第19話 魚伏記 四 衝撃

(めずらしい。お歌まで添えられている。)

 文机の上に、またいつの間にか文が置かれていた。

(少し早いが、秋の歌。霧深い秋の野中の忘れ水のように、逢うことの途切れがちなこの頃です、か。坂上是則であったか。意外なお好み。)

 浮き立つような気分になった。愛おしい男が忍んで来るのを待つ女に、自分はなっている。いくつもの好きな歌を思い出し、会ったら青年に教えてあげようと思う。

(君を待つ身で閨にも入らず待つというのに、槙の戸に差す山の端の光も夜更けを知らせることよ……式子内親王さまじゃったな。もっとも、あのお方とは、夜更け、ひとが寝静まったときにしかお会いできぬ。……いや、今日は?)

 そこで文の紙片が重ねてもう一枚あるのに気づいた。急いで書いたのか、少し乱れた筆跡で、いつもより早い刻限に、この内舘でも西舘ですらなく、無名舘のある屋敷に、とある。無名舘など、御所の北の外れのさびしい場所で剣呑に思えたが、案内の者を差し向けるとあったので安堵はした。

(一刻も早く会いたいと思われたのか?)

 案内の一言も口をきかぬ若侍が、何も事情を知らぬ様子なのにも安心した。無名舘の門をくぐるのは簡単で、人の気配の乏しい、大きな屋敷の一隅には、灯りをともして待つことのできる用意がしてあった。さすがにおやさしい、と感動する。ここで、……と敷物を撫でて、赤面した。

 気配がした。あっと立ち上がりそうになって、慌ててさあらぬ態を作る。笑みが浮かんでくるのが抑えられない。

 意外な人物が静かに、黄色くなった障子を開け、橙色の灯火の中に入ってきた。

「えっ? 若君さま……?」

「来たか。」

 若君―長兄の浪岡具運は、顔を歪めた。灯火が、不気味な影を若君の端正な顔に作る。

(ああ、これはわたくしたちの顔じゃな。北畠の者の顔立ちじゃ。)

 腰が抜けるほど驚いているくせに、少女は妙にぼんやりとしたことを考えている。はっと気づいて、身構えた。

「いたずらをなさったのは、若君でござりましたか?」

「誤魔化さなくてよい。西舘からの文と思って来たのであろう? 歌はやつの手(筆跡)じゃから、安心したな。」

「……なにを、図無い(とほうもない)ことをおっしゃいますか? 西舘さまは、兄上にございませぬか。」

「さようよ! それに相違ないのじゃ!」

 若君は叫んだ。これまで、少女がこの人から聞いたことのない、絞り出すような声であった。

「なぜ、お前は、お前たちは、それがわかって……?」

(露見している……? そんな、何故に?)

少女は愕然とした。眩暈がして、手をつかないと、躰を起こしていられない。

「何故知れたと驚いたか。……おふくが教えてくれたわ。」

「あ、あやつ……!」

「痴れ者、逆恨みするではない。おふくはな、泣いて詫びたわ。自分の目が届かず、姫さまにおそろしい過ちを犯させてしまったと。自分をここでご成敗ください、死んでお詫びいたします、と土下座して泣きおった。そして、我が首をお目にかけて、姫さまをお叱りください、と! 一刻も早く、あのような畜生道からお救いください、と……。」

「首? まさか?」

「たわけ、さようなことができようか? おふくに何の罪がある? 短慮起こさぬよう、見張らせておるから、それは安堵せよ。……罪といえば、罪は、罪は……。」

 若君は言葉に詰まったが、少女にはそれはまずは目に入らない。自分の乳きょうだいにあたる子と夫を流行病で喪い、もう自分しかないのだろう侍女のことだけまずは考えている。

(おふく、すまぬ! 心痛めたであろう。……じゃが、さようではないのじゃ。名目では兄妹、それだけで没義道かもしれぬ。されどそれはあくまで世の方便で、わたくしは畜生道には落ちておらぬぞ!)

 絶句してしまったままの若君に、少女は震えながら、低頭した。

「若君さま、申し訳ござりませぬ。お家の中で、隠し事をしてしまいました。お詫び申し上げます。」

「隠し事? お前、わかっておるのか、お前? 自分のしたことが……。おふくが何故死んで詫びるとまで言うてくれたのか、まさか、わからぬのか?」

「可哀相に、おふくは知らぬのです。……若君は、ご存じでいらっしゃいましたでしょうか?」

 「なにをか?」

 妙に落ち着き払ったかにさえ見える妹の態度に気圧されて、若君は言葉が出ない。それに答えの見当もつかない。

「西舘さま……小次郎さまは、わたくしと血の繋がりはござりませぬ。ほんとうの兄上ではなかったのでござります。」

(あっ、こやつ……?)

