第一話: 想い・背負う
──やはり、今の己は馬なのだな。
そう、彼が改めて思い知り、心底それを心身に沁み渡らせるようになるまで……長くは掛からなかった。
何と言ったって、現実として身体が馬なのだ。
寝ても醒めても馬である己が変わらないし、感覚の違和感だってだんだん身体に馴染んでくる。周りに居る者たち全員が、己を馬として扱っている。
声を出せば『ヒヒン』とか『ブフン』とか、我ながら人の声じゃないよなという声しか出せない。というか、どのように言葉を発していたのかすら、上手く思い出せないのだ。
これで、己は人間だと現状を否定するのは……正直、現実逃避以外の何者でもないなと彼は思っていた。
けして優秀な人間ではなかったが、伊達に50年近くも生きていない。
それなりに辛い経験をしてきたし、逃避したところで現実が変わらないことぐらいは身に染みて理解している。
だからこそ、彼は……納得はしていなかったが、己が馬になっていることだけは素直に受け入れる事にした。
そうして、改めて馬になった彼は、今日も寝床になっている小屋を出て外へ出る。
最初は慣れなくて一歩踏み出す度に『あんよが上手!』といった感じだったが、さすがに3ヵ月、4ヵ月と時が過ぎれば嫌でも慣れてくる。
とはいえ、適応出来たのは歩くのと、軽く小走りになる程度だ。
ある程度本腰を入れて走り出すと、途端に肉体感覚と意識のズレが大きくなりすぎて、頭が違和感を処理しきれずにドタドタとした走りになってしまう。
傍から見れば、何とも鈍くさい走りをする馬に見えたことだろう。
野生の中で生まれていたなら、ひと月と持たずに命を落としていただろう。その辺り、自分はかなり運が良かったなと彼は思っていた。
さて、だ。
そのまま、ぐるりと敷地を囲うようにして設置されている柵に沿うようにしてポコポコと小走りになりながら……今日もまた、日課を行う。
(……やっぱり、記憶違いじゃない。ここは、俺が過ごした過去の牧場なんかじゃないぞ)
それは、今の己の状況……というより、記憶にある過去との相違、そこかしこに見受けられる記憶違いの確認作業であった。
最初の違和感は、己の状態……すなわち、己以外にも飼育している馬の存在であった。
というのも、だ。体感的には40年も前の事なので、いくらか記憶が改変されていてもおかしくはない。
彼自身、懐かしいと思う事は多々あるも、細部を思い出せと問われれば、無理だと断言出来る程度には自信がない。
だが、それでも分かる部分はある。
真っ先に目に留まったのは……本来であれば死んでいるはずの両親が生きている……というのは横に置いといて。
どういうわけか……見当たらないのだ。
当時、嫌々ながらも家畜の世話の手伝いをしていた……過去の自分である……少年時代の、佐藤優馬の姿が。
中学に上がって、多少なり学業やら部活やらを言い訳にして手伝いをする時間を減らした時期は有った。
けれども、自分がやらなければ文字通り家計が苦しくなるのを分かっていたから、予定が無い日は自主的に家の手伝いはしていた。
だから、遭遇する頻度こそ少なくとも、必ず顔を合わせると思われていた……過去の己が居ない事が、彼は不思議でならなかった。
──もしかして、自分が思い出せないだけで反抗期にでも入っていたのだろうか。
そんな事を思いもしたが、度々顔を見せるかつての両親の口からも、息子の名前が全く出ない辺り……どうにも、違うような気がしてならない。
……それに、だ。気になっているのは、両親だけではない。
それは、弟の事だ。
かつて、彼には弟が居た。
両親と同じく一緒に死に別れたのだが、もしかしたらこの世界では存命なのかもしれない。
(
そう、思いたいのだが……その弟の名前すら両親の口から出てこない辺り、いったい何処まで違っているのか。
もしかしたら、この世界では子供が居ないのでは……そんな疑念すら覚えずにはいられなかった。
……加えて、だ。
少しばかり話が変わるけれども、子供の頃……実家では馬など飼育していなかった……という大きな違いも気になる。
彼の……人間だった時の名前は佐藤優馬なのだが、その彼が生まれ育ったのは、北海道にある牧場であった。
記憶が確かであるならば、酪農の他にも幾らか家畜の世話をしていた覚えはあるものの、主に牛を育てていた。
牛の世話は小学生の時から手伝っていたから、分かる。馬を飼育した事など無かったし、そんな話すら両親から聞いた覚えはなかった。
なのに、ここは牛が居ない。代わりに、馬が居る。
馬の数は……基本的に余計な場所へ行かないように誘導されているので、分からない。ただ、自分以外にも数頭だけだが、確認出来た。
たまたま馬を育てている……というようには見えない。彼が見た限りでは、誰も彼もが手慣れた様子で作業を行っているからだ。
……他にも、細やかな違いは幾つかあるが、割愛しよう。
とりあえず、現時点での大きな違いはここまでだ。
正直、死んだはずの両親を見て、『この人たちは、死んだはずの──』となっていなければ、不気味さのあまり逃走していただろう。
それぐらいに、何とも言えない違和感がある。
まあ、考えたところで解決するモノでもないが……そうして、ひとまず思考を切り上げた彼は……続いて、今の姿になる前の、女神様に話した転生に関する事を思い出す。
(……ふと、思ったのだが)
それは、あの時……痺れてもつれる舌を何とか動かした時のこと。
(もしや……女神様、聞き間違えたのか?)
