第3話 夜の青年 三  左衛門尉

 剣を下さずに、後ろを振り向いた。駆けるような足音が聞こえる。

 天才丸には、もう聞こえていない。前のめりになって、なかば気を喪っている。

「兄上。」

 さ栄の声が闇の中からした。手燭の円い光が近づくと、妹の顔がわかった。

「待っておればよいのじゃ。なぜここまで来た?」

 さ栄は顔を歪めたが、伏せている天才丸の姿をみると、予期していたとはいえ息を呑んだ。

「その者を、殺されましたのか?」

「死んではおらぬな。」

「では、ご勘弁ください。ご無礼ありましょうが、さ栄が命じたことでございます。申し訳ござりませぬ。」

 さ栄は低頭した。声はもう、冷たく落ち着いている。四つ齢の違う兄は、久しぶりに会った妹の顔を見つめた。

(三年? いや、四年はたったか……。)

「お前、死ぬと申したそうじゃな?」

「はい。」

 懐剣の鞘を抜き放った。喉にかざしたりはせず、片手に構えた。あたかも兄に切りつけるようだ。

「それで自害するか。」

「はい。その子がもし死ねば、兄上に穢される前に、さ栄も死にまする。」

 左衛門尉は薄く、皮肉に笑った。

「お前、いつから左程に慈しみ深いあるじになりよった?」

「……。」

「よし、こやつの命救ってやるが、その代わりに、お前の寝所に案内せよ、……と、もし言うたら?」

 さ栄は体を強張らせたが、うずくまっている少年の姿に目をやると、

「ありがたきことに存じます。ならばやむを得ぬ仕儀にて。」

「なんじゃと?」

 左衛門尉は驚いたが、

「……やはり死なぬ理由ができたの。よい手じゃ。」

「いいえ。死にまする。ご乱暴があれば、今度こそ必ず自害いたす。ただ、この子の命と引き換えと思えば、心安らぐ気も。」

「うつけたことを。……あっ、お前、まさか?」

(おれを殺そうというのか? たしかに閨に入ってしまえば、俺とていつかは無防備。こいつとて、どんな手を使うやしれぬ。おれと刺し違えて死ぬつもりでは?)

「なんでございまする?」

 さ栄は冷たい笑みを浮かべた。左衛門尉は、はじめてみるさ栄の顔に、肌が粟立つ気分に襲われる。

「……気分が起こらぬ。」

「……。」

「さ栄、その似合わぬものをしまえ。」

 さ栄が黙って懐剣を鞘に戻し、あらためて慌てた風に、天才丸の方に駆け寄った。

「そ奴に言っておけ。要らぬことを知った。覚悟はしておけと。」

「兄上! どうかご容赦くださいませ。この者は、まずはさ栄のためにも、何も申しませぬ。かまえて他言はござりませぬ。」

 左衛門尉は、わかっておるわ、と背中を返して呟いた。

「また斬りかかってくるがよい。そのときに、たれが何と言おうが斬ってやる。」

「……兄上。」

「起きぬか、天才丸、か。あるじさまの着物を汚すな。」

 はい、と呻いて、天才丸は、起こしてやろうとしたさ栄の手だけを借りて、よろめきながら立ち上がった。あらためて片膝をつく。さ栄が横で深々と頭を下げた。

 それには目をやらぬまま、左衛門尉は離れていく。


 この広く、また意識して複雑な構造にされている城内で、西舘さまである左衛門尉の顔を見ることはその後もなかった。もちろん、この無名舘に足を運んでも来ない。

「案じずともよい。」

 とだけ、姫さまは言ってくれた。

「成敗をお考えではない。」

(それはまあ、仰るとおりではあろう。もしおれを引きずり出してお裁きということになれば、自分の途方もない罪と恥をさらすことになるから、公のことにはなされぬ。)

 それとなく、できたばかりの朋輩たちに北館で尋ねてみると、左衛門尉の評判はひどくよかった。女どもを騒がせる、その容姿だけのことではない。

 四、五年前の十代の終わりに若くして分家を継いだが、文武に抜群の器量だというのは皆の認めるところであった。将としての凛質を御所さまも認め、北畠宗家の軍の指揮をこの若い弟に預けたが、それ以来、北畠の兵は顔つきが変わったのだと言う。

 さらに、父君の大御所さまへの孝心の厚さにも定評があった。

 大御所さまは寺社に気前よく寄進されてきたが、どちらかと言えば倹約家の御所さまは、あまりよいお顔をされない。それをしばしば西舘さまが、ご自分の懐から大金を出され、大御所さまのご信心をお支えになられているらしい。大御所さまのご情愛も、おそれながら御所さま以上に、ご次男の西舘さまに注がれてきたというのも、むべなるかなであった。

 そうした自分の信望にみずから泥を欠けるような真似は、決してあるまい。

(ではあろうが、……)

 天才丸は、姫さまが自分に感謝してくれているらしいのだけはうれしい。が、あとは憂鬱ではあった。

 姫さまの言葉はあるが、安心できるものではない。闇討ちで口を塞がれる用心は、要らぬでもない。たとい命まではとられぬかもしれぬが、何をされるものやらわかったものではなかった。この土地での天才丸の将来を塞いでしまうくらいの力は、家内で既に持っている人物なのである。約束された元服までの「しばらく」がうんと長くなるくらいで済めばよい、と覚悟した。

「後ろ暗いことはなされぬ方じゃから。」

 さ栄は天才丸の顔の腫れも引いたのを確かめてほっとしたが、浮かない少年の表情には、ついこう慰めた。

そして、はっと気づいた。天才丸の災難になった左衛門尉のやろうとしたことほど、人として恥じるべき、後ろ暗いものがあろうか。まるで説得力がない。

 それを聞いて天才丸もあきらかに一瞬、妙な顔になったが、すぐに、はい、と元気の良い声を出した。

(姫さまが忘れられるのなら、それに越したことはない。)

と思っている。

(おれも忘れたい。考えるだに、気味が悪いのじゃ。)

(近親でまぐわえば、人間ではいられない。やがて体中に鱗が生えて、魚になってしまうというぞ。)

(まったく、考えるだに……。)

 あの美貌の青年と、このやさしい姫さまが兄妹で白い肌を絡み合わせている白日夢に、もう何度も悩まされていた。今も、姫さまの心配げなお顔の下の、顎からのどへ、さらに首から胸元に届く柔らかい線をつい見てしまい、それに左衛門尉の赤い唇が押し当てられる、あやしい景色が頭に浮かんだ。頭を振ってそれを払い、まともな考えに戻ろうとする。

(姫さまがお可哀想じゃ。あのようなご無体な兄君をお持ちで、それが西舘さまなのじゃから。)

「姫さま。」

「……?」

「畏れながら姫さまは、天才丸がお守りいたします。ご安心あれ。」

「そうか。頼む。」

 妙に上ずった声をあげる少年の元気さに安堵したが、とたんに、物憂い気持ちが押し寄せてきた。

(この子はまだ、知らぬ。)

「はい。」

「……下がってよいぞ。」

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