第零話 浪岡城址 下


 松前、そして出羽と、一行がひそかに船を乗り継いでいく。

 それは、かつて「さ栄」だった者がまた無人の浪岡城址に、一瞬に戻ってきたときにも、はっきりとわかった。空間的にも時間的にも、距離というものは、このようになった者にとってもう関係がないのだ。

 明るい海、昏い海を、武者が主君一家を守って、懸命に行くのがありありと見える。小さな船で波を浴び、松前からはやや大きな船に、落ち延びる一行を隠した。


 海とはこのようなものか、とはもう思わない。海についての知識そのものは溢れるほどに豊富にある。ただ、

(潮の香も、海風も感じぬな。そうしたものがあるのはよく知っているのだが……。)


「御所さま……これにてご無礼申し上げます。」

「やはり、おぬしは我が家を離れるか。亡き先代さま―父君のご猶子であったが。」

 み台所の実家である秋田安東家に匿われる身になった浪岡顕村は、ここまでつき従ってくれた武者に去られるのが心細く、つらいようであった。

「御恩は終生忘れませぬ。しかし、松前に戻らねばなりませぬ。」

「よい。蝦夷島にこそ、おぬしの仕事があろうよ。……別れるは、身を切られる思いがするが。」

「いえ、この檜山屋形(秋田安東家)にて、お目にかかれることもございましょう。」

「……じゃが、もう、我が家臣とは呼べぬな。」

 わかってくれるのか、と武者はあらためて低頭する。かれ自身の複雑な立場がある。

「おぬしの家は、この安東どのの代官じゃ。その厄介(居候)となった浪岡北畠が、おぬしを家の者扱いしてはならぬな。」

「御所さまには、累代の立派なご家臣がなお側におられます。」

「もう、御所ではないが……。この命を拾わせてくれたのは、おぬしであった。かつて出仕していたというだけで、よう命を張ってくれたな。礼を言う。」

 武者は身を震わせた。青年君主への思いもあるが、なぜここまで尽くしたのかを考えると、激しい感情が起きる。

「勿体のうございます。……もし、もしもお礼ならば、御所さまの、亡き叔母上さまに申されてくださりませ。拙者がまかり越しましたは、御恩を被りました、元服前の最初のおん主たる、かのお方のご遺命とも存じております。」

「叔母上?」

「お覚えにござりましょう。無名舘にお住いでいらした……。」

「おお。無名舘の天女さまか。覚えておる。」

 

かつて「無名(ノ)舘」とも呼ばれる城の外郭だった平場のあたりに眼をやると、あの頃の「無名の舘」の姿が蘇えった。櫛が抜けるように建物が減っていったことがわかる、寂しい「舘」だが、記憶がある。

 廃屋に近い古びた屋敷に隣接した離れ屋に、息せき切って元服前の少年が駆けこんでいく。

(また、なにかの用事を頼まれたのじゃな。大儀なことで、すまぬの。)

その少年は、走りながら、先ほどの武者の姿になった。

 また、落城の夜だ。屋敷は燃えている。離れ屋にも火が回った。

 武者は、怒りと悲しみを抑えきれない様子で瞬時、立ちすくんだ。

 だが、なにかの感傷を振り払う様子で、兵をまとめ、敵兵の満ちる北館への道を急ぐ。

 そこから内館に突入し、「先ほど」のように若い主君を救出「した」のであろう。


 「まだ」燃えていない、離れ屋に、わざと、生身の人間が歩くように近づいてみた。足音などたつはずはないのに、なぜかこっそりと忍ぶように生け垣をくぐる。

 落城の阿鼻叫喚とは、別の夜だ。落城よりも十年以上前だろうか。

月が明るいなか、静かであった。虫の声がする。

 小さな灯が黄色く照らす部屋のなかで、まだ少年の気配を残した武者が、誰かを相手に楽し気に笑っている。

 ふと会話が途切れたとき、ひどく真面目な顔になった。座ったまま、誘うように手を広げた。

 向かい合っていた女が、ゆっくりと身を傾けて、倒れるように、その胸の中に入った。若者は、愛おしい女の背に手を回し、力を込めた。女が、切なく息を吐く。男の広い胸に頬を当てて、仕合せそうな笑みを浮かべた。

(あれは……!)


(あれは、わたくしじゃ!)

「新三郎……!」

 かつて「さ栄」だった存在は、浪岡城址の草地にしゃがみ込んで、小さく叫んだ。

(なんということ、わたくしは新三郎をすぐには思い出せなかったのか? ……そのようになってしまっていた!)

 おそろしかった。自分が何か得体のしれない者になりかけ、それを自然に受け入れていたのを思うと、ただつらく、おそろしかった。

「死」そのものへの感情に、それは似ていただろう。

(躰から解き放たれ、新三郎のところに行けるかと思うたのに……。)

(このようになれば、ただ見守るのすらも、かなわぬのか。)


 蠣崎新三郎慶広という歴史上の人物の知識は十分に持っていた。織豊時代から江戸初期までを生きた、蝦夷島(北海道)の武将。前時代までは、蝦夷島南部の一角のみ、しかも秋田・安東家の「代官」としての統治に過ぎなかった蠣崎家支配を、中央に成立したばかりの「天下」政権と巧みに通じることで、ほぼ全島規模にまで拡大した。蠣崎家あらため松前家による支配は、のち松前藩と呼ばれる。独占的な蝦夷地交易を軸として富み栄える一方、のちの松前藩による蝦夷地現住民支配は代々苛烈さを増し、……。


 だが、そんな知識ではとうてい及ばぬほど深く、強く、さ栄は新三郎という人間を知っていたではないか。ともに生きていたではないか。

 自分を救い、いつも懸命に守ってくれたひと。そして自分も、全てを捨てても救い出したかったひと。

それを記憶から消去しようとしていたことは、かつてさ栄だった者に、全身が震えてならないほどの深甚な恐怖を与えていた。

(たとい身は滅んでも、新三郎をつっと見ていけると信じたのに……。)

 本物の、取り返しもつかない別れが迫っているのに気づいた。完全な離別とは、忘れ去ることなのだろう。

(……厭じゃ。わたくしは……そう、さ栄は、新三郎を忘れたくない! 新三郎どのをけして、忘れてはならぬ!)


