第6話 宴  三  大志

新三郎は酔った。まだ姫さまの前だからしゃんとしていなければと思うのに、躰が前に傾いてしまう。酔いとともに、多幸感がやってくる。

(おれは、仕合せだな。)

「なに? なんと申したか?」

 声に出てしまったらしい。上座から姫さまに問われて、新三郎は慌てた。

「いえ、独り言にございまするが、……」

 それは?と無言で促された。新三郎は酔っている。普段は言えぬことでも口をついて出る。

「拙者は、……果報者にござります。」

「ほう。」理由は?と尋ねるように、姫さまは黙って微笑まれる。

(困った。理由はいくらでもある。ありすぎるほどだが、……)

 それを並べ立てていいものか、新三郎は迷う。

 ひとつには、新三郎は仕事の世界に生きはじめている自分を感じている。

 といって、日々の街道の巡視や、雪が溶けきるこの頃にはまた始まるのだろう、戦とも言えぬ小さな軍事的衝突が好きなわけではない。戦闘でひとを傷つけるのを面白いと思える自分でもないらしいのに、いくたびか弓矢刀槍の沙汰をくぐると気づいてもきた。

 だが、小さな戦騒ぎの積み重ねの果てに見えてくる、北奥州の覇権をめぐる複雑な相克には、心がひそかに湧きたつのを感じずにはいられない。多くの上士ですら日々の任務に追われて見えぬ景色が、まだ若い自分の眼の前にはなぜか開けている気がした。

(ご家中では、おそらく御所さまと西舘さまだけが、おれと同じものを見ておられる。)

 左衛門尉は、家祖たる南北朝の名将北畠顕家卿の再来とも囃される。それを御所さまの齢若いご庶弟本人は、面映ゆいのか、ひどく嫌がっているらしいのは不思議である。だが、永禄に入っての陸奥での軍事行動の成功は、分家「兵の正」を継いだ青年の指揮の果断によったのは、たしかであった。

 新三郎は、浪岡北畠氏に久しく出なかったこの秀でた将帥に、身近で侍る機会が増えてきた。

西舘さまの近習を勤めよ、と命じられた時には仰天したし、不安でもあった。

(妹君を犯そうとした人間ではないか?)

 その疑念も、消えてはいなかった。恋は文目も知らぬものらしいとはいえ、兄妹というのはやはり人倫に悖る。なにより、姫さまが当然ながら激しく忌避して、お気の毒である。あの夜のことはあまり思い出さないようにしているが、あのお方が自害をほのめかすまで追い詰められたのは、やはり許せないのであった。

 最初のお目見えは、意外にもすぐにふたりきりになった。茶を飲ませてやる、といって左衛門尉が茶室に新三郎を招いたのである。

「堅苦しい容儀は要らぬ。言いたいことを言ってみよ。」

「……。」

 さすがにあの夜のこと、さ栄姫のことだけはどうにも言いようがない。

(いつもこんな気づまりでは、仕事にならぬのではないか?)

 そう思ったから、別のことを切りだしてみた。

「天才丸は……いえ、拙者は不器用にて、おそばでお世話が至りませぬ。」

「不器用は知っておる。」

西舘さまは薄く笑った。

「おぬしなどに細々世話してもらうつもりもない。そばで、儂のすることを見て学べ。軍議を聞いておれ。」

「有り難いお話ではございますが、それでは仕事とは。」

「遊んでいていいとは言うておらぬ、それらしい仕事も覚えよ。毎日、街道筋の埃や泥をかぶっているだけが、ご奉公ではない。」

「は。」

「おぬしは、浪岡北畠の御所さまのご猶子になったな。……ならば、ご奉公のありかたも変わる。それを考えよ。」

 猶子と言っても形だけのもので、お目見えと直答が叶う以上には、別に家族の扱いがあるわけでもない。さ栄姫を憂鬱にしている季節の行事にも、出られるものもあれば出られないものもあったし、せいぜいが家臣の列の末席ではあった。

「それは変わる。変わらざるを得ない。何故か。」

 左衛門尉は問うたが、新三郎が答えかねているのを見ると、いきなりなことを言い出した。

「儂は北浜を決して手放さぬ。」

「……はあ。」

当然ではないか、北浜は浪岡にとっては北の海への扉であり、蝦夷地から北方へとつながる交易こそがこの家を支えている。

「そればかりではない。我らが治める馬郡(津軽半島西岸部)には、かつて安藤(安東)家が十三湊を構えていた。あのような港を、いずれ再び開く。蝦夷地を近づけるのじゃ。」

「あっ。」

「意味がわかったようじゃな。松前の出のお前が、わからぬようでは困るが。」

 新三郎は気づいて、震えた。

左衛門尉は津軽全土を欲しているのだ。浪岡北畠氏が一円支配する北奥州を望んでいるのだ。

「……畏れながら、我が松前蠣崎と、お組みになられますか。」

 左衛門尉は黙っているが、頷いたも同じであろう。新三郎には、左衛門尉が説明しなくても、かれの描いている絵図がすでに判然としていた。

 津軽半島の支配を強固にし、あわせて対岸の蝦夷島の勢力と結ぶ。これにより蝦夷地交易を独占して、津軽西部の鼻和郡三千八百町を支配する大浦氏の頭を押さえつけようというのである。

