第26話 契り 三 よろこび
傷がようやく癒えたと思えた頃には、雪が溶けはじめていた。
新三郎が臥している間に、新舘の反乱は片づけられていた。
あの日、強清水殿はみずから別働隊を率い、混乱のなかを内館に侵入しようとした。だが、新舘の反乱軍が一気に攻め出ることもできず、連携できなかったのでは、結局、御所に指を触れることもできなかった。左衛門尉が自ら指揮する直属の備が出て、ついに強清水殿をその場で討ち取ったと聞いた。
新三郎を撃った鉄砲の主は、新舘で討たれた者の中にも、捕えられた者の中にも見当たらなかった。どうやら他所からの合力の者らしい。あの場の部隊長を見抜き、撃ち殺しかけたのだから、よほどの腕と思えた。そんな者がどこからともなく、浪岡城にはすでに潜り込んでいたのだと思うと、無気味であった。
「随分出立が遅れ申した。」
医師は飄々とした口調で、新三郎の塞がった傷口を確かめながら、言った。
新三郎は、改めて礼を言う。用らしい用もないのに奥州はおろか、蝦夷島まで行こうというこの医者には、それだけで何か畏敬の念を持たずにいられない。数奇者こそが、上方の都会にしかいない新しい人間であろう。
「松前がお気に召せば善哉でござる。代官が挨拶いたしましょう。会って下さいませ。」
「挨拶とは勿体無い。もしもお目通りかないましたら、お伝え申し上げることは、ござるか。」
松前にはすでに文を通じてあった。往路は、船に乗るところまでを守らせる手筈もつけている。大怪我をしたことを松前の家中に知られてしまうが、不名誉ではない。ただ、母は心配するだろう。それだけが気掛かりではあったが、別段それはよいだろう。
「いや、さようか?」医師は、首をかしげてみせた。「嫁を迎えたい、とお尋ねにならずともよろしいのか?」
「……なんのことでござろうか。」
医師はからりと笑った。薄い髭を撫でた。
「庶人ならいざ知らず、お武家ともなると、ただ好きあうというだけでは夫婦にはなれますまい。……それとも、若いお二人は、まだ恋を楽しまれたいか。」
京の人間というのは、これほど立派なひとでも軽薄なものだな、と蝦夷島と奥州しか知らぬ若者は呆れる。
「……命をお救い下さった国手(名医)でなければ、腹立てたいところじゃ。人の気持ちを弄して喋々されるな。拙者はともあれ、……い、いや。」
「その、尊いお方は、きっと待っておられる。」
「じゃから、申しました通り……。」
「今のは、医者としてのみたてにござる。もう、大事ない。弓手(ひだりて)も自在に動く。」
まさか、あれを見られたわけではあるまいとは思うものの、床の上で新三郎は上気した。
挨拶を受けて奥に入ったはずが、木戸の向こうで聞き耳を立てていたさ栄姫も、思い出して真っ赤になっている。
さ栄は知っていた。恋のなかにあったときの言葉や所作は、ひたすらに甘美なものであればあるほど、その恋が破れ、雲散霧消した後には、苦いものになることを。自分でそれらを思いだしたときには、耐えがたく我が身を刺すつらいものに変わってしまうことを。
少女が無我夢中で貪った甘い恋は、蜜でも乳でもなく、猛毒だった。その正体を現すと、さ栄の身も心も徹底的に痛めつけたのである。自分を輝かせるように思えた、すべての麗しい言葉、やさしい仕草は、ふと記憶に蘇ってしまうたびに、さ栄に死を望ませるどす黒い色を帯びたものに転じていた。
(それを知りながら、わたくしは……?)
