第31話 昏い予感

 次の朝、ご名代さまから内々に、無名館の姫君は急遽内館に召された。

(まさか、この日の高いうちに……?)

 さ栄はあらぬことを思って不安にかられたが、さすがに政庁のある内館で不埒な振る舞いにも及ぶまいと考えると、別の懸念に襲われる。

(いよいよ口を封じるおつもりになったか? こちらも意地で無礼を重ねておるからな、頃合いと見られても不思議はない。)

 さ栄は妙に達観していた。今、生涯の幸せの絶頂にあるように感じている。だからこそ、それが急に断ち切られてもやむを得ないのだとどこかで思っていた。

 不幸な初恋の始末が、いまだにさ栄の心に重い影響を与え続けていた。新三郎との恋に生まれ変わったような気持ちになっている今でさえ、たとえ悲惨な結末が訪れようと、それを当然のものとして受け入れねばならないという思いが抜けない。

(もしもの際には、新三郎のためにだけは弁じておきたい。あのひとは、よし薄々は気づいていたとしても、まだ川原御所の一件、すべてを知っているわけではない。御所さまのお言葉があるから、けしてたれにも―ふくにすら―言っていないのだ、口封じはわたしだけでよい、と。)

 そう決意を固めて、三間の間に招かれ、待たされる。よりによって、なのか、「川原御所の乱」の現場である。

(血の匂いが残っているようじゃ。ここで、何人が死んだ?)

 厭な予感が高まっていたが、供回りもつけずに一人現れた左衛門尉の姿に、あれこれの考えは一気に吹き飛んだ。

(兄上、そのお顔は?)

 顔立ちはそのままに、しかし別人のように生気が全く失せていた。御所さまの右腕であった頃の噂に聞く輝かしさはもちろん、さ栄が知ってしまった謀叛人の悪辣は悪辣なりに開き直った精気も、どこかに行ってしまっていた。

「さ栄、尋ねる。ありのままを答えよ。」

 さ栄は黙って低頭したが、すでに目が眩む思いであった。この兄が自分に尋ねることなど、一つしかあるまい。

(兄上……! ああ、兄上、気づかれたのか?)

「ご先代さまから、お前、何か聞いていたのか?」

 約束がある。さ栄は奥歯の鳴るのを抑えながら、なんとも答えられず、また平伏した。

「黙っておるか……。そうか、言うにも言えぬことを聞いていたな?……さ栄、知っているなら、答えよ。おれはもう、聞かされた。」

「たれにでございますか?」

 さ栄は顔をあげて叫んだ。あろうことか、と思った。憔悴しきった左衛門尉の、力ない表情に驚き、慌てて言い繕う。

「……いや、なにをでございましょうか?」

 左衛門尉は、なかば確信を得たのか、哀し気に微笑んだ。その顔のまま、言う。

「痣のことじゃが、おれの痣、亡きご先代さまにもあったとのことじゃな?」

「お痣? 存じ上げませぬが……?」

「さ栄、わかっておる。お前のその様子、却って知れる。嘘の下手な女じゃ。……そのお前に、いろいろと隠し事を作らせてしまったのは、このおれか。」

「兄上……!」

「問いを変えよう。……なにゆえ、御所さまは教えてくれなんだ? お前もじゃ。おれに教えてくれていれば、おれは、……おれはここまでは来ずに済んだものを!」

 左衛門尉は泣いてはいなかったが、泣いているも同然だった。この部屋で自分が起こしたことを、おのれの行いを、まざまざと目の前に見ているのだろう。細かく震えていた。

「兄上! 痣など何の証左にもなりませぬ!」

「……と、ご先代さまが言われたか。そう、若君の頃か? お前との一件をご存知になったときに、さよう言われたのじゃな。しかし、言い足されたであろう。じゃが、わかる。あれが血を分けた弟だというのは、痣などあろうがなかろうがわかるのじゃ、とでも?……なに、おれも、わかってしまったからな。……四位さまのご病床などには行くべくもなかったが、……行ってしもうた。おじいさまのおみ足、たしかに拝見してしもうたわ。……うむ、痣なんぞ、たれにでも一つ二つはある。それが何の証立てになるやら。……じゃがな、同じ痣だと聞かされた途端に、おれも、わかったのよ。腹こそ違え、あのお方はまことの兄君であったと。理屈もなにもなく、疑えぬようになった。」

