第2話 姫さまと少年 一 魚
浪岡城に来て二週はたった。まだ子供の姿をしているのが、天才丸には不満であった。
あの折り目正しい南条が、謁見の場では御所さまを前に、話が違うとばかりにしきりにお側衆相手に訝しがってみせ、あとで浪岡の家臣たちと随分と交渉もしてくれたが、浪岡家としてはすぐに元服させてくれるわけでもないらしい。
「猶ホ子ノ如シ、と伺っておりましたが。」
養子に準じる猶子という約束ではなかったのか、と南条は宿老の一人に尋ねたが、それはそのお積りではあろう、というくらいの返事であった。
「では、烏帽子親をたて、元服の儀を執り行って下さりませぬのか。」
「それとこれとは、別であるかもしれぬ。しばらくは童のままでおるがよい。いずれ、お取り計らいがあろう。」
「いずれ、でございますか。」
一人前の家臣とすぐに認める気がないということになる。というわけだ。
(それでは、まるで子を人質にとられただけのようではないか。)
とは、浪岡御所の重臣に対して詰問できる身分でもない南条は、言葉を飲み込んだ。
「猶子などというのは、あちらが勝手に頼んできたにすぎぬ。」
南条という陪臣とのやりとりを報告された御所さま―浪岡具運は、やや不快である。蝦夷島の頭領の分際で、名門浪岡北畠氏の一族も同様の扱いを望むこと自体が、本来は増上慢であり、礼を失するではないか。無下に断ったりはしていないから、自分たちのつもりでは願いが聞き届けられたと早合点したのであろう。
「蛮夷無礼ナリ、とでも言ってやるか。」
御所さまは史書の好きな父親の口真似をしてみせて笑ったが、別に蠣崎ばらに対し悪意や反感はない。実はこちらにも事情がある。
元服させ、正式に召し抱えれば、家に配慮してやって、いずれは少しなりとも禄を、あるいは所領も与えねばならぬかもしれぬ。それが惜しい。さほどの余裕は、拡張を続けているわけではない―むしろ逆に、領土や交易の利権を侵食され気味のいまの浪岡北畠氏にはない。
「それに、十三だとかいうが、見たところ、それよりもまるで子供ではなかったか。」
「いかにもさようで。」
「南条とやらには、言ってやれ。いま少し大人になるのを待ってやりたい。北畠の侍らしく鍛えてやるから、安堵するように主人に伝えよ、と。」
「感涙いたすでありましょう。」
(さて?)
現に、御所さまは見落としていない。これから大豆坂街道沿いの無名舘で御所さまの妹君たる姫の側に侍れ、と宿老のひとりが命じてみせたとき、うやうやしく頭を伏せる一瞬、少年本人の表情が不審気だった。
(無足(所領を与えられぬ身)のまま、誰やも知らぬ女の警固役というのでは、中間勤めも同然と思えるか。不満も無理もない。これで、蝦夷島の松前大舘とやらでは御曹司扱いなのだろうからな。)
やや気の毒になった御所さまは、平伏している少年のまだ細い肩にお声をかけてやる。
「天才丸であったな。ぬしはまだ若い。今しばらくは童形でおれ。子供がゆえに、姫の番役なども安んじて頼める。近くでわが妹の世話をしてやってくれ。……よい、直答せよ。」
「勿体なきお言葉。」
「北畠侍の立ち居振る舞いが身につくまでじゃ。」
「有り難き幸せに存じまする。ご恩に報い、姫君さまをお守り申し上げまする。」
まあ仕方がない、と少年は思うしかない。義兄たちも戻ってしまったし、ここでは、身の回りの世話をする者をつけてくれるような扱いですらない。仕事に専心し、無足ながら城に仕える独り身の者どもに混じって、城の炊き出し場から出る飯にでも日々ありつくしかない。
肝心なのはその、仕事である。
まずは場所であった。いかにも、追いやられたという気がしないでもない。いや、した。空き地の目立つ、がらんとした平場に足を踏み入れたとたんに、ここは浪岡御所の外れもはずれじゃなと思った。
浪岡城は八つの曲輪に分かれて一城郭をなしている。
「御所」らしく内裏を模した気配のある庁舎や城主の優雅な居館が軒を連ねる内舘と、板塀に区切られた武家屋敷の並ぶ北舘がその中心である。これをいわば星雲上に取り巻くのが、東舘、西舘、検校舘、猿楽舘、新舘といった独立的な城館部だった。
浪岡北畠氏の一族・親類衆の家がこれら平場をそれぞれあてがわれ、城内外をめぐる二重堀、三重堀に互いを隔てつつ、掘り残し部分を通路にした特徴的な中土塁に結ばれて、東西に半里ほど広がっている。
御所―北畠宗家の家臣の住む北舘という曲輪だけでも、少年には広大に思えた。その上、防御を意図してのことだろうが、複雑に小路をめぐらし、迷路めいた構造を作っている。慣れれば何と言うこともないのだろうが、少年はしばしば道を間違える羽目になる。
一方、無名舘というのは一番北にある、要するに外郭部であった。東西を走る大豆坂街道に沿って、いざというときの城砦部として北舘への侵入を防ぐためにあるのだろう。だから、たいした建物もなく、それらしい名も付けられないままに、「無名(ノ)舘」が名前になってしまった。
(ご宗家の姫さまが住まわれるにしては、随分と内舘から離れているが……?)