さ栄は、いたたまれない気分になることがある。新三郎と二人きりになったとき、そんなことは一切忘れてしまっているからだ。
ためらいや遠慮の時間が過ぎると、やがて痴語を交わし、痴態を存分に見せあっているとしか、言えない。そして、そうすることが、ふたりの無上の喜びになっていた。
「いけないな、わたくしは……。一日、いつも新三郎どののことばかり思って過ごしてしまっている。」
「わたしもでございます。仕事のさなかでも、姫さまのもとに戻ることばかり願っております。」
さ栄は息を呑む。まだ抱きあってもいないのに、言葉だけで、それに似た甘い衝撃に躰を射抜かれたように思えた。思わず目を伏せると、大きな手に引き寄せられて、自然に甘い息が漏れる。あっという間に両腕に包まれている。
「……これは、よくお帰り、かえ? 新三郎どの? ぬしさま?」
「はい。」
答えながら、新三郎は柔らかく温かい小さな躰を抱く力が強くなりすぎないように、懸命に自分を抑える。姫さまの柔らかい胸を自分の躰に押しつけ、白い首筋の香りを嗅ぐようにすると、天にのぼる心地なのに、ふとこのまま抱き潰してしまいたいような荒々しい欲望が起きて、戸惑う。
これからどうすべきかは、もう二ヶ月ほど前に知っていた。
あの日、まだ風が冷たく感じられた。
あの医者に煽られたわけではなく、ふたりの間で、傷が癒えたら……という黙契がすでに出来上がっていた。
「新三郎、今宵、お話においで?」
目も眩むような羞恥に打たれながら、何げない様子を懸命に装って、さ栄のほうから誘った。新三郎は棒を飲んだように立ちすくんだが、命を受けたときと同じく低頭すると、足早に縁先を立ち去り、自分の住む母屋に戻っていく。
それから、さ栄にとって、不安に苛まれる時間が過ぎた。互いの想いを打ち明け合ったあのあと、新三郎とまた慌ただしく抱き合ったことはある。おずおずと唇を合わせたこともあった。たがいに、その甘さに驚いた。文や歌のやりとりも一度ずつあった。何より、新三郎の心にもう何の不明もない。それは安心できていた。
(わたくしは、あれを出さずに済むのか?)
思うと、すでに背中に汗が染み出ている。これが全身を覆う赤い痒みに変わってしまわないか、そんな肌を新三郎の目に晒してよいのか、と思うと、やりきれない。
(もう大事ない。新三郎とならば、決してあのようにはならぬ。これまでも大事なかった。)
強く抱き締められたとき、さ栄は無上の安らぎを覚えていた。これ以上は望まぬ、もうこれだけでよい、と思い、そう呟いてしまった。
「落ち着く……。これだけで、よい。」
だが、新三郎が当然、それより先を欲しているのにも気づいている。さ栄の充足のあまりのつぶやきを耳にして、すこし悲しそうな表情になったのが、まるで目にしたようにわかった。
(……あ、新三郎を気の毒な目に遭わせている!)
さ栄ははっとして、新三郎にそのまま床に押し倒されてもよい、と心に決めた。自分を抱きしめる男の袖を引いて、うながす様子さえみせた。だが、十六になったばかりの若者は、また一層やさしく抱いてくれるばかりで、いたわりを示す仕草から踏み出そうとはしなかった。
だが、いつまでも新三郎に自制を促してばかりではならないだろう。
そして、抱き締めるよりもさらに進んだときにどうなるのかは、まだわからないのであった。
もしも肌が赤くなってしまったら、これは何かを説明するのか、ありえぬ、と震えた。
新三郎はさ栄の過去については何も訊かないから、いまだに兄とのことは洗いざらいを喋ってはいないのだ。どこかでそれも打ち明けなければならないのか、という迷いにも苛まれている。
(新三郎は、兄上の邪まな想いを昔から知っている。じゃが、かつて本当に契りを籠る仲じゃったとはまさか知るまい。ありうべからざることゆえ……。薄々疑っていても、もしたしかにそれがあってしまったとわかれば、とても耐えられるものではなかろう。)
(もう兄上とふくしか、この世であれを知っている者はいない。わたくしが懺悔せねば、伝わりようがない。……じゃから、口を拭って、黙っているのか、さ栄は?)
(……ああ、可哀想な新三郎! やはり、わたくしなど、お前に相応しくなかった! それを、まだ女も知らぬお前の気持ちに、わたくしは甘えて、こうして今かいまかとお前を待っているのじゃ! 女の躰を餌に、つけこもうとしておるも同然。なんと忌まわしい!)
考えがぐるぐると回りだすと、さ栄はひとり頭を抱えた。そして、決意ができたように思えた。
(そうじゃ、今宵、別れてやろう。新三郎に全てを打ち明けよう。あの子が何と言おうと、去らせよう。あの子を汚してはいけない!)