「兄上……! いったい、たれがさようにむごい真似を?」

「み台所がな、何の気もなしに教えてくれたよ。……お志まを責めてやらんでくれ。まことに、ただ知ったことを口にしただけで、他意はない。」

 さ栄は気づいて、歯噛みした。

「兄上、なんということをなさったのか。妻を盗むとは! そんな仕打ちまで、亡き御所さまに……?」

「すまぬと思うておる。しかし、その分のばちだけはもう当たったようじゃ。」

「ばち……?」

「答えを聞いておらぬ。なじょう、七年前に、最初からおれに教えてくれなんだ? 御所さまも、お前も。……お前はお前で、川原の一件ではあれほど怒りながら、それは言わなんだ。御所さまのお考えじゃろうが、それはなんじゃ?」

「……おわかりになりませぬか。いや、わたくしはかつて申し上げた気がする……。嘘はつかなかった……。」

「何か言うておったか? ……お前とこうして喋るのも、何年も前のような気がする。忘れたわ。」

 左衛門尉の力ない笑いに、さ栄は亡き御所さま―若君さまの考えが正しかったと痛感した。

「御所さまは、あなたさまを死なせたくなかったのじゃ。」

「おれが、死ぬだと?」

「あれほどのことをなさったご名代さまですら、今になって、そのお有様! あのときも、ただ女を失うというだけで望みを失い、ともに死のうとなされましたな! あれでもし、まことの地獄を覗いておられたら、小次郎兄上は、さ栄など構う間もなく自害なさっておられたでございましょう!」

「おれが……?」

「若君さまは、弟というおひとを、よくご存知じゃった。素っ気なくされているようで、わたくしたちを見ていてくださった! ……実の妹とまぐわったと知ったら、あなたさまは決してご自分を許されなかったはず。」

(……さようよ。今も、おれは、己がかほどの人でなしであったのに耐えられぬ……。)

 さ栄は、兄の姿に身震いする。御所さまの思いを台無しにしてはならぬ。

「兄上、お願いにございます。ゆめ自害などなさるな!」

「何を言う、おれは、……今さら……死んでなどやらぬわ。」

「兄上も、嘘がお上手ではない。」

 さ栄は無理矢理に笑顔を浮かべてみせたが、また硬い表情に戻ると、伝えるべきことを吐き出した。

「御所さまのお言葉にお従いなされ。それこそ、今さら、などとは言わぬ。斯様になってしまえばこそ、せめて御所さまの最後のお望みを汲みなされ。……死んではなりませぬ。生き続け、託されたお家をお守りになられよ。もうそれしか、償いの道はない。」

「お、おれに……おれに生き恥をさらし続けよ、と言うのか、お前は!」

「さようにございます。……わたくし、……このわたくしとて、……!」

 左衛門尉ははじめて気づいた。このさ栄こそは、何年も恐ろしい罪の意識に苦しみ続けてきたのだ。魚になる、などと言っていたあの肌の奇怪な病も、その心の痛みが生んだものに違いなかった。

(おれは、自分の父親と兄を、血族を殺しただけではない。このあわれな妹の父親と兄を殺したのだ。そして、このさ栄が不幸を舐めてきたのも、元はと言えば……!)