あの時、彼は『ゆうしゅうなびじん』だと伝えた。
だが、それはあくまでも彼の感覚でしかなく、もしかしたら、『ゆうしゅ“ん”なびじん』と聞き間違えた可能性がある。
馬の身体が馴染むにつれて、幾度となく、この時の事を思い浮かべているが……可能性としては、これが一番高いような気がしてならない。
──何故なら、『ゆうしゅん』……すなわち、『優駿』。その意味は、特別に優れた競走馬だ。
現時点で己が優駿に成れるかは不明だが、なるほど、馬に成った理由は不本意ながら納得出来る。
ある意味、女神は要望通りに彼を転生させたのだから。
しかし、そうなると気になるのは後半の『びじん』の部分だ。
なにせ、『びじん』……『美人』は、主に容姿の美しい女性を差す言葉だ。
美形の男も差すらしいが、基本的に人間の女性を対象にした言葉だ。
女神が察して、美形な馬にしてくれた可能性も否定は出来ないが……よりにもよって、『優秀』と『優駿』を聞き間違えるような女神だ。
美人は美人でも、斜め下方向に美人の要素を突っ込んでいるかもしれない。ぶっちゃけ、現時点で既に彼は女神に対する信用を失いかけていた。
「──ヒヒン」
溜息を吐きたいが、馬の身体はどうやら溜息を吐けない構造のようで……仕方なく、今日もまたヒヒンと鳴いて自分を誤魔化すのであった。
……。
……。
…………そんな日々の中で、ふと、彼は思うのだ。
中学の時までとはいえ、両親の指導の下で家畜を育てていたからよく分かる。
新たに生まれた家畜が、他の家畜に比べて足運びに不自由が見られた場合、どのような対応をされるのか……ということを。
直接手を下した経験はないが、生まれたばかりの子牛を処分され、死体が運び出されるのを何度か目にした経験が彼にはある。
牛だって、生き物だ。人間だって先天的な病気があるように、牛にだってある。
盲目だったり、立てなかったり、あるいは奇形だったり。見た目には出ていなくとも、内蔵が弱くて平均の半分ぐらいしか食事が取れなかったり。
それ以外のナニカだとしても、先天的な病気を持っている個体はおおよそ長生き出来ない……それを、彼は親から雑談混じりに教えられていた。
基本的に、そういった個体は発覚した時点で処分される。
治療すれば良くなるという程度であれば、各自の判断に別れるところだが……明らかに駄目だとなれば、だいたいは泣く泣く処分……という流れだ。
……そこから考えれば、だ。
まともに走る事すら出来ていない己が、どうして処分されないままこうして世話をしてもらっているのだろうか……そう、彼はある時より思うようになった。
……そうだ、馬肉にするにしたって、何かしらの病気が疑われる個体を精肉にするまで育てようとするだろうか?
