第一話の裏: 想い、心を動かす



 ──とりあえず、気が済むまでやりなさい。




 そう、妙子より言葉を掛けられたのは、翌日のお昼前。


 朝の業務を一通り終えた後、ぽつんと空いた時間を見計らって掛けられた……母からの激励に、キナコはフフンと鼻息を荒くした。



 ……気が済むまでやれ。



 妙子も賛同してくれたのかなと暢気に笑う源吾を尻目に、同性かつ妙子の娘をやっているキナコには、その言葉の真意をすぐに読み取った。



 ──つまりは、娘の判断に迷いが生じた場合、あるいは、どう足掻いてもモノにならないと判断したら、殺処分する可能性があるというお達しである。



 実際に帳簿に記載された黒字と赤字を毎日睨めっこしている妙子は、やはり源吾よりもよほどリアリストだ。


 ……娘の意思を尊重してくれているのは事実だが、無条件で認めてくれているわけではない。


 本来であれば殺処分一択のところを、何の根拠も無く一方的なワガママで延命させているのだ。しかも、金銭的な負担を全て両親に押し付ける形で。



 ──だからこそ、だ。



 少しでもキナコが『これ以上は……』と心の何処かで諦めた場合、あるいは、この状態から脱しないまま買い手も付かなければ、それも覚悟しなさいと……妙子は暗に告げたのだ。



 ……キナコとて、分かっている。己がやろうとしている事が、如何にこの家に迷惑が掛かるのかということを。



 キナコだって、伊達にこれまで馬の世話をしてきたわけではない。


 愛情や情熱だけで解決出来ないことは、知っている。それで物事が好転するなら、夜逃げする形で牧場を捨てる者なんて現れはしない。


 殺処分すら仕方がないことだって理解しているし、これまでも思う所はあっても、そうするしかなかったという両親の判断は間違っていないと、今も変わらず思っている。



 ──でも、この馬だけは……違うとキナコは思ったのだ。



 根拠など、何一つもない。功労馬である『マッスグドンドン』のラストクロップである……という、情と未練も否定はしない。



 ──けれども、この馬はこれまで殺処分してきた馬とは違うのだと、あの時強く思ったのだ。



(走る……この子は、走る。なんでかは分からないけれども、この子は……歴史に名を残す馬になるような気がする)



 それは、ある種の直感なのかもしれない。


 立ち上がるまでの時間は遅く、歩行にも不安が見られる。血統を見ても、いわゆる一頭何千万円とかで取引されるような人気の血統ではない。


 でも、後悔すると思った。


 この子をあのまま殺処分にしたら、駄目だと思った。


 それこそ一生……この時の事を後悔し続ける人生を送ることになるのだと、あの時キナコは反射的に思ってしまった。



「──ウッシ! 頑張りますか!」



 そうして、キナコは無理をワガママで押し通した。そのワガママに、両親はしばし付き合ってくれることを選んでくれた。



 じゃあ──あとは、己が根性を見せるしかないわけだ。



 そう結論を出したキナコは、パチンと己の頬を叩いて気合を入れると……その日より、空いた時間全てを使って、子馬の世話に奔走するのであった。



 ……。


 ……。


 …………さて。



 生まれたばかりの子馬は、兎にも角にも病気に弱く怪我にも弱い。特に、動きに異常が見られる馬は、思わぬ形で怪我を負ったりする。


 だから、細やかな観察が大事だ。出血や痣の有無、様々な異常の有無を、兎にも角にも入念に確認する。


 怪我をしないように万遍なく敷き詰めた藁に偏りが出れば元に戻し、糞などの汚れが見られたらすぐさま片付けて新しいのを出す。


 サラブレッドは総じて神経質なところがあるので、やり過ぎるとストレスを与える形になってしまって逆効果になる場合がある。


 けれども、幸いにも母馬はこれまで何度か出産を重ねているので人の気配にも慣れているおかげで、子馬に近づいても警戒してくるようなこともなくて。


 子馬の方も、親に似て神経が図太いのか、特に嫌がることもなく、されるがまま受け入れてくれた。



 これは、キナコにとって非常にありがたいことであった。



 なにせ、糞は動物にとっても万病の元だ。


 免疫や体力に不安がある小さいうちに、不衛生からくる感染症を発病させてしまったら最後、それがそのまま命取りになりかねないからだ。



 ……で、だ。



 その過程で、母馬に与えるエサも変える。


 少しでも早く子馬に免疫力を付けて貰うために、栄養価と消化が良いエサを中心にした特製の飼葉を用意してもