第3話『満月に差す悪夢』

 遥か北の地アイルランド。ケリーという、穏やかな田舎町が、コリンの生まれ育った場所。隣国イギリスが軍事的および政治的に介入しはじめた、激動げきどうの時代であったが、彼の五感に ふれる すべては、たいへんおだやかな ものたちで彩られていた。一般的な農家だった彼にも、もちろん領主様は存在したが、彼らは先進的な考えを持った人間で、決して裏切られず人を従わせるための知恵があった。おかげで彼は、窮屈きゅうくつのない心地良い支配の下、のんびり平和に暮らせていた──あの事件が起きるまでは……


 「こんにちは、ミセス・ボイル! 」

 元気な挨拶あいさつと共に、窓から ひょっこり 顔をのぞかせたのは、クリナフト家の三男坊、コリン・クリナフトだ。

「あら、コリン。御機嫌ごきげんよう」

 ボイル夫人はシワが刻んだ美しい笑顔をコリンに向ける。

「お、コリンじゃないか! 」

 と、もうひとつ、部屋の奥から声がした。しんのある、しかし温かい響きを持つ声。この人物こそ、コリンたちの住む ちいさな集落を仕切る領主様。

「ミスター・ボイル! すみません、気がつかなくて! 」

 コリンがあわてて挨拶を付けくわえるのを、ボイル氏は豊かに肥えた腹を揺らし、豪快ごうかいに笑い飛ばした。

「いいんだよ、コリン。私が君の見えないところに立っていたのが悪い! 」

 やさしく言って、「ほら、よかったら中に入って来なさい」と手招きした。

「し、失礼します」

 玄関を開けたコリンの姿は、栗色の髪の毛や瞳の色こそ変わりないが、汽車の中にいる時のものとは異なっていた。現在だと145センチメートルの可愛らしい身長だが、当時は167センチメートルの、ほっそりとした青年だった。

