第22話 惨劇のあとで
大浦氏とのくに境に近い、川原御所の所領に、水木舘はあった。
川原御所が半日で落とされると、その残党はこの水木舘に籠り、抵抗を続けている。
思いのほか、手ごわい。大浦氏との戦いの前線基地になるはずの城であったが、川原御所が討滅された今は逆に、大浦が背後でこの水木舘を支援する形になっている。つまり、孤城ではない。敗残兵の籠城などひと思いに潰してしまうはずが、そう簡単には落とせなかった。
新三郎たちも、攻城に加勢に出るよう命じられた。城内に兵の姿こそ消えたが、姫さまを残してだから、後ろ髪引かれる思いだ。しかし、やむを得ない。
(しかも、厭な戦よ。同士討ちもいいところじゃ。)
攻める側に、戦意がやや低い。主将一族を滅ぼした後の掃討戦でしかない上に、相手は同じ北畠一門で、互いに見知った者ばかりであった。一方で、守る側は必死である。主人を討ち取られた上に、明らかにその経緯に不可解なものを感じ、怒りがある。その差から、個々の場面で、攻め手に不覚が続いてしまった。
「新しい御所さまのお門出に、謀叛人の首を残らず並べよ。」
左衛門尉は、「川原御所の乱」の後始末と浪岡御所の新体制作りにひどく忙しく、陣頭指揮に立てない。やや苛立って、前線への使者に命じた。
大御所と御所が一度に消えてしまった後、跡目は御所さまのまだ八歳の長男が継ぐのは決まっていたが、浪岡城内の北畠一門の動揺が収まらない。川原御所の突然の消滅は、北畠を名乗る浪岡城内外の舘の主たちにも恐慌をもたらし、不安の種を撒いている。
戦を一時中断してまで、旧主君たちを弔う大掛かりな葬儀を営んだが、陰惨な大事件のあととはいえ、参列者の内心の苛立ちや不満や怖れを反映したのか、どうにもやりきれず寒々しい儀式になった。
浪岡宗家は孤立しつつあった。
(望むところじゃ。離反の兆しある家から、一つずつ揉み潰してやる。)
左衛門尉は最初からそのつもりだったから、むしろ内心で北畠一門の粛清の好機というほどに感じていた。だが、それは浪岡御所では少数の意見に過ぎず、御所さまご名代、すなわち浪岡御所の事実上の主の座に登った故先代の弟と言えど、まだおおっぴらに口に出せるものでもなかった。
ようやく水木舘が落ちた。攻め潰したというよりは、川原御所の残党の、その生き残りが城を棄てて脱出したというほうがよい。主だった旧家臣は、大浦に奔った。浪岡は罪人の引き渡しを求めたが、事実上、拒絶された。大浦氏は、浪岡御所の内紛に乗じる気でいる。
(そう簡単に自壊はせぬ。)
左衛門尉には自信がある。みずからが絵を描いた謀叛劇なだけに、浪岡御所に与えるであろう打撃も、前もって計算し抜いていたという思いがある。自分が御所で采配を振るう上での最大の難敵は、すでに除いたわけである。残された無能な北畠一門がこれからどう動こうと、なにほどのことはないはずだった。
「来られましたか。……遅うございましたな。」
寝室に忍んできた兄の姿を見ても、さ栄は怯えるでもなかった。驚くほど平静な表情で、そして、声色が冷たい。
(おや、さ栄はこんな女であったか。)
かつて夢中で掻き抱いた少女の頃からもそれほど変わらぬ容姿だが、別の女に会っているような気がした。
「遅いとも。六年、いや七年はかかったか。」
お前をもう一度自分のものにすると宣言してから、であろう。
「……そんな昔のことを申したのでは、ございませぬよ。」
「昔か。」
ええ、とさ栄は頷き、起き上がって、灯りを増やした。気づくと、隣室からは記憶のあるお香に似た匂いがする。自然に冷笑が浮かんだのを、左衛門尉は見咎めた。
「何故、笑う?」
「ご無礼しました。昔と同じことをなさっているので。ふくは、また起きてこれませぬか。」
「それがおかしいか?」
「……兄上。浪岡北畠氏の長になられた方が、二十歳前の昔のお過ちを繰り返して、如何されます?」
「過ち、と言うのだな、お前は。」
「違いますまい。兄妹であのようなこと、あってはならなかった。そして、もう二度とはならぬ。いまだにおわかりになりませぬか?」
「忘れたわけではあるまいから、仮初にも兄妹が、と言いたいのじゃな。儒者に習ったか?」
「仮初も何も、兄妹でござります。齢を経て、いくらかわたくしども揃って、亡き父上のお顔にも似て参ったのでは。」
「戯言を申すな!」
(こやつは、やはり昔のさ栄ではない。だいぶ元に戻った、機嫌よう喋れるようになったなどと耳にしていたが、こんな女ではなかった。……おれの心妻(こいびと)は、ここにはいない?)
