第6話 宴 二 元服
「新三郎慶広。」
御所さまが、その名を呼んだ。少年―十四歳になったばかりの、かつて天才丸だった新三郎は、教えられた通り、烏帽子親にゆっくり平伏する。「慶」の字は、浪岡具運の別諱「顕慶」から頂戴したものである。
あらためて新三郎がお礼を述べ、御所さまがそれに頷く。儀式がそれで終わると、ややくつろいだ席になった。
「もう少し、童形でいてもよかったか。」
背は伸び、肩は分厚くなりつつあるとはいえ、まだ新三郎の顔立ちに子供こどもしたところが抜けきっていないのを見て、御所さまは呟いた。
「父が、ご無理のお願いを申し上げました。恐悦に存じます。」
しかしその声は、大人のものに変わりきったようだ。御所さまは微笑を浮かべた。
「いや、わかる。顔がまだ、つい幼く見えたが、……」
「未熟にてござりますれば。」
「儂の思い違いよ。幼くはないな。賢き者は、簡単には大人びないという。おぬしはさようあればよい。いや、絶えず心得よ。」
そうした者こそが成長を止めないのだ、という意味のことを言っている。蝦夷島からやってきた少年には、そうした大成が期待できる。その御所さまの思いは、新三郎にも通じた。
「はい、しかと心得まする。」
「……新三郎。じゃから儂は、もう少し、元服許すは待とうとも考えた。童子でいられる日は短い。……おぬしはもう戦場働きまでしてくれおったが、これからはそれが当たり前になってしまう。忙しい。……おぬしにはまだまだ学ぶべきこと多い。読ませてやりたい書物も、教えてやりたい作法も、できうれば、見せてやりたい景色もあった。」
「……有り難き幸せに存じまする。」
ただ畏れ入る姿勢ばかりの新三郎は、御所さまの言葉に嘘はないのがわかり、震えるようだった。なぜかはわからないが、このお方は、あまり目にしたこともなかったはずの自分を、これほど気に掛けていてくださったのか、と思うと、躰が熱くなる。
「じゃが、いま浪岡には、あまりその余裕がない。働いてもらわねばならぬ。」
本音ではあった。浪岡北畠氏は、懸命の巻き返しを図っている。軍事を任された浪岡左衛門尉が兄の眼には少し奔りがちだが、今はたしかにそれが必要であり、兵はいくらあっても足りない。
「お家に、この身の力のかぎりにお仕え申し上げまする。」
儀礼的な口上ではなく、本心からだった。心の底から衒いも何もなくこれが言えるおれは、なんとよいご主君を持ったのだと思った。
御所さまは頷き、すこし悪戯ぽく表情を崩した。
「子供のときと違い、若党になってしまえば、城の女たちとも話しにくくなるの。」
(あっ。)
周囲の大人たちは、御所さまには珍しい冗談にどっと笑って見せたが、新三郎にはわかった。「女たち」とは言われたが、ただ一人しか思い当たらない。
(そうか……。姫さまとも、あまり会えなくなるか。)
(すぐに顔に出おるなあ。やはり子供じゃなあ。)
御所さまは、何か愉快でならない。心なしかうつむいてしまった新三郎に、立ち上がりざま、声をかけてやる。
「先ほども言うた。まだ十四ゆえ、学ぶことも多い。特に、和歌や茶の湯の手習いは、怠ってはならぬ。しかし、一人学問は道が行かぬものじゃ。」
新三郎は平伏するのも忘れ、御所さまを見上げてしまう。
(あ、それは……?)
「あの者は、なかなかに厳しい師匠であろう?」
「姫さまは、いささかにお緩すぎる(寛容すぎる)のではござりませんか。」
ふくは、さすがに呆れたので、物陰でこっそりと耳打ちする。
祝いの宴を開くのはよいだろう。だが、招いてやるのは、主賓たる天才丸―新三郎の他には、せいぜいで津軽蠣崎の当主と、その継嗣の子だけでよい。それが濡れ縁や前栽には、新三郎が連れてきた蠣崎家の家人に、蝦夷の兵たちまでがいて、めいめいで車座を作っている。あちこちで火箱を囲んで、まだ寒いのう、などと言いながら、しきりに酒をあおっているのだ。
「賑やかにせよ、と言うてやったから。」
新三郎も、姫さまの言葉には驚いたのだ。だが、遅くなったがおぬしの元服の祝いじゃ、郎党にもここで酒をふるまってやるがよい、と言われればだんだんうれしくなって、おそるおそる瀬太郎たちまでご門前に連れてきた。さすがに全員が屋内には入れないが、陽が射して暖かいなか、開け放した部屋の上座には姫さまが機嫌よく座り、庭に向かってお声かけまであった。
「あのような者たちにまで、陸奥国主の御家柄のお方がお顔をお見せにならずともよろしかろう、と。」
「浪岡のお家は、もう国主なぞではないが。」
「ご分際(身分)というものを申し上げております。」
「ふく、気晴らしがしたかったのじゃ。このところ、肩が凝ってならなんだ。存じておろう?」
年が明けてから、武家貴族と言うべき北畠家には、行事が多かった。公家としての儀式と室町式の定めによる武家のそれとが二つながらだから、そうなる。「……始」だけで、いくつあったことか。客を変えた「振舞」と称する宴会も連日のようであった。奥方さまをあるじとする縁起ものの行事が挟まる。そうした席に、出戻りで厄介(居候)の姫さまも、呼ばれれば参加せねばならない。
