第41話 松前大舘の姫君 下

「さ栄さま」は、懐かしい声で新三郎に話しかけた。

「新三郎どの。お久しう。ようやく、おそばに来れました。」

(さ栄さま! さ栄さま!)

 新三郎の躰は凍り付いたようで、声も出せない。気づくと、周囲の景色も全く動かない。波さえ止まった。昼日中の浜辺に、一切の物音が絶えた。時間が止まっている、とは、こういうことではないだろうか。おそらく、ひとにはふつうは感じられぬ瞬間と瞬間の隙間、ほんの刹那に、さ栄さまが新三郎の目の前に現れているのだ。

「……お子は、残念にも流れてしまいました。約定果たせず、心苦しい。しかし今は一緒に連れてきてやっているから、決して憐れにお思いにならずともよい。」

「……。」

「さ栄はできなかったが、この娘が代わりにこの世に産んでくれます。新三郎どの、ぬしさまとこの娘のお子として、生を享けられる。」

(さ栄さまは、如何なすったのでしょうか? お亡くなりになって、み仏になられたのか? まことの天女さまになられたのか?)

 口が開かないのがわかったので、新三郎は頭の中で話しかけた。わかるのだろう、「さ栄」の少女は頷いた。

「み仏や天女さまとは畏れ多いが、……もう躰はない。勿体ないが、さようなところか。」

(ああ、さ栄さま!さ栄さま!お会いしたかった。……ありがたい、またお目にかかれた。斯様な形ならばこそ……!)

「でも、また、ただのひとに戻りまする。それがうれしい!」

(さ栄さま!……お生まれ変わりになられるのでございますか? 厭じゃ、またお会いしたい。もう二度と別れとうない! お願いにございます。どうか、さ栄さまとして新三郎にいつも会いに来てくだされ。つっとさ栄さまのお目にかかっていたい!)

 新三郎は心の中で半ば泣きながら叫んでいた。誰とも知らぬ者に生まれ変わられてしまえば、今度こそ二度と会えなくなると思うと、やりきれなかった。

 さ栄は微笑んだ。

「つっと、一緒におるよ、新三郎どの。お嘆きになるな。うれしい、と申しました。さ栄は、これからまた、新三郎どのと一緒じゃ。ひととして一緒におれる。じゃからうれしいのですよ。」

(ひととして一緒? ……あっ、この娘に……?)

「はい。さ栄はもう、この真汐の中におります。頼んで、一心同体になりました。……この娘の心の割れてしまったところを、さ栄がお茶碗を直すように継がせて貰っています。うまく継げたと思いますよ?……真汐はもとの、わららか(陽気)な子に戻った。さ栄も、もとはなかなかにはっさいな子じゃったよ?」

(さ栄さま……。存じております。さ栄さまは、かわゆらしい娘さまじゃったに違いない。わたくしにはよくわかっておりました。物静かなさ栄さまだけではない。わららかな、華やかなお顔を、よくお見せくださった。)

「ぬしさまが、さように戻してくれた。……この真汐をお嫁にとってくださいますね? さすれば、わたくしどもはまた、いつも、ともにいられる。」

(はい。必ず! 必ずさよういたします。……この子は、いつもさ栄さまなのですか?)

「一心同体、と申しました。この子の心を封じ、躰を奪ったりしてはなりませぬでしょう。さ栄はこの子の中に宿っている、ただそれだけ。真汐は真汐。もうこの子は、さ栄を自分の中に入れたことも忘れかけている。それでよい。……今のように、新三郎どのに話しかけるも、これからは慎みましょう。」

(……さ栄さま。それは、……哀しい。わたしは、さ栄さまにお逢いしたい!)

「真汐とともにいなされ。この子と語るは、さ栄と語ると同じ。いずれ、この子の肌に触れてやりなされ。さ栄に触れて下さると同じ。」

(さ栄さま! さ栄さまは、それでさびしくはございませぬか?)

「さびしくありませぬ。さ栄は、ここにおります。新三郎どののそばにいる、この娘を通じて、すべて感じる、すべて知る。今日、この子の目ではじめて海をほんとうに見た。まことの潮の香を嗅いだ。潮風を肌に受けた。……何より、新三郎どの、ぬしさまとまたお会いできた。これよりも、つっと、斯様にして参ります。さ栄は、ぬしさまのおそばにおりましょう。だから、新三郎どの、哀しまれることはない。」

 新三郎は、心の中でしっかりと頷いた。

(はい。とうとうご一緒になれました。姫さまを、松前にお迎えできました。)

 おれは泣いている、涙が流れている筈だ、と思ったが、自分でもまだわからない。

「新三郎どの。喜んでくださっているのか? さ栄もうれしくてならぬ。真汐もきっと、うれしいはず。……しかし、これより、長い間には、うれしいこともかなしいこともありまする。新三郎どのは、蝦夷島の武家のあるじになるのじゃから。つらいことも多い。あやまちも避けられぬ。……斯様に美しい地であろうと、この世はすべて迷い路……かもしれぬ。ひとは迷わねばなりますまい。喜びにも哀しみにも、悩みにも怖れにも、つきあたりましょうよ。」

(はい。)

「それらすべて、ふたりで担っていきましょう。」


「ふたりで……。」

 気づくと、声に出していた。

 真汐は、横に立っていない。はっとしたが、波に向かって駆け出していくのが見えた。打ち寄せる海藻か何かに興味が湧いたのだろうか。侍女が慌てた声で注意する。

(まるで子供じゃなあ、やはり!)

 新三郎は笑って、真汐の後を追った。叱られるとでも思ったのか、真汐は波打ち際から離れたが、そのまま逃げ出した。

 鬼ごっこのようになった。真汐は甲高い悲鳴のような嬌声をあげて、逃げようとする。新三郎は鬼ごっこに興じてやる。

(さ栄さま、まことにこの子の中にいらっしゃるのか? ……この様子では、わたしはずいぶん待たねばならぬようじゃ!)

(お待ちなさい。)

 さ栄の声とも、真汐の声ともつかないものを、新三郎はたしかに聞いた。明るい声だ。

(待てるでありましょう? 天才丸は我慢強い、よい子でした。)

 新三郎は立ち止った。抑えていた涙が溢れだしたのがわかった。

 やがて真汐が、心配げに近寄ってきた。もう大人の許婚者が、泣き出したのが心配だ。なにか真汐のことで、急に悲しくなったのだろうか?

「……案じずともよい。真汐どののお逃げになる背中を追うておると、幼かった昔を思い出して、懐かしくて泣けてしもうた。そればかりじゃ。……真汐どのこそ、先ほどは急に波打ち際に行ったりして、あぶのうござるぞ。……何があった?」

 真汐は安心したのか、にっこりと笑った。

「きれいな魚が跳ねるが、見えましたのです。真汐には、かわゆらしいお魚が、とても好ましうて。」



(終)

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魚伏記 ―迷路城の姫君 みず とり @mizutoriab

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