それも気になるが、さらに、その姫さまである。
(警固だけならば、まだ侍らしいのだが、……女の話し相手にでもなれというのは、もう厭だな。)
松前の実家で姉たちに囲まれて遊び相手にされてきた天才丸は、思っていた。浪岡家中の者にこっそり尋ねると、ご婚家からの早々の出戻りだという。いかにも気儘な、喧しい婦人を想像して、なにを命じられるやら、まさか飯まで炊けとは言われまいが……と、うんざりする。
心配の半分は無用のようだった。
最初のお目通りで許されて顔を上げたとき、天才丸は反射的に、昔松前で一度だけ見たことのある能の舞台を思い出した。
(能面のような。たしか、『小面』とか言ったか。)
松前大舘に一度、猿楽能の一行を呼んだことがあった。幼かった天才丸は、白くのっぺりとした小面の役者に怯えて泣き、見物の場から連れ出された。ところがその夜、また夢に小面の女どころか、般若までが出てきて、うなされるほどだった。
それからも能面は苦手だったが、年が長けるにつれ、不気味なだけだった小面の顔を思い出すと、美しかったようにも魅力的にも思えてきたのは不思議だった。
姫さまの作り物めいて整った顔は、無表情だった。切れ長の形のよい目も、通った鼻筋も、柔らかい口元も、一切動かない。漆黒の瞳にも、思いは、なに一つうかがえない。
これほど感情というものが欠け落ちた女の顔を、天才丸ははじめて見た。少年がこれまで会ったことのある蠣崎の女たちは、武家女でございとすましていても、いざ子供の前で口を開けばどれもやかましく表情が豊かだった。でなければ御曹司に愛想よく振る舞う家の女(使用人)たちしか知らない。
(帝を遠からぬご祖先に仰ぐ、北畠さまの貴人ともなれば、こうか?)
(……といえど、あの御所さまからして、お笑いであったぞ?)
しかも姫さまは、こちらのご挨拶の言上を聞いても、ただ黙っている。上座とはそれほど遠いわけでもないのに、間に水が張ってあるかのように、見えない懸隔がある。
(ご機嫌がお悪いのか?)