 若君は慄然とした。

「……さような痴れ事を、お前は信じておるのか?」

「はい。悲しうございましたけれど、まことにて。」

「うつけ者! あやつは、北畠の子じゃ! 弟が生まれた日のこと、儂は覚えておるわ!」

「ええ。米花御前さまは、ひどくお身持ち悪い方だったとか。御所さまを謀り、お腹に子を入れたまま、召されたのでございますよ。」

「なにを埒もない。米花御前は、さような人ではなかったわ。お前まで、下々の戯言をうのみにしておるのか。」

 若君が子どものころに見知っている米花御前は、飛びぬけて美しいけれども、悪女でも傾城でもない、善良な女として思いだせるばかりだ。

 正室の母ですら、跡継ぎの自分を脅かしかねない男の子である弟を煙たがりすらしても、それを忘れ形見に若くして死んだ側室については、後々も悪く言ったことがない。身持ちのことなど、根も葉もない。実家の父親は掌中の珠のように育てたと聞く。そのためであろう、生まれにかかわらず育ち良さげで温和な、悪く言えば世間知らずなひとだった。御所さまに召されたことを女の出世と心から喜び、奥にもすぐに馴染み、幼い若君である自分を可愛がってくれさえした。思いかえしても、たとえ過ちにせよ、悪事を隠しておける表裏のある女ではなかった。

「小次郎は月足らずで生まれたのだ。間違いはない。」

 米花御前が体調を崩した様を、若君は子どもの頃、奥で見たことすらあるのだ。それでご懐妊が知れると、正室の母ですら満更素振りや体裁だけでもなく祝ってやっていたのをはっきりと覚えている。

「それにお前、憚りのないことを言うぞ、米花どのの新鉢を割ったは、父上に相違ないのじゃ。」

「そ、そのような閨の秘め事、おわかりでございますか?」

「おふくが、泣いて嘘をつくのか。……そうよ、あれが、国分に嫁いでお前の乳きょうだいを生む前、御所の奥につとめておったのは、知っておろう。父上が検校舘の芙蓉を召し、新床でそれが起きた後の片付けは、あれらがしたので、わかったと言うのじゃ。悪い噂も伝わっていた芙蓉どのが、生娘であった証を目にして、見損なって済まなかったから、よく覚えているのだと。」

 少女は聞きながら息を荒げていたが、あの光の中で自分が唇を寄せた痣を思いだした。

「証は、ござります!」

「この上、言うことがあるか?」

いや、あろうよ、あらねばなるまいな、と若君は、脂汗を流し、すでに目を潤ませながら抗弁しようとする妹が哀れでならない。

(もしも無ければ、こやつは即刻、息が止まってしまっていたじゃろう。……むごい真似をおれはしている! ……じゃがな、偽りを信じたまま、醜い行いを続けさせて、さらに取り返しのつかぬ羽目にしてはならぬ!)

「……お前、まさか孕んではおらぬな?」

「お聞きくださいませ!」

少女は濁った声を絞り出した。ああ、この声は先ほどの若君とどこか似ている、とまたあらぬことを思う。

「聞こう。……言うてみよ。」

「痣にございます。」

 若君は、意外なことを聞いた顔になった。少女は文字通り絶体絶命の思いだから、それに意気込んでしまう。

「米花とは、罌粟のことでございますね。薬師は、罌粟を育てるを許され、阿芙蓉の毒を絞っているとか。」

「聞いている。あれは毒ではあるが、痛みを鎮める薬にもなるから、使い方次第じゃ。ゆえに、作るも売るも御所が一手に統べねばならぬわけじゃ。……それが? 米花御前の実家がそのような家だから、如何したと言うのか?」

「その祟りか、米花御前には、親の代から米花に似た、赤黒い……」と、少女はあの惑溺のなかでの記憶を蘇らせて、「……痣がございました。小次郎さまもそれを受け継がれている。」

 若君の顔が新たな憤りと絶望に歪んだ。少女はそれにも気づかず、うなされたように言葉を続ける。

「米花御前の、人目に触れるはずのない場所にある痣を、たしかに見た男がいたのでございます。その者は、咎を受けて目を潰されて放逐され、座頭としてようやく兄上に親子の名乗りをした。すぐにお手討にされてしまいましたが、薬師の家に伝わる因縁めいた米花の痣など、見た者でなければ知りようもございますまい。じゃから、……じゃから、……。」