「姫さま……何故泣いておられました?」
「泣いてなど、おらぬ。」
「お涙のあと、お化粧にも隠せませぬ。お目が赤い。」
「厭な子。」
「……姫さま。」
新三郎は少し考えると、膝を進めた。いつも手を広げるように近づいてくれるはずのさ栄姫さまが、厭がるように無意識に退くのを見て、確信を持った。
すばやく、抱きかかえた。さ栄が息を呑み、首を振った。何か言おうとするのを押しとどめるように、唇を合わせた。言わせない。長い時間、息を切らしたさ栄が呻いて乞うても、口を貪るのをやめない。かつて年上の女がつい教えてしまったように、舌で相手の舌を探る。さ栄はそれに応えるうちに、ついにぐったりとした。
その小さな頭を、新三郎はそっと抱きかかえて、言った。
「姫さま……。もう、お心はわたしひとりに向けて下さるのでしょう?」
「……む、無論じゃ。」
「ならば、わたしは何も思うことはない。姫さまの今も、これからも、わたしだけがいただきまする。それで新三郎は、本望。それだけで仕合せにございます。」
さ栄は涙が弾けるのを覚えた。だが、それでいいはずはない、と決意を思い出した。
「新三郎! さ栄は、罪深い! お前に、甘えてよい女ではない!」
おっしゃらないで、と新三郎は、さ栄の歯にあたる勢いでまた唇を強引に奪った。口吸いを続けた。さ栄は、おそろしい幸福感に酔う。つい、自分も甘い唇を夢中で貪ってしまう。
「……お教えいただいた通りに、できましたか?」
「あほう……。」
「もし、お辛い日々がおありだったとしても、……」
「新三郎!」
さ栄は男にしがみついた。広い背中に指を張り付けた。新三郎は、女の細すぎる腰を、やさしく撫でた。
「……それは過ぎたことじゃ。お忘れくださいませぬか。忘れられぬ、お辛かったお気持ちだけ、わたしに下さいませ。姫さまのものを、すべて、わたしがいただきたい。」
「……貰っておくれ。有り難い、有り難いよ、新三郎。さ栄は、残らずお前のものになりたい。」
新三郎の余裕は、ここまでだった。姫さまを夜着の上に押し倒した。胸元を荒々しく開き、憧れていた白い胸を眺めて思わず溜息をつくと、硬く盛りあがった乳房に唇を夢中で当てた。震えて尖っていく乳首にむしゃぶりついた。
さ栄は、頭に突きあがるような快感に身をよじった。
すでに、溢れている。男の不器用な唇と手が肌を這うたびに、自分でもおぼえがないほどのところまで、躰が熱を帯びて高まっていくのがわかる。
(これほどになっても、あれは、出ない……! やはりこのひとだけは、別儀(特別)……!)
安堵と喜びに、叫び出したいほどであった。
大光寺にいたころ、かつての夫婦の営みのときには、夫がついに立腹するくらいに、躰の反応は冷淡だった。とくに嫌悪したり拒絶したりすべき相手でもなかったのに、躰は冷え、乾ききっていた。心がそうだったからだろう。男女の行為そのものへの忌避感があり、最後までそれは薄れることがなかった。まるで面倒な汚れ仕事の家事のように思えるばかりだった。
だからかどうか、そのときには肌は赤くならなかった。むしろ、ひとりになってふと過去を思い起こしてしまうときにこそ、ふく以外には誰にも見守られず、孤独に発作に苦しんだのである。
それが、これほどのぼせるように興奮し、肌を熱くしても、魚の鱗かと怯えさせた、痛痒い醜い腫れは姿を見せない。
(新三郎、お前のおかげで……!)