これは難しいひとかもしれぬ、と覚悟したとき、白い顔に浮き上がるように鮮やかな紅を差した唇が、かすかに動いた。
「天才丸、か。」
少年は、慌てて、あらためて畏れ入る。小さい声だと思った。なぜだか、冷たい水の下で泳いでいる川魚が、泡を吐いたのを連想した。それだけで、また黙っておられる。
(魚は啼かないものな。)
身を返した鮎か何かの魚の背が一瞬、水面に光った。思わぬ言葉が続いたのである。
「元服までのことじゃ。辛抱して、励むように。」
滅相もござりませぬ、と頭をさらに低くする。ものごとをわかった人ではあるらしい。自分の内心の不満を見抜かれているが、事情をよく知ってくれているとも言える。
(しばらくのことだ。まあ、お言葉通り、我慢して勤めてさしあげるとしよう。)
その「しばらく」が長かった。実際の日にちがそうあったわけでは―天才丸が振りかえってみると―ない。ただ忙しく、一日が長いのでそう感じる。
案じた半分は当たっていた。天才丸はなんでもやらされた。
姫さまの赤ん坊のころからお世話をしてきた乳母あがりの侍女のほかに、若い飯炊き女と年老いた下男がついていた。姫さまにあてがわれたのは、空き地の多い無名舘の数少ない屋敷にある、母屋とは別の小さな家屋のひとつである。そこにただ一人でお住まいだ。
人手は十分のはずであったが、母屋自体ががらんとした空き家も同然であった。どうやら倉庫代わりに使われているだけである。無名舘は街道がすぐ近くにあるわりに、家中の者の出入りが少ない。この離れの家屋にも、相当長く誰も住んでいなかったのだろう。
そんなところに急に女ひとりが住み着いたわけだから、若い男手の天才丸には、すべきことがなくならない。番役をやれと言われてきたが、昼日中は、胴巻きをつけ槍刀を持って屋敷の入り口に立つ方が少ないくらいであった。
(おれは、器用な方ではないのに。)
松前でこそ御曹司扱いはされても、他国ならばせいぜい「国衆」と呼ばれるか、それより下であろう身分の家の三男でしかない。だから、身の回りのことをそうなにもかも使用人任せにして済んできたわけではなかったが、それだけに自分の得手不得手はわかっている。
のちの世で言う大工仕事めいたことなど、まるで自信がなかったが、腰の曲がりかけた下男にはできないことが多すぎた。高い梁の煤払い、雨漏りの手当て、春とはいえ厄介な隙間風の防ぎ。鼠退治などというのもあった。いくら北の京洛を称される土地であっても、この時期、猫はまだ珍しいのである。
姫さまはほとんどお姿を見せず、この小さな家でどこにいらっしゃるのだろうと思われたが、ときどき縁先に呼び つけられ、ご自分の用事を頼まれることもあった。
そのときも、書付を差し出すだけで口を開かれない。天才丸は、また鮎のような魚の姿を連想する。
(お乳母さまのふくに顎で使われるよりは、ましじゃ。)
と思うことにする。中間でも下人でもないのだから、侍女のおばさんを通して命じられるのは内心、厭だった。こうして姫さまおみずからものを言いつけられるのも、元服を控えた少年のひそかな矜持を慮ってくださるのかと思えば、納得がいく。
用事そのものが、たいしたことではない。こういう筆や紙が欲しいので、内舘のお役所で貰ってきてくれ、くらいである。ひと走りだから、それほど苦にすべきでもない。
ただ、最初のうちは北館に入ってしまうと、しばしば道を見失った。内館に行くのにわざわざ遠回りをするまでもない、と通り抜けようとしては慌てることになった。
家臣の屋敷や長屋が板塀で区切られて並ぶ北館は、広い道が通っているわりにそれらが妙に曲がっていて、ふと屋敷の敷地内にも迷い込んでしまう。
板塀が目くらましのようになるのだろうか、ふと気づくと全く逆方向の、舘のはずれの馬場に出てしまったこともあった。むろん、防御のためにそのような仕組みにしてあるのだろうが、浪岡に来て日の浅い新三郎は何度も弱ったのである。
ただ、何度も失敗するうちに、北館や、浪岡城全体の複雑な構造にも慣れた。
「おぬしでないと、わからぬと思い……。」
と、珍しくぼそりと呟かれたこともある。
姫さまから手渡された紙片に歌論らしい書物の名が記されていた。それを懐に入れて、お城の御書庫まで走る。それは書名の真名(かんじ)が読めねばならないから、自分でなければならないだろうと思う。
(姫さまは、あんなお声じゃったな。)
と思い出すと、なにか快かった。
ただ、北舘に白粉を扱う商人が来ている筈だから……と、なにやら白粉の名前だか特長だとかを走り書きした紙片を渡されて言われたときには、いかにも億劫な気がした。化粧品など、指示されてもわかるものではないし、そもそも男がそのお使いに出されるべきではなかろう。