(気づかれよ、兄上……!)
さ栄は内心で叫んでいる。
(御所さまがお命じになったからには、あなたさまにお教えはせぬ。最期まで、御所さまはあなたさまのために、お隠しになられた。あなたさまに刺されながら……! 人間業とも思えぬ大慈悲のご発露じゃ。それほどまでに、血を分けた弟を憐れみ、思ってくださった。……その御心に添うしか、いまのわたくしにはできぬ。それ以外に亡き若君……御所さまにご恩を返す術が、もうない。だから、ほんとうのことは告げぬ。御所さまのご命には背かぬ。)
(じゃが、気づかれよ! まことのことに気づくがよいのじゃ! わたくしは、嘘はついてやらぬ。おのずから気づくのを止めてやらぬぞ……。)
(父殺し。兄殺し。叔父と従弟も、その家の者も屠ったな。悪逆非道の大罪を犯された。じつの妹と交わった過ちでは済まず、そこまで進みおった! そして、これからも一族で殺し合うのじゃろう? 生まれ変わって魚になる程度では済みませぬぞ、兄上! 地獄に堕ちるのじゃ!)
「さ栄、何を考えておる?」
「……あの変事起きて以来、いずれ、また兄上がここに来られるとわかっておりました。それが、遅くなられた。最初思うたより、手間取られたのではござりませぬか?」
「それを言うたか。しかり、水木舘ふぜいにかかずらうが、長すぎたな。それを笑いおって……。」
左衛門尉は、そこで気づいた。
「待て。……さ栄。最初思うたより、と言うたか。」
さ栄は冷笑を浮かべながら、頷いた。
「……お前、知ったな。」
「はい。」
「考えて、悟ったか?」
「……。」
「目にした者がおったな。あれは、やはり蠣崎の蝦夷足軽か。骸の数が合わぬ、どこに逃れたかと思えば、お前のところだったとはな。……しかし、もう死んだか。」
「……。」
「教えてやる道理はない、か。ふん、生きてはおられぬよ。」
「畏れ入りました。あれも、兄上がお手にかけられましたな。」
「うむ。」
さ栄は息を深く吸った。言葉を塞ぐ、咽喉のつかえはない。
「御所さまを、……斬られたのですな。」
「それは、答えられぬ。……聞いたのであろう? それに相違はないじゃろうな。」
「……何故、とは訊きませぬし、訊きとうもない。ただ、ただひとつ。……父上さま、兄上さまにここでお詫びなされ!」
さ栄の頬に張り付いていた冷笑は消えて、怒りに蒼ざめた顔になっている。やや吊り上った目が、燃えるようだ。
(怒りおったか。理の当然じゃな。……よい、おれを憎め。さあるべし。)
「詫びたいはやまやまじゃが、できぬな。下が上を剋するは、今の世の習いじゃ。それがこの浪岡でも起きたまで。さ栄、お前も知れ。」
「親子、兄弟でありましたぞ。下剋上か何か知りませぬが、許されるわけがない! せめてお詫びなされ!」
「違うと言うに……。いや、親子兄弟としてお育てくださったご恩は忘れぬ。じゃが、いまやおれは、謝れぬ者になった。この地では、たれにも単簡に頭を下げられぬ。」
「兄上? 浪岡北畠の長とは、さほどにお偉いか。」
「お偉くなければ、その厄介(居候)のお前など困ろうに?」
「……よろしいが、新しい御所さまもいらっしゃりましょう?」
「あの子供のことか?」
左衛門尉の顔には、苦笑いのようなものが貼り付いている。お前もわかっておるくせに白々しい、と言いたいのであろう。そして、仲の良かったおれたち兄妹にしては、はじめてのひどく冷たい言い争いだ、とさびしく思った。
(切れた男女というのは、斯様のもの。……男女になど、ならなければよかったかな?)
