第10話 図書頭 一 御書庫にて
その日以来、新三郎は左衛門尉について知れることを知ろうとしている自分に気づいた。
妹を犯そうとした男に憤慨し気味悪がっていたごく最初の頃や、生まれてはじめて身近にみた名将に憧れ、仰ぎ見るばかりだったつい先ごろとは、違う思いが生じていた。
恋敵に対する、劣等感や敵愾心からくる強い関心と言うべきものが、一番近かっただろう。
あまり考えないようにしたが、自分などがやって来るはるか前に、美しい北畠の兄妹のあいだに何か秘密が生じていたという疑いは、新三郎の脳裏を離れてくれない。
(ご異腹とはいえ、ご兄妹には違いないのだ。)
それは確かめるまでもなかった。左衛門尉こと北畠小次郎顕範の父は、ご隠居様こと先代当主の前侍従浪岡具統である。母は正室ではない。米花御前と呼ばれた側室で、すでに亡くなっている。
「この世のものとは思えぬほどに美しい方であったそうな。」
じいじどのは、感じ入ったように大袈裟なことをいったが、その姿を拝んだわけでもない者にすらその噂が広まっているというのは、その通りの大変な美形であったのだろう。
「左衛門尉さまは、ご母堂さま似でございますか。」
「であろうな。北畠さまの他の方にはあまりないお顔じゃものな。」
「覚えておりますな。米花御前は、ご分際(身分)は高くなかった。検校舘に出入りする、座頭や笛吹きや薬師の仲間の娘子であったという。そこを、大御所さまのお情けを受けられたので。」
そう話してくれた、古い勤めの台所役人もいた。
「わたしに聞いたというのは、内緒でござるよ。とくに、あなたのおあるじの西舘さまには。」
そうか、おれのあるじはまず左衛門尉さまになるな、と思いながら、何故かを聞いてみた。
「西舘さまは、亡きお母君のお話を好まれぬ。つい口にのぼらせると、ご機嫌を壊されるらしい。御所さまや他のご一門さまのご母堂のようには、高いご分際(身分)がないからであろうか。」
「西舘さまが、さような些事に拘られるとも思えぬが……。」
お胤は大御所さまではないか、と新三郎は思った。これは当時の概念からして普通である。武家において、貴種か否かは、まずは父親の血統がほぼ決める。兄弟の序列ではじめて母の実家がものを言うが、左衛門尉には正室の長兄である御所さまがいるから、逆に問題にもならない。
「腹は借り腹とも言わぬか?」
「まあ、あのお顔でござろう? 北畠さまのお顔とは違いすぎる。あれはどこから貰ったと心無い後ろ指を指されるのもお厭でしょう。……勿体のないことじゃ。」
台所役人は、馬面に変に小さい目鼻を緩めた。
新三郎が四書五経の最後の手ほどきを受けているさいちゅうの玄徳寺の中年の学僧が、少年時代の左衛門尉、当時の小次郎を覚えていた。猶子である新三郎も学ばせてもらっているこの寺は、北畠氏の子弟が必ず出入りする教場でもあった。
「よく覚えている。西舘さまの凛質はすでに明らかで、よく褒めて差し上げた。」
というのは予想がついたが、新三郎が耳をそばだてたのは、
「妹君と、それは仲がよろしかった。」
「妹君と言うのは、」さ栄さま、とは勿論言わず、「のち大光寺に嫁がれた姫君のことでござるか。」
「さよう。ある日、三つだったか四つだったか離れた妹君の手を引かれて寺に学びに来られた。そして、変わったことをおっしゃった。この妹にも、漢籍の読み方を手ほどき下されと言われるのじゃ。これはまことに聡い女子で、史書なども読みたいと言いおるのですが、わたしのそばにおらせてよろしいかと。女子に学問は無用でござろうと申し上げると、小さな姫さまの方は悄然となさるばかりであったが、幼い西舘さま、その頃はまだ小次郎さまであったかがこう、進み出て、いや、あるいは弁天丸さまであったかもしれぬ、そうじゃ、童形であったし、妹君などはまだほんとうに幼子で、弁天丸さまは十か十一か……」
