第32話 傾斜
ご名代さまは、もはやただの受領名の「左衛門尉」ではない。先代御所具運公の未亡人にして当代の御所さまの生母である志ま女を還俗させ、その婿に入った。これで名実ともに浪岡北畠宗家の家長となった以上、無位無官というわけにはいかなくなった。先代の御所さまと同じく正式に従五位下侍従に叙される手筈を整えることとなり、家内では早々に侍従さまと呼ぶ者もいれば、大御所さまと呼ぶ者も出た。
(兄上、いかにもそれは“駄目”じゃ。)
さ栄は簡単な婚儀に参列しながら、周囲の複雑な反応を気配に覚えて、ひとり息苦しくなるほどだった。叙官の内祝いの席では、拝賀を代わりに受けに来た都からのご使者がいると言うのに気もそぞろであった。
(義姉上の情にほだされただけの筈もあるまいが、左衛門尉さまならば、斯様に危ない石は打たれぬ。……あるいは、北畠氏の長に相応しい官位に飢えたのか?)
さ栄が無名館から覗っているだけでも、兄の行動は精彩を欠き始めている。判断に狂いが生じているのではないだろうか、と思えた。
奇妙なのは、諱を亡き兄のそれと同じに改めたことだった。別諱だ、としながら、叙位にあたっては「具運」で届け出た。京では、亡兄が生きているかのように記録され、それが後世にも残るであろう。史家は気の毒に、混乱するかもしれない。
さ栄にだけは、その意味がわかる気がした。ご名代は、気が弱っているのだ。自分の誤解から下剋上の形で殺めてしまった親族への罪障意識が、あらずもがなの行いについ走らせる。だが、周囲はそこまではわからない。いくらか正鵠を射たところもある、亡兄への度の外れた思い入れの証と取ってくれるのはまだ好意的な見方で、先代に成り代わる野望の徹底とも取られた。現にそれに違いないところもある。
(この冬はまた、血腥くなりかねぬ。しかも兄上が、去年とは違う。乗り切れるのか?)
同じ危惧は、新三郎も持っていた。さ栄とそんな話はしないが、図書頭とはする。というより、新三郎から危険な話題をあえて仕掛ける。
「近頃は、吝嗇くなられておりますな。」
秋の最後の船で、松前から『孟子注』が届いたのを持ってきてやると、図書頭は哀し気に頭を振った。とても御書庫の金では買えなくなったと言うのである。
「内館が、か。」
「書物の代にも事欠くようでは、いけませぬ。」
「……兵馬の大きな備えをされているのか?」
おれの知らないところで、と相変わらずの処遇を受けている新三郎はやや寂しく思ったが、どうもそうでもないと図書頭は言うのである。
「お家の実入りが減っておるのでしょうよ。」
それはわかる、と新三郎は思った。
津軽は米を作るのに苦労する土地だから、年貢はさほども期待できない。ことに永禄年間は夏が涼しく、凶作が続いた。この間、浪岡御所を支えてきたのは、交易であった。そもそも交通の要衝に本拠を構えたのも、人や物の動くところに銭が集まるからだった。得られる関銭や市銭はうなるほどであったが、浪岡北畠氏自らも商いを行うという貴族らしからぬ抜け目なさもあった。阿芙蓉の製造にしたところで、その一つであったのだ。
(だが、斯様に道が塞がれては、物の行き来にも差し支える。)
内紛にかまけているうちに、また浮浪や野盗が出没し始めた。飢える村が増えてくれば、物騒にならざるを得ない。それらを要所要所で抑えるべき各地の城主、城代の中には、この一年の内紛の行きがかりから、大浦に内通こそしていないが、なかば自立したかのような行動をとるものも出てきた。つまりは関銭をとったまま、御所に上げてこない。浪岡から見れば、それらは城ぐるみ浮浪になってしまったようなものである。
(あやつらこそは、丹念に潰していかねばならぬ。)
