第6話  宴  四 想い

 だが、さ栄姫の前で左衛門尉のことを口にするのは、酔っていてすら憚られた。嘘は言いたくないし、いずれはわからなければならないことだが、妹であるあなたを犯そうとした男に心酔しつつあるとは、どうも今は言いにくい。

「わたしは、この津軽浪岡で、よきもの、美しいものをたくさん見ました。それが果報にござります。」

「……とは?」

「蝦夷島では、見ることができなかったものが、この津軽浪岡にはございます。そう、……」一国を平らげようという左衛門尉の大志がその筆頭だが、それは言えない。「……まず、田圃。」

 姫さまはきょとんとして、やがて、弾けるように笑いだした。ああ、笑っていただけてよかった、と内心で安堵しながら、新三郎は続ける。

「お笑いめさるな。蝦夷島には米がとれませぬ。田圃というものを、わたしは去年はじめてみた。美しいものでござりますな。」

「……さようか。うん、さようよの。秋の田に稲穂が金色に光るはまことに美しい。この津軽など、米を作るにはたいそう苦労の要る土地じゃが、それだけに余計に尊く美しいの。」

「はい、米の飯は大好物にて。」

 姫さまはまた吹きだした。そうか、もう少し、その大好きなお米をおあがり、と酒を促してくれる。

「美しいと申すは、その、お米だけかい? 岩木山さまはどうじゃ?」

「きれいな形のお山ですが、蝦夷島も少し北に行くと山ばかりで。川もいくらでもある。この、浪岡御所こそが美しいと存じます。これほどの見栄えの城は勿論、蝦夷島にはござらぬ。一方、守りも堅く、見事にござる。かほどに大掛かりにめぐらした御堀も、松前大舘などには望めませぬ。ご城下も、にぎやかにて。……ああ、内舘の雅びはとくによろしうございます。京の内裏もかく美しいのかと。浪岡は、北の京洛にございますか。」

「さすがに、都とは比べものにもなるまい。それに、都は条里を綺麗に揃えておられるが、この城中はまるで迷路(まよいじ)のようであろう?」

(迷路……。さようよ。浪岡御所で、ひとは迷い、抜けだしようのないところまで、追い込まれる。)

 さ栄は何の気なしに口にした、浪岡城の複雑な構造を例える自分の言葉にはっとして、瞠目した。しばらく黙りこんだが、やがて気を落ち着かせると、

「……ただ、おぬしの今の言葉、北畠の累代の御所さまが聴かれたら喜ばれよう。とくに浪岡御所をここまでにされたのは、先々代の四位さま、つまり前左近衛中将さま―今はご病臥のお祖父さまじゃな―と、大御所様―お父上じゃ。官位を頂戴するにあたり、ご上洛があったから、きっと都に似せられるところは似せておられる。さ栄は上洛などないから、よくは知らぬが、お城の四方の守りは、都のお社を……聞いておるかえ?」

 さ栄は微笑んだ。慣れぬ酒に酔った少年は、船を漕ぎだしている。はっとなってあげた顔が、すでに酔眼が朦朧としていた。

「新三郎。お疲れじゃな。そろそろ、お帰り。今宵はまことに楽し」

「御所はお美しい。」新三郎は、酔っている。「あ、御所さまはまことにご慈悲深くご立派で、お仕えできてほんとうにうれしく存じます。北畠さまというのは、代々あれほどにご名君ばかりでございましたか。」

「兄上の深いご慈悲はよく存じておるし、代々ご名君も疑いない。ただ、北畠といっても、色々おるよ。」

 さ栄も少し酔ってはいる。いわずもがなのことを言ってしまい、すぐに口を抑えた。

「姫さま。」

 ふくが、これもやや赤い顔になってはいたが、さ栄の袖を指でつまんだ。

 うん、と頷いて、姫さまは息を吸うと、改めて笑った。

「さ栄のような気儘な者も、北畠のお家の女じゃもの。」

「姫さまは、お気儘ではござりませぬ。」

 新三郎は大きな声を出した。余計なことを言うなよ、とふくが目くばせするのに気づいたが、無視する。

「気儘どころか。」

「新三郎、声が大きい。」

 さ栄の言葉には素直に従い、新三郎は声を落したが、続ける。

「……姫さまこそが、新三郎がこの浪岡さまで見つけた、一番美しいものじゃ。お姿だけではない、お声も、……お心も美しい。」

「新三郎、これっ。」

「北畠さまとは、みなこれほど気高く、お美しいのでしょうか。いや、姫さまはやはり別儀(格別)。さようでありましょう? 津軽一の姫君、……いや、蝦夷島にも出羽にも、これほどおやさしい、お美しい女子はいらっしゃらない。坂東にも、京にだっておられはしないのだ。おられるわけがない。姫さまは、この世でたったおひとり、でござりますから。」

「新三郎、新三郎、もうやめよ。……たれか、この酔っ払いをどうにかせよ。もう下がらせよ。」

 じいじどのが慌てて、新三郎の肩をゆすった。幼い千尋丸までもが、駆け寄ってきた。少年の目があきらかに座っている。

「水でも、頭からかけてやるといいですぜ。」

 瀬太郎が縁下から、面白そうに言った。

(おれたちが担いで行くことになるのかね、そうなったら、ひとつ考えてやろう。)