「いらっしゃい、可愛いコリン! 明日は ついに、ね」

 ボイル夫人がコリンのほおにキスして言った。

「はい、いまから胸がドキドキして」

 顔を赤らめるコリンの言葉に、ボイル氏は「はっはっはっ! 」と陽気な笑い声を立てた。

「そりゃ、緊張するだろうなあ」

「僕だけでなく、僕の家族も、ずっと ソワソワ してます。それで、もしよかったらなんですけど、エーファも一緒に、前夜祭をやりたいな、なんて思ってるんです」

 僕のボロ屋なので、エーファが嫌がるかも知れないですが。と言うコリンに、ボイル氏は、「いいじゃないか、前夜祭! 」とうなずいてくれた。夫人も同意見らしい。

「私たちも参加してもよろしいかしら? 」

「はい、もちろんです! 」

 気持ちの良い夫婦にコリンは胸をでおろした。が、肝心の彼女の姿が見えない。

「あの、エーファは──」

 コリンが尋ねると、ボイル夫人は「ああ、あの子」と困った笑みを浮かべた。

「あの子、本当につい先程出掛けてしまってね。ちょっと留守にしているのよ。ごめんなさいねえ」

「いえ、いいんです。」

 コリンは首を振って微笑む。が、何だか少し悲しそうだ。

 目の前の青年の気持ちを汲み取ったのだろう。夫人は「きっと、すぐに戻って来るわよ。ここで待っていたら? 」と提案してくれた。

 しかしコリンは首を振った。

「いえ、僕、そろそろ畑に戻らないと。ありがとうございます、ミス・ボイル」

「そう。また いつでも いらっしゃいね」

 やさしい夫人の微笑みに見送られ、コリンは玄関を開けた。

 風に押されるまま、ふらふら と歩いていると、「あら、コリン! 」かわいらしい声に呼び止められた。

「こんなに いいお天気なのに、うつむいていたんじゃ もったいないわ! 」

 舌の上で コロコロ 転がる特徴的な発音を聞いて、コリンは急いで振り返った。

「エーファ! 」

 愛しの婚約者が、そこに立っていた。金風に流されるクリーム色の髪も丈の長いドレスも、すべてが幻想的で美しい。

「きょうも来てくれていたのね。家にいなくて ごめんなさい」

 彼女の名前は“エーファ”。ボイル夫妻 自慢の ひとり娘だ。

「いいんだ。だって、こうして会えたんだから! 」

 駆け寄ってきたエーファの肩を抱いて、コリンは微笑む。

「ああ、コリン! 」

 彼女も、コリンに うっとりと微笑み返した。

 と、彼女の背後から溜息が響いた。

「はあ、まったく お熱いこと」

 そう言って近づいてきたのは、深い茶色の髪を持つ、“キーラ”だ。丸くてれ下がった目尻のエーファとは反対に、おおきく つりあがったキーラの黒色の目が、手を取り合う恋人たちを ジットリ 見つめている。

「キーラ、ひさしぶりだね」

 コリンは この幼馴染の友人にも笑い掛けたが、キーラは まるでコリンなんて存在していないかのように視線をらした。

「エーファ、貴女が お出掛けに誘ってきたから、私こうしてついてきたのに。突然 放っておかれるだなんて。デートがしたいのなら、私 失礼するわね」

 スカートをひるがえして去って行こうとする後ろ姿に、「ちょっと待って! 」とエーファは飛び出した。

「ごめんなさい、コリン。また今度、ゆっくり お話しましょう! 」

 コリンが「うん」とも言わないうちに、エーファは去って行ってしまった。


 コリンとエーファとキーラは幼馴染で、集落の人間からは『なかよし3人組』として知られていた。領主の娘と、彼女の家に作物を収める貧しい農民という、対の立場にいる同士だったが、階級を越えた信頼と愛情とが、彼らにはあった。

 「偉ぶらず、分け隔てなく接しなさい」というボイル夫妻の教育も よかったのだろう。エーファという少女は、まったく その通りの人間になった。絹でできた質の良いドレスに身をつつんでいるのにも関わらず、彼女は泥んこ塗れで遊ぶ こどもたちの輪に加わったりもする。時には老人が麦を運ぶのを手伝ってあげたり、人を幸せにすることができる人間なのだ。

 一方キーラも、言葉選びや表情の作り方のせいで冷たい性格なのだと誤解を招きがちだが、実際は面倒見がよく、全体を しっかり把握していた。ぼんやりしていて、危なっかしいコリンとエーファを ちゃんと見張っていてくれて、悪いことは悪いとしかってくれる。コリンの母親もボイル夫人も、同い年の彼女に息子たちの お守りを任せることがよくあった。厳しいが思いやりがあって、頼りになる女の子。それがキーラという人間だった──はずなのに。

「最近のキーラは、いじわるなだけだ」

 帰路を たどりながら、コリンは ぶつぶつ つぶやいた。

「僕とエーファの関係を知ってるのに、あんなふうに引きがすだなんて。最近のキーラは なんだか わがままだ。こどもみたいだ」

 いつから? 知っている。コリンとエーファの結婚が決まった日からだ。

 コリンたちが12歳になった年に、ボイル夫妻はエーファを連れてコリンの家の戸を叩いた。「うちは可愛い娘が ひとりきり。三男坊であるコリンはクリナフト家を継ぐ人物ではないはず。なら、ボイル家の跡取りとして迎えたいのですが」このボイル氏の言葉に、コリンとエーファの結婚が決まった。

 赤子の こぶしほどの集落だ。のニュースは、瞬く間に広まった。たしかにクリナフト家は勤勉だし、ふたりは幼馴染同士だ。が、しかし、どうして間抜けで馬鹿なコリンなんかと? いや、コリンは悪い子ではない。でも、特別ハンサムなわけでも、行儀がいいわけでもないのに。住民たちは コソコソ 噂して回っていた。

「エーファ嬢には、もっといい結婚相手がいたでしょうに! 」

 実際のところ、住民たちの意見は正しかった。コリンは素直で単純で可愛らしい人柄であったが、領主になるだけの頭も住民たちからの信用も欠けていたのだから。もちろんボイル夫妻もコリンの全てを把握していた。もっと相応しい婚約者がいることも知っていた。その上で、コリンを選んだのだ。それには、最愛の娘エーファがコリンに向ける眼差しもあったが、それ以上の、政治的理由が含まれていたからだ。が、この物語はコリンとエーファの愛の話であって、政治や社会のカラクリなど冷めた話題を持ち込む場ではない。読者のために あえて ひと言 述べるとすれば、「コリンとエーファの婚約を きっかけに、ボイル家に納められる作物の、一家当たりの平均量が あがった」と、だけ伝えておこう。とにかく、ふたりが長年 胸に秘め合っていた愛は、めでたく結ばれることとなった。

 コリンとエーファの結婚が決まった。なら、残るキーラは どうなったのか?