思っているのは新三郎だけではないはずだが、御所の腰が重い。そうした城には譴責の使者を送る程度で、実際には兵をあげることのないまま、年貢の季節が終わり、冬を迎えようとするところまできてしまった。
(左衛門尉さまらしからぬ……。)
新三郎は、歯がゆいような思いを抱いていた。戦場に出たいわけではないが、浪岡北畠氏の勢威回復が望めないようでは、困るのである。
松前にいる父の手前、であった。父は相変わらず、新三郎に婚姻の許しを与えてくれず、沈黙を保っている。豪雪の季節になれば単に海峡を越えた書状の行き来すらままならぬのだが、雪が積もる前に返事を貰うのはできまいと悟っていた。この数か月で、松前の父-蝦夷代官蠣崎若狭守の考えが、その三男にはわかってしまった。
(もし家督を譲られたければ、浪岡北畠氏にはこれ以上深入りするな、とおっしゃりたいのじゃろう。)
津軽において最も富貴であった浪岡北畠氏はいまや沈みつつあると、蠣崎若狭守季広は対岸から見ているのだ。蠣崎の家督を継ぎ、蝦夷代官となる者が、その没落に付き合うのはほどほどにせよ、と言いたいのではないか。
(おれはさ栄さまを娶りたい。決して離れたくない。さ栄さまのお家であり、かほどにご恩を受けた浪岡御所を見捨てるなど、できるものか。)
新三郎は自然に思い詰めているのだが、蝦夷島に戻ってその主にならねばという気持ちも固くなっていた。
(四郎は、安東さまに近すぎるのではないか。主家に忠誠を尽くすのはよいことじゃが、檜山屋形(安東家)からいずれ自立せねば、蝦夷島をおれたちのものにはできぬ。それが四郎には飲み込めているか。)
新三郎は、同年の四郎の教養深く才の走る様子も決して嫌いではなかったが、自分以上の志を持ち合わせているとも、それを共有できるとも思ってはいない。志といえば、おそらく自分のそれは、父だけに近い筈だと確信していた。
新三郎の中で、きょうだい殺しに糸を引いていたに違いない恐ろしい父、お家の為に自分の婚姻の願いを黙殺している厳しい父は、憎いだけの存在ではなくなっていた。おそらく蝦夷島の独立という大志を秘めている、先達であった。
(父にそれが伝わるようでなければならぬ。)
でなければ、あと二十年待っても蝦夷代官の地位を、父が手放すことはないだろう。左衛門尉がかつて言ったとおりだと思えた。
(浪岡北畠さまのご威勢が旧に復せば、さ栄さまを松前にお連れするのに気後れするどころではないじゃろう。かつて左衛門尉さまも、おそらく亡くなったご先代さまも描いておられた図の通り、浪岡と松前がしかとつながることになる。ゆくゆくは津軽と蝦夷島がつながることにもなろう。おれとさ栄さまの縁が、かすがいになる。そうありたい。)
(ありたい、のじゃが……。)
図書頭は自分の考えに入り込んでしまった新三郎を、何か気の毒げに黙って見ていた。新三郎のほうが自分の長い沈黙に気づいて、慌てる。
「ならば、これらの書はわたしのものとして、ここに置かせて貰おう。図書どのが先に読んでおいてくれるとよい。」
「ただで下さると言われるなら、それはありがたく頂戴しますが……。」
「ここに置かせて貰うだけじゃ。まあ、図書どのにはお貸ししたことにしてもよい。」
「お礼申し上げるが、よろしいのか。」
「うむ。その代り、知恵を拝借したい。ここでなければ、聞けぬ種類のことじゃ。」
「またでござるか。……左衛門尉さま、いや侍従さまのことでござろうが、もはや大御所さまとなられたのですわい。そしてあなたさまは、お姫さまと仲睦まじく、おめでたいことじゃ。それでよろしいではないか。」
「さではない。いや、さでもある。……まて図書どの。姫さまがと言ったが、なぜそれを、……ではない、なんのことじゃ。」