不満の思いが、顔に出てしまったかもしれない。
「厭か。よい。さがれ。」
ぷいと後ろを向き、奥に引き込んでしまう。そこはやはり、姫君である。奥方と呼ばれたことがあるはずだが、いまは娘姿に戻してしまっているから、いかにも気儘な若い女の仕草に見えた。
そして天才丸も子供であった。黒髪の背中に向けて、
「さようの御用事は、お乳母さまにお頼みになられたほうがよろしいでしょう。」
と言ってしまう。
「ふくはいま、忙しい。」
姫さまが向き直ったので、天才丸はしまったと思った。だが、いつもの無表情のままでの、その物言いに引っかかる。
「天才丸もいささか、忙しうございますが。」
「知っておる。そもそも、もう、よいと申した。」
「さようなことではござりませぬ。」
「……ほう、ではなんじゃ? 言うてみよ。」
あっ、これはまた兄上や義兄上に叱られる、と思いながら、少年は言いかけた言葉を急いで飲みこんだ。
だが、遅かった。姫さまはたしかに腹を立てたようである。命を聞かないどころか、なにやら理屈があるらしいとは、分を忘れているだろう。いつもの静かな声に、たしかにやや軽い怒気がある。
「天才丸は男ゆえ、白粉のことはわかりませぬ。」
「書いてやった。」
「字くらいは読めますが、ここになにをお書きかは、天才丸にはよくわかり申さぬ。それは商人に渡せばよいでしょう。しかし、もしそのお品がなければどうすべきか、なにか薦めてもきましょうが、その代わりのものの良しあしもわかりませぬ。」
「……。」
「お乳母さまにお頼みあるべきでございましょう。」
「ふくは今、手が離せぬと言うたな。」
「姫君さまは、お急ぎでもございますまい。お顔を拝めば、それはわかり申す。」
なるほど、さ栄姫はすでにいつものように簡単な化粧を済ませている。
「……。」
姫さまは、より不機嫌になっただろう。顔などをじろじろ眺めよって、と言いたげだ。
「お乳母さまの手が空かれた時に、行かせるがよろしいかと存じまする。ひとには得手不得手がございまするので、お指図もそのようになさるべきかと。」
(あっ、つまらぬことをまた言うてしもうた。)
「……急がねば、商いの者がもう、次のどこぞの町に行ってしまうかもしれぬぞ。」
「もう午下がりでござるから、遠い町にならどのみちもう出立しているでありましょう。これから出るとすれば、さほど遠くではない。」
「……。」
「もしも、もうおふく殿が一足違いにてから手で戻ってきたなら、高田のお城か大釈迦舘に向かったくらい。そのときこそ、天才丸が一走りしてもよろしうござります。」思わず胸を張ったが、「……い、いえ! さようにお命じくださりませ。及ばずながら、ご命じの、このお紙を握って追いかけ」
「もうよい。ふくに行かせる。」
天才丸は地面に突っ込む勢いで平伏した。さあ、えらいことになったかという思いがある。
(まさかこれで城を叩き出されもすまいが、……せっかくここまで我慢して励んできたのに、ご機嫌を損ねるとは、阿呆な真似をした。)
(姫さまは御所さまの妹君。言うかな? あの蠣崎の倅は、命に背いて自分を虚仮にしよりましたとでも言うかな?)
(それで、ここでの元服が遅れたら、いや、断られでもしたら、父上も兄上も落胆される。)
(なんのために、こんなところまで、おれは……?)
伏せた眼に、涙をにじませている。
「ご無礼を申しました。いまから急いで行って参ります。」
「よいと言うた。ぬしが申したが道理じゃ。」
「まことに申し訳ございませぬ。」
「謝れなどとは言うておらぬ。」
さ栄姫も、内心で焦り出している。
(いかぬ、これでは、まだ小さい子をいじめておるようではないか。)
「……天才丸。今忙しいのじゃな? もうよい、その仕事に戻ってくれ。」
「お、お許しくださいませ。」
(声が震えておるわ! 泣かないでくれ!)
「……わかった。悪いが、その紙に書いたは、欲しい白粉の名じゃ。その名の品以外は要らぬ。似たもの、同じものと勧められても、代わりのものは購わぬでよい。次にそれを持って参れと商人に言いなさい。……天才丸? さあ、急ぎ戻って参れ。」
はい、と大きな声を出して、天才丸は起き上がり、しずしずと下がると、脱兎のごとく駈け出した。
さ栄は走り去る背中をみて、溜息をつかざるを得ない。やがて、小さく笑った。
(あの蝦夷侍の子め。仔犬が転がるように走っていきおった。あれで少し安堵できたのならよいが。)
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