「……案ずるな、さ栄。無事にお育ちの暁には、主君として腹蔵もなく仰ぎ奉る。それまでは、儂がご面倒をみる。立派にお育てする。それでよかろう?」
「よろしくはない。親の仇を頼りになさる他ないのか、お可哀想な若君……いや、御所さまが、叔母としてお気の毒でなりませぬな。左衛門尉さま、せめて、いま極楽におられる兄上さまにお詫びなさいませぬか?」
「くどい。……あの世に行ったときに、心よりお詫び申し上げよう。それまでは、せぬ。できぬ。」
「お忘れか。あなたもわたくしも、御所さまと同じ結構な場所には行けませぬ。死んでも、成仏はない。畜生道に落ちるのじゃ。あの世で、お目通りはかないませぬぞ。」
「さ栄、口が過ぎよう!」
左衛門尉はついに声を荒げた。自分が情けない、と思った。浪岡北畠の頂点に立ったというのに、こんな女に好きに言いたてられている。名目の上で妹であり、自分の腹の下で正体をなくして喜び喘いだことのある女ではないか。
「それ以上の無礼は許さぬ。わからぬようだが、お前の口を塞ぐなどわけもないのじゃ。土の下から何を言うたとて、……いや、たとえ生かしてやっても、お前などがいくら何を言おうと、もう無駄じゃ。たれが信じよう? 信じたところで」
「新三郎が、信じてくれましょう。」
「……あいつにも、まだ言うておらぬのか?」
「御所さまが、いまわの際に、さようにお命じになったからじゃ!」
さ栄の目に、はじめて涙が光った。
「兄上! 御所さまがどれほど思って下さったか、あなたさまこそおわかりでない。わたくしどもの過ちも、お許し下さった。あなたが西舘のあるじ『兵の正』でいられたのも、若君さまのご寛恕あらばこそではなかったか。その兄を、あろうことか、あなたは裏切り、手にかけたのじゃぞ! なんという恩知らずであろうか。なにが下剋上か、ただの背信、汚らしい闇討ちじゃ! そんなものが世の習いになってよいはずがないわ! あなたこそ、獄門にかかるべきじゃ。寄って集って討ちとられても文句あるまい。それを御所さまは、有体を表沙汰にはすな、と言い置かれたのじゃ。お家のため? あなたのことを思われてではないか? あなたを憐れまれたからではないか?」
「おれを、憐れむだと?」
さ栄は口を噤んだ。お許しください、ここまでは言わずにおられません、と亡兄に呼びかけた。
(これ以上は申しませぬ。ご命に従いまする……!)