「無名舘の天女さまとあなたのさまのお仲、知らぬ者を儂は知らぬ。……まあよい、大御所さまの何が気になられる?」
「大御所さまだけのことではなく、お家の行く末のことじゃ。何か考えがあろう、聴かせて貰いたい。」
図書頭はまた、痛ましげな表情になった。
「儂は一介の紙魚に過ぎぬ。お家の昔については仕事ゆえにお答えできることもあろうが、行く末などとんとわかり申さぬ。」
「さでもあるまい。……浪岡さまには早晩、また凶事が起きてしまうのではないか。図書どのは、昔から畏れていた。」
「滅相もないことじゃ。」
「やはり大浦か。しかし、今の大浦では、さすがにこの浪岡御所を落すほどの力はない。もしそんな真似をすれば、南部さまが黙っていないから、なかなか手も出せない。……それなのに、何を昔から怖れていた? 浪岡北畠さまは内紛で傷ついたが、なんとかそれも収まった。……街道筋の掃除は要るが、それを怠ったからと言うて、すぐにお家が危ないわけでもない。……何がおそろしいのじゃ?」
「ご自分のお胸に聞かれるがよい。」
「……わからぬから、斯様な罰当たりな尋ねをしておる。」
「あなたさまのお父上に聞かれるがよい。」
「……! それは、見る者が見ればわかると言うのじゃろうか? わたしには見えぬ。教えてくれぬか?」
「いや、あなたもおわかりの筈じゃ。お口にのぼらせたことで、明らか。最初に大御所さまのことを言われた。次に大浦。南部さま。御一門の内輪もめ。浪岡御所の栄えを支える、街道筋。……すべて、あなたさまがここに来られたほんの四年前とも違う。これからも、変わってこよう。」
「いつ、取返しのつかぬほどに変わる?」
図書頭は黙っている。
「……もう、変わったと言うのか?」
「……蠣崎さま。ご先代さまは、儂が欲しいと言うた書物をなんでも買うて下さった。ご家史のお仕事にも、お目をかけ下さり続けられた。……ご先代さまの輝けるご事績を、儂が記すことはできぬが、たれかが後代に残すを信じておった。そのご事績が、あのような形でぷっつりと途中で切れてしまったのでございますぞ。天下治まった後、少なくとも津軽の半ばを治める北畠氏の初代になられるはずじゃったのが、あのような愚人に……。」
「愚人とは……? 川原御所のことではないな?」
「当てがつくなら、お聞きあるな。儂は、ご先代さまの、あまりのお情けの深さだけを危ぶんでおったが……。」
新三郎は、すべてわかってしまった気になった。姫さまの様子からも薄々は気づき、考えぬことにしていただけだったから、図書頭の呟きで考えが形をとったのだとも言える。
(下剋上は世の習いだが、……大御所さまは、……亡き御所さまの弟、さ栄さまの兄は、まことにそんなことができたのか? 実は、そもそもそうした所業に耐えられぬおひとなのではないか?)
「蠣崎さま。長い目で見れば、この世は何も変わらぬ。ひとの世ははじまってから終わるまで、定まった道理というのものは、何も動きはせぬ。だが、ひとりの人間が見られるものはゆっくりと変わるべくして、変わるものじゃ。しかしそれはひとにもわかるし、構えることもできようから、恐れることはない。まことにおそろしいのは、一年や二年、いや、一瞬でひとが変えてしまう物事じゃ。それは世の大きな動き、道理とはあまり関係なく、ひとりの気まぐれで、誤った考えで、愚かさで、決まってしまう。さようなものこそが、我ら、ひとりひとりを跳ね飛ばす。命取りにもなる。」
「もうそれは、起こってしまったと言うのか?」
図書頭はそれには答えず、
「あなたがここに留まることはない。一刻も早く、松前に戻られることじゃ。」
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