 少女が言うべきことを吐き出してそれが尽きるまで、若君は黙って待ってやった。

「検校舘にいる、あの薬師の老人にも、その痣があったと言うのじゃな?」

「兄上、いえ、小次郎さまは、ご覧になったのです。そのとき、同じ痣が娘にあったともたしかに言われたと。」

 若君の自制はそこまでだった。弟、妹たちへの情けなさと悪党への怒りに、声が震える。

「ふつつか者、なにが痣か? 小人どもの虚言に乗せられおって……!」

 少女も話しながら、迫って来る絶望に胸が塞がれる思いになっていた。だが、抗しなければ、自分がもたない。

「いくら若君さまとはいえ、米花御前に痣が無かったとはおわかりになりますまい。」

「痣など……!」

「証左にならぬ、とお言いですか? されど、……。」

「違う!」

 若君は妹に近づいた。自分の裾をめくり、見よ、よく見よ、と乏しい明かりに右腿をかざす。

「小次郎がお前に見せた四弁の花に似た痣とは、このようなものであるか?」

 少女は、躰が砕け散るほどの恐怖に絶叫した。そこには、自分が口づけて愛撫したのとよく似た、小さな赤黒い痣があった。

「やはり、やはりさようか……。この痣は、儂ら兄弟が、おれとあいつが、大御所の四位さま―お祖父さまからいただいたものよ。これは、あやつと同じものか? ならば、いわば、浪岡北畠宗家の血の証ではないか?」

 少女は声がかすれても悲鳴をあげつづけた。目をそむけ、若君から逃がれようとするように、這って部屋を退こうとするが、肘や手でも躰を支えられない。床に前のめりに伏して、その場で空しくあがいた。

(兄上、兄上、お助けを! 兄上、助けて!)

 青年を呼んだ。もう、恋人としての名で呼べない。小さい時分によく助けてくれた頼りになる子供の兄に、心の中で救いを求め続けている。声にも出ずにいられない。

「あ、兄上ぇ……!」

「したたに(しっかり)せよ。……わかったな。自分のしてしまったことが?」

「何故? なじょうに? ……あ、薬師にも同じ痣が?」

「痣など、細工ができよう。これとは違い、こすれば消えてしまうものだったのではないか? ……そうであって欲しくないことこそ、怖れるがゆえに信じてしまう。最初から信じかけていれば、小細工に嵌ってしまうのじゃ。」

(……さよう、さようじゃ、わたくしは、信じたかった。あのお方とは血は繋がっていないから、よいのだと。大きな罪ではないと。心妻(恋人)になれるのだと。だから、信じてしまった!)

 打ちのめされて硬直したあと、再び、わあっと叫び、床に空しく這い続ける妹の姿に、若君は刺されるような苦しみをおぼえた。追いつめるつもりはなかったが、迷妄から覚ますためには、こんな風にしなければならなかった。

「むろん、むろん、痣など確たる証左にはならぬ。現に、御所さまにはおありにならぬ。」

(それがゆえに、父上はお苦しみじゃった。おれと弟には、英邁であられたご先代の四位さま(浪岡具永)と同じような、妙な痣がある。ご自分にはない。それがお祖父さまを継ぐべき浪岡御所としてのご器量の不足を示すかのように、ついお思いになられて……。まるでおれこそが、四位さまの直々の跡継ぎじゃと目の前に突き付けられているかのように……。)

 若君は、子煩悩な父との間に何か齟齬ができた最初のきっかけがそれだったとを思いだして、気持ちが一層苦くなる。

(小次郎! お前は父上の子じゃよ。なんじゃ、こんな小さな痣に拘りよって! 父上と同じではないか。……おれは、こんなもの何とも思ったことがない。おれこそが、顔以外は父上に少しも似ておらんわ! 似られなかったわ!)

 気がつくと、少女はうずくまったまま、肩を震わしていた。あっ、と気づいて若君は妹を抱き起し、顎を掴んでこじ開けると、指を差し込んだ。舌を噛もうとしている。

「やめよ、さ栄!」

 少女は呻いた。抑えられた顎を無理やり動かすと、兄の指を噛んでしまう。軽く舌が傷ついたと

きよりもはるかに多く流れる血の味がして、驚いた。口を開け、唾液と血を垂らしながら、茫然と若君を見つめる。

 長兄の指は傷ついていたが、それに慌てたり痛がったりする様子はない。だが、その眼は潤んでいた。涙が一条、流れた。

「お前たちは、欺かれたのよ。もう過ぎたことは、仕方がない。死んだからとて、なにを償えるものではない、わかるか?」

 少女は茫然としたまま、頷いた。日頃余所よそしく取り澄ましてみえる若君が、自分のために泣いてくれているのを、不思議なものを見る表情で見つめる。

「じゃが、じゃがな、おれは訊きたいぞ。……さ栄、お前にはまことにわからなかったのか? おれたちは、あいつとは腹こそ違え、きょうだいじゃ! おれは、どんな噂があっても、一度も疑ったことなどはなかったぞ。わかるのよ、顔など違ってもな! お前とて、兄として慕うておったのじゃろう? それが、いったい、どこで……?」