不承不承にせよ、姫さまがその顔を皆の前に出せるようになってきたのを、ふくなどは内心で喜んでいるのだが、一族が集まる儀礼の席には、次兄の左衛門尉ももちろん西舘さまとして加わる。その顔を、末席近い遠くから目にしないわけにはいかなかったであろう。
「お肌が赤くなられましたか?」
と尋ねると、姫さまは暗い顔で頷くときもあった。その回数は多くもないのが幸いだったが、
「み台所さまにもお目にかからねばならぬ。」
「それは仕様がありますまい。」
嫂にあたる御所さまご正室は詳しい事情は何も知らないはずだが、出戻りの義妹がひとりはなれて気儘に過ごしている風であり、それを夫が許しているのは、さほど面白くない。
おとなしい女同士だからか、かえって昔から反りがあわないところがあった。ようやく家の席にも姿を現すようになれば。もう病でもあるまいと、本来は奥の人間として自分に服するはずのさ栄姫に、ちくりと小言のひとつもあったのであろう。
「お気晴らしはわかりますが。新三郎どのはともかく、蝦夷までお家に入れて、姫さまはお楽しうござりますので?」
さ栄姫は頷いてみせた。好奇心や羽目を外したい気持ちもあるのだろうが、新三郎が喜ぶのならうれしいのであろう。ふくはそれがわかって、溜息をつく。
「あの人数ともなりますと、ここのお台所も物入りでござりますよ。」
宴の日が決まると、大きな酒の甕やら、肴やらが前もって運ばれてきたのを見て、ふくは頭が痛い気がしている。
「案じずともよい。……あれらは、心苦しいが客に頼った。さように言うてくれた。」
「それは重畳にございました!」
ふくは合点がいった。子供じみた痩せ侍にしか見えず、現に家中では小身なのだが、新三郎自身が実家のおかげで銭金に困ってはいないのだ。近頃の松前は、交易の安定で富んでいる。蠣崎新三郎は貧乏な田舎武家の三男坊ではな いのである。
さきごろの元服にあたっても、松前蠣崎家からこの浪岡御所にたっぷりと礼が尽くされたであろう、とふくは想像した。
(御所さまが新三郎どのをお引き立てなのには、その節もないではあるまいて。)
好意ばかりではないのは、当然である。新三郎という少年があちらで愉快そうに敷物の上に座っているのも、そもそもが松前と浪岡の外交から始まったことだ。
(そして、あのテンの毛皮の敷物とて、御所さまに松前が献上した何十枚のうちの一枚ではなかったか。)
ふくは、松前の富裕を浪岡御所があてにすることは、今後もさまざまな形であろうと思っている。金だけではなく、いずれはきっと兵事もであろう。安東氏との関係は複雑だが、対大浦氏ともなれば、蝦夷島勢が海峡の彼方から加勢してくれるのもいつかは期待できる。つまるところは、政治なのだ。
(世間をご存じでない、このお方がたがそれにお気づきかしら。)
「……きょうだいで、新三郎の家を頼りにしておるが。」
さ栄姫は、わかっておるよ、と言わんばかりの笑みを浮かべて、やかましくなった席に戻りかけると、ふと気づいた。
「おふくも、来ればよいのに。」
「厭でございまするよ。あのような、いぶせげな(むさくるしい)者どもに。」
さよう言うな、と姫さまに袖を引っ張られたので、ふくは吃驚した。
「これはお乳母さま、亡き国分どののご妻女さまにござらぬか。」
と、入ってきたふくを見て喜んで声をあげたのは蠣崎の老当主、じいじどので、死んだ亭主を近しい上士として知っていた。そんなことから話になり、気づくとふくも姫さまのそばで、前栽に侍った蝦夷の男たちの歌を、盃を傍らに聴いていた。
姫さまは、九つの千尋丸の相手をしてやりながら、寛いだ様子だ。
それをみると、ふくは内心で思う。
(御所さまはもしかして、あの新三郎どのに、妹君をやってしまおうとまで思われているのじゃろうか。)
飲み慣れぬ酒に頬を染めているこの場の主賓の姿を、ふくは見つめた。そして首を振る。
浪岡北畠氏の御殿女中あがりで家臣の妻だったふくの感覚では、やはり蝦夷島の渡党の末裔などそもそも身分が違いすぎるのだが、それは当世のことだからよいとしよう。現に松前の金で買ったらしい、この酒は上方のものらしく上等であった。
だが新三郎どのご自身が、こうして姫さまと並べると、やはり弟にしか見えぬ。年上の女房は武家の婚姻で珍しくもないが、二人がなまじ誼を通じてしまっただけに、夫婦にはまだとてもそぐわないのがわかる。
(だが、もしもさようなことになったとしても、それでよいではないか? 姫さまがそれで、前のご婚家よりもおつらいはずはなし。それに、あんなことに比べれば……!)
ふくは耐え難い悪夢を振り払うように首をまた振り、思わず瓶子を引きつけた。
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