皐月賞の裏: 我を消して、疾く走れ
──ホープフルステークスにて、彩音は心から思い知らされた事が一つある。
それは、ホワのライバルであるクレイジーに跨る伊藤将と己との間には、足掻いても手の届かない実力の差があることを。
素人の目からすればそこまで違いがあるようには見えないだろう。実際、騎手の腕が幾ら高くとも、馬の能力が劣っていれば負けるのが競馬という世界でもある。
だが、それだけで勝負が決まるかといえば、そんなわけもない。
同じ立場の騎手として、同じレースに出た時、彩音はその実力の高さを……改めて思い知らされた。
だからこそ、彩音は思った。
……前回と同じレースをすれば、再び敗北する、と。
ホワ……彩音が鞍上を務める『ホワイトリベンジ』は、凄い馬だ。非主流とか関係なく、純粋に強い馬だ。
少なくとも、彩音がこれまで乗って来た馬の中では最上級。
いや、もはやそんな言葉では言い表せられない、一生に一度でも乗れたらみんなに自慢出来るぐらいの馬だと思っている。
そして、ホワに匹敵する力を持っている馬こそが、『クレイジーボンバー』。今年のダービー馬、引いては、三冠馬を狙えるかと目されていた超良血統の馬である。
……だからこそ、彩音はホープフルステークスを終えた時点で理解していた。
そんな2頭の能力はほぼ互角。
ゆえに、勝敗を分けるのは、時の運だけではない。各馬の鞍上を務める騎手によって、決まるということを。
事実として、だ。
ホープフルステークスでは、騎手の実力がそのまま勝敗を分けた……と、彩音は思っている。
単純に、リスク云々の話ではない。純粋に、上手いのだ。
馬の癖や限界を正確に見極め、そのうえでレースの流れを読み、最善のタイミングで息を入れ、最高のタイミングで鞭を入れる。
それは、彩音には出来ない事である。
もちろん、ホワとの間に意思疎通が出来ていないわけではない。
むしろ、逆に、己以上にホワの鞍上が出来る者はいないという、仄暗い独占欲すらあった。
しかし、同時に思い知らされてしまう。
伊藤将の持つ天才的なセンスと、幼少期より施されたと思われる数々の最先端トレーニングが生み出す結果を。
伊藤将騎手のレース映像を見返すたびに、思い知る。
まるで、始めから何処で何をすれば良いのかが分かっているかのような手捌き。どのレースもこれ以上の騎乗は無理だと思ってしまうぐらいに、全てが完璧であった。
とてもではないが……己には真似出来ない。レース映像を見返すたびに、彩音は何度も敗北感を覚えていた。
……そう、はっきり言って、彩音は己を天才とは思っていない。
騎手学校を卒業し、新人という恩恵があったとはいえ騎手をやれてきたのだから、相応の実力を持っているとは思っている。
しかし、それでも数多くいる騎手たちの1人であり、そっと人知れず引退してゆく騎手たちの内の1人でもあったし、ホワに出会わなければそのまま引退していた。
そんな彩音が……騎手としては1段2段は下の彩音が、『将が乗れば馬が変わる』とすら称されている天才騎手相手に勝とうとするならば……正攻法では、無理だ。
『……逃げ、か。それも大逃げときたか』
脳裏を過るのは、調教師である置田と……レース展開に関する話し合いなので来て貰った遠藤さんを交えた3人で行われた。
『はい、悔しいですが、私の腕ではそれ以外に勝利を掴む手立てがありません』
『……中山の2000mは、たしかに差し・追い込みが不利なイメージが強い。けれども、それはあくまでもイメージだぞ』
『いえ、イメージの問題ではありません。事実として、逃げ以外の戦法では負けると私は思っています』
『う~ん……お前が、そこまで言い切るってことは、そうなんだろう……』
そう答えた彩音に、置田は難しそうに顔をしかめ……遠藤さんは、トレードマークのテンガロンハットを外すと、率直に尋ねてきた。
『理由を、お伺いしても?』
『はっきり言えば、私と伊藤騎手との実力の差です』
『実力?』
『相手は天才です。僅かな判断ミスが、そのまま優劣を分けます。そして、伊藤騎手は……けして間違えない』
首を傾げる遠藤さんに、彩音はキッパリと言ってのけた。
『馬の力はほぼ互角である以上、同じ土俵で戦えば私が競り負けます。そして、この差は一朝一夕で覆られるモノではありません』