 キーラは近所に住むムルトという年上の男性との結婚が決まっていた。この結婚も当然のように領主であるボイル夫妻が決定したものだが、ムルトはキーラにとって、これ以上ない相手といっても過言ではないだろう。ムルトはコリンに欠けた部分を すべて持っている男性だった。住民たちは正直、ムルトこそ、エーファの婚約者に相応しいと考えていたほどだ。なのに、結婚相手が決まった日、キーラは ひと晩中 泣き暮れていたらしい。

 「嬉しくて泣いていたのだ」「いや、悲しくて泣いていたのだ」──もしかしなくても、「彼女もコリンに特別な感情を抱いていたはずなんだから! 」

 人々は好き勝手 噂したが、結局キーラは領主様の言う通りムルトとの結婚を受け入れたし、婚約が決まった3年後には結婚式を済ませ、15歳で正式にムルトの妻となった。

従順ではないが働き者で。たくましい、いい娘を嫁に貰ったと、ムルトの両親は顔をほころばせる。キーラもムルトのことを「賢い人。いっしょにいて苦じゃない」と評しており、夫婦仲も良好のようだ。

「だのに、だのに」

 コリンは納得できない。

「たしかにキーラは昔っから気性の荒い女の子だったさ。イライラを人に ぶつけてくる子だった」でも、それはキーラを イライラ させてる原因が必ず僕らにあったんだ「だから僕もキーラに同情できた」なのにだよ「今回は全っ然、全っ然わからない! 」今までのキーラは どれだけ怒り狂ったとしても、半時もすれば ケロっ と機嫌を直してしまえる人間だった「でも正式に結婚式の日程が決まって以来、僕とキーラは会話をしてない! 」言葉を交わすとしても、おはよう、こんにちは、こんばんは、だけ、世間話なんて ちっともない「1年もだよ! 1年! 」

 コリンが無視され続けている間も、エーファはキーラと いつも通りの友達をやっている。何かしたとすれば、コリンの方なのだ。

「僕が いったい何をしでかしたっていうんだ。1年も口を聞いてくれないようなことなのかな」

 草を踏み鳴らし、わざと泥道を通って、遠回りして、やっと家に着いた。

 ちいさな家の前に ちょこんと敷かれた畑には、仕事をする家族の姿があった。

「お兄ちゃん! おかえりなさい! 」

 コリンの帰宅に まず気がついたのは妹のブローだった。

「ただいま」

 力無く返事をするコリンを、家族は心配そうに見つめた。

「どうしたんだい? あんたが暗い顔するだなんて珍しい」

「何でもない、大丈夫だよ」

 心配させてごめんね母さん、とコリンは無理矢理 笑って見せた。

「みんなも、心配かけて ごめん。本当に、何でもないから! 」

でも、ちょっと、ひとりになりたい気分なんだ。

 言って、ひとり家の中に入った。


 読者も ご存知の通り、コリンという人間は単純明快で あまり賢くない。賢くない、ということは、裏を返せば生きてゆく上で いちばん賢いとも言える。

 キーラの態度について さんざ悩んでいたはずのコリンだったが、部屋にこもって一刻もしないのに、もう すっかり忘れてしまって、空腹ばかりに思考を取られるようになっていた。

「お腹空いたなあ」

 コリンはつぶやく。

 こんなに お腹が空くということは、そろそろ お昼ご飯の時間かな? あら、僕の家族は どこにいるのかしら? そもそも、どうして僕は蒲団ふとんの上で ぼんやり してるんだろうか?