 松前蠣崎家と結ぶことで、その主家秋田安東家をも加わるとなれば、南北から大浦氏を挟み撃ちにもできるだろう。安東家とは不倶戴天のはずの南部氏との長い関係を如何にするかだが、現に大浦を倒してしまえば、陸奥国主の家系であった北畠氏が津軽全土を支配する道は開けよう。この戦国の世に、名族が北辺の強国として復活する。

 新三郎は、左衛門尉の秀麗な容貌と、それに不釣り合いなまでにたくましい長躯に、改めて見とれる思いがした。ここに、大望というものが形をとっている。それはこれまでの人生で、少年が初めて見るものだと思えた。それを、感激のなかでそのまま口にした。

「西舘さまのご大志を漏れ伺い、まことに感服いたしました。有り難き限りのお志にて。」

「何も言ってはおらぬが、面白かったのならばよい。ただ、早合点してみだりに口外すなよ。」

おれとお前の間だけだぞ、と少年には聞こえるように左衛門尉は言った。ただ、思った通りの新三郎の聡さは、かれにもたしかに快い。

(この蝦夷の子は、たしかに使えるだろう。)

「なにも口外はいたしませぬが、二つ、申しあげ、ご英慮お伺いしたきことが。」

「聞こう。」

「一つは、ご存じの通り、蝦夷島との往来は先年、愚父の取り決めましたとおり、まったくの勝手にございます。大浦殿の湊とも、上方から来た両岸(近江出身)商人、蝦夷商人までもが自ら勝手に往来を続け、松前のわたくしどもがそれを止めたりはできておりませぬ。」

「まあ、まだその気もあるまいて。おぬしらの主家の安東は、まだべつに大浦との仲がそうこじれてはいない。大浦など、もとは南部の支流のくせにな。同じ海沿い、商いのことを考えれば、こじらせたくもない。船の立ち寄れる港を減らすこともないわな。」

「畏れ入ります。」

「じゃが、いずれ、松前の蠣崎……おぬしの父が、それは何とかしてくれよう。松前は、さようしたくないのか?」

 勝手往来を禁じ、貿易相手を制限し、松前なら松前の港に商品を必ず集めるのを義務付ける、つまりは管理貿易に移行すれば、松前蠣崎家はさらに交易の富を独占できるはずであろう、というのである。

「それが、もう一つにござります。我が父、蠣崎若州は、骨の髄まで秋田安東家の忠臣。お預かりした蝦夷島の平穏のみに努めておりまする。幸い、蝦夷どもにも慕われ、お陰様にて今日のささやかなる栄えを得ました。」

「何が言いたい?」

「浪岡御所のご大志に、我ら蠣崎風情が応じられましょうか? 無論、檜山屋形(安東氏)がさようにお命じになれば、喜んでご陣営に馳せ参じ微力を尽くしましょうが、さもなくば、安東家の臣たる蝦夷代官とその配下が、蝦夷島から独り決めの勝手をいたすは、ありえませぬ。それは忠義に……。」

 左衛門尉は途中から笑いを抑えられない様子だったが、ついに破顔し、声を立てて笑った。

「新三郎、いつまで、天才丸、だったか、のつもりじゃ?」

「子供と申されますか。」

「子供であろう。……儂の何か言ったことを面白がってくれたようじゃが、これではまだ、な。安東家の忠臣、か。」

「わ、わたしはともあれ、父が何だと申されますのか。」

「蠣崎若州か。たしかにその忠義も篤実も、嘘はなかろう。おぬしの父親じゃからな。」

 自分が褒められているのかどうかもわからず、新三郎は目を白黒させる。

「だがな、覚えておけ、新三郎。まことが嘘になり、嘘がまことになるが、この世ぞ。」

「父を裏表ある佞臣と言われるか。」

「お前ほどには愚かではない、と言ってやっておる。……わからぬか? 天才丸に戻るか?」

「……?」

「証拠に、現にお前がここにおるではないか? 南部の客将であったがゆえに津軽に入って来た浪岡北畠に、下の息子を出仕させよとのお命じが、檜山屋形さまから忠臣蠣崎若州にあったのか?」

「……それは。」

「若州も……いや、心ある者は誰もが家の行く末をいろいろ考えておる。考えなければ、ならぬのよ。忠節は忠節。じゃが、世がそればかりであれば、……」左衛門尉は皮肉な笑みを浮かべた。「そもそも、何故、この津軽浪岡などという地に、南朝の大忠臣北畠親房卿の末裔がおるのじゃ?」

「それは、建武の御世に、北畠顕家公が陸奥守に任じられ、……」

「浪岡は陸奥の国府ではあるまいな。御所とは言い条、この城はたかだか三郡六千町の領主の居城に過ぎぬ。いまの北畠など、大浦や大光寺南部はおろか、お前の家ともたいして変わらぬ。」

「そのようなことは……?」

「じゃが、さであってはならぬ、と儂は思う。それはわかろうな?」

 新三郎は長く考え、やがて頷いた。父への評価は納得がいかないが、言わんとされるは到底わからぬわけではない。もし意地になってそれまで否定すれば、この先この若い英雄的人物の後を追うのはできないだろう。蝦夷島の自分の家も巻き込むのだという、津軽一統という途方もない絵を描くのに参加したいという興奮が、少年を包んでいた。


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