さ栄は泣いた。
「あっ、申し訳ありませぬ! 手荒くなってしもうた……?」
「違う、違う。……有り難くて、ありがたくて、泣ける。……かたじけない、新三郎。」
「姫さま……?」
「お前の、好きにしておくれ。わたくしも、うれしうてならない。」
新三郎は勇む気持ちになって、さ栄の下半身にとりついた。寝衣の帯を解いていく手が震えた。
さ栄は躰の最も熱っぽい部分に急に空気を感じて、当惑した。全てを目の下にした若者が感動に息を呑む音が聞こえて、当惑と羞恥のあまり気が遠くなりそうだ。
「厭じゃ……。」
呟いてしまうが、若者がはっとしたのがわかると、気になさるな、と首を振る。不器用な指がとりつき、探る動きがはじまると、身を揉んで応えた。自分でも驚くほどに豊かに潤い、とめどもなく溢れだすのがわかる。
「恥しい。厭などといいながら、これほどになって。」
少し乱暴に動き続ける手の甲を上からそっと抑えて、微笑んだ。無我夢中の単調な指の動きにもどかしさを覚えるとともに、年上の女らしい余裕が戻っている。
「もう、おいでなさい、新三郎?」
「よ、よろしうございますか?」
十六歳の若者は、がくがくとした震えがあらためて身を襲うのを感じた。先ほどから愛おしさで狂わんばかりだったが、うながされると、初めてのときに男なら誰でも思い浮かべる一言が頭を占めた。
(おれも、いよいよ……。)
変に大きく重たく感じられる女の白い腿を開いて、割って入った。さ栄は視線を横にそらしている。少しの時間と手間があって、女の横顔が一つ頷いたのを確認すると、体重をそのまま乗せた。前へ進む。
「えっ?」
さ栄は突き刺される痛みに全身を強張らせた。そんなはずはないのに、と意外だった。
「姫さま?」
目を固く閉じ、さ栄は痛みに耐えている。眉間に深く皺が刻まれ、苦しい息が漏れた。
「姫さま……? お痛いのか?」
「……うん。」
「痛いのなら、……もう?」
とは言ったが、やめられるものではなかった。ついに恋しいひとと繋がったという自足と喜びに、全身が支配されていた。新三郎は柔らかく包まれている中で、ぎこちない動きを止めることができない。姫さまも返事はない。きつく閉じた瞼の下に、涙がにじむ。
(美しい……。苦しいお顔をされているのに……!)
新三郎は涙と汗に濡れたさ栄の顔にかかる髪の毛を払い、唇をついばんだ。さらに愛撫を加えたいと思った時、唐突に終わりが来るのがわかった。
女に許可を乞う。さ栄は目を固く閉じたまま、うん、うんと二、三度頷いた。手足を絡みつけるようにして、さらに密着したがった。若者は、その女の躰の上でもがいた。押し寄せてくるものに耐え、やがて限界が来て、放つ。さ栄は身を震わせ、何かに堪えているかのようだ。
……
「……これほども、汗をかいて……。」
さ栄は新三郎の躰を拭ってくれた。どんなに遠慮して断っても、そうすると言って聴かない。かたじけない、勿体ない、と新三郎は緊張しながら、されるままになった。さ栄は固い体に布を動かしながら、あらためて若者への愛おしさがこみ上げてくるのを感じていた。
「姫さま、申し訳ございません。お痛くしてしまいましたか。」
何を聞くやら、とさ栄は顔が赤らむのを感じたが、
「長いことしておらなんだゆえ、娘の躰に戻ってしもうたのかもしれぬ。」
出血こそ見えなかったが、昔、小次郎に最初に刺し抜かれてしまったときに似た疼痛をおぼえている。新三郎は何と言っていいかわからないが、さ栄ははにかむ笑顔を、頬に血の気が差してすこし幼くも見える顔に浮かべると、
「変じゃねえ、痛かったけれど、うれしいとも感じたよ。まるで、わたくしも、……その……。」
「初めてであったかのような?」
「……言うな。言わないでおくれ。」
新三郎は、さ栄をまた抱き寄せた。怒ったような、わざと澄ました表情をじっと見つめ、ついに女が照れて目を伏せると、唇を唇で追い、捕えて、また深く重ねた。
新三郎は欲が出てきたかもしれない。さ栄姫と深く契り、睦む日々を重ねたからである。
(やはり、父上の跡をとりたい。松前で蝦夷島代官職を継がねばならない。)
兄たちと姉が非業の最期を遂げたのを忘れてはいない。口に出せぬ疑いが渦を巻いているかのような松前の土地を、再び踏むことへの恐れも残っている。
(だが、……だからこそ、四郎の家臣になってやるわけにもいかぬではないか。)
浪岡北畠氏宗家の姫君を、室に迎える以上は、である。