「さ栄、……すまぬ。すまなかった。何もかもが、おれのせいじゃ。お前に一度も謝っていなかった。詫びる。許せ。許せはせぬじゃろうが、詫びさせてくれ。」

「兄上……! 勿体ない。わたくしなどよいのです。わたくしこそ、あなたさまを迷わせた。同じ罪を負っておる。謝られることなどない。……あなたさまが謝られるべきは、……。」

 左衛門尉は西に向かって平伏した。さ栄は満足するどころか、精気の失せ切った兄の姿に、かえって激しい怖れの混じった悲しみに打たれた。

(御所さま、……申し訳ございません。お気づきを止めることができなかった。これで、これでよいのでございましょうか? お考え通り、やはりいかにしても、お気づきのないままであるべきじゃったか?)

「兄上、もうよろしうございましょう。亡き父上、兄上も、そのほかのお身内の方々も、仏となってお許しくださる。……もはや、北畠の長として、おやりになられるべきを、どうか……。」

 左衛門尉は無言であった。

「兄上。お考えあそばせ。兄上は、まがうこともなく北畠宗家のひとであったのですぞ! 悪い夢のごときお悩みはもう失せた。……申し訳ござりませぬ、つっと隠しておりましたが、まことに兄上のお血は父上からひかれたもの。そして、兄上をたばかった薬師は、米花御前さまの父でもなんでもなかったというのじゃ。」

「……それを、喜べとでも言うてくれるか、さ栄? ……すまぬな、今、おれは、……おれは、今ほど、自分に北畠の血が流れているのを恨みに思うことはないぞ!」

「……!」

「今のいままで、どんな迷妄の中でも、ゆめにも願わなんだわ、北畠など滅んでしまえばいい、とはな!」

「兄上!」

 蒼白になったさ栄に向かい、左衛門尉はまた気の弱い笑みを浮かべた。

「すまぬな。安堵せよ。御所さまとの約定は、守る。御所さまとお家を、力尽きるまで盛り立てて参る。それ以外にもう、おれなどがこの世に生まれてきてしまった意味がない。」

「兄上、何をおっしゃいますか。津軽一円を手に入れなさるのでございましょう? ゆくゆくは、わが北畠を陸奥国主に返り咲かしてくださいませ。」

 立ち上がった左衛門尉は、はにかんだ子供のような笑みを浮かべるだけであった。それはしかし、笑みではない。感情の抜け落ちた顔が、それに似た位置で筋を止めているだけだ。

 (魚……?)

 さ栄は、心が凍りつく思いであった。今度は、兄が魚のようになってしまったのではないか。

「兄上、ご案じではないと存じますが、さ栄は変わらず、何も喋りませぬ。蠣崎新三郎にも、何事も伝えておりませぬ。あれは何も知りませぬし、余計なことを知ろうともいたしませぬ。それゆえ、……。」

「新三郎、か。……さ栄、お前はよいな。あやつが、松前とやらに連れて逃げてくれよう。おれはもう、どこにも逃げられぬ。」

 さ栄は打たれたように身を強張らせた。


 さ栄さまが前触れもなく、忍び入るようにして自分の居室に入ってきたので、灯りを惜しみつつ書を読んでいた新三郎は、ひどく驚いた。

 これまでは自分が姫さまの寝所に招かれるばかりであった。古来、妻問いが当たり前で、女のほうから呼ばうてくるなどはしたないという感覚がある。さ栄さまも当然、その積りであっただろう。

 しかも、ただ事ではない様子が知れた。灯りの油を足そうとすると、制された。やがて暗がりになってしまえば、すべきことは一つであろう。抱き寄せるといつものように身を預けてきたが、その肩が強張って細かく震えている。

「ぬしさま、さ栄を罰しておくれ。」

 新三郎は何のことやらわからない。

「ひどい目にあわせて貰いたい。」

「そのようなこと、できませぬよ。罰だの……。」

「ならば、ぬしさまのお好きになされ。さ栄の厭がることでも、よい。さが悪(意地悪)をしてはくれまいか。」

「……何がおありになった?」

 さ栄はもちろん答えないで、固い表情のまま、首を弱よわしく振った。兄の悄然とした姿に、一連の悲劇の記憶がまざまざと呼び起こされてしまった。しかしそれを新三郎にすら、語るわけにはいかないのだ。

(何とも知れぬが、ひどくご自分を責めておられる?)

