第20話 魚伏記 五 薬師の孫
(おれはこれで、この城の中でまたひとりだ。)
青年は、「祖父どの」の家の中が片づけられ、がらんとしているのを眺めながら、痛感した。
自分に何も言わず、また旅に出てしまったらしい。隣人の絵師が言うには、内舘あたりから人数が来て、主が急に去った家を手早くあらかた空にしていったのだという。
「何か、言い残して出たか? 聞いたか?」
と言ったが、絵師も首を振るばかりだ。ただ、その者たちは僅かの借銭の返しを言付かってきてくれて、かなりの利銀をつけて自分に渡してくれた。
「律儀なお人ですな。しかし、しばらくは戻らぬという証でございましょう。」
そうか、と青年は頷いた。念のために尋ねたが、この自分に言付けられたものはないと言う。
(急な用か、気まぐれか。おれに何も告げずに……。)
実は、告げようもない。薬師は若君の指図でひそかに深夜引っ立てられ、すでに誅殺されていた。
「物騒なことにこの場を使われては困りまするな……。」
と、愚痴を言ったのは、若君に手伝いをさせられた御書庫の新田図書頭である。その助手の安岡は、この頃まだ元服間もないが、何故か手練れであった。薬師の自宅にひとり忍び入るとたちまち捕縛してしまい、闇の中をひきずるように、御書庫の奥の奥、隠し部屋のようになった土間まで連れてきた。
「図書頭、そなたらにしか頼めぬことじゃった。」
「お世継ぎともあろうお方が何を仰いますか。」
「察してくれ。」
若君はこの奇妙な家臣を信頼していた。何があっても話を漏らすことがないのは、北畠の家史を残すことにのみ情熱を持っている風の、この男くらいだと信じている。こやつはなにもかもを記録に残したい。このことすらも、いくら止めたとて、秘かに書き留めるだろう。そして、未来永劫に人の目に触れぬように封印してしまうのだ。それで満足するから、他人に漏らすことがない。
そして、安岡であった。この少年を新田図書頭の下で働かせるように取り計らったのは、若君である。これは、今は病臥してしまった先代の四位さま―祖父が使っていた男の息子で、たしかに父である今の御所さまを飛び越して孫の若君が受け継いだ、ある異能を持った集団の次の長になる者だ。
そうした奇妙な人材を、若君は不思議に好んでいた。筋目立った家の者にはない、新しい世を作る者たちだと思えてならない。この古い家が生き残るには、こうした者たちの力が要ると信じている。この数年後に出会うことになる、蝦夷島から来た少年も、その仲間のような者と思ったのであろう。
(この薬師とて、憎んでも憎み足りぬが、お家の役に立つ男であり得た。現に、立っていた。それが、なぜ悪心を起こし、哀れな弟を誑かした?)
「理由を訊く。何故、非道をなした?」
縛って土間に転がしていた相手に、まず訊ねた。半身を起こさせ、さるぐつわを外させる。衣服を剥がれ、全身くまなく奇妙な痣など無いのを確かめられたときから、薬師は、すでに観念している。
「非道といえば、まずは、おぬしら北畠であろう?」
「……とは?」
薬師は、暴言のあとに罰の打擲ではなく、問い返しがまず来たので意外であった。
(なるほど、これが浪岡北畠の若君か。)
城中の浮わついた人気や評判では昔からわが「孫」に及ばぬが、態度だけでさすがの器量だと知れた。でなければ、自分がこうして追い詰められてはいない。凡庸な惣領息子ではない。
(小次郎、これを倒すのは容易ではない。……いや、お前がゆめ倒すべきではない相手ではあったか? お前の武家としての本分も幸運も、この統領に仕えることにこそありそうじゃ。それ以外は、考えるべきではないらしいぞ。)
それが伝えられないのは口惜しい、と思った。
自分の命はどうやらおしまいだが、世を去るまでにやっておきたいことが他にもあった。それを、この自分を誅殺しようとしている若君に言付けられるだろうか?