長くなりそうであった。日頃、漢籍を教えてくれるときの難しい顔とはまったく違うのが面白くはあったが、新三郎も焦れた。
「その、西舘さまになられる子は、何と仰ったのです?」
「……うむ、こう膝立ちに進み出てこられて、言われた。いえ、女子こそは学問を身につけるよう努めるべきにございましょう。乱世にござれば、女子もまた戦わねばならぬ。文字を知るは、武具を備えるに似ておりましょう、妹の学を好む心がけは天晴と存じます。わたしはこの……ええ、お名はなんと申されましたか?」
「さ栄姫さま?」
「さ栄に、武具をやりたいと。そして、それからしばらく、ご兄妹で仲良く並んで素読を習われた。兄君が妹君に教えてやるさま、いま思いだしても殊勝にも可愛くて、涙が出る。」
(女子もまた戦う、か。西舘さまらしい。……そして、どうも母君のご分際(身分)をそうお気に掛けるご様子でもないのも、それらしい。)
ただ、仲のよい兄妹というのが、可愛い小さな子供たちの話だと言うのに、胸をなぜか小さく刺した。
「血のつながりはないと言うのに、まことのご兄妹のようであられた。」
「なんと? なんと仰った?」
新三郎の権幕に驚いて、おしゃべりの僧はのけぞって堂の床に片手をついた。
「大きな声を出されるな。知らなんだか。小次郎さまは、実は御所さまのお子に非ず、と聞いた。さようなこともあろうて。母君は、卑しい出の身を御所さまのお目に留まったものの、実はすでに孕んでおられたとの噂。ご本人もご存知ないこととはいえ、月足らずでお生まれになったにしては、あの立派なお身体は……。」
「まことに、まことにござりますか?」
「埒もない噂じゃ。蠣崎どの。この者の言を真に受けてはなりませぬぞ。……いくら噂とはいえ、滅多なことを口に出すでない。」
離れたところにいたはずの老僧が、たまらぬ様子で口を挟んだ。寺の主を前に、調子に乗って喋っていた僧はばつの悪い顔になった。
「……との、口さがない者の噂もあった。はるか昔に、そんなことを言う者もおった。で、言い方はおかしいが、つい覚えてしまっていた。もし、じゃぞ。万まんが一そうであっても」
老僧が大きな咳払いをする。僧は上司の不機嫌に首をすくめて、
「……噂にすぎぬ。なんの証左もない。それに比べ、ご兄妹お仲睦まじいは、たしかじゃ。……あ、いくら大御所さま、御所さま、おともに御海容とは言え、愚僧から聞いたなどとはゆめ言われるな。」
老僧がまた咳払いをした。だから言うたのだ、いい加減にせよ、との意味であろう。
これで納得しようか、と新三郎は考えた。それがよいし、身のためでもある気がする。
(お血のつながりがなければ、あのような真似に西舘さまが出られたのも、罪は減じよう。以前に何ごとかが、……などは、おれなどが気にしてもそもそも詮無いではないか。いまは、姫さまも西舘さまを遠ざけておられるのだし。)
(そうだ、こそこそとあるじさまたちのお昔を探るような真似は、今日を限りにするがよい。)
(あれほどのお美しい男女が、若き日にごく近くに寄り添っておられたのだ。もしも腹違いですらない赤の他人であれば、何か間違いがあったとて仕様がないというもの。)
そう思った瞬間、新三郎は思わず自室の板壁を叩いた。それを思っただけで、いたたまれない思いがせりあがってくる。
(うつけ者め。過ぎたことは……いや、それがあろうとなかろうと、おれには何のかかわりも……)
ない、と考えると、また泣きたいほどの惨めな気持ちに襲われて、座りこんだ夜具の上で肩を落とす。
そして、噂の真偽を知りたくて居ても立ってもいられない。
(ほんとうに、お二人は実の兄妹ではないのか、それだけは知っておきたい。)
それを知るのが、決して触れられるはずのない姫さまに、いくらか近づくことのような錯覚がある。それに、あの西舘さまが実の妹ぎみに手を出すような人でなしというのは、ありえないと思えてならないのである。