「仕事しなくちゃ」

 靴ひもを締め直したコリンは、ご機嫌に玄関を開くのであった。



 昼ご飯を終えたコリンたち家族は、早々に畑仕事を切り上げた。

「明日は、ついに」

「ついに! 」

 台所に立つ女たちも、机や椅子を庭に運ぶ男たちも、口を揃えて言う。

「明日は、ついに」「明日は、ついに」

 ボイル夫妻も言っていた、「明日」。それは、コリンとエーファの結婚式のことを指していた。あす、11月10日は、コリンの20回目の誕生日だった。ボイル夫妻は婚約の申し出の時、結婚式は ふたりが共に二十歳を迎えたタイミングで行うということを条件としていたのだ。

「母さん、料理は こっちの机だよ」長男が言えば、「ブロー! 危なっかしいなあ! あんまり急いで動くんじゃない! 」と次男が叫ぶ。「お兄ちゃんも もっとちゃんと持ってよ! 」ブローが文句を垂れれば、「コリン兄ちゃんが出てっちゃうなんて寂しいよう」と幼いグラウスがベソをかく。

 コリンは、コリンの両親と長男夫妻、コリンの妹と弟と住んでいた。次男は18の歳に隣家に婿入むこいりした。

 つまり、クリナフト家に とって、息子を婿に出すのは ふたり目なのだ。が、やはり今回は意味合いが違っていた。貧乏一家クリナフトが、由緒正しきボイル家と親戚しんせきになるのだ!

「ビールにパンにフィオさんから頂いた羊肉! お魚も そろって完璧かんぺきね! 」

 クリナフト夫人は腕まくりをして、満足そうに頷いた。


 コリンとエーファの結婚式の前夜祭、集まったのは、エーファたち家族だけではない。脚色なしに、集落中の人間が集まった。

「おめでとうございます、エーファ嬢」

「ミス・ボイル。ご結婚おめでとうございます」

「あすの結婚式、楽しみにしております、ミス・ボイル」

 集まった人々はエーファの姿を認めるや否や、我先にと彼女を取り囲み、口々に祝いの言葉をつむいでいった。そのせいで、新郎であるはずのコリンは輪の外に追い出されてしまい、「ありがとう」「ありがとう」と困った顔で受け答えするエーファを、遠くから眺めるしかできなくなった。

「まったく、情けない男ね」

 沈んだ気分でパンをかじっているコリンを非難する声が聞こえた。物心ついた時から、いつも近くにいた、聞き馴染みの ある声。

「キーラ! 」

 声の主を見て、コリンは顔をかがかせた。

「君も来てたんだね! 」

「あら、来ちゃ不味かった? 」

 不機嫌に言うキーラに、コリンは ブンブン と頭を振って、「だって、来てくれないって思ってたから」。

「来てくれて嬉しいよ! 」

「そ」

 コリンの全力の歓迎にも そっけないキーラだったが、コリンは「うん」と笑顔で答えた。こんな さっぱりした内容でも、キーラと ちゃんと言葉を交わしたのは、ひさしぶりだったからだ。

「それより あんた、助けてあげなさいよ、あの子」

 肩にかかった重そうな髪の毛を払って、キーラが言った。

「みんなミスター・ボイルにこびを売っておきたいんでしょうけど。あれじゃあエーファが疲れるだけだわ。あの子が実は内気な性格だっていうことは、あんたが いちばん分かってるでしょう? なら、こんなところで しゃがんでいないで、夫らしく嫁をかばってやりなさいよ」

 キーラは「ほら」とコリンの肩をたたいた。

 1年ぶりの、キーラが帰ってきた! コリンの口元は思わず綻んでいた。しっかり者で世話焼きで、誰よりもコリンたちを知ってくれている、キーラだ!