二度目に躰を重ねた逢瀬の夜、昂奮の坂から降りた後の床の上に、新三郎は起き直った。さ栄姫も慌てて褥を裸の胸に引き寄せながら、座りなおす。それを待って、新三郎は愛おしい相手に求婚した。心妻(こいびと)にとどまらず、正式に妻として迎えたいと言ったのだ。
さ栄姫は、まことに、と言うなり絶句し、うつむいてしまう。一度目の契りの夜には、なにか恐ろしい気がしてわざと言わせぬままに、新三郎を帰したのだ。それを、若者のほうから一生のこととして言ってくれた。感動に、声が出ない。
かすかに肩が震えているのを、新三郎は抱き寄せた。姫さまはくりかえしくりかえし、礼を言ってくれた。お礼いただくなど、と新三郎が言うと、いえ、これも亡き御所さまのお導き、と感に堪えたように呟き、また、有り難し、を夢中でくりかえしている。
「早速、松前に申し伝えまする。」
「父君、お代官どのの、お許しがなければなりませぬね。」
「それは何もご心配は。あっ、御所さま……ご名代さまのお許しが要る。」
兄上のご存念は案じずともよい、とさ栄は言った。さ栄の意志を通さぬとは言わせぬ事情があり、それは新三郎にも話せない。自分は、ご名代―左衛門尉の秘密を握ってはいるのだった。
「妹のわたくしから、折りをみてお許しを頂戴しましょう。」
新三郎が、あらためてきつく抱きしめてくれたので、痛いほどだった。さ栄も幸福に酔う。懸念すべきこと、話し合うべきことがあるのも、何か楽しく思えてくる。
「新三郎は、……いえ、との、……はまだ早いか、……此方さま、……? そう、ぬしさま、とお呼びしよう。」
「おやめください。いくら夫婦同然になれたと言うても、わたしは、浪岡さまの家の者です。おあるじさまに、さように呼ばれては……。」
「もう二人だけのときは、新三郎どの、ぬしさまと呼びますよ。決めた。その代わりに、ぬしさまも、さ栄、と呼びなされ。」
「呼べようか? ご勘弁を……。お名前を口に乗せるなど、畏れ多い。」
「浪岡の家の者ゆえか。」
「もとより、身の分際が違いまする。」
「もうふたり、斯様な仲になっておるのに、つまらぬことを……。」
そこでさ栄は、問うべきことを思い出した。
「新三郎どの、それじゃったよ、尋ねたい。ぬしさまは、これから如何になされるのじゃ? つっと浪岡御所にお仕えくださるのか? それとも、……。」
考えはじめていたことだった。
(このままお仕えすれば、とても姫さまを妻に迎えられぬ。亡きご先代さまの猶子とはいえ、おれは津軽浪岡家の客分で、たいした禄もなく、所領らしいものもあやしいほどよ。西舘さまのご近習であった頃は、いま少し先があるように思えていたのじゃが、……まあ、あれは自分で辞めてしまったゆえ自業自得じゃが、……。)
ご名代の幕下に戻っても、御所さま直属の備(そなえ)の士、せいぜい組頭、のちの世の小隊長か中隊長程度を勤めるだけにとどまっている。それがどこまでも続きそうであった。
家格や禄高と職分はほぼ一致しているからやむを得ないかもしれないが、いまの世では働きに応じて相応の上昇があっていいはずだった。若武者・蠣崎新三郎の器量は家中に知られていたし、なにより亡きご先代の猶子なのである。これまでにあげた武功にも応じ、一門衆や宿老とは言わぬまでも将来は取次(幹部)や馬廻り(司令官)への道が開けていそうなものであった。
それが、いくらまだ十六とはいえ、なにか将来にわたる冷遇の匂いがある。
(おかしいではないか。つい去年までは、新三郎は亡き御所さまにも西舘さまにも随分目をかけられていた。それが、『川原御所の乱』よりは、戦場で使い潰そうとでもするようじゃ。)
そう思ったのは、さ栄だけではない。取次や馬廻りにも、蠣崎新三郎の処遇を考えてやらねばと思う者はいるし、とある上士からの進言もあった。
ところが、幼い御所さまの横に控えるご名代―左衛門尉の言葉は、耳を疑わせるものと言ってよかった。
「まだ若い。さらに、安東の陪臣、蝦夷代官の三男程度では身の分限も知れている。若狭源氏などと称しておるが、どこかで蝦夷の血の混じった渡党の裔ではないか。御所にそう簡単に上がりこませるわけにはいかぬな。」
と、ご名代は答えたと言うのである。
「お言葉ごもっともなれど、そも蠣崎はお家のご猶子にて、……。」
「猶子などとは、松前から勝手に言ってきたのを受けてやったにすぎぬ。」
(何を言われるか。やはり、このさ栄に含むところあってか?)
