第36話『導きと視察』

 こつん こつん と廊下に響く足音は、アントワーヌの部屋の前で止まった。ドン ドン と、戸を叩く。

「ほら、お前が余計なことをした お陰で、余計な仕事ができた」

 腰を曲げたままで、頭だけ上げるメル⁼ファブリにアントワーヌは溜息を吐いて言う。が、その表情は どこか、晴れやかだった。

「アントワーヌ! 」

 扉の向こうで声がする。コリンだ。コリンは もう一度 戸を叩くと、「入るよ! 」と、勝手に開けて入って来た。

「あれ? ミスター・ファブリ」

 先客に意外そうな視線を向ける。

「勝手に入るな」

 アントワーヌは文句を吐き出してから、「ドアを閉めろ」とコリンに命令した。

「なにか用か? 」

「うん」

 扉を閉めて、コリンはアントワーヌに向き直る。

「もう一度だけ、集落に行きたいんだ」

「行ってどうする」

「話をしたい」

「誰と」

「僕と」

 コリンの回答に、アントワーヌは また溜息を吐いた。

「〈衣装箱〉は使い切った。無理だ」

 アントワーヌは人間の姿に戻ったコリンを指差し、首を振った。

 いつものコリンなら、ここで引き下がってしまうだろう。が、いまのコリンは違った。拳を ぎゅ と握り、アントワーヌを真っ直ぐに見つめた。

「責任なら、ぜんぶ僕が取る! だから、行きたいんだ」

「お前に どんな責任が取れる」

「わからないけど! 」

 胸を張って、ちいさな体いっぱいに訴える。

「でも、いま行かなきゃ、一生 後悔すると思うんだ! 」

 従業員の無茶振りに頭を抱えるのは、どんな時でも上の人間だ。

「リクといい、レアといい、お前といい、いつだって お前らは感情論だ」

 頭痛がする、というように目頭を指でつまむ。

「お前らが どれだけ、“責任は取る”と豪語ごうごしたところで、結局 尻拭いするのは こっちなのだ。立場をわきまえろ」

 言われて、コリンがうつむいてしまいそうになった、時だった。

「行ってこい」

「え? 」

 コリンが顔を上げると、アントワーヌの うんざりと言った顔と ぶつかった。

「行ってくればいい。どうせ怖気づいて帰ってくる。お前みたいな馬鹿は失敗しないと学ばない。行って、失敗して帰ってくるといい」ただし、「汽車が出発するまでに帰ってこい。汽車の出発は1時だ」

 コリンの顔が、ぱっと明るくなった。

「ありがとう! 」

 礼を叫ぶと、扉を開け、閉めるのも忘れたまま、廊下を駆けて行った。

「ドアは閉めていけって──」

 呆れたものだ。アントワーヌは立ち上がって、扉の横に立つメル⁼ファブリに視線を落とした。

「お前は どうする」

「ワタシか? 」

 顔色をうかがうメル⁼ファブリにアントワーヌは開いた扉を抑えたまま、言った。

「お前も、最後に一度、行っておきたいのだろう? 」

 心裏しんりをつかれたメル⁼ファブリは、黒目がちな目を見開いた。

「お前も行くがいい。お前に関しては、俺が責任を取る必要もないからな。行って、そのまま戻って来たくなければ戻って来なくていい。戻って来たかったなら、お前の部屋は そこにある」

「アントワーヌ──」

 ロバ頭の老妖精は、目いっぱいに涙を溜めた。前掛けを握り締めて、やっと涙を止めると、頭を下げた。

「恩人よ──ありがとう……いくら感謝しても足りない……」


 ふたりが去り、ようやく静寂せいじゃくを手に入れたと思ったアントワーヌの元に、また、来客があった。

 汽車のオーナー、シンイチの世話係の老婆ろうば、チェンシーだ。

「勝手に入って すみませんねえ」

 チェンシーは ゆったりと笑って言う。

「どいつもこいつも勝手に入って来る」

 気にするな、と、アントワーヌは手を振った。

「で、どうした? 」

 アントワーヌが尋ねると、チェンシーは「はい」と扉を閉めた。すこしの間、扉の向こうに意識を向ける様子を見せたあと、アントワーヌへ視線を向けた。

「さきほど、コリンとメルが こちらの部屋を訪ねて来ていたようなのですが、なにか あったのですか? 」

「ああ、そのことか」

 と、アントワーヌ。

「もう一度だけ汽車を降りたいのだと言っていた。やり残したことがあるそうだ」

「そうですか」

 チェンシーが頷く。「ところで」

「大丈夫なんでしょうか? メルが言っていたことは。ドッペルゲンガーのことです」

「俺が責任を取る」

 部屋の奥に置かれた化粧台の椅子に腰掛けて、アントワーヌ。

「シンイチや、汽車に迷惑をかけることはしないさ」

 窓の外の景色を見て言った。

「そうですか」

 チェンシーはおだやかな笑みをアントワーヌに見せると、「シンイチ様に何事もなければいいのです」と言って、部屋を出て行った。

「どいつもこいつも──」

 閉まった扉を見ながら、アントワーヌは つぶやく。

 汚れてもいないスーツの胸元を払って、立ち上がった。

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