 コリンは勢いよく立ち上がると、「キーラの言う通りだね」と両手の こぶしを握った。

「僕がエーファを守ってやらなきゃ! 」


 よし! と掛け声して人混みに突入してゆくコリンを見つめていたキーラは、「まったく」と微笑んだ。

「いつまでも手のかかる子なんだから──」

 つぶやいて、ふっと真剣な顔になり、周囲を見回した。コリンの しゃがんでいた石の上から、コリンの残したパンを失敬すると、誰にも気づかれないまま、夜の森へと消えて行った。



 さて、結婚式前夜祭は、にぎやかに終わった。キーラからの助言に勇気を貰ったコリンは無事、残りの時間をエーファとともに過ごすことができたし、農家たちも、明日に備えて早めに引き上げてくれた。エーファたち家族を家まで送り届けた後、コリンも、床にくことにした。

「明日は いよいよ、エーファ嬢との結婚式だな」

 グラウスを寝かしつけた長男が、ワインを手に ひっそり話し掛けてきた。「ボイルさんから頂いたんだ。お前も一杯どうだ? 」とのこと。

「ありがとう」

 兄の誘いに、コリンも こっそりベッドから抜け出す。妹たちと一緒に布団に潜り込んだコリンだったが、あすから始まる新生活への期待と緊張とで、どうしても、眠れなかったのだ。

 兄弟は、玄関前に出されたままの椅子に腰掛けた。ピリッ とした晩秋の空気が、ほろ酔いの身体を気持ちよく冷やした。

「もう明日だっていうのに、いまだに実感が湧かないよ」

 コリンが言うと、兄は「そんなもんさ」と優しく頷いた。

「兄さんも同じ気持ちだったよ。誰だって そうじゃないかな」

「待ちきれない気持ちで いっぱいだったのは、事実だよ。でも、いざ その時が来ると、なんというか、怖気づくね」

 恥じるように微笑みながら、コリンは兄に語る。

「きょう、キーラと ひさしぶりに ちゃんと話せたんだ。相変わらず しっかりしててさ。キーラはさ、15で嫁に行ったんだ。それも、あんまり話したことのないムルトさんのとこに……キーラも、こんな気持ちだったのかな? 」

「そうかもな」

 ワインを飲み込んで、兄は ゆっくり答えた。

「だとしたなら、キーラって、すごく偉大いだいだね。キーラは僕たちに何ひとつ弱音を吐かなかった。怖いとか、不安だとか。キーラの弟からも聞いたんだ。“結婚式前日でも、キーラは普段通りだった”ってさ。家族の前でも毅然きぜんとしてたんだね」

 「僕と違って」と、コリンはうつむいてしまった。

「気持ちや感覚は、他人と比べるものじゃないぞ」

 落ち込む弟を見かねて、兄は口を開いた。

「心に強さなんてない。誰かと比較ひかくするってこと自体が間違えてる。お前は怖いと思った、お前は俺に気持ちを話した、一方でキーラは誰かに気持ちを話さなかった、それだけのことだ。優劣ゆうれつなんてないし、兄さんは、どちらも誇るべき、素敵な人間だと思うぞ」

「ありがとう、兄さん」

 コリンは やっと、いつもの可愛らしい笑みを取り戻した。カップを持ち上げて、「美味しいね、ワインって」と元気よく胃に注いだ。


 凍てつく寒さに、コリンは目を覚ました。

「いつの間にか寝ちゃってたよ」

 と、「何、“アレ”──」コリンの目の前には、到底 信じられない光景が広がっていた。

「こどもたちが──……」

 真っ黒な空の てっぺんにはこぼれ落ちそうなくらいに大きな満月。寝静まった民家。真夜中の草原。だのになんで、どうして こんなところに、こどもたちがいるんだ? 性別人種関係ない。ブローやグラウスと同い年くらいの子たちが、ギャアギャア キャッキャ と じゃれ合っている。

こどもたちが遊ぶ姿は不自然じゃない。ありふれた光景だ。しかし、こんな夜中に、こんな大勢の こどもたちが、こんな ちいさな集落に──どうなってる? まだ夢でも見ているのか? コリンは視線を横に動かした。

