第28話 季広
松前の町は、なるほど狭い。浜の潮の濃い香りが、坂を上りつめた先に小さな堀と門を構えた大舘にも風に乗って上がってくる時間があった。
若狭守こと、蝦夷代官蠣崎季広は、年若の息子からの書状を前に、沈思する風であった。
(北畠の姫君……?)
蠣崎季広には、抜き難い家格と血統への劣等感がある。いくら武勇を鳴らそうと、あるいはいくら富を蓄えようと、蠣崎家など筋目の正しい武家ではないと扱われてきた。その口惜しさは、安東家中でも厭というほど思い知っている。
公儀から「屋形」名乗りが許されるほどの家格を持ちつつ、一方で歴史的な「虜囚の長」の座を誇る風すらある主家―安東家においてすら、高位の家臣は鎌倉以来の板東武士の流れを汲む者が多い。安東家の盛衰に応じ、お家に付き従って奥州や蝦夷島を転々としてきただけである。さもなければ、現在の本拠地である出羽で召し抱えられた歴とした侍たちであった。本来の身分や蝦夷の血筋を疑われる家などは皆無である。
ところが蠣崎家は、蝦夷島の地生えがいつの間にか和人に同化したに過ぎないのではないかと疑われている。若狭源氏武田家を祖先に持つと称しても、あまり信じて貰えない。せいぜい、若狭から流れてきた商人が侍の風采をとったくらいのことだろう、と片づけられる。
その家の三男が、浪岡北畠氏の姫君を正室に迎えたいというのである。しかももはや、話はできているかのような書き振りであった。横死した先代か、あるいは今の実力者である浪岡左衛門尉の了解は得ていると言うのだろう。
季広は、自分が公家の娘を迎えるかのような昂揚をまず感じた。そして、遠く離れた地で育っている三男を褒めてやりたい気分になった。そうしてやるべきだろう。安東家陪臣に過ぎず、若州などと称してはいるが無位無官の蠣崎家に、正五位の武家貴族の血を入れられるというのである。
だが、季広はたちまち冷静になった。この人物の心は、二段底、三段底になっているでは済まない。温厚篤実、忠良をもって内外に知られた蠣崎若州季広の心の底は知れず、蓋を開けていけば、幾重にも考えが潜んでいた。その奥にあるものの正体は、季広自身も知らない。
おそらく最後に潜むのは、戦国の世に生きる武家の生存本能であっただろう。ただ蠣崎家のための厳しい計算こそが、季広の思考の本道であった。
この点、無私であったと言ってよい。
無私であるからこそ、先年も実の子たちを死に追いやった。蠣崎家の当主としての地位を、二十代に入った息子たちに簡単に渡すわけには行かなかったのだ。
嫡男は、それが最後までわからず、もう家を継いだくらいのつもりでいた。そのために、季広に言わせれば、家を危うくしようとした。
若君として薫陶を与えてきたはずの長男は、まことに浅い考えで自分の対蝦夷融和策―と言う名の譲歩による平和―を否定するようになっていた。些細なことで蝦夷の一部族の討伐の兵をあげ、和人の旧領を回復するのだと唱えた時には、これを除かざるを得なかった。
より膝下で育てた次男は、やみくもに武功に焦る男ではない。だが、死んだ長男の盟友であったらしい南条越中が、長子の急死に潜むものに気づいたらしい。
この有能な男が、誰にせよ新しい代官の世になれば、腕を振るうのは見えていた。妻の実家、長女の婚家として幾重にも親族として結ばれてきた南条家の当主を、季広は頼りになる家臣だと信じていた。だが、隠居して力を喪ったときに、この硬骨漢が正義に照らし、子殺しの先主をどう遇するのかはわかったものではなく、不安であった。
もっとも、不安だけで義理の息子にあたる忠臣を殺す決意はつかない。
予想もしなかったことに次男が急病死したとき、季広は南条越中を除かねばならないという天意が下ったと思った。
もしも正妻の子の残りひとりである天才丸―新三郎慶広と言う名を貰ったらしい若い三男にでも家督をとらせれば、これを実の弟のように可愛がってきた南条の地位は一層揺るぎない。四男を代わりに据えてやっても大して変わりがない。代替わりのあと、南条は、亡き長男の同志として、いかに振る舞うだろうか。
南条越中の清廉と忠義は知れ渡っていたから、謀叛の濡れ衣を着せるのは難しい。その妻であり、天衣無縫のあまり誤解を受けやすい長女を犠牲にせざるを得なかった。
長女と南条を折加内村長泉寺に丁寧に弔ってやったつもりであったが、無辜の身で刑死した長女の呪いで、折加内村の川には鮭が上らなくなったという。さもあらん、と季広はひたすらに手を合わせるばかりだ。
(天才丸……、わしがどのような思いで家を守ってきたか、わかるか。)
五つ六つも年上で、出戻りの後家だという姫との恋に夢中に違いない三男の、齢の割にあどけなかった表情を、父親は思い出した。