「ご無礼いたした。若君さまには預かり知られぬことじゃ。」
「聞こう。」
「……御所さまに、お恨みがあり申す。ならば、北畠御一門と言うても差し支えなかろう?」
「差し支えは、ある。御所さまご本人や惣領たるおれにならばともかく、……小次郎やさ栄に何の恨みがいだけるというのか、おぬしは!」
「……。」
「まだ、答えておらぬ。話を戻すがよい。」
「女を奪われた口惜しさ、辛さ。……若君さまにはおわかりになるまい。」
「女? ……おぬし、不思議なことを言う。芙蓉どの、米花御前は娘であろう。娘を奪われたというのじゃろうが、嫁に出したのじゃ。父親が、さようなことを」
「娘などではない! そう偽っていたが、あれは儂が丹精して育て、いずれ、つまにしようとしておった女じゃ。儂の女じゃった。それを御所さまが横合いから……!」
蝦夷島で、奴婢として売られていた幼女のあまりの気品ある容色に心奪われ、娘として大事に育ててきた。女の躰になるまでを足摺りする思いで待ち続け、いよいよと言うときになって、羽交いからするりと逃げられたのだ。
「……おぬしの、『若紫』であったか。じゃが、芙蓉どのとて……。」御所さまに召されて、満足していたではないか、と言いかけ、むしろそれゆえか、と言葉に詰まる。
「おぬしは、捨てられた、裏切られたと思うたのだな。それで、御所を恨んだか。」
「子までなしよった。芙蓉も許せぬ。その子も、許せぬと思うが悪いか? 思うべきではないか?」
「戯言を申すな! 逆恨みじゃ! 小次郎に何の罪があった? 妹が何故地獄を見ねばならぬ? ……許せぬ。命で償うのじゃ。」
「斬るがよろしかろう。命乞いはせぬ。……どうやら若君さまは、父上の御所さまには何も告げぬようじゃな。憎い恋敵に何の痛痒も与えなんだのは、心残りよ。」
「黙るがよい。」
「……ただ、頼みがござる。後始末をお願いしたい。」
薬師は家の中の整理や隣人への借銭の返済とともに、小次郎に罌粟畑を継がせたいと願った。
「忌まわしい。許さぬ。そんな畑など、焼いてしまうわ。……いや、阿芙蓉は使い方では薬か、……そもそも小次郎は西舘の主になる者、薬師ではない。たれか他の者に与えるとしよう。」
「よろしかろう。……若君さまも、阿芙蓉を御所が握る意味は汲まれたご様子。」
「言うたとおりじゃ。毒にも薬にもなるものなら、儂ら政を執る者が、薬にして民に与えてやらねばならぬ。……これまでの御所は、さほどに立派な行いはしてはおらぬ癖に、と言いたげじゃな?」
若君は、厭な顔をした。薬師は、思わず笑う。
(たいしたお心がけじゃが、あの畑も薬作りも、屹度いずれ、小次郎の手に落ちるじゃろう。あれのことを一番によく知るのは、小次郎、わが『孫』なのじゃからな。)
「小次郎さまに、旅に出る前に言付けたい。兄君に一心にお仕えするが吉、と。」
「旅、か。さようにのみ伝えてくれと言うのじゃな?……おぬしは、小次郎を憎んではおらぬようだ。じゃが、実の父などと称した座頭も、おぬしが仕組んだのであろう?」
「思いもよらぬことを言われる。さすがに、そこまで最初から図ってはおりませぬ。垣間見ただけの芙蓉の色香に狂った者は多かった。あの娘のせいではなく、勝手に狂いおるのだ。」
背中を向けて扉を見張っていた図書頭の背中が動いた。
「おれに従うが吉、か。……どうやら、小次郎を操り、お家をどうにかするところまでが、おぬしの仕返しの絵図じゃったな?」
「うむ、考えたりはしていたが、……もとより、分にも柄にもござらぬ。いずれ若君が相手では、さにもいきますまい。それゆえ、ゆめ背くな、と斯様にあのお方に伝えたいわけじゃ。……おだてても、命は助からぬとは知っている。……若君は、弟君をお許しになるようじゃ。安堵した。」
「なにが安堵じゃ。」
とは言ったが、若君にはこの薬師の気持ちがわかるような気がした。孤独であったのだろう。