 隣りでは、コリンの兄が眠っていた。たくさんの こどもたちが笑ったり叫んだりしてる、こんな騒ぎの中で、スウスウ 気持ち良さそうな寝息を立てて。

「兄ちゃん、兄ちゃん……! 」

 恐怖と寒さで声が かすれたまま、コリンは必死に兄を呼んだ。が、酔っぱらった長男は ピクリ ともしない。

「大変なことが起きてるんだ、兄ちゃん──! 」

『“大変なこと”って? 』

 低くなまめかしい声が、コリンの耳元で鳴った。背筋に氷が伝ったような感触。

 声も出せないままに向くと、「あっ」青色の瞳と かち合った。

 海のように深い色の瞳、白い肌、玉蜀黍色とうもろこしいろの髪の毛。見慣れない顔のオトコ。

 誰だ? 知らない。いつの間に? 分からない。誰、なんで、どうして──……

 さまざまな言葉と恐怖とが、コリンの脳内をみだした。

『お前は、どうして、ここにいる』

 青い瞳の男はコリンに尋ねた。否、尋ねたという親切な感じではない。コリンをとがめているのだ。

「あ……あ……」

 コリンが答えられないままでいると、オトコは さらに不機嫌になった。手袋を はめた手でコリンのあごつかみ、顔を揺さぶった。


『ここは こどもの遊び場所 おとなの お前の場所はない

 静かに眠るか出てくかだ ボクは輝く“砂の精”

 呪いを受けたくなかったら 今すぐ ここから いなくなれ』


 「今すぐ ここからいなくなれ」「今すぐ ここからいなくなれ」

 オトコが不思議な唄を口遊くちずさんだかと思えば、カレの背後につどった こどもたちも、みんなそろって歌い はじめた。不気味だ。コリンは一層、体を震わせた。

「ぼ、僕、そんなつもり、なかったんです……」

 コリンは ようやっと、声をしぼり出した。

「さっきまで、お酒を飲んでたんです。で、寝ちゃって。だから、僕──」

 必死の弁明を ジッ と聞いていた深い海のような瞳が、言葉の途中で ふと、れた。顎を掴まれたまま、カレの視線を追って、「あ! 」コリンは悲鳴を上げた。

 家の玄関が開いていた。開いた玄関から、ブローとグラウスが、よちよち出てきていたのだ!

「ブロー! グラウス! 」

 目の前の恐怖も忘れ、コリンは叫んだ。

「家に戻りなさい、ブロー! ベッドに入るんだ、グラウス! 」

『黙れ! 』

 オトコの指が、さらに きつく食い込む。それでもコリンは、叫ぶのを やめなかった。

「兄さん! 起きて! 起きて、兄さん! ブローが! グラウスが! 変なオトコが! 」

『黙れ、黙れ、黙れ、黙れ! 』

 怒鳴って、オトコはコリンを地面に張り倒した。無様に転がったコリンを見下したオトコは、ふたたび視線を妹たちに戻した。

『やあ、こどもたち』

 オトコは瞳の色とよく似た背広を着ていた。

 オトコの表情は、さっきとは打って変わって やさしい やわらかいものに変わっていた。長い両腕を立ち尽くすブローたちに広げ、不気味に美しい声で歌いだす。


『“砂の精”とは手をつなぎ 丘を目指して歩こうか

 赤毛の道化は橋のもと 母親のろわれ汽車の中

 どんなに足掻あが藻掻もがこうと ボクの夢から出られない

 ボクは輝く“砂の精” 

 あしたは誰と遊ぼうか つぎは どこへと歩こうか』


 歌いながら、一歩ずつ、一歩ずつ、慎重に ふたりに近付いてゆく。しかしコリンが、それを許さなかった。 

 自分より ずっと背の高い相手を後ろから羽交はがいめに しながら、妹たちに声を投げた。

「ブロー、グラウス! まだ寝てる時間だよ、また明日 遊べばいい! 兄ちゃんが たくさん遊んであげる! だから、まだ、寝ていなさい! 」

 今にも腰が抜けてしまいそうになっているのに、懸命に笑顔を取りつくろって言った。

「お兄……ちゃん……お兄ちゃん? 」

 ぼんやりしていたブローが、ハッ と気がついたみたいに、声を出した。と、瞬間、ブローの姿もグラウスの姿も、煙のように消えてしまった。最初から そこにいなかったかのように。

「へ? 」

 コリンが呆気に取られた時だった。視界が真っ暗になった。つんざくくような痛みが、鼻先から顔全体に広がった。いつの間にか腕から抜け出していたオトコに、首根っこを掴まれ、地面に叩きつけられたのだ。