自分がかつての両親と同じ立場だったなら、間違いなく殺処分にしただろう。
まともに動けない個体はどのみち長くないから、損失を出来る限り抑える為に、そうしたと思う。
……そう考えれば、だ。
最初の頃は気が動転していたせいで考えが回らなかったが、思い返せば非常に危険な状態だった……そう、彼は思う。
馬として生まれた己の用途が何なのかは分からないが、傍目にも歩行に異常が見られる馬が辿る道なんて、専門外だとしても想像がついた。
──自分で言うのも何だが、そういった家畜の末路を酷いとは思わない。
そりゃあ、助けられるのであれば、助けたいとは子供心に考えてはいた。だが、それをすれば、待っているのは確実な家計の圧迫である。
犬や猫を飼うのとは、ワケが違うのだ。
世話が出来なくなったから保健所に……なんて、軽い話ではない。一頭育てるだけでも、体力的にも金銭的にも大変なのだ。
だから……本音では死にたくないとは思っていても、そうなるのも仕方がない……そう、彼は覚悟していた。
けれども、一ヶ月が過ぎて、二ヶ月が過ぎて。
体重を量りに来た従業員より『無事に3ヵ月か……大きくなれよ』と話し掛けられれば、安堵する気持ちよりも、疑問に思うようになってきていた。
(俺は競走馬として育てられているのか?)
幼かった頃とはいえ、だ。
両親を通じて業界の話や愚痴をチラホラ聞いた覚えはあるが、馬肉を製造して販売するところ……そういう人たちに関する事は聞いた覚えがない。
『優駿』と聞き間違えたとはいえ、女神的にはちゃんと馬にはしたのだ。だから、おそらくは、競走馬として育てられているのだろう……と、彼は思った。
しかし……ここで問題が一つ。
それは、競走馬とは普段何をすれば良いのだろうか……という、馬に関する知識がほとんど皆無である……という点であった。
いちおう、馬を見るのは初めてではない。
まあ、数えるぐらいしかないが、当時の付き合いで競馬場に足を運んだ程度ではあるけれども……言い換えれば、それだけの知識しかないわけだ。
(練習……走る練習をすれば良いのか? というか、しても良いのか、馬って?)
競走馬として育てられているのであれば、何時かはレースに出るのだろう。
それ自体、彼は何とも思わない。
いや、むしろ、一刻も早くレースに出て、己を育ててくれている両親やスタッフたちの為にも勝ちたいとすら考えていた。
彼は、競馬というのを良く知らない。けれども、レースに勝てば賞金が出るということぐらいなら、知っている。
だから、早くレースに出て賞金を稼ぎ、こうなる前の己では出来なかった恩返し……親孝行をしてやりたいと思っていた。
だが……まだ、この身体は子供なのだろう。
言われずとも、彼はソレを察していた。
だから、彼はとにかく与えられるミルクを全部飲み干して、一生懸命走る練習をしながら日々を過ごしていた。
……とはいえ、待てど暮らせど、そういった練習をされないから、ちょっと不安に思って来てはいるけれども。
それに、レースのルールなんて分からないし、何より……ここでやるのは少し狭い気がしてならない。
いや、トコトコと小走りに走り回る程度なら問題ないのだ。しかし、全力で走るには少しばかり狭いように思える。
下手くそな走り方だからか、だんだんスピードが出て来たぞ……という辺りで、もうそろそろ減速するか旋回しないと危ないぞという状態になってしまう。
今がまだ子供の身体だから、その程度で済んでいるが……これで身体も大きくなり、走り方が矯正出来た時には……たぶん、ここでは全力では走れなくなる。
そう、彼は思った。
(仕方がない、慣れて身体も大きくなってきたら、コーナリングの練習に重点を置くか……)
と、まあ、そこまで考えた辺りで……チラリと、彼は……柵の中で自由気ままに過ごしている、他の馬たちを見やる。
おそらく彼ら彼女らもまた競走馬なのだろうが、どうにも動きがのんびりしているように見える。
いや、己よりもはるかに速いし機敏なのだけれども、何と言えば良いのか……覇気というか、長閑(のどか)な空気を醸し出している。
体つきも……良いか悪いかはともかく、全体的に丸っこい感じが……う~ん、どうなのだろうか、これは。
「──ヒヒン」
正直、これで合っているのかどうかすら分からないが……ジッとしていると不安が膨らみ始めるので、彼はとにかく……今日も身体を動かすのであった。
……。
……。