 少女は、その時初めて両眼から涙をほとばしらせた。先ほど襲われた途轍もない恐怖や絶望とは違う、激しい悲しみに襲われていた。恋を喪った、それは恐るべき贋物だったという悲哀は小さくなっていたが、焼けつくような後悔に心が割れる。おののくばかりの慙愧の念は、目の前で悲しんでいる若君に対して向けられた。大事な馬手(みぎて)の指から、涙そのもののように血が滴り落ちているではないか。

「申し訳ござりませぬ! 申し訳ござりませぬ! 若君さま、……さ栄は、わたくしどもは、おそろしい過ちを犯しました。……若君さまを、かほどに悩ませ、苦しませた! お詫びのしようもない! 非道の真似をしている!」

「おれはよい。おれのことは。……のう、最初はあいつからじゃな? 力ずくの無理やりではなかったのか?……そうか、ならば、なぜ、……ああ、訊いてしまう、許せよ。じゃが、なぜ、お前たち、わからなかった?」

「……申し訳ございませぬ!」

 真っ赤な目の若君は感情の動揺に疲れたのか、妙に静かに語りかける。

「お前たちこそ、つっと(ずっと)一緒におれた癖に……。おれは昔、あれが兄妹じゃと、羨ましかったほどなのに……!」

 少女はまた新しい悲嘆に叩きのめされ、泣き声をあげた。

(なんということを、わたくしは……)

 美しく貴重な幼少時の思い出が、ありうべからざる、生々しい男女の粘膜の触れ合いと体液を交ぜあう醜い行為で、真っ黒に塗りたくられていくのがわかった。

(兄妹で交わるは、大罪!)

 涙で歪んだ景色のなかで、長兄である若君が身を震わせ、両拳を固めて、悔し泣きしている。知れば、ふた親も驚き、嘆くだろう。

(これほどの罪!)

 何よりも、怖ろしい。実の兄の肉に溺れていた自分がおそろしく、厭わしくてならない。

(許されぬ、とても許されるものではない!)

 その時、脇腹と膝の裏に、痛痒が走った。床に何度も叩きつけられ、擦りつけられた手足が赤くなっている。首筋も、痛いほどに痒い。耐え難い痒みが、やがて全身を覆った。腕を見ると、真っ赤な火ぶくれのようなものが浮き上がっている。あまりの痛痒さに思わず爪をたてると、蚯蚓腫れに似たものが、みるみる広がっていくのがわかった。

(なんじゃ、これは?)

「さ栄、如何した?」

 身を両手で抱え、これまでとはまた違う種類に見える苦悶をはじめた妹を案じて、若君が声をかける。痒みが出ただけで、と答えようとして、少女は息苦しさに気づく。泣き喚いたからだけではない。呼吸が苦しい。

(あっ、魚。……そうじゃ、今気づいた、きょうだいで交われば、ひとではいられぬ。犬畜生でもそんな真似はせぬ。……魚にでも、なるしか、ない。)

 自分の肌には、醜い鱗が浮きだし始めているのではないか。こう息が詰まるのは、水の中にいなければならぬからではないか。たとえ姿はこのまますぐには変わらなくても、もうひとではない……。

 若君は、のたうちまわる妹を急いで抱き起し、首筋にも赤い蚯蚓腫れが浮かび上がっているのを見て、愕然とした。

(なんじゃ、この腫れは? この子の肌に何が起きた?)

土地の迷信を思い出し、はっと気づく。

(魚になる、というあれか?)

 といって、戦国武将にならねばならぬこの青年は、幼少期から自然にある種の割り切った現実的で即物的な感覚を自分の中に育てていて、それは合理主義にも似ていた。だから近親相姦の罪で魚に変じるなどとは信じないが、

(この妹は、それほどまでに罪を悔いてしまったか……。哀れな!)

「さ栄、気をたしかに持て。己の躰で、己を責めるでない!」


 


第六章 下

 数日後、若君さまはお忍びのように、妹の病床を見舞った。妹は起き上がることができたが、感情というものの欠け落ちたような顔で、無言で深々と平伏した。

 おふくが泣きながら、病室を下がる。前もって聞いたところだと、妹とは抱き合って互いに詫び、許しを請いあって、ともに泣いたのだという。

(ふくは泣いたであろう。それでよい。……じゃが、こやつは泣けたのか?)

