第1話『秋の汽車と幸せのはじまり』

 「ふええ、くっしゅん! 」

 海上のレールを走る“無番汽車むばんきしゃ”は、世界中ありとあらゆる場所、時代にゆく摩訶不思議な蒸気機関車だ。主に客車として機能している優柔不断な汽車だが、乗せる客でさえ自由気まま。ふつうの人間から呪われた人間、妖精から怪物までをも迎え入れる。

 今の時刻は午後2時。お腹を空かせた お客人が食事を終わらせ、ほっ と息つくいこいの間。柔らかな陽日が差し込む木造の廊下。

「くっしゅん! 」

元気よく くしゃみ を鳴らすのは、瑠璃紺色るりこんいろの上品なスーツに身を包んだ小柄な少年、コリンだ。最近145彼は、この汽車でスチュワートとして働いている。

「つい この間まではカンカン照りの砂漠にいたのに、何回か寝たり起たりしてたら、今度は寒い寒いの海の上なんだから参っちゃうよ! 」

 自分より すこしだけ ちいさな背丈のモップを担ぎなおして、コリンは つぶやいた。

コリンの言う通り、1ヶ月ほど前、“無番汽車”は太陽が カンカン に降りしきるエジプトに停車していた。拭っても拭っても汗が噴き出してくる、とんでもない日々だった。それが急に寒くなって、窓の向こうに見える海も、真っ青で、なんだか震えているみたいに見えた。

今、僕たち、どこを走ってるんだろう? 前に“アディ”が、海にも たくさん種類が あるって教えてくれたけど。これは何て名前の海なんだろう? 大西洋? 太平洋? 地中海? それともケルト海なのかな?

 コリンは頭の中で知ってる単語なまえを グルグル 思い浮かべてみていたが、実際には、どれがどこにあるのかさえ分かっていなかったし、コリンの世界には北も南も西も東もなかった。コリンの地理的知識といえば、自分の生まれ故郷なのか、そうじゃないところなのか、たったそれだけだった。

けれどコリンには それだけで充分だった。自分の故郷さえ分かっていればいい。ひょんなことから汽車に乗り込んできてしまったコリンにとって、自分の家に帰る道さえ分かれば、それだけで足りるのだ。

「この海は、僕の故郷に導いてくれるのだろうか? 」

「まあ、導かれつつ あるかもな」

「わあっ! 」

 誰へでもない問い掛けに不意に答えられたコリンは、驚きの あまり尻餅をついてしまった。

 声のした方を向くと、お揃いのオーバーオールを着た3人組。コリンと同じく汽車で働いている、炭鉱夫たちだ。

「コリン、大丈夫? 」

ひとり目はリク。コリンよりもずっと年下の少女で、テンプルのついた金縁の丸眼鏡が特徴的だ。リクはコリンに手を差し伸べると、やさしく引き起こしてくれた。

「いくらなんでもオーバーリアクションだぜ、コリン」

そう悪態をつく細身の男が、アダム。真っ白に近い金髪を持つ彼は、大金持ちの家の出らしい。が、ふだんの彼を知る限り、とてもそうとは思えない。

「驚かせて悪かったな、怪我はないか? 」

 最後に、大男のニック。こころ優しい この男は、口数こそ多くないが、いつでもコリンたち従業員を見守ってくれている。彼が そばにいるだけで、穏やかな気持ちになる。

「怪我はないよ」

 コリンはニックの質問に答えると、「ところで」と、アダムへ向いた。

「聞き間違いじゃないのなら、さっきアディ、僕の故郷に“導かれつつある”って言ってたと思うんだけど、どういうこと? 」

「どういうことって、そのままの意味だけどな」

 アダムは言って、リクを見た。視線を受け取ったリクは、「そうそう」と うなずき、説明をしてくれた。彼女は最近、アダムから地図の読み方を教わっているらしい。昨晩も、運転室で星を眺めながら、方位磁石と睨めっこしていたのだそうだ。

 リクはポケットから地図を引っ張り出すと、広げてコリンに見せた。

「エジプトを出てから私たち、ずっと南下してたんだよね。スーダン、モザンビーク、南アフリカ! このまま南極まで下って行っちゃうのかな? ってアダムと話してたんだけど、大西洋に出たあたりで、急に軌道が変わったの。最初、ナミビアらしき陸地が右手に見えて、それから海だけになって、グニャグニャ 北上を始めて──」

 と、リクは指で、アフリカ大陸の側の海を、下から上へなぞって見せた。

「あまりにも複雑なだったから、アダムでさえ、正確が位置は割り出せなかった。けど、ふつか前、私たち、大きな陸地を走ったでしょ? 」

 ふつか前、汽車は背の高い木が鬱蒼うっそうと生い茂る陸地を走っていた。ガタンゴトン と揺れる雑音に紛れて、得体の知れない生き物の遠吠えが聞こえていた。コリンたち従業員は その度におびえ、ドギマギ と窓の外の様子をのぞき見ていたのだ。

「そう言えば、そうだった」

 あの時の恐怖を思い出して、コリンはこごえるような格好でうなずいた。

「陸地を抜けて すぐに、アダムと方角を確かめたの。そしたら、私たちが抜けてきた道は、スペインとポルトガルの、ちょうど境目だったってことが分かった。で、また大西洋に出た」

 リクの指は、三方を陸に囲われた海の上で止まった。

「今朝から、汽車の速度が落ちてきてるの。そろそろ停まるのかも。汽車の速度を考えると、次の停車駅は、ここ」

 と、リクは ふたつのちいさな島国のうち、左側の ひとつを指差した。

「コリンが生まれ育った国、アイルランドだよ」

「えっ……」

 何を言われているのか分からなかった。

「だから、コリンの故郷くにに停まんだよ」

 やれやれ、と言うようにアダムが繰り返した。

 “故郷に停まる”──故郷に帰れる。ずっと待ち望んでいたことだ。忘れたことなど無かった。毎日 夢に見た、美しきアイルランドふるさと! 

「夢みたいだ! 」

 目を キラキラ と輝かせてコリンは言った。コリンの鼻腔びくうは、故郷の懐かしい草の匂いを ハッキリ と思い出していた。延々えんえんと広がる草原の向こうに、ひとりの可憐な少女の姿が見える。

「“エーファ”! やっと君に会える! 」

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