第30話 痣

(兄上は、慎み深かったのじゃな。)

 嫂―志まの寝所に忍び入ってまた交歓を尽くした夜、左衛門尉は知った気がした。

 正室の躰の隅々までを、夫の御所さまは知り尽くしているわけではなかったらしい。夫婦仲が悪いのではなく、そうした行為には淡泊であったようだ。元来そうだったのかはわからないが、継嗣の長男が生まれれば、後ろ盾である南部氏ゆかりの家から来た正室に、それ以上出産という命懸けの危険をもたらすのを、いくらか自重したのかもしれない。その代わりだったのか、側室をもうけて子を為してはいるのは、この時代の家長の義務のひとつを律儀に果たしたと言える。しかし、さほど多くの子も遺さなかった。

 み台所が夫の態度をどう感じていたのかはわからない。ただ、左衛門尉が短期間に、かの女の知らなかった多くを教えてくれたと思っているのはたしかであった。そう、口にも出した。

「左衛門尉さまは、悪いことをご存じでしたの。」

 驚きを含んだ口調で言い、気づいてからは、どこか媚びるようでもある、照れた笑顔を見せた。これまでの人生で、彼女が誰にも見せなくてよかった表情だろう。

「悪くはござらぬわ。……斯様に、義姉上をよろこばせて差し上げられた。」

 志まはあっと小さく叫んで、左衛門尉の胸の中で躰をくるりと返して顔を隠した。

「……もう、……この場では、……その呼び方も、……つらい。」

 望むとおり名前で呼びかけ、後ろ抱きにして、手指と唇とで、また陶然とさせてやる。目の焦点が怪しくなった顔を近くで眺めて、自然に笑む。女がはっと我に返ったときには、躰の位置を変えた。

 何も言わずとも、志まは男に奉仕する行為をはじめた。遊女のような仕草を、宗家の女主人であった者にさせてやるのは最初、昏い喜びを左衛門尉に与えたのだが、この頃はもうそれはどうでもよい。この女と、はしたなく睦みあうこと自体に甲斐をおぼえていた。

 女の苦し気な表情に、左衛門尉は両手で小さな顔を持ち上げて、やめさせてやった。励んだ末に幼女のように頬を真っ赤にした女はそのまま、男の伸ばした逞しい腿に、唇を走らせる。左衛門尉のあの痣に目を止めると、何か感動したように、唇を寄せ、強くそれを吸った。

(昔、たれかが、同じことをしよったな。こんなものが珍しいのか?)

……

「もしも、お子をいただいてしまったら、どういたしましょう?」

(これも昔、たれかに聞かれた。そしておれは、答えたものじゃな。)

「西舘で貰い受けましょう。……ご安心あれ。もしもさようにおめでたい仕儀になって、お腹が目立ちだしたら、しばらくどこかに身を隠されればよい。儂が外で馴染んだ女に産ませたと言えば、通りまする。……男ならば、いずれ西舘を継がせましょうか。」

 夜も更けきってから、ともに臥して話をすることが増えた。たがいにさすがに肌には堪能しきってからも、寝物語がなにか新鮮で楽しい気がしている。義理の姉だけだった頃にはろくに会話したこともなかったが、

(どうやら、おれはこの女に塩染(なじ)んでいる。)

 志まがやや憂いに沈んでいる表情が、月明かりの下で左衛門尉にはひどく好ましい。

 女は禁忌を犯して怯えながら、自分への愛着に勝てずにここまで関係を切らさずにきた。左衛門尉は別に、尼僧姿に髪を切った女を犯すのに倒錯した喜びを覚えているわけではない。ただ、世の窮屈な習いでは別の形をとっていた人間関係が、余人の知らぬ場所でひめやかな男女の愛情の行為に転じることには、何か豪奢なものをそこに見て、悦楽を覚えずにはいられないらしい。