 妹の、あまりにも感情が乏しくなってしまった顔つきが心配であった。言葉を発するのすら忘れてしまったようではないか。

(じゃが、無理はない。少しずつ、少しずつ、元に戻っていかねばならぬな。)

 兄の若君さまは、いつもの穏やかな声音で、静かに語りかけた。

「よいか、いずれ家督をとる者が二つ命じる。ひとつは、……死ぬな。とりかえしもつかぬが、これだけで済ませれば、まだ罪は軽い。ゆめ自害など、もう考えるな。おれとあいつだけ、……ああ、ふくもか、これ以外、誰も知らぬ。決して余人に知らせぬ。死にたいとも思うだろうが、死ねば、お前たちの……いや、お家の恥がかえって露わになると思うて生きよ。生きてくれ。死ぬな、さ栄。死んでくれるな。……お前に死なれでもしたら、おれは、……。」

 若君の声が激情に途切れたが、少女は黙って目を閉じただけである。表情はそれ以外動かない。

「わかったな。……いまひとつは、……言うな。あいつには、まことを言うてやるな。あいつも生きてはおられぬからじゃ。頼む、あいつを生かしてやってくれ。あれは、欺かれたのじゃ。狂わされてしまったのじゃ。お前も、どうか、許してやってくれぬか。……父上とおれとで、あいつを引き直す(もとに戻す)。矯めてやる。山ほど仕事を与えて、あいつの凛質を伸ばしてやるつもりじゃ。さすれば、はばかりもない北畠の者と、やがて己で信じられよう。……今は、あやつは迷い路の中じゃ。容易に出られぬ。いや、抜け出てこようとせぬじゃろう。なにを言うてやろうと、な。」

 少女は黙っている。青年の話が出たのに、表情が動かない。彼の話はしないほうがいい、と気づいたが、言い添えることは残っていた。

「あいつとは別れさせてやる。二度と口をきくな。お前は遠くにやってやる。罪を重ねる心配はいらぬ。」

 少女はまた、無言で深々と低頭した。そのまま、顔をあげない。

「新しい土地で、新しい家で、生まれかわったつもりで暮らせ。よい家を、おれが探してやる。大光寺どのの家の者の話があるが、それなどどうじゃ?」

(生まれかわって? 申し訳ございません、若君さま。さ栄はもう、魚に生まれかわってしもうたようです。)

 そう言うと兄を嘆かせるだろうから、少女は黙っていた。

 少女の中で、悲哀がまた高まっていた。仮面のような無表情の中に、それをおしこめている。いや、言葉や顔で、気持ちを外に出すことができなくなってしまっているのだ。

 まことに魚になってしまった、と思えてならない。魚は喋らぬ。なんの感情も出さぬ。目の前にいる若君さまとは、魚と釣り人の間を水が隔てているように、近い癖にひどく遠い別世界に互いにいるかのようだ。

 少女の心の奥では、長兄への謝罪の念が高まって、血を噴くようである。それを、表に出すことがどうしてもできないのだ。何かの感情を示そうとしても、顔の筋肉は凍りついたまま。言葉に出そうとすると、咽喉がつまるのである。おふくと抱き合って泣いたときですら、言葉は途切れ途切れで、乳母だった侍女の懐かしい肩に顎を載せて、自分は茫然とした無表情のままであったはずだ。

(若君さま……いえ、兄上さま、なんとお慈しみがお深いのでございますか。なぜ、わたくしや、西舘の兄上のことまでを、これほどに案じて下さっているのでしょうか。わたくしどもは、おそろしい罪びとなのに。兄上さまのお心に気づかず、一人合点と我が儘のし放題でお家を滅茶苦茶にした。ところがあの方に、それに気づかせもしないでよいとまで仰るのか。潔癖なあなたさまが、身内の乱倫に心をお痛めでない筈はないのに。なぜ、そんな我慢がおできになるので? なんという有り難い、ご立派な、……。)

(お許しくだされ、お許しくだされ、……いや、お許しいただかなくても構わない。まことに、申し訳ござりませぬ。さ栄は、兄上さまのためにだけ、残りの日々を生きまする。……)

「……あ、……兄上さま……のお役に、それで、たてますれば。」

 それだけ言うと、また躰が熱と痛痒さを帯びる気がした。口もうまく開かない。無邪気ではっさいな(おしゃべりな)自分は、もう帰ってこないのだと思った。

 若君はそうかと頷くと、少しうれしげに一つ言い残して去った。

「久しぶりに、兄と呼んでくれおったな。」

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