しかし、やはり、家督は天才丸にやる。季広はほぼ心を決めていた。もう一人の候補である四男と比較したとき、伝え聞く「新三郎慶広」との器量の違いは、季広の目には明らかだった。
生身の父親としては、側室の子である四男のほうを実は好んでいると言ってよい。このあたりは、理屈ではない。天才丸よりやや長く手元に置き、そのぶん馴染が深いだけのことでもあった。
しかし、家を継がせるにあたっては、理が無ければならない。天才丸は正室の子であり、わずかながら早く生まれていた。それだけでは足りないのだが、伝え聞く蠣崎新三郎の評判は、取るに足りぬ三男に過ぎなかった小さな天才丸にも父が感じていた豊かな素質が、津軽で花開きつつある証であった。
この春、はるばる京から渡ってきたという国手は、患者だった新三郎が何故か余程気に入ったらしい。ゆくゆく一国一城の主が勤まる男だと絶賛して、父親を喜ばせていた。新三郎はただ勇敢な若者というだけではないのを、家中で知らぬ者とてなかったという。才知に長け、上士からも同輩からも信望が厚いらしい。
そして、本人がどう感じようと、武士として矢の雨を潜る場数を踏んでいるのは、猛々しかった亡父に従って蝦夷との戦いに明け暮れた季広にとっては、好ましいものだった。
四男がいかにも才ありげに見えて、まだ出仕先の秋田安東家では快適に過ごしているだけで特に存在を示すでもないのに比べ、こちらの望み通り名家の猶子に取り立てられ、そのうえ姫君まで貰えるというところまで至っているのは、北畠宗家の覚えがよほどめでたいのだろう。
それは親として銭金の支援は惜しまないできたし、なにより浪岡には浪岡の考えや期待が松前にあればこその扱いのよさでもあろうが、新三郎がそうした期待を受けるにふさわしい働きをしていればこそだと思えた。
(その、浪岡北畠。)
季広は腕を組んだ。女をはじめて得た息子の自然に躍るような筆致を、しばし忘れる。
(仮に天才丸に家督を継がせてやるとして、……浪岡北畠にこれ以上深入りさせるべきか?)
驚くべき「川原御所の乱」の始末と、その後の凄惨な内紛の報は、新三郎がそれを伝えなくても、海峡を越えて届いていた。
季広は、この北の町からできうる限りの情報の網を伸ばしている。名目上は所領として与えられているが統治の及ばぬ蝦夷島の北―蝦夷地―はおろか、奥州一円から東国、京に至るまでだ。主に商人たちに話を集めさせたが、そればかりではない。知遇を得た国手の京への帰途をできるだけ安楽にしてやったが、早速多額の挨拶をつけて、京のことを教えてくれる情報源の一つにしてしまったくらいだ。
対岸の津軽のことなど、すぐに耳に入るのである。
(先代の御所が亡くなって、浪岡北畠は揺らぎにゆらいでいる。先々代も逝き、殿上人にまでなった大隠居は、老耄の果てにもはや子供に戻ったと聞いた。当主は、『兵の正』を名乗る若者か。下手をすれば、早晩沈む。)
蠣崎季広は、息子を取り立ててもくれたという浪岡左衛門尉顕範に、危険な匂いを感じていた。息子はかつて、「西舘御所」「左衛門尉さま」への熱い敬慕の念が伝わる書状を報告書がわりに送ってきたものだが、ある時からそうした記述が絶えた。無意識のうちに、息子は左衛門尉の何ごとかを見切っているに違いない。
(所詮は、馬上の人らしい。)
謀叛人一家をただちに滅ぼしたところまではともあれ、その後は北畠氏を一族瓦解の危機に陥れたのは、浪岡左衛門尉に違いなかった。いかにも若く性急に過ぎると、老練な蝦夷代官の目には映る。幼い御所が育つまで、古い名家が野心的な大浦氏の圧迫に耐えられるか、対岸から大浦氏をよく知る蠣崎季広には、危うく思えた。大浦の当代、為則は軽はずみな男ではないが、それだけに真綿で頸を扼するように、北畠にあの手この手を仕掛け続けるだろう。
浪岡北畠氏が没落するならばすればよいが、それに新三郎が巻き込まれるのは絶対に避けねばならなかった。蠣崎の家督を継ぐかもしれぬ者に、浪岡御所と運命をともにさせるわけにはいかない。
(猶子なら、離れてしまえばよい。だが、正室を迎えてしまえば、その家との縁が切れなくなる。なかなかに離別もかなうまい。天才丸は優しい子であったし、どうやらいまも気性は変わらぬ。妻に情けをかけよう。……となると、浪岡御所が滅びでもすれば、松前大舘も無傷では済まぬことにならぬか?)
蠣崎季広は、この書状に返事を出すのは待とう、と心に決めた。時を待つ、時を稼ぐ、時をしのぐ。そして、それに耐えるのは、政治家としての彼の常道である。
妻を呼び、当たり前の父親の顔になって、両親としての相談をしてみせる。
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