…………さて、そんな日常を送っている彼なのだが、二つだけ……現在進行形で気になって仕方がない事があった。
『ホワ~、元気してた~?』
一つは、己の……そう、馬となった彼の名だ。
最初は分からなかったのだが、最近になって声を掛けられる前に『ホワ』という単語が入る事が多くなった。
だから、おそらく『ホワ』という単語が己の名前なのだと彼は思った。
尋ねる事が出来たら一発で分かるのだが、今の彼は馬……そうなのだと己を納得させるしかなかった。
……さて、二つ目。
どちらかと言えば、こちらが本題みたいなモノだが……それは、今しがた己に声を掛けてきた女性の事だ。
『ホワ~、昨日よりちょっとだけ白くなってきたね。一歳になる頃には白くなるかもね~』
そう笑いながら、馬小屋に戻ってきた己の下へと駆け寄り、よしよしと首を摩ってくる女性の名は……キナコ、キナコさんだ。
ほぼ毎日馬小屋(それ以外の言葉を、彼は知らないので)に姿を見せる……どえらい美女の存在だ。
そう、美女である。
相対的に美しいという話ではなく、前世において(彼の、だが)もトップクラスに入るのではと思ってしまうぐらいの美貌であった。
そのうえ、スタイルも良い。あんた、来る所を間違えていないかと首を傾げてしまうぐらいに、滅茶苦茶スタイルが良い。
馬になったおかげかピクリとも心に波紋が立たないのだが、そんな彼ですら、こいつはどえらい女だぞと思うような……そんな女性であった。
……で、彼が気にする理由は、この女が……どうしてか、不思議に思うぐらいに父と母(今の彼は馬なので、血縁以前の話だけど)と親し気だということだ。
知り合いの娘というよりは、まるで血の繋がった家族のような気の置けなさだ。
他のスタッフには基本的に丁寧な口調で話しかけているのに、キナコと呼ばれているこの女性だけは、ぶっきらぼうというか、くだけた話し方をする。
それは、この世界の父と母とて変わらない。
何故か、誰に対しても丁寧に応対する二人が、どういうわけかキナコさんにだけは……それこそ、実の娘を相手するかのように話しかけるのだ。
その事に、違和感を覚えているのは彼だけだ。スタッフの誰もが、当然だろうと言わんばかりに誰も気に留めていない。
これには正直、彼は困惑した。でもまあ、己が馬に成るぐらいだし、気にはなるけれども特に警戒はしなかった。
だって……この女性は己に対して良くやってくれているからだ。
身体の動かし方が分からずに四苦八苦する己の傍に、出来うる限り付きっきりでいてくれるのだ。
特にありがたいのが、未だ慣れない身体ゆえに不自然な場所に力を入れてしまっているからか、ときおり身体が痛くなる時だ。
彼女は……キナコさんは、何時も夜遅くまで一生懸命蒸しタオルを当てて痛いところを揉んでくれて、手や小槌を使って優しく叩いてくれる。
学校等で習うことなのか、それとも自己流なのかは分からない。
けれども、毎度顔中から汗を噴き出しながらも真剣な眼差しでやっている姿を見れば……馬の身なれど、色々とこみ上げてくるモノを感じる。
──見たところ20代前半だが、それでも相当に辛いはずだ。
なにせ、彼女の業務は己の世話だけではない。いや、それどころか、己の世話そのものが、おそらく彼女の業務に含まれていない事だと思う。
なのに、彼女は己に対して愚痴も文句も言わないし、溜め息も零さない。
むしろ、何時も笑顔で声を掛けてくれるし、暇を見つけてはこうして挨拶に訪れてくれる。
何時もいつも、少しでも何時もと違う事をすれば、何処が痛いのかと遠くからでもすっ飛んで来てくれる。
誰よりも早く、何時もいつも……。
(この人の為にも、一刻も早く走れるようにならなければ……!)
──この人の為にも、俺は走ってやりたい。
実際のところ、女神の間違いなのか、それともコレが天命なのか、それは彼には分からない。
けれども、競走馬として生まれた以上は……走らなければならない。
走る為に生まれてきた……それが、今の己に与えられた定めなのかもしれない。
キナコと呼ばれている彼女に世話をされる度に、強く思う。
スタッフたちに指示を出しながらも、毎日真剣に馬たちと向き合うこの世界の父と母を見て、彼は思う。
──強くなるぞ、と。
そう、この日もまた強く誓った彼は……ふんす、と鼻息を荒くするのであった。
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