魚伏記 ―迷路城の姫君
みず とり
第0話 浪岡城址 上
……もう何も見えなくなったとき、躰の周囲に冷たい水が急に満ちた。溺れるように、呼吸がさえぎられた。苦しんで動かすべき手足の感覚は、とうにない。
しかしやがて、楽になった。水の中から引き揚げられるように躰が中空に浮いていくのがわかる。
視界が開けた。雲を抜け、眩しいほどに明るい空の上にいる。
(わたくしは、このようなものになったのか?)
かつて生身の女だった者は、少し訝しく思った。
(魚ではなかったな。……なんであろうか?)
なおも覚悟していた、醜い魚には生まれ変わらずに済んだらしい。
しかし、かつて教わってきた、死後にそうなるべき霊魂や仏というものとも、少し違うような気がする。
(何にせよ、よい。これで、帰れる。)
喜んだときには、もうその場所にいた。だが、
(ここは、どこじゃ?)
幾重にも起伏する、段丘の草地に立っていた。
平たい丘同士を隔てる窪地には、枯れ枝や枯れ草が敷き詰められている。ところどころに藪があった。桜らしい樹が一つ所に集まっていた。
やや離れた周囲には、見慣れぬ形の家があったが、高い空の下に広がっているこの川沿いの段丘には、家屋敷は何も建っていない。
堀の跡らしい窪地に簡単な橋が架かっている。低い板囲いが、平地の中に切ってある場所もあった。
それ以外は、なにもない。無人の草地であった。ただ風の音と、鳥の声がする。
遠い山影にだけ、見覚えがあった。
(浪岡御所?)
そう気づいたときには、すべてが見通せていた。素足のままで草を踏んでいるこの場所がいま、「史跡 浪岡城址」と名付けられている場所であることすら、なんの抵抗もなく頭に入っていた。
(つまり、……。)
と飲み込めたときには、その景色が目の前にあった。
何もない草地は、八つの平場を「舘」(城館部)として堀で区切った、複雑な構造を持つ城に転じていた。
それが、戦のなかにあった。闇夜である。
周囲は、叫喚とあらゆる破壊の音に満ちていた。武装した集団が金属音をたてて駆けまわり、吶喊とともにぶつかりあう。女のものらしい悲鳴が遠くに聞こえた。
そして、火である。
(内館に、火がかかったな。)
まさに落城しようとする、そのただなかに、自分はいる。
(浪岡御所が、陥ちる。)
かつて誇らしく仰いだこともある、京風の御所の建物が無惨に焼け落ちていく。思い出深い住居が、兵たちに踏みにじられていた。一つの建物―御書庫だ―から、とりわけひどく威勢よく火があがったのは、書物が燃えているからだろうか。あの中に、宝物のように思っていた『古今集』も、『源氏』もあるはずだ。
それなのに、驚きや怒りや悲しみが一向に起こらないのに気づいて、ほんの少し戸惑いがあった。
だが、その不審はすぐに薄れていく。
「浪岡城は、十六世紀半ば、津軽・浪岡(現在の青森県青森市浪岡町)の周辺さらに北津軽や、外浜の北半部に勢力を有していたとされる浪岡北畠氏の本拠地であった。」
「浪岡北畠氏は、南北朝時代の南朝方の公卿・北畠親房の子孫と伝えられるが、詳細は不明である。しかし、北畠親房の子である北畠顕家以来、奥州に派遣されて南朝方として戦った村上源氏・北畠氏の流れを汲むのは確実で、のちに奥州の一大勢力となった南部氏は北畠氏を客将として厚遇した。」
「さらに十五世紀末、津軽を支配していた下国安藤氏が紛争の末、秋田に逐われる結果となると、南部氏は保護下にあった名門北畠氏を浪岡に入部させた。」
「巨大で複雑な氏族集団であった南部氏は、その広大な領土を分家や有力家臣などに分割し、いわば委任統治させる傾向があった。交通の要衝だった浪岡が貴種である北畠氏に委ねられたのも、その一例であると言えた。」
「浪岡北畠氏は居城である浪岡城を拠点に交易で栄え、やがて独立的な勢力として16世紀前半に最盛期を迎えた。浪岡北畠氏第七世浪岡具永はその子具統、孫の具運とともに官爵を得、公卿としての地位を名実ともに回復している。浪岡城は正式に『御所』と呼ばれた。奥羽地域においては、将軍足利氏一門を除いて『御所』名乗りを許された稀有な例である。」
「しかし、天正六(一五七八)年、浪岡城は津軽一統を狙う大浦(のち津軽)為信によって攻撃され、落城した。」
「名流・浪岡北畠氏はここに滅び、生き残った数少ない子孫は南部や秋田・安藤、さらに津軽など諸家に仕える身になった。」
かつて生身であった時には全く無縁だった、意味不明であるはずの概念も含んだ、こうした事柄が、どこからかとめどもなくやってきて、頭の中にすらすらと入っていった。
(縮小した浪岡城はやがて、江戸期にはほぼ廃城となり、田畑に転じていた。城跡として整備されたのは、二十世紀に入ってからだが、発掘調査はまだ進んでいなかったようだ。)
(『内館』『北館』以外の手つかずの平場に、また考古学的調査の手が入るのは、……)
なんの感傷もなく、そうした事実が抵抗なく頭に浮かび、目にも実際に見えた。
いつの間にか、史跡公園となった城跡に戻っている。服装すら、この時代のものになっているのかもしれないが、それを不思議とも何とも思わなかった。
いや、自分の姿かたちなどに何の意識も向かないようになっていた。
名前も忘れかけている。
かつての「自分」の意識は、はげしい勢いで、なにものかの巨大な集合体のなかに収束されていくようだった。
そこに回収され、「自分」を「自分」として閉じ込めていた枠が消えていくのを感じた。
(人格の消失。)
しかし、それは快いことだった。そうなっていくうちに、過去現在未来の区別なく、すべてのものが見え、すべてを知ることができるようになっていくのがわかった。
かつて覚えたことのない、自然な全能感が湧いてきた。それを当然のこととして受け止め、目まぐるしい勢いで変わっていく眼前の景色を落ち着いて眺めながら、このまま、途方もなく巨大ななにものかに、すべてを委ねようと思った。
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