 新三郎は、無論ここは、いつも以上にやさしく撫でてさしあげないといかぬと思っている。ともすれば若者は柔らかい肌を前に自制を忘れがちだが、猛々しくあってはならないと心に決めた。

「……ぬしさま、新三郎どの。好きな風になされよ、と言いました。」

「これが、好きな風で……。」

「頼む。きつく……。」

 そうでないと、重くわだかまる罪障感と不安を払えないのである。みだらな真似に、逃げ込んでしまえるものなら、そうしたい。

 新三郎も、血の騒ぎを結局は抑えきれない。一度、さ栄がひどく恥じて拒んだ姿勢があった。それを促してみる。女は何も言わずに、動作で諾した。驚きながらも、若者は興奮のままにそれに誘い込まれる。

 拝跪の姿勢には自然に屈辱が湧き、後門までさらけ出すのには気の遠くなるような思いがしたが、さ栄は耐えた。ただ、新三郎がもっと高く尻を突き上げるようについ頼むと、恥辱に全身が焼けるようになり、思わず涙が出た。男への怒りや憎しみではなく、得体のしれない情けなさに襲われた。ただ、それこそが今宵、必要としていたものだったかもしれない。涙を敷物にこすりつけながら、背中越しに若者の何か言う上ずった声や荒くなる息だけを感じ、さ栄は自分が壊れてしまうのを待ち望んでいた。

……

(なんと悲しいひとなのじゃろう?)

 新三郎は、腕の中で黙り込んでいるさ栄の姿に、胸を突かれた。一度精を注がれた後も、さ栄は荒い息をつきながら、すぐにせがんだ。躰が痛く、胸が苦しい癖に、仰向けになってしきりに唇をねだり、そのままの姿勢でのしかかり、入ってくるように言った。若者はそれに応じてしまった。

(淫事に溺れたがっておられる。それほどつらいことがあった。……だが、ご自分のことではない。)

 それが、欲望を吐き出して頭の冷えた新三郎にはわかっている。左衛門尉であろう。

(まさか、御身に何かされてしまったわけではない。逆に、左衛門尉さまの身に、何かあったのじゃろう。それを、わが咎のように苦しまれている。)

 新三郎は、何も言えない。自分の羽交いの中でようやく落ち着いたのか、ゆっくりと鼓動を鎮めている、柔らかく温かい肉体に、いまは何をどう尋ねても酷な気がした。香と汗の入り混じった匂いをあげて、驚くほど小さな黒髪の頭が、自分の顎の下にある。

(おれも、やりたいままにらんぼうに振る舞ってしまった。)

申し訳ない、と呟くと、伏せられた顔が小さく横に振られた。頼んだことじゃもの、と呟いたのか。新三郎は、突き上げる愛おしさが痛いほどであった。

そして、この可憐な生き物の前で、自分のほうも、新たな恐れに震える思いがした。

(このひとを、おれが傷つけてしまうかもしれない?)

 松前からはまだ何の返事もない。新三郎の願いを、家長である父は黙殺している気配だ。それが意味するものは何か、新三郎は危惧している。もしもそれが、さ栄さまに対する裏切りになってしまえば……と思うと、叫びだしたいほどの恐れを感じずにいられない。

 思わず強く抱きしめると、さ栄はあどけなくなってしまったような声で、痛いよ、と男の胸に顔を寄せて目を閉じたまま呟いた。

「さ栄さま……新三郎は、あなたさまを決して泣かせたくない。泣かせませぬ。」

 どういうことだろう、とさ栄はまだ濁ったような頭で考えたが、とっさには思いつかない。

 新三郎が顔を、自分の髪にうずめたのがわかる。

(まるで、新三郎のほうが、泣いておるかのよう……?)


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