進言した上士の憤懣の声を、ふくを通じて漏れ聞いたさ栄は、ひそかに唇を噛んでいる。
(まさか、余計なことをわたくしの口から聞く前に、早く戦で死ねとでも言うのではあるまいな?)
ひとつ脅かしてやろうか、取引をもちかけてやろうか、とさ栄は初めて考えたが、いや、と内心で首を振る。潔癖な若者がそれをもし知ったら、申し訳が立たない。自分も何を思われるかわからない。それに、「川原御所の乱」の真相が他所に漏れてしまいかねない。
(あのような陰謀が露見すれば、兄上どころか、浪岡御所がすぐさま滅びる。)
新三郎は、ご名代が自分をどう思っているかはあまり気にせぬようにも努めてきたようだが、浪岡武士としての将来に限りがあるのには気づいていた。
(仮に馬廻りまで上がれたにせよ、その程度では、主家の姫さまをお迎えするには足りぬかもしれぬ。いっそ、……?)
松前の主であれば、安東家臣に過ぎぬとは言え、窮屈な思いを姫さまにさせることはなくなるだろう。
それに、さ栄のことばかりでもないのであった。若者の胸に、野心が形をとりつつあった。それは西舘―ご名代や、父蠣崎季広のような男の存在が、無垢だった少年の心に植え付けてしまったものだったかもしれない。
(蝦夷島を、おれたちの楽土にしたい。)
若者は、自分の故郷松前や、第二の故郷(ゼルブストゲヴェールテ・ハイマート)ともいうべきこの浪岡で相次いでいる陰惨な争いに、飽き飽きしていた。
(おれは、同じ戦なら、せめて理のある戦がしたい。お家のためと言うて、お家の中で殺し合うのは、沢山じゃ。)
「天下」の北の外れに、そうしたこせこせした、甲斐も名分もない争いとは無縁の場所を作りたい。それが新三郎にとっての理であった。それだけしか、蝦夷島生まれの武家である自分のすべきことはないように、だんだんに思えてくるのがわかる。
もはや新三郎には、「津軽一統」の挙ですら、それほど面白いものではなくなってきた。仮に浪岡北畠氏が津軽を抑えたところで、陸奥国の中で、あるいは出羽国との間に、また争いが続くだけであろう。いずれ天下が定まるまで、今のようなことを続けるのか、続けられるのか、と考えずにいられない。
(蝦夷島は、違う。割拠ができる地じゃ。攻めず、攻められずを通すことができる。中原の趨勢が定まるのをじっと待てる。)
(安東さまからも離れて、おれのくにを蝦夷島につくる。蝦夷島の地が生み出す富、蝦夷島を通る富には、他所の誰も手を触れられないようにしてやる。)
「ご自分のされたいように。さ栄のことはお考えあるな。」
ふとさ栄は気づいて、まだ少し荒い息を鎮めながら、言ってみた。若者は、何か考えあぐねている。二人で夢中で求め合い、最後は固く抱き合いながら極めた昂揚の高みからは、男女それぞれの速度で潮が引くように、めいめいで降りていく。女がやや遅れて落ち着くと、傍らにうつ伏せに臥した男はもう、ふと遠くを見ている目になっていたから、わかった。
はじめての日から二か月、毎夜会えたわけではないが、会えば必ずのように求めあった。互いの肉を晒し合うことで、心までを確かめ合えるとされるのはまことだったと、新三郎は自然に、さ栄は驚きとともに、感じている。
躰を重ねるのは心を重ねるのと決して同じではない、と知らされざるを得ない経験ばかり、さ栄はしてきた。だからこそ、その行為への躊躇いも大きかった。それなのに、新三郎の肉体を知って以来、天才丸という子供だった頃よりも、彼の心の内までが見える気がしてならない。
「なにを唐突に、おっしゃるので?」
若者は、女を抱き寄せて、少し乱れてしまった髪を撫でた。
「決めねばならぬことがおありじゃね? ご自分のお望み専一ぞ?」
「わたしは、いつも姫さまのことを……。いえ、わたしの望みは、まず姫さまのお身のお仕合せでござるから。」