 若年におけるさ栄との不幸な―本人が知るよりもはるかに不幸な―恋愛がこの男の愛情の形を歪ませてしまったのかもしれないが、左衛門尉にもし現代風に言わせれば、大っぴらに社会化された恋愛は真実のそれとは遠い、ということにでもなるのだろう。

 男の返答に頷いて、少し考えていたが、女は一層、寂し気な表情になった。

「母親の名乗りもできませぬか。」

「さ、それは……?」

(さすがに、乳母にでもしてくれ、西舘で住む、とは言わぬな。あれは子供の戯言じゃった。)

「左衛門尉さま。お聞きくだされ。」

 志まは、昼間のひと前での時のように、み台所だった頃の顔になっている。

「……志まは、左衛門尉さまと添いたい。髪を戻して、娶っていただくのが夢になり申した。」

「義姉上?」

「当主が亡くなってしもうた後、その弟が嫂を譲り受けるのは、珍しくはござりませぬ。」

「……。」

「お厭でござりまするか? 難儀を申しておりまするか?」

「厭ではないが、……それはお家が絶えようというのを防ぐためじゃ。いま、御所さまがご立派に跡を継がれておりまする。わたくしが義姉上を貰う……お迎えする道理が立たぬ。」

「立ちまする。あの小さな子を、支えて、守って、育てて下さるのが道理じゃろう? 前のみ台所を譲り受けるは、その最たるもの。なるほどあの子が御所さまなら、あなたさまは、大御所さまになられればよい。」

「大御所。」

「いまも、ご名代さまでいらっしゃる。大御所さまと呼ばれるようになっても、支障ございますまい!」

 そうでもないのだが、というのが左衛門尉の顔に出てしまったのだろうか、み台所さまの表情から、志まはまた、元の顔つきに戻り、涙をにじませた。

「……いえ、ご無礼申し上げました。支障あるか否かは、左衛門尉さまがお決めになることじゃ。志まなど要らぬとおっしゃるのなら、……子を産んだ姥、尼くずれなど、二た月も可愛がってやればもう十分でなければ、……さ、さ、さようね、こんなふしだらな女……。」

「お志まさま。泣かないでくだされ。あまりに急のことで、返事ができなんだだけじゃ。……あなたがこの左衛門尉をそれほどに慕ってくださるとは、これほどうれしいことはない。わが想い、もうご存知のはず。ただ、さようのことばかりでは済まぬのも、おわかりでござろう?」

「ただ、……? いまさらに、一門の目を気になさいますか?」

 ややそれに近い。

 左衛門尉は、ご先代の遺児をすかさず後継に立てたからこそ、実権を握れている。それですら、あれほどの軋轢があった。もしもその左衛門尉が先代の未亡人を譲り受け、御所の継父として君臨するということになれば、周囲の疑念と反発は避けられないであろう。激しい粛清の騒ぎをようやく収め、家内は小康状態にあるのに、女の気持ちにほだされただけで危険を冒す気にはならないのである。さらに、

(もしも志まが本当におれの子を産んで、それが男ででもあってみよ。あとあと、お家の跡目争いの種になりかねぬ。後々に父親であるおれが何も思わなくても、とりまきの思惑でそういう次第になりかねぬ。)

 志まは政治的に無知ではないから、左衛門尉の考えは読めた。

「お家のためではござりませぬか?」

 とは言ってみたものの、ここでこれ以上議論するのも詮無いのはわかった。

「……お許しあれ。あなたさまは、せめてもの気散じにここにいらしているのに、かえって煩いを増やしてしまって……。志まの想いをお伝えできた、それだけで十分に存じます。」

「気散じなどでは、ござらぬ。わたしは、お志まさまを……。」

「いえ、最初は少し慰めてやるくらいのおつもりでしたでしょう? 髪を下した女が殿方に身を任せる不埒に、お家のためであるかのような、よい口実まで下さって。……されど、遊びも一度や二度では終わられず、こうして続けて来てくださる。こんな女でも、なにかお気晴らしになるのじゃろう。挙句、のぼせた願いをつい申しあげても、お怒りになられない。憐れんでくださるのじゃ。志まはもう、それで、……それで、よいので。」