「さ栄、言いたい放題を申しおった。が、この場は別議ゆえ、許してやる。大御所も亡くなられたが、父よりも先に兄の名を出しおる。亡き御所の徳を随分と買っていると見たが、……教えてやろう。」
「父上は何もご存じなかった。それで結構じゃ。われらの不義と不孝を知ったら、どれほどお嘆きであったか。いや、あのとき、お怒りのあまりのお手討にでもあっていればようござった!……全て引き受けられたのは、どなたでした? わたくしたちが生きておられたのは、若君さまのお蔭ではございませんでしたか?」
「それよ。若君さまの徳ばかり目につくようだが、あれには、損得勘定もおありじゃったよ。仮にも兄妹でまぐわった者がおったと露見しては、宗家の恥。他家や他国にも示しがつかぬ。不埒者とて年若のわしらを罰してしまえば、如何に繕ってもいずれ理由が知れる。なにごともなかったかのようにするのが、一番利口じゃろう? そのようになさったまでよ。」
「……それゆえ、なんじゃと言われるか? 御所さま―若君さまは、わたくしの前で泣かれたのですよ! あなたは知らぬのか? そう、面と向かっては何も叱られなかったのか。若君さまは、御所さまになられてからも、そこまでもご辛抱されたのか?」
「……泣かれたのか。お前は災難であったな。」
「なんじゃと?」
「兄上が儂をかばって、お前にしかことの真相を伝えずに亡くなられたのもな、よく考えてみよ、それしかないぞ。子のないお前にはわかるまいが、兄上は今の御所さま……八歳の幼い若君のことを儂に託されて、息絶えられた……いや、しばらくは死んだ振りをされていたのか。まったく、かなわぬお方じゃ。危うし、危うし。……さような般若のような顔をするでない。お前らしくもない。……つまりは、我が子の為を思えば、自分を刺した者であろうと頼るしかないのじゃ、斯様な北畠になってしまえばな。じゃから、儂をかばうより他なかった。それだけのことじゃ。さ栄、お前に伝えたはまあ、万が一の備えであろう。」
「……まことに、さように、お考えで?」
「じゃからと言って、仮初にも兄と呼んだ者を殺すのか、と言いたげじゃな。……信じよ。それがお家のためじゃった。儂とて、何もお前なんぞのために、ここまでのことはできぬ。欲からのことではない。前の御所さまに、浪岡北畠氏の行く末をお任せできぬと思えばこそ、断腸の思いで挙に出た。……納得せぬか。」
「納得できるわけが、ございますまい。」
さ栄の心から、赤黒い、滾るような怒りが徐々に引いていき、代わって冷え切った色の絶望が沁みだしている。
(もしや、もしや、この男は……?)
「ならば、納得できる理由をもう一つ教えてやろう。お前は知らぬだろうが、これは仇討ちでもあった。さ栄、きっとお前は昔、秘事を口に出したな? 先ほどはっきりと聞いたが、若君さまに叱られたさいに、苦し紛れにおれの出自を喋ったであろう?……そのようじゃな。であったから、若君さま―御所さまは、おれが血の繋がらぬ余所者じゃと知っておられたわけじゃ。とんだことよの? 名家北畠に、似非者(卑しい者)が紛れ込んでおったのじゃ。これは隠さなければならぬ。事実を知るかもしれぬは、ただ一人、検校舘のわしの祖父どのじゃ。口を封じておかねばならぬな。おれたちが切れたちょうどその頃、遠い旅に急に出たと言うが、さて、それから何年たった? 便りもない。探させても、影もない。どこかの土の下であろうよ。おれのただ一人のほんとうの係累は、……若君さまに殺されたとしか、思えぬ。偽りの兄が、血の繋がった祖父を殺したのじゃ。仇を討ってはいかぬか?」
さ栄は途中からがくがくと震えだしていた。その様をみて、左衛門尉は得意げに喋りつづけていたが、その想像とは違うところで、さ栄は恐怖と絶望に打ちひしがれている。
(いかぬ! やはり、この器量ではいかぬ! 浪岡北畠はもうお終いじゃ! この男では、とてももたぬ!)
さ栄は知っていたが、人は自分の器量の大きさの範囲内でしか、他人の器量を測れない。亡き御所さまがすべてを呑みこみ、そのうえで弟を憐れんで真実を秘し続けたことを、想像すらできないのだ。そして、旧怨を無垢な若者に向けるような小悪党にまんまと騙され、「仇討ち」と口走るまでほだされてしまっていたのだ。
(このひとの器量は、この程度か? これだけであるのか?)