と思うと、笑いが抑えられない。

(惚れた女の前でみっともない真似はいけないな、ご大将よ。)

「水? そうしたいが、お部屋でそんなことができるか。阿呆、下がっておれ。これ、新三郎、ご無礼であるぞ。あるじさまの前で大酔など。しゃんとせよ。」

「……あるじさま! さよう! わたしは、姫さまにお仕えできて、本当に有り難かった。果報者でございました。……天上の美しき花一輪を守るは、武家の本懐。これからも、美しい姫さまを、お守りさせてくださいませ。新三郎の仕事は、何であってもすべて、そのためにある。一命にかえても、家名を賭けても、お守りいたします。それだけ申し上げたい。」

「聞いた。礼を言うぞ。頼むぞ。……もうよいか? お帰り。」

「はい、帰ります。」

 助かった……と、さ栄は息を吐いた。先ほどから、顔の上気が止まらない。汗が流れてきた。酔漢の戯言を真に受けるわけではないが、まったく新三郎の阿呆め、おかしいような、恥ずかしいような、腹立たしいような、うれしいような、……

(うれしい?)

 他愛もない、少し褒められると、この出戻りが……とさ栄は内心で自嘲した。

 死んだ夫は、さ栄の美貌には感じるところがたしかにあったようだが、それを口に出して褒めたりはしなかった。要は政略結婚で一緒になったのだから、甘い感情などなく、それも当たり前のことだ。しかし夫は、妻の人となりをやさしいと感じたことも、ついに死ぬまでなかったのではないか。さ栄自身、夫の長患いの床には献身的に侍り、その死まで見送ったが、いかにもそれは義務感からだけだった。夫もそれは気づいただろう。通り一遍以上の言葉はなく、さ栄もそれは当然に感じた。互いにとって、この世でたった一人の者とはついに思うことができない仲であった。

(そのわたくしを、斯様にも想ってくれるのか、この子は……。)

 帰ると言いながら、その場に崩れてしまったような新三郎が、さ栄には何か可哀相に思えてならない。

(まだ女を知るわけでもないから、このさ栄などが別儀に思えるのだな。)

(じゃが、いずれ、縁談でもあろう。松前の実家からか、あるいは御所さまのお肝いりでかで、どこかの相応しい娘が、新三郎にあてがわれる。この子なら、どんな娘も喜んで嫁ぐじゃろう。)

(そうなれば、新三郎も、無名舘の出戻りの姫のことなど、きれいに忘れてしまう。)

 それを想像して、さ栄は、厭な気持ちに胸を刺された。それは悲しいな、と思っている自分に気づいた。

(あっ、悲しがることはないのに。この無垢な子が、おそらくは同じく無垢な娘と睦む。それを喜んでやるのが、仮初にもあるじになった者の務めなのに。)

(こんな女を、さっぱり忘れてしまえる。それは、この子にとって一番よいのに。)

「……新三郎は、このまま寝かしておやり。」

「さにも参りませぬ。あの者どもに担がせます。」

「もう暗い。誤ってお濠にでも落としてしまってはならぬ。」

 さ栄は笑ってみせた。

「姫さま、たしかにさようで。酔っ払いというのは存外に重うござる。」

「これ、瀬太郎。お前、直接お話しするなど。」

 じいじどのは慌てたが、さ栄はそうじゃなと答えた。

「こちらで少し寝かせて、頭を冷やさせてやりましょう。」

「まことにさようで。ご大将、夜中に目を醒ましたら、驚いて、慌てて自分で帰りますよ。」

「瀬太郎! 姫さま、この者のご無礼お許しください。」

「ご無礼は、このご大将どののほうが先かもしれぬなあ。……いや、さ栄が元服間もないひとにたくさん飲ませたのじゃから、それにもあたらぬ。大人が悪い。少し寝かせてやります。」

 瀬太郎は上機嫌の笑顔で低頭して、ではお庭のお片付けお手伝いいたしまして、儂らは引き揚げまする、と主人たちを差し置いて、仲間に声を掛けだした。

「どうも蝦夷は礼儀を弁えませぬ。」

「さようか? ……蠣崎の家の者は、あの者たちにも随分慕われておるの。」

「さて……?」

 おふくが、適当な夜着を持って来て、うずくまって眠っている少年に掛けてやった。

 皆が引き揚げ、片付いた部屋が空になってからも、新三郎は気持ちよさげに寝ていた。

 さ栄は暗い部屋にこっそりと入り、新三郎に近づいた。静かに屈んで、膝をついた。夜着の下で丸まっている背中にそっと手を触れた。起こしてやりたくはない。

(新三郎。お前こそがきっと、この浪岡などでいちばん美しいものだ。)

(お前は、よい子だな。……まことに、天から降ってきたような子。お前が来てくれて、わたくしこそ、果報者。)

(わたくしも、お前のように生きられていたら……。)

 さ栄は自分が涙を流しているのに気づいた。慌てて、部屋を立ち去る。新三郎の寝息が、規則正しく続いた。


 これが新三郎の十四の年、永禄四年であった。

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