『こいつめ、呪ってやる──呪ってやる! 』

 痛みにもだえるコリンを何度も叩きつけながら、オトコはうなった。

 豹変ひょうへんしたオトコの姿に びっくりしたのだろう。さっきまで楽しく遊んでいた こどもたちは、その場に立ち尽くし、暴行を加える様子に、顔をひきつらせた。

「ママ、ママ」

 ひとりの子が言う。

「ひっ、ひっ」

 泣きじゃくる子も出てくる。

「妖精様……妖精様……助けてください……」

 ある子は お守りを取り出して、祈りを はじめた。

 “妖精様”──変わった信仰に興味を持ったのか、オトコの手が止まった。

「何だ、は──」

 オトコが呟く。

 コリンも顔を上げる。鼻血が かたまりになって、地面にしたたり落ちる。ぼんやりした視界のまま、コリンは、オトコの視線の方向を確認した。

 そこには、ひとりの少年がいた。

「妖精様、助けて」

 男の子は祈り続けていた。手には、銀でできた輪っかが握られていた。

『ソレは──……』

 オトコの目は、その輪っかに釘付けになっていた。夢遊病者のように立ち上がったかと思えば、少年めがけて歩き始めた。

を しまえ』

 輪っかを指差して、命令する。

『貴様、いますぐを しまうんだ! 』

「ひいっ! 」

 少年は恐怖に情けない悲鳴を上げた。その場に固まってしまった。

『しまえと言っているんだ! 』

 掴みかかろうとした手を抑えたのは、やはり、コリンだった。オトコの腕を しっかり抱きとめたコリンは、少年を振り向くと、「早く逃げて! 」と押し退けようとして、「あれ? 」手が止まった。少年の持っている輪っかの内側が、怪しく光りだしたのだ。

『今すぐを隠せ! 』

 オトコが叫ぶ。

 コリンを追い払おうと腕を左右に振るが、こどもたちのため勇気を振り絞るコリンは、びくともしない。

『やめろ、やめろ! 』

 オトコの叫びが悲鳴に変わった。と、コリンの腕に、赤く ネットリ した液体が、ボトボト と垂れ落ちてきた。

「血⁉ 」

 じゃない! それは、まさしく雨だった。赤い雨は、オトコの上にだけ降り注いでいる。粘度を持った気味の悪い雨は、今、オトコと、オトコに しがみつくコリンを飲み込もうとしている!

「な、何だ⁉ 」

『あああああああ! 』

 真っ赤に染まったオトコが、うめき はじめた。苦痛を感じているのか、身悶みもだえ、無意識的に、腕を掴むコリンを何度も殴りつけた。

 みぞおちを殴打おうだされ、気を失いそうになったコリンだったが、何とかこらえた。目の前のオトコの腕を ふたたび手繰たぐり寄せると、「だ、大丈夫? 」と、心配の声をかけた。

 読者諸君、これが、コリン・クリナフトという人間なのだ。

「しっかりするんだ、どうなってるんだ? 」

 と、体が、押されているのに気がついた。

「え? 」

 コリンはオトコを見上げる。オトコは、『やめろ! やめろ! 』と悲鳴をあげつづけている。後ろを向いた。

「──っ! 」

 息を呑んだ。少年の持つ輪っかが、どす黒い渦を巻き始めていたのだ!

 オトコは まさに、この渦に飲まれようとしていた。

『やめろ! やめてくれええええ! 』

 藻掻く。でも渦はまない。むしろ、回転する速度を上げているようだった。

『やめろおおおお! 』

 次にオトコが悲鳴を上げた時だった。オトコは、輪っかの中に飲み込まれていた。信じられないことに。腕を掴んでいたコリン諸共もろとも、ちいさな輪っかの中に消えてしまったのだ。

 大勢いた こどもたちも、輪っかを持った少年も、オトコの消失とともに いなくなった。

 まるで夢のように。

 残ったのは、冷たく、静かな満月の夜だけ。そして。

 木の陰に隠れる、ちいさな影が ひとつ。

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