「……殺したのは、金になる阿芙蓉を奪い取る意味もあっただろう。その作り方を教わって、呑みこんでいるおれがいる。さ栄、お前の敬慕する御長兄もなかなかのものじゃったぞ。ひとを狂わせる毒薬を作らせて売りさばかせ、親父の寄進道楽を支えてやっていたのじゃからな。むろん、おれも手助けはしてやった。馬も武具も兵も、もそっと要ったし、戦にも使い処のある薬じゃからな。さ栄、あの薬、お前の帯の二三本にも化けておろうよ。」
(そうじゃ、思い出したわ。……気に食わぬ、気に食わぬ! おれはあの御所さまの澄ましたお顔が大嫌いじゃった! 人の過ちを呑みこんで許したつもりで、情けをかけてやったと自惚れよって! お前なんぞに情けをかけられるいわれはない。)
左衛門尉―小次郎は、「兄」の御所さまを斬った理由を探し求め、ものごころついて以来今までの、幾重にも屈折した感情を掘り起こしてしまった。
(名家の長男に生まれただけではないか? 馬も矢も刀も、学問すら、おれに―得体の知れぬ薬師の孫に敵わなんだな。女とて、ふん、おれが抱いたのは、なにもこんな面倒な女ばかりではない。そのあたり兄上は、こんな小賢しい妹が可愛うて仕方がなかったようでは、多寡が知れておるわ。あのみ台所以外には、たいして女も知るまい? 生まれのよい、気のよいだけの男! この乱世にとても家を任せられぬ。おれがこの家を治めてやったほうがよい。)
「……さ栄、さ栄? なんじゃその怖い顔は?……薬で思い出した。お前の可愛がっておる、あの蠣崎新三郎。あれも心弱い。今頃は薬を喰らい切って、俺のところに泣きついて」
さ栄は新三郎の名が出た時から、黙って小さな指物(物入れ)を探り、やがて、薬の包みを投げ出した。
「新三郎から、預かっておいてくれと言われておりました。ある人から貰ったもので、捨てるわけにもいかぬ、と。……あの子、さほど心弱くはないようです。」
(自分の顔を見ておってくれと言ったな。わたくしが、ああもうよいと思ったら、返してくれと。その人にそのままお返しに上がれますから、と。……わたくしを信じて、頼ってくれていた。)
左衛門尉はつまらない表情になった。そうか、とうなずいて、手つかずの薬の包みを拾った。さきほどの怒りが産む昂揚から徐々に醒め、何やらやりきれぬ気まずさに襲われる。心中で亡き兄を罵倒したのが、ひどく申し訳なく、つらく思えてきた。
(御所さま、いや、兄上……。さきほどはご無礼申し上げた。本意ではない。お許しあれ。)
さ栄の心の中は、それどころではない。冷え切った悲哀が襲ってきた。
(御所さま……若君さま! お見立て違いではございませぬでしたか。このひとでは、浪岡北畠をとても治められぬ。お家を潰すじゃろう。現に、いまお家はこのひとのお蔭で、滅びの道を走りだしたのでございませぬか? やはりあのとき、人倫を外れたわたくしどもに、お情けをかけるべきではなかったのじゃ。ひと思いに殺してしまわれたほうが、よかったのはござりませぬか?……いや、せめてこのひとの、もともとの迷妄を醒ましてやるべきだったのではございませぬか? 心を鬼にされて、いまわしい真実をお告げになるべきであったのでは?)
「兄上……。」
さ栄が心を決めかねて、兄に話しかけたとき、男の手が殴るような勢いで胸元に伸びた。そのまま引きつけられ、固く胸に抱き締められた。一瞬、息が詰まる。
「お前だけじゃ……! さ栄、お前を取り戻すために、こうした! やはり、さに違いはなかったぞ。」
「兄上、情けないことを申されるな! 浪岡御所をまんまと奪いとった! 次は津軽一円を我が物にされるのであろう?」
「……!」
(あっ、やはり、このひとには、そんな器量はない。本当は、さような真似、自分にはとてもできぬとわかっているのではないか? 志すら己への嘘偽りであったのか? なんということ……!)
