第6話 宴 一 野田玉川
「潮潟野田玉川村?」
「はい、そこに所領を賜ります。」
天才丸は、晴れ晴れとした表情で答えた。
(うれしかろう。春とともに、元服が許されたのじゃから。)
内舘に呼び出されて内示を受け、明るい雪の中を跳ねるようにして、もう一つの職場でもあり、いわば学校でもあるこの無名舘の離れ屋にまかり越したのである。
「御所さまのご恩、忘れぬように。」
烏帽子親になってくれ、また偏諱を賜るという。そして、扱いは猶子であるという。すべて、松前蠣崎家の当初の 希望通りとなった。そのうえ、ごく小さいものであろうが、所領である。
少年のうれし気な顔をみると、さ栄こそが長兄の厚情に感謝したい。それにしても、
「野田玉川。……聞いたことがあります。行ったことはないが、それはたしか、歌枕じゃな。」
「さようでございましたか。」
天才丸は、その場所を知っている。半島の北の端といってよい場所にあり、そこに蝦夷島から上陸することもできた。漁村でもあり、小さな船着き場があるが、
(歌になるほどの風情ある土地であったか?)
しかし、姫さまはその歌を思い出したとみえる。きれいな声で朗じてみせた。
「夕されば潮風みちて陸奥の野田の玉川千鳥鳴くなり。……どなたの歌か、存じておるか?……能因法師さま。おぬしの所領じゃ。覚えておくとよい。」
姫さまはさすがによくご存じ、と天才丸は感心した。
実は、さ栄は間違っている。能因法師の詠んだ「野田玉川」はこの津軽にではなく、相当南に位置する陸奥塩釜の近くにあったとされる。
だが、天才丸はこのときに、言われたとおりに記憶した。そして、生涯忘れなかった。
もっとも後年、武将としてのかれは歌の素養でも知られたから、あるいはどこかで、和歌を手ほどきしてくれた浪岡北畠氏さ栄姫の勘違いに気づいた可能性はある。
しかし、後年の家史にすら、そのように書かせた。一族の歴史を整理した『新羅之記録』が成ったときには、天才丸は既にこの世を去っていたが、かれが語り残した小さな思い出は訂正されることなく、わざわざそのままに書き留められている。
「はい。今後、蝦夷島から来るにあたってはその船着き場で船をつなぐがよい、との有り難いお心にて。」
あっ、とさ栄は思った。
「そうか、天才丸、……」情けない、と思いながら、声が沈むのがわかり、狼狽した。
「おぬしは、松前に帰ってしまう……お帰りなのじゃな。」
「いいえ、戻りませぬ。」
少年は弾んだ声で否定した。そうなのか、しばらくはいるのか、とさ栄はやや安堵したが、
「が、ご父母が帰りをお待ちであろう。」
天才丸の顔に少し寂し気な陰が走ったようだが、すぐに柔らかい表情に戻って、ゆるゆると首を振ってみせた。
「わたくしは、惣領にはござりませぬ。ただの三男坊にて、松前には、他に継ぐべき家もござりませぬ。浪岡北畠さまに出仕を許されまして参った以上、これよりも、この御城下で働きとうござります。」
(さようであったな! 帰らぬのか!)
さ栄の中で喜びが弾け、さあらぬ態を作るのに苦労した。横に控えていたふくが、嬉しそうに身体をゆすっている。
「津軽の蠣崎をお継ぎかえ?」
「あれには、まだ幼いながら嗣子もおりまして。」
「では、家を別に立てることになる。励まなければなりますまいな。」
「は。」
「野田玉川は、大きな村なのか?」
「残念ですが、さほどでは。」
「また、戦の功を立てなされ。」
「はい。かならず、励みまする。」
二人のあいだに沈黙があった。下がれ、とは言われていないな、と天才丸はやや低頭したままでいる。
(姫さまとの間には、あたかも漁師と川の魚のごとく冷たい水があったのが、つい何月か前。いまはこうして黙っておられても、まったく違う。姫さまは、おれの元服などを喜んでくださるのが、わかる。うれしいことじゃ。)
さ栄は急に幅広くなったように思える少年の肩と背中に視線を当てていたが、ふと思いついて言った。
「名は何となる?」
「それは、うかがっておりませぬが、……一字を賜る諱をあれこれ思うのは慎みますが、呼び名はわかりきっております。申し上げた通り、三男でございますので、……。」
「三郎、ではないぞ、きっと。三郎殿は、城内にもうおられる。おぬしは、浪岡の一族も同様の、猶子なのじゃから、そこはお考えいただけるであろう。」
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