(米花御前。西舘さまの母君がほんとうに不義の子を腹に、御所に召されるようなおそろしい真似をする人だったかどうか、それだけ確かめたい。)
確かめてどうするのかは、新三郎にもわからない。
新田図書頭。高位の武士のような名だが、文字通り、書庫勤めの古役人であった。
浪岡城の政庁にあたる内舘の片隅に、御書庫と呼ばれる古寺のお堂のような一角があり、そこで用済みの書類と古い書物の山に埋もれている男である。この、公文書館兼図書館の文字通りヌシであるといえた。本や書類を積み上げすぎて薄暗くなった板の間で、古い文机に向かい、小さな背中を丸めていつも筆を舐めている。なにか人ではないものが、そこに棲みついているかのようだった。
いくつとも知れぬが、もう隠居の齢ではないのか。薄暗い部屋のなかでまだ外光が差す一角で作業を手伝っているひどく無口な若い侍が、後継者なのであろうか。親子にも見えるが、若者のほうは人並みの容姿なのに対し、図書頭は容貌、魁偉であるとしか言いようがなかった。低い鼻に、蝦蟇のような大きい唇、たるんだ頬。ただ眼だけに強い意志が宿り、日々なんの変わりもなく単調に流れていったはずの膨大な時を経ても、その光が濁ることがなかったようだ。
この図書頭に新三郎が会うのは、はじめてではない。どころか、元服前から、しばしば顔をあわせている。それなのに、いっこうにこの男の佇まいには慣れぬ。刀も振るえぬような貧弱な小男だし、どうやら足も悪いようだが、この男が当たり前の小役人ではないのは少年にもすぐにわかった。
と言って、親しく話をしたことなどないのである。この奥行の深そうな御書庫には、姫さまに命じられて書物を借り出しに来るだけであった。書名を記された紙を渡すと、若いほうの役人が黙って奥の方に行く。(姫さまはいつも、新三郎のための書物を紙片に書き添えてくれたものだ。)それを横で、図書頭はちらりと眺め、その頃の天才丸のほうにも少しだけ目をやるが、別に何を言うでもない。御所さまご猶子の新三郎になってからはさすがに目礼めいたものはするようになったが、態度に大きな変わりはなく、すぐに書きものに目を落とし、噛みつくような勢いで筆を走らせるか、あるいは天井を睨んで呻くのだった。有体に言って気味が悪く、なにか気圧され、新三郎も待ち時間つぶしに無駄口を叩くような気にもならない。
姫さまの望む本が見当たらないとき、若い役人が図書頭にそれを無言で紙片を差し出して告げにくるときだけ、新三郎はこの老人(だろうか)の声を聴くことができる。ほぼ間髪を入れず、図書頭はその本はどこそこの棚にある、と半ば叱る口調で教えてやる。その声だけは大きく、若々しかった。
近頃は戦で、この埃と墨の饐えた匂いのする御書庫にも足が遠のいていたが、新三郎は図書頭が恐らくは長年書き綴っているのが何かは知っていた。それが、書庫の管理人というだけではないこの男の、最も大事な仕事なのだろう。
浪岡北畠氏の家史の編纂である。
南北朝の時代に奥州に派遣され、足利氏はじめ北朝方と悪戦苦闘した北畠氏がいかにして南部氏に身を寄せ、やがて津軽浪岡を拠点とするようになったのかの詳しい経緯は、すでに子孫たちにすら定かではなくなってきている。かれらが後醍醐帝の忠臣北畠親房、顕家親子の血統に連なる名族であることには、誰も疑いを挟まないだけだ。
繁栄をきわめた先先代以来、同族・伊勢北畠氏の支援で官位を得、名実ともに貴顕の地位を回復したが、それだけに対外的にも家史を明瞭にしておく必要は高まった。文化事業に熱心だった先代の大御所さまももちろん修史には高い関心を持ったが、いまは御所さまが系譜の確定をひどく気にかけているという。現にしばしば、この薄暗い御書庫をみずから訪れ、図書頭と話し込んでは、先生代までの累代の事績の記録編纂を急がせてきたという噂である。
お家の来し方について教えて貰いたいことがある、と新三郎が尋ねてみると、図書頭はゆっくりと目をあげて、
