大浦でも浪岡でもない、おれこそが、最後は姫さまを見捨てた。われらの子ごと、死なせてしもうた……!)
新三郎がかろうじて浪岡御所にとどまって精勤しているのは、この罪障意識からだけだったと言ってよい。御所さまをお守りするのを、さ栄姫さまは望んだはずだ。その想いにだけはこたえなければならない。
だが、故郷の土を踏んだ時、新三郎ははっきりとわかった。自分の果たすべき役目は、この松前にしかない。浪岡の無事を祈った姫さまのお命じには、必ず従いたい。だが、最後の最後で、お許しを請わなければならないかもしれない。
父との二人だけになった面会で、新三郎は松前のこれからについて腹蔵なく語った。蠣崎が蝦夷島で何を望んでいくべきか、そのためにどのように振舞うべきかの考えで、親子の考えは遠くないことがわかった。
新三郎は、自分は家督を譲られるのを願っているのを隠さなかった。
「新三郎は、蠣崎若狭守さまの蝦夷島お治めをお助けして参ります。それだけが新三郎の望みと、申しあげておきまする。」
「そして、いずれは、儂の跡を継ぐか。」
「はい。さように願っておりまする。」
季広は一瞬、父親の顔に戻ったが、すぐにいつもの感情を隠したとらえどころのない表情に戻り、話は変わるが、お前は長泉寺を覚えておるか、と尋ねた。新三郎が少し考え、思い出して肯うと、
「あの長泉寺のある折加内村にも川が流れておるが、いつからだったか、鮭が上らなくなったそうじゃ。永禄五年……か。困ったものじゃ。」
永禄五年、とは、あの家中の毒殺事件以来と言うのであろう。新三郎は気づいた。そして、微笑みながら答える。
「ご案じに及びませぬ。父上の御政道、蝦夷島に一層いきわたり、松前の繁栄とみに増しますれば、いずれ、鮭も戻って参りましょう。」
「さようであろうか。」
「違いありませぬ。……亡きあに上がた、姉上も、それをお望みでございましょう。」
長い沈黙のあと、げにさようか、と呟くと、季広は立ち上がった。低頭する新三郎にはその表情はうかがえない。ただ、声が降ってきた。
「……それも、お前の代になるかもしれぬが。」
(許婚者だと。)
父との対面のあと、久しぶりに会った母からそれを告げられた新三郎は一瞬、眩暈がする思いだった。
(おれには、姫さましかいない。)
鬱屈していた感情が表に出そうになったが、家族の女たちの前でそれを出したとて何の意味もない。
(蠣崎家の次の当主の相手として、村上の娘は相応しいのじゃ。)
と思って、気持ちを静めた。父は公にはなかなかしないだろうが、先ほどの会見で後継には確信を得ている。さ栄さまではない、親ー家の選んだ適当な相手との婚姻も、自分に課せられた義務なのだろう。
それに、相手の年齢を聞いて、十八歳の青年は苦笑いした。自嘲の思いが起きる。
(九つだと。子供ではないか。……こんなおれに、ますます相応の相手かもしれぬ!)
同じくらいの年回りの御所さまの妻を父に斡旋させるために帰郷したのだが、ああした高位の家と我が家とは違うだろうに、とまだ思っている。
そんな幼い相手ならば、まだ真面目な話とも思えなかった。決まった話のように言われたが、また浪岡に戻って勤めているうちに、時間がたてば何がどうなるやもわからない。一度顔だけでも見ておけ、と母は言うのだが、
「子守りのつもりで、会ってやりましょう。」
侍女に従われてやってきたのは、思った通りの幼女にちかい娘だった。新三郎は何か少し安心した気分で、しかし、許嫁のつもりで―そうには違いないのだろうが―やってくる小さな相手の感情を傷つけないでやろうと思う。
(口がきけないとの噂は、嘘のようじゃな。)
緊張は隠せない様子だが、受け答えはきちんとできる。こちらからするのは子供相手の他愛もない問いばかりとは言え、賢い子なのがわかった。
「若殿さま。」
と、新三郎を呼んだ。気が早いように思うが、たしかに、もう「御曹司さま」ではないはずだから、受け入れた。
「お願いがございます。……お外に連れて行って下さりませぬか。」
「ここは退屈か?」
「さにはござりませぬが、……真汐は海を見ながらお話を伺いたく存じました。」
「……真汐どののほうに、なにか話したいことがあるようじゃな。こう堅苦しくてはいかぬか。聞こう。」
新三郎は浜に着くと、真汐付き添いの侍女を少し離れさせた。かがみこんで視線を落としてやろうかと思ったが、それはかえってよくないだろうと思って、海に向かい、並んで立つ。
(こうした聡い子は、子供扱いを厭うものじゃ。……姫さまや御所さまの前で、天才丸がさようであったよ。)
「海がお好きなのか?」
新三郎の腰の高さくらいまでしか育っていない少女は、はい、と答えた。
「この目で海を見るは、これがはじめて。今まで、ほんとうの海と言うものを知りませぬでした。」
「……?」
「潮風とは、まことに心地よいものでございますね。」
(……なにを言うておるのじゃ、この子は?)
「真汐どのは松前のお生まれ育ちと聞くが?」
「……。」
黙っている少女の顔を見ようとした瞬間、新三郎の躰はぐらりと揺れた。
(姫さま? さ栄さま?)
そんな筈はない。横にいるのは村上家の幼い娘に違いない。小さな体。まだ童女の髪型。丸っこく柔らかい子供の体つき。それなのに、そこにろうたけた、あのさ栄姫が立っているのを、新三郎はたしかに目にしていた。
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