「姫さまには気の毒をしたが、あれも、何も儂が糸をつけて弟君を操ったわけでもないのでござるよ。あのごきょうだい、揃って並大抵の美しさではないのが、災いの一因でござりましたな。……由緒正しき貴人の家でこそ、ときにお家のひとにああした無下(悲惨)が起きてしまうものじゃ。血が尊い、尊すぎるというのも」
「黙れ。……やはりおぬしが、我がきょうだいをあの所業に追い込んだ。その非道だけは、許しておけぬ。」
これが、若君のつもりでは判決の最後通告であった。薬師はまだ気づいていないようで、喋りたいことがある様子だが、もう終わらせたい。
「さもあらん。じゃが、若君は、妹君も罰せられはせぬな? 有り難いお慈悲にございますな。」
「……ところで、おぬし、武士じゃったか?」
「いや? 儂はそもそも、この国の者ではない。いつともおぼえていないが、異国から、花の種と一緒に西国に渡ってきた一家の生き残りよ。もとは唐の南」
「さようか。ならば。」覚悟は不要じゃな、楽に死ね、と若君は思い、目配せをした。
安岡が、薬師の背後から首筋をまっすぐに細い得物で刺し、何かを喋りつづけようと動いていた咽喉まで貫いた。
こうしたことは、残された青年の知りようのないことだった。
(さ栄も、嫁に行かされる……。)
青年の胸に風が吹いていた。あれほどに自分を求めていた女が、急に一切の連絡を拒み、何一つ話すでもなく、一方的に仲を断ち切っていた。そして、雪が降りだす前に、知らぬ土地に嫁ぐという。それを青年は、兄である若君から告げられたのである。
(若君は何か、気づいた。)
「お前には先に言うておくが、さ栄は近々に嫁に出す。あの小さい者も、もう嫁入り前の身ゆえ、いくら親しい妹と言うても、……相手にしてやるな。」
「……あ、相手に、とは?」
「……心無い噂を世に立てさせる真似は、兄のほうが避けてやれということじゃ。」
(おれとさ栄の間に、過ちがあったくらいのことは、感づいておられるか!……じゃが、肝心のことはご存じない。ご存じないのじゃ。)
若君にすべてを打ち明ける気などなかった。血の繋がった者同士で交わったと「誤解」(と青年は信じている)されているのは腹立たしくもあり、つらくもあったが、かと言って自分が北畠の者では本当はないと告げるのはできなかった。それでただちに放逐されるわけでもないだろうが、知ってしまった父上や若君―兄が自分をどう見るかと考えると、まさにいたたまれぬ気がした。
とりわけ、「兄」である。知らぬ間に青年の中で、紛いもない貴種として家督を継ぐ存在への、以前の自分であれば思いもよらない複雑な感情が、育ちつつあった。それは、いささかならず不逞の色をすでに帯びている。……
しかし、このときは、思うのは少女のことばかりである。
嫁入りをやめさせることはできないし、するべきでもないとわかっていた。ひそやかな関係が、少女の身のためにならないことは最初から知っていた。
だが、恋人に会いたかった。ただ一人の血縁(と信じていた者)に去られ、激しい孤独が身を食んでいる。この上、最後のひとりが離れていくのは、おそろしい気がした。
(「わたくしがお子を産めば、あなたをこの家の者にしてさしあげられます」……と言うてくれたな。)
閨での睦言にすぎないとわかっていながら、自分がそれにどれほど縋っていたか、その可能性が消えてからこそ、青年には身に染みてわかった。
そして、かれは若い男である。少女の美しい裸体が、柔らかく温かい肌が、愛らしい仕草が、くぐもった声が、よい匂いが、髪の手触りが、澄ました顔、泣き顔、崩れた顔が、痴語に他ならないけれど胸を打つあれこれの言葉が、……懐かしくてならなかった。決して喪いたくなかった。
少女がすべてを知らされ、「魚になってしまった」などとは知らない。急に心変わりがあったとも信じられなかった。
だから、慣れ親しんだ少女の居室に、予告もなくまた忍び入った。
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