「あなたさまは、御所さまのご猶子でいらっしゃるので……。」
特別に話をしてやろう、と言わんばかりなので、新三郎は畏れ入ったことだと思った。図書頭など位の低い家士でしかない筈だが、御所さまとその親族くらいしか応待の必要はないくらいにごく自然に思っているらしい。分をわきまえぬ傲岸と言うべきだろうが、お勤めではご書庫を一歩も出ないかのようなこの男にとっては、自然なのだろう。
「人払いを頼みたいが。」
部屋の隅には窓明かりに向かって、いつもの若侍が背中を向けて何か書いている。
「ご案じ召さるな。あの者は耳が聞こえませぬ。」
「さようなことはなかろう。図書頭が指示を与えるのを、わたしは元服前から知っている。」
「あれは、拙者の唇を読んでいるのでござる。背中越しに何を言っても、聞こえはせぬ。御所さまがお忍びのさいも、そうしております。」
ならば、と新三郎は単刀直入に聞いた。
「西舘さまのお昔について、尋ねたい。悪いお噂があるらしいので、それを打ち消す証左を何か持っていないか。」
「西舘さまはまだ、生きておられる。」
「まだ?……然り。」
「拙者が年来勤しんでいるのは、お家の成り立ち、累代の御所さまとご一族のご事績を調べ、間違いのないところを書き留めることにござる。ご在世の方々については、未だ調べるところにござらぬ。」
「とか言われると思うた。聞き方を変えよう。西舘さまのご生母、米花御前について、何か存じていれば、教えて貰いたい。」
「それも、我がお役目にとっては、些かご無理のお問いかけで。」
「亡くなっておられるが?」
「女であられるゆえ。女はご家史には居て居ぬようなもの。お生まれの家の系図をご覧になったことがあろう。いかなる人も、女、とだけあって、ろくに名も載っておらない。ご法名が付してあれば上々。俗名など決して後に残らない。あなたさまやご兄弟のお名は記録されて後に伝えられようが、母君、姉君や妹君のお名は忘れられる。」
それはそんなものだな、と思ったのは、新三郎もこの時代の男である。図書頭も、別にそうした事態を非難するわけではない。女のしたことや人となりは、自分たち歴史家の仕事の範囲にはない、と言いたいだけだ。
「この御所の姫君の皆さまも、斯様に扱われましょう。あなたさまのおあるじ、無名舘の姫さまも、大御所さまの一女、とだけ書かれる。いや、記録には、母は正室、大光寺何某に嫁す、死別後、別の家の何某に再嫁す、とは残されるか。拙者ならその程度は書く。それだけにござる。麗しいお名も、惜しいことに、消えてしまう。」
無礼ではないか、と新三郎は怒鳴りつけたい気持ちを抑えた。話の流れとはいえやや唐突に姫さまの名が出たのと、思いもよらなかった多弁に、この老人が何かを知っていて、何かを喋ろうとしている気配を感じている。
(別の家の何某に再嫁す、とはいかにも余計で、いまいましい。)
「……じゃが、図書頭は書かぬまでも、それ以上を知っているというわけだ。米花御前のことも?」
図書頭は頷いたように見えた。
「米花、の別の名前をご存知か?」
「いや。お米の花ではないのか?」
「違いまするな。唐の国でのその花の名を直接に移したものかもしれぬ。花弁は四枚、たしかに米花というべきか。……罌粟でござるよ。」
「罌粟?」
「蝦夷島にはござらぬか? 津軽には、唐土から渡って久しい。……妖花と言うべきでござろう。」
「ようか?」
「毒を含んでいる。恐ろしい毒と聞いております。人の心を溶かしてしまうのだとか。……遠く天竺から、あるいは、さらにその西より来たともいう。ひとが己を喪い、酔ったようになって、痛みも死の恐れすらも飛ぶ。しかし服する量を過ぎれば、やがて苦しみながら死んでいくしかない。狂い薬である、とか。」
そんな名前を冠される女もまた……、と新三郎は心が冷えるのを感じたが、図書頭は続けた。
「毒でもあるが、薬でもある。痛みを消すというのですからな。それを思えば、妖花などとは言えぬか。」