「お志ま、悲しいことを言うな!」

 左衛門尉は、女の肩を抱いた。女は、おやさしい、と身を震わせてしがみつく。

「左衛門尉さま。かくなれるのを、昔から夢見ておりました。……志まは、浪岡北畠さまの、人形のようなお顔というお噂の弁天丸さまに、遠くで憧れておりましたのよ。御所さまに縁付く、つっと前にございますとも。義理の姉弟になってしまったときには、うれしいのか悲しいのか、わかりませんでした。……噂に聞くだけじゃった弁天丸さまにお逢いできる、せめてきょうだいのご縁ができた、などと考えていいのやら、と。」

「義姉上とお話しできたのは、この十何年かに、数えるほどではございましたな。」

「はい。……それでも、時々お顔を見られるのは、うれしうございました。それどころか、御所さまがあなたさまのことをお話になられるだけで、何やらうれしかった。自慢の弟が、また功をあげてくれた、危地に飛び行ってくれよった、と、いつも……。お褒めやお喜びの言葉以外、伺ったことがありませぬ。」

 左衛門尉は思わず、女を抱く力を強めた。志まはそれをどう解釈したものか、たじろぎながらも微笑んで、

「このことも、……御所さまのお導きに思えてなりませぬ。御所さまが、お許しくだすった。」

 左衛門尉は悲しげに首を振った。心の中で叫んでいる。

(その御所さまを手にかけたのは、このおれよ……!)

「いいえ、さでなければ、あなたさまと斯様になれようとは。きっと、血を分けた弟君に、妻をゆだねて下すったのじゃと思えて……。」

(血は、分けておらぬ! おらぬのじゃ! じゃから、……。じゃが……。)

「もしもさようであれば、ありがたいばかりにて。」

「さようでございますよ。御所さまとあなたさまは堅い血の契りに結ばれたご兄弟でございますから。ああ同じ血を分けたお二人よと、この志まは、たれよりもよくわかっております。」

 み台様の口からなにか露骨な言葉がするりと出たように思えて、左衛門尉は少し驚いた顔をしたが、それを見て、志まは慌てて長い首を振った。

「はしたないことを申してはおりませぬ。お痣、お痣にございますよ。」

「あざ?」

 やはり、はしたないには違いないか、とやや羞恥しつつ、志まは笑顔でそれを言った。その瞬間、左衛門尉という人間を粉微塵に打ち砕いていることを、知らない。

「あなたさまにも、亡き御所さまと同じお痣がござった。志まの運命のおひとお二人には、同じ血が流れていらっしゃると思うと、なにやらうれしうて、勿体のうて、涙が出ました。」

「同じ、痣? ……同じ痣だと? ……なんと申された? おれの、この、この痣のことではあるまいな?」

 志まは首をかしげて、はい、それにございますよ、と微笑んだ。

「あら、ご存知ありませぬのか? まあ余人に見られる場所にはない。おみあし、……お腿に、じゃもの。御所さまも同じお腿に、そのおかたちお色も、瓜二つ……。」

 志まは息を呑んだ。左衛門尉は顔面が蒼白になり、瘧のように激しく震え出している。握りしめた拳が、膝で跳ねている。

「左衛門尉さま? どうなされましたか?」

「どのような……痣でした、義姉上? この、米花、……四弁の花のような形であったと、言わ……れるのか? ……お答えくだされ!」

 容易ならぬ左衛門尉のさまに、志まはうろたえたが、とっさに取り繕うことができない。

「それは、……それは似たようなものでございましたよ。ご兄弟じゃもの! 何のことはございませぬ、左衛門尉さま。気をおたしかに! ……ご兄弟なら、似た痣の一つくらい、ございましょう?」

 左衛門尉は長く続く、獣のような呻き声をあげて、頭から前に崩れた。

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