「離して! お離しあれ!」
左衛門尉は、さ栄の黒髪を狂おしい勢いで撫でた。襟を破り裂く勢いで着物から女の肩を抜こうとする。
「……津軽か。一統するとも! ああ、お前のために、してやる! お前に津軽をやる!」
「いい加減になさいませ!」
さ栄は抱きかかえられたまま、自由にされていた右手を上に振って、男の頬を張った。驚いた左衛門尉に、胸に顔を押し付けられたまま、怒声を浴びせた。
「さがれ、下郎! 氏素性も知れぬ者の息子が、浪岡北畠の姫に触れるとは、不埒の極みじゃ! 分を弁えよ! このような真似、許さぬ!」
「さ栄……。」
「兄上と思うから、罪びとなれど、口をきいてやる。さでなければ、……兄妹ではないと言うのなら、おぬしは似非者。本来なら、浪岡御所さまの身内に目通りすらかなわぬ、下賤の身じゃ。ましてや、幼き日の過ちをかさに、ふたたび北畠の姫を穢そうとするなどと! もう二度と情けなどかけてやらぬわ! 大悪党の下郎、卑しいにもほどがあろうぞ?」
「き、きさまっ。」
「この手を離せ、下郎。離さぬか、無礼者!」
「無礼者はどちらじゃ。出戻り女の厄介が、御所さま名代の西舘『兵の正』、左衛門尉に向かって……?」
左衛門尉は女の両肩を掴んで胸から離し、憎々しげに罵る顔を見てやろうとした。息を呑む。
さ栄の顔つきがまた変わっていた。左衛門尉―小次郎と睦んでいた頃の、愛してやまなかった、温和だが哀し気な表情に戻っている。あの頃と同じように、静かに語りかけてきた。
「……兄上。さよう言われるならば、あなたさまは兄上にございましょう? 兄妹じゃ。もう、斯様なことだけは、おやめ下され。……あなたさまのしたこと、取返しもつかず、償いようもないが、せめて、これ以上、さ栄にむごい真似だけはおやめ下さりませぬか。せめて兄上でいて下さらぬか? 西舘さまはさ栄の兄上。昔から知る、おやさしかった、小次郎兄上ではござりませんのか。」
「お前は、おれの、ただ一人の、……。」
「妹、妹じゃ! わたくしは、父上と兄上をあなたに殺されたのじゃ! 親きょうだいをいっぺんに奪われた、あなたに! ……そのあなたは、わたくしの兄じゃ。じつの兄上に違いない。それなのに……また、こ、こんな仕打ちを……。」
さ栄は言葉に詰まった。露わになった左肩と開かされかけた白い胸元に、赤い腫れが見えはじめていた。
「……さ栄、お前、これは……?」
「苦しいのでございます。……忌まわしい振る舞いに及ぶと、魚の鱗ができるのでございましょうかね?」
左衛門尉は慌てたように、また、怯えたように、妹の躰から飛びのいて離れた。
「魚になどなるものか。……大事ないのか、お前?」
「ない……とは、言えますまいな。」
さ栄は、思わず爪をたてて、耐えられない疼痛が走る首筋の蚯蚓腫れを掻いた。薄く血が滲む。
「お前、あの時からか……? 知らなかった。」
「兄上は、ご存じなくてよかったのじゃ。」
「すまぬ、さ栄。……おれは、何も知らなんだ。お前がそこまで苦しみ続けておったとは。」
さ栄ははっとしたが、左衛門尉の続く言葉には内心で落胆の息を吐いた。
「じゃがな、ほんとうのきょうだいではなかったのだ、魚になどならぬ。養生せよ。湯治でもして、治せぬか?」
「兄上っ!」
「……ああ、兄じゃ。お前にただ一人残った、おれは兄よ。そのつもりでいてやる。安堵せよ。」
左衛門尉は、悄然とした様子で立ち上がった。
「躰、労われ。いずれ……。」
(いずれ、何だと言うのか?)
左衛門尉が去る。さ栄はうつ伏せに崩れた。身を揉んで疼痛に似た痒みに堪え、呻き続けた。
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