『ふむ……』
『悔しいですが、私には伊藤騎手以上の騎乗をやれる自信はありません。積んできた経験の差を含めて、普通に戦えば敗北は確実だと思います』
だからこそ、と。
『クレイジーボンバーに……伊藤騎手に勝つには、正攻法では駄目です。完璧な彼のレース展開を覆す奇策でしか、勝ちを拾えません』
そう、彩音は馬主である遠藤さんに許可を求めた。
……彩音がわざわざ遠藤さんに許可を求めたのは、それは彩音がやろうとしていることが、馬にとってはかなりのリスクであり、ダメージを残してしまう方法だからだ。
──逃げ、あるいは、『大逃げ』。
その戦法を取る馬は、少ない。何故なら、『大逃げ』を行う馬は総じて臆病な馬が多く、そうでなくとも、特に足に負担を掛けてしまう戦法だからだ。
上手くハマれば1着を取れるが、失敗すればドベになるのも珍しくはない。
最悪、このレースで引退の可能性すら出て来る。
ゆえに、彩音はリスクを承知で行う『大逃げ』の許可を、馬主である遠藤さんに許可を求めた。
……。
……。
…………沈黙は、そう長くはなかった。
『やりましょう。大逃げ戦法でいきましょう』
『……遠藤さん、リスクは承知のうえだと分かっていますよね?』
『分かっていますよ、置田さん。でもね、これは僕だけの問題ではありません』
『え?』
口を挟んだ置田に、遠藤さんはポツリとそう答え……次いで。
『誰よりも雪辱を晴らしたいと思っているのは私たちではありません。仮に私が駄目だと言っても……彼はきっと、何が何でも前に行って勝利をもぎ取ろうとするでしょう』
にやり、と。
何かを思い出すかのように、ふてぶてしく笑ったのであった。
──そうして迎えた、GⅠレース皐月賞。
不思議と、彩音は緊張を覚えていなかった。
(遠藤さんの言う通りだ……誰よりもクレイジーを意識して、悔しいと思っているのはホワなんだね)
普段とは異なり気が立っているホワを宥めつつも、彩音の頭の中を埋め尽くしていたのは……どうか、怪我をしてくれるなというホワへの心配であった。
「ホワ……良いね、これから私が話す事を、よく聞いてね」
──ひひん?
まるで、返事をしたかのような葦毛の相棒……ホワイトリベンジの軽い嘶きに、彩音はフフッと笑みを零すと……そっと、その首筋に身体を預ける。
「ホワ……良いね、何時ものようにゲートが開いて、走り出した後は……とにかく、全力で走って」
……ホワは賢い。
時々人間の言葉を理解しているのではと思う時もあるけど、それ以上にホワは周りの人たちの心を察する事が出来る馬だと思っている。
だから、言葉だけではない。己の心臓の音を聞かせて、少しでも己がこれからやろうとしている事が伝わり……ホワが実践してくれる事を願って、その首を摩る。
「先頭へと出たら、もう私は一切指示しない。最後の直線まで、私は全力で貴方の負担にならないことだけを考えて乗り続ける」
だって、ゲートが開けばその後は……最後の直線まで、己は一切の指示を出さないのだから。
「レースのほとんどを、私は荷物として貴方の背に跨る。とにかく貴方が走りやすいことだけに全力だから、貴方が不安を覚えても私は一切手を貸せない」
──ひひん。
「とにかく、走って。他所の子なんて、考えなくていい。余計な事は考えなくていいから、とにかくゴールを目指して全力だよ」
──ひひん。
「私は、貴方を信じる。だから、貴方も私を信じて。お互いが相手を信じて、只々前を向き続けて走れば……クレイジーにも勝てる」
──ひひん。
「……良い子。さあ、一緒に頑張ろうね……勝ちに行きましょう」
そう告げた彩音は、大きく深呼吸をすると……己の場所である、最外枠のゲートへとホワを歩かせた。
……。
……。
…………そうして始まった、約2分のレース。
彩音は……正直、レース中の事をほとんど記憶してなかった。
びゅうびゅう、と。
風を切って前へと行くホワの背の上で、彩音はほぼ無心であった。
周りの馬も、後方の馬も、何一つ覚えていない。
ただ、最初の指示に従ってとにかく全力で前へと進む景色の中を、どこか遠い感覚で認識していた。
そう、彩音は、風になっていた。ホワの背中で行く末を見守る風、ただそれだけ。