(ああ、それはわたくしには却ってつらい……。)
胸を突かれたさ栄は、男の腕にすがって、ふざけてみた。
「名で呼ぶように、と申しましたな。ぬしさま?……困ったような顔をするでない、新三郎。先ほども、呼んでくれなんだ。さ栄、と呼ぶがそれほど厭か?」
「その普段のお調子のほうが、楽なのでございます。」
「さようの薄情、許しませぬ。主命じゃ。」
さ栄はうれしそうに笑った。新三郎も微笑む。
「さ栄……さま。さ栄さまは、浪岡を離れたくはございませぬな?」
「新三郎! 言うたよ、わたくしのことで悩まずともよい。悩まないで。さ栄は、新三郎と一緒ならば、どこであろうと構わない。それも申したことがある!」
「有り難き仕合せにて。……さ栄さま。」
「……はい。」
「松前に、お越しくださりませぬか? わたくしは、やはり帰らねばならない。じゃから、さ栄さまにお願いしたい。一緒に、松前大舘に……。」
「はい。さよういたします。連れて行って下さいませ。」
「……姫さま!」
新三郎は驚喜している。そう言ってくれると信じてはいたが、すぐに肯ってくれるとは思えなかったのだ。また固く抱きしめ、さ栄が笑い声をたてて痛がると力を緩めたが、離さない。
喜びのあまり、要らぬことまで言ってしまう。
「よいのですか? 浪岡御所のような典雅なお城ではない。蝦夷島の無粋な丘城でございます。松前も、狭い町じゃ。今は少し変わったかもしれませぬが、山と海に挟まれた小さな町にござります。立派なお寺やお社もあまりござらぬ。蝦夷との戦いに備えるために、東西に袋の口を縛ったように、出入りはわざと不便にしております。湊も大してよくない。風が強く、岩がちで、海の色もさびしいのでございます。」
そこまでまくし立ててしまって、腕の中のさ栄の顔を不安げに覗いた。さ栄は黙って笑っていたので、安心する。
「……とても、お歌ができるような場所ではございませんが、よろしいのですか?」
「よいよ。さ栄は、海を見たことがない。」
「さようなのですか?」
「うん。お城からあまり出たことがなかったゆえ。大光寺は、もっと奥じゃったし。……広い海は、お歌でしか知らぬ。きっと、面白い歌も詠めるでしょう。楽しみ。」
「有り難し。ご案内できるのが、まことに、うれしう存じます。松前も、そこまで悪い土地にはござりませぬ。近頃は随分と拓け、商いで賑やかになりまして。毎日が七日市のようでございますよ。」
「先ほどは違うように言うたのに。」
さ栄はころころと笑うと、
「何度も申しておりまする。さ栄は、新三郎どのとご一緒なら、何処にでも参ります。……それに、松前は、新三郎どの、ぬしさまの生まれた地ではありませぬか。悪いところのはずがない。」
新三郎は、さ栄を抱き起した。抱きかかえるようにして、乱れた髪が額にかかっているのを直してやり、唇をつけた。軽く、口を吸いあう。さ栄がふとはにかんで目をそらしてしまうまで、長い時間、飽きず見つめ合った。
「なんと御礼を申してよいか。……恋しい、愛おしいお方。ご一緒に戻れるとは。」
「何年、戻っておられぬ?」
「お忘れですか。ここに参ったとき以来。わたくしは十三になったばかりでした。足掛け四年か。」
「天才丸。ご立派になられた。」
「姫さまのご恩、忘れませぬ。」
「これから忘れられては、困りまするよ!」
「はい。決して。……姫さまは、海が初めてでいらっしゃる? 困ったな、船にお酔いになられますね。」
「されど、ほんの子どもの天才丸が渡ってこられたのじゃろう?」
「大きな船を用意させましょう。松前の持っている、一番大きな船を出させましょう。」
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