「図書頭。悪いが、わたしにはよくわからない。何を教えてくれんとするのか?」
「お教えはしておりませぬ。知ったことを、口に上らせているのみ。……米花御前は、検校舘にいつしか流れ着いた、おそらくはどこかで唐人の血を受けた薬師の娘であられた。この薬師が、浪岡にも罌粟の花を持ちこんだのじゃ。」
「それで、米花御前。」
「それだけのこと。罌粟の花は、ただ美しく咲いているだけで、別にそれ自体ひとに毒になろうとも薬になろうとも思っておりませぬな。米花御前も、そのようなお方であった。あれほどの美しさには、心を狂わせる者もいたであろう。が、それはあのお方の所為ではござらぬ。」
「大御所さまに召される前に、米花御前と通じた者がいたのか?」
やはり、と言いかけて新三郎は上ずった声を飲み込んだ。
「さようには申さぬ。むしろ、言いたいは逆。情を通じたならば、それを狂ったとも言えぬ。手も触れられないからこそ、心狂う。まことに胸に掻き抱ける女を、狂うほどに想える男は、かえっておらぬものでしょうな。」
新三郎はなぜか顔が熱くなったが、
「あれほどの美しさ、と今言うたな。図書頭は米花御前を実際に目にした。……毒にあてられたか?」
「あたりましたな。」図書頭は表情を動かさずに答えた。「もちろん言葉を交わしたこともない。こう見えて、妻女もおるのです。二十五年も前にも、もうその齢なりの分別はあった。それが、遠目に検校舘の噂の芙蓉どのを見たときには、手の力も抜けて、包みから書物を落とした。今でもあれほど美しい女を知らぬ。」
新三郎はさ栄姫さまを連想したが、すぐに左衛門尉さまの顔を思い出した。
「芙蓉どのがお名前か。ならば、芙蓉御前がよかったのに。」
図書頭は声を出して笑った。そして、
「儂も思いました。知らなかった。あの方の父親は、そんな名を娘につけて、儂らを―浪岡のお城の者を陰で笑っていたのかもしれない。そらおそろしいことじゃが、芙蓉はおそらく、阿芙蓉からとっておる。罌粟の花の茎からとれるという、毒の名よ。」
遠い昔の見も知らぬ人物の、何者か―おそらくは浪岡城の人々もそれに含まれるだろうが、もっとたくさんの人びとへの激しい悪意を感じ取って、新三郎は何か重い塊を無理に呑まされた気分になる。
「……毒にあたって、どうされたか?」
「……お恥ずかしいが、夢に見ました。悪い夢を幾夜か見た。」
新三郎にも推量がつく。少年自身、身に覚えのないことでもない。
「それが若い者であれば、夢と現つの区別がつきかねる者も出ましょう……。まことに現つで、御所さまに召された女と、臥所をともにしていたと思い込む輩がいた……かもしれぬ。夢を信じ切って、こっそりとそれをたれかに囁く者が少なくないかもしれぬ。……そこまで人を狂わせるのが、すなわち毒花。だが、当の花の預かり知るところでもござらぬ。」
「では、つまるところ、一部に流れる悪い噂……西舘さまは大御所さまのお胤ではない、などというのはあくまで妄言なのじゃな?」
図書頭は、どういうわけか、痛ましい目つきで新三郎を眺めると、すぐにひどく崩れて下卑た表情に変わった。学僧にも儒者にも見えるこの書庫のヌシの、これが一面の本性かもしれない。そして、笑った。
「さてさて、それはいまや、かの美女を召し、新床を供にされた大御所さまだけがご存知のこと。いや、大御所さまとて、実のところはお判りではないものかもしれぬ。ああいうものは、女が言うを信じる他ない。」
新三郎はだんだん腹が立ってきたが、最後に一つだけ喋らせようと思った。
「西舘さまは、……いや、亡くなった米花御前は、月足らずの子をお産みだったか?」
「立ち会った産婆でも探し出して聞かれるしかないが、産後のひだち悪く亡くなられたのですからな。言い切れはせぬが、さようでもありましたでしょう。」
「西舘さまは、月足らずの子にしてはお身体も大きい。」