 その時、懐かしい声が響いた。

「お前はなお、それを望むのか。」

 頭を抱えてうずくまっていたさ栄は、声を振り仰いだ。

「御所さま……兄上さま!」

 そこには、かつて御所さまと呼んだ長兄、浪岡北畠氏九世当主、浪岡具運の姿をした者が立っていた。顔かたちはそのまま、さ栄の記憶にあるとおりだ。だが、

「もはや、兄ではない。浪岡具運の記憶は知っていて、それも自在に取り出せる。それゆえにこの姿もとれるが、もう、別のものになった。」

「……兄上さまではいらっしゃらない?」

「うむ、お前もすぐにそうなるように。」

 しかし、そこにいるのは、先に死んだ兄に違いがないようだった。さ栄は地面に平伏する。

「やめよ。そのような格好で、その礼をとってもらっても、……困る。」

 なるほど、とさ栄は思った。目の前にいる「具運」だった者も、この場所が浪岡城だった時期の本来の服装ではなく、「史跡・城址公園」に立っているのに相応しい服装だ。

 気づけば、自分もそのような格好だった。この時代の服装の知識も持っているので、抵抗感もない。

「そのやさしいおっしゃりよう、兄上さまに違いありますまい。」

 さ栄はうれしかった。大恩のある、それなのに悲惨な最期をみとることもできなかった兄に、また会うことができたと思えた。

「……違うと言うに。しかし、さ栄、……さ栄と呼ぶぞ?」

「はい。うれしゅう存じます。」

「さ栄、少し歩きながら話そう。内館の跡に参ろう。」

 ふたりは、生きていたときにはついぞあり得なかった風に、肩を並べてゆっくりと草を踏んでいった。

 よもやま話の必要は、しかし、本当はなかった。ふたりの姿をとっているのは、巨大な知識や情報の集合体の一部と、それに回収される途中の個体である。ほぼ全ての意思は、出会ったときに、無言のうちに瞬時に通じあっていた。

 風がやむと、鳥の声が降ってきた。


「左様か。さ栄でいたいのじゃな?」

「具運」は、格好に似合わない、生前に似た言葉遣いであった。さ栄は頷く。

「このままでおりますれば、いずれ兄上と同じになれます。……じゃが、さ栄は蠣崎新三郎を忘れとうございませぬ。」

「それを確かめんために、儂はここに戻った。」

「お手数、痛み入りまする。」

「なに、妹と斯様に話をしたかった。……浪岡具運ならば、さに思うたはず。」

 「具運」は、かつて愛する妹に向けていた笑みを浮かべた。

「兄上。……お教えください。如何いたせばよろしいのでございましょう? わたくしは、新三郎と一緒にいとうございます。その方策が、どうしても思い浮かびませぬ。わかりませぬ。」

「わからぬ? 左様か、さ栄はそれがわからぬのか。……それはもう、お前がそれを果たしたがゆえじゃな。」

「あっ。」

「さ栄、お前の望みはもうかなっているようじゃ。お前は、ひとに戻っているのじゃよ。無論、斯様になった以上、お前の身は滅した。生き返る、という真似はできぬ。じゃが、……。」

「はい。ではござりますが、いったい、この後、如何すれば……?」

 後、ではないな、とさ栄は気づいた。この城がある時代で、自分はそのために何かをすでにしたのだ。それは、……。


 瞬時閉じていた目を、さ栄は開いた。

「松前、蠣崎家臣、河野氏の娘でござりますか。」

 さ栄には、心にひびを入れられてしまった、幼女の姿が見える。

(これ以上は、見るまい……。)

「わかったようじゃな。……さ栄、お前は茶器の割れたを接ぐのが上手かった。あのように、やってやれような。」

 さ栄は頷いた。そして気づいて、尋ねる。

「兄上さま。……もうお目にかかれませぬか?」

 「具運」は黙っている。さ栄は、自分たちと一体化して無窮の存在の一部になるよりも、ひとりの人間を選んだのだ。

 こうしたときに、生前の浪岡具運という人間ならば何をどう言うのかはわかる。「具運」の形を取った者は、それを言いたくなった。

「嫁に出してやるは、二度目か? このたびこそは、兄としてうれしいぞ。」

「あ、兄上っ……!」

 呼びかけた相手の力であったのだろうか、一瞬で時間と空間を移動していた。

(さ栄、忘れてはならぬ。お前はもう、母になったではないか。)

 さ栄の両手に、いつの間にか、心細いほど軽い、赤子がいた。

「兄上さま、かたじけなく存じます……。」

 さ栄は自分が、松前にいるのがわかる。蠣崎家の本拠地、大舘のある松前である。

(やがて、あやつも来おる。きょうだい揃うて会うときも、いずれあろうぞ。)

 あやつ、とは小次郎―次兄のことだろうか。さ栄は嗚咽しながら、頷いた。

 松前は雪だ。大館の武骨な建物の下に、板屋根が白い雪に化粧されて、うずくまっていた。その尽きる先に、昏い水の色がある。

(じゃが、これではまだ、海を見たことにはなるまい。)

これからしなければならぬことは、さ栄にはすべてわかっていた。

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