スタートを切って第1コーナーを曲がる際のカーブでも、彩音は緩やかに角度を付ける。ホワの邪魔にならないように、リズムに合わせて。
直線に入れば、姿勢を水平に保ち、ホワの動きを阻害しない事だけを考えて。
第3コーナーのカーブでも同様に行う。ホワの息切れが、少しずつ苦しくなってきたのを感じていたが、それでも彩音が我を消して息を潜めた。
そうして……第4コーナーを終えて、最後の直線。
その瞬間、ハッと彩音が我を取り戻したのは、鞭を振るった後。苦しくも頭を下げて前へ行こうとするホワの頭を、彩音も押す。
自分がどの位置に走っているのか、先頭まで残り何メートルなのか、それは分からなかった。
ただ、ここで足を緩めれば間違いなく差される。それだけは、彩音も理解……いや、彩音だけではない。
「──頑張れ! ホワ、あともうちょっと、頑張れ!!!」
おそらく、ホワも理解している。
ここで少しでも気を緩めれば、背後より迫り来る……確実に迫って来ているクレイジーボンバーに差されると。
ホワはまだ、欠片も諦めていない。全力で、最後の最後、ゴール板を駆け抜けるその時まで、全く気を緩めていない。
ならば──己も、全力を尽くすだけだ。
押して。
押して。
押して。
押して、押して、押して、押して……押して、そして。
──突如全身に叩きつけられた、大歓声。
思わず、彩音はビクンと肩を震わせて顔を上げ……ゴール板を駆け抜けた事に気付き、慌ててホワの動きを制御しながら。
「……勝った?」
それから、速度を落としながらグルリと回って来た彩音は……電光掲示板に輝く、1着を示す場所の横に、『18』のマーク。
「……勝っちゃった」
無意識のままに、彩音はそう呟いた。チラリと、辺りを見回せば……こちらを見つめている、伊藤騎手と目が合った。
「……馬に助けられたな。まさか、垂れずに逃げ切るとは思わなかったよ」
近寄って来た伊藤騎手より、そう声を掛けられる。
その顔は、どう贔屓目に見ても苦々しいといった言葉が似合う表情を浮かべていた。
「……それしか、私には出来なかったから」
そう、本当に、それ以外の方法で勝てる映像を、彩音は思い浮かべる事が出来なかった。
はっきり言って、一度しか通じない奇策でしかない。次に同じことをしようとしても、眼前の天才には全く通じないだろう。
──どこかで、足が鈍る。
伊藤騎手は、天才だ。そのタイミングを、絶対に見逃さない。
──どこかで、失速する。
絶対に、見破る。そして、寸分の狂いなく、加速しただろう。
──冷静に、垂れる瞬間を見極めろ。
だから、絶対に足を止めるわけにはいかなかった。1秒でも、2秒でも、迷いを与えて判断を遅らせるしかない。
そう、それしかなかった。
暴走的な破滅逃げによって、天才の判断を誤らせ、上がってくるタイミングを遅らせた……所詮は、一度だけの作戦だ。
だが、その一度で良いのだ。たった一度の勝負、泣いても笑っても、結果が全て……それが、競馬なのだ。
「なんだそりゃあ……それじゃあ、お前が乗らなくても勝てたわけか」
「そうだね、私じゃなくても勝てた。でも、今は乗っているのが私だから、私が勝ったの……」
普段の彩音であれば嫌みの一つでも言い返すか、曖昧に微笑んで受け流すところだが……あいにく、彩音は疲れ切っていた。
文字通り、精も根も尽き果てた。
持っている力の全てを注ぎ込んだおかげで、今は何を言われてもボケーッと聞き流すことしか出来なかった。
「……っ!」
舌打ち……をされたのだろうか。
ぼんやりとした頭で、背を向けて遠ざかってゆく天才の後ろ姿を見つめる。
その際、チラリ、と僅かばかりこちらに目を向けたクレイジーボンバー……と、思ったら、そのまま所定の場所へと向かって行った。
……。
……。
…………そうして、だ。
改めて、電光掲示板にて、デカデカと光っている『18』の数字を見て。
「……勝った」
じわり、じわり、と。
「……勝ったよぉ、ホワ。私たち、GⅠを勝ったんだよぉ……!」
思わずこみ上げてきた涙を必死に堪えながら……彩音は、フーッフーッと鼻息荒く全身から熱気を立ち昇らせているホワの首筋を何度も撫でたのであった。
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