「あなたさまは、ここに来られてから、短い月日にまた随分と大きくなられましたな。来られるたびに背が伸び、腕が太く、肩が広くなる。」
それが答えなのだろう。未熟児だったからと言って、のちの成長に関係があるとは限らない。
新三郎は、図書頭から聞けるだけのことは聞けたように思えた。
「いや、お陰で悪い噂に根も葉もないとわかり、胸のつかえが下りた。」
と言ったのは何重にも嘘だが、では礼の一つでも言ってここは立ち去るか、と思っていると、図書頭はさきほどの下卑た表情ともまた違う顔になっていた。
「その足で今度は検校舘でたれかに話を聞こうとお思いなら、おやめなされ。あそこは余所者ばかり。出入りも頻繁で、昔のことを覚えている者も少ない。ご猶子さまに迂闊なことを喋る、拙者のような粗忽ものもいない。それどころか、なかなかに剣呑な場所。」
「心配痛み入る。あそこから肩もみや鍼医は呼んでも、あまりこちらから立ち寄りたくはないな。今の話聞くと、どうも取って食われそうじゃ。」
「げに。……これ以上は何を調べても埒が行きますまい。母君のことを調べているなど、西舘さまに勘づかれてもなりますまい。」
「さようらしいな。」
西舘さまは……、と言いかけて、図書頭は自制した。この少年にそこまで言ってやったところで、何にもならぬ。
「無名舘の姫さまも、決して喜ばれませんな。あなたさまに濃やかなお心配りくださる、姫さまですぞ。……お頼みの書物でわかる。必ず、あなたさまのための本を混ぜられる。」
新三郎は真っ赤になった。この男は、いろいろなことに勘付いている。絶対に喋らないことも含めて、さまざまに知っているらしい。
(……さようだ。おれはどうかしていた。姫さまのお気もちなど、なにも考えず、こそこそと嗅ぎまわって、こんなところにまで。これが、あるじさまに対して武士のやることか。)
触れられない女相手だからこそ狂う、と先ほど聞いた言葉を噛みしめた。いかさま、おれは狂っていたと思った。
「忠言、まことに礼を言う。その通りじゃ。このような真似は、もう止す。すまなかった、ここにもしばらくは来ぬ。忘れてくれ。」
「そうはいかぬ。」
図書頭はまた、少し品のない顔つきになった。後の世なら、書痴の顔と形容しただろう。
「ここには、御所さまもお忍びがあるとは、申しましたな? 今は御催促ついでにお越しで、気晴らしに四方山話をされるのが常じゃ。拙者がお相手するそのとき、ご猶子が亡き米花御前について気になさっておられて、とつい口の端に上らせてしまうやもしれませぬ。我ながら心配じゃ。」
「おい?」
結局、新三郎は松前を通じて本を取り寄せる約束をさせられた。『孟子』の注釈本だという。
「孟子は国禁の書、とは言わぬが、積んでいる船が必ず沈むという言い伝えがあって、なかなか入ってこぬ。堺や京を通じてもなかなか手に入らぬ。しかし、蝦夷島からなら入るかもしれませぬ。松前のお里に頼んでくださらぬか。」
「伝えてはみるが、唐土はるか北方の山丹とやらを通ってやって来るのじゃ。もしそこで註文できたとして、本が届くのは、いつになるやらわからぬぞ?」
「ようございます。一度揃えてみたかった。さすがに、間に合うでしょう。」
「何に、間に合う? ……ご修史に、ではあるまい?」
いつの時代も変わらぬ愛書家特有の顔になっていた図書頭は、はっと気づいて、表情を無理矢理に落ち着かせた。
「拙者の死ぬまで、にでござりますよ。お礼申し上げます。楽しみなことじゃ。あなたさまも、一度読まれるとよろしかろう。」
(違うな。この男、何か不吉を予期している。本や書き付けに埋もれてひたすらお家の来し方を探っているうちに、余人に見え難い行くし方が見えるのじゃろうか?)
「……また、来る。今度は、お家の先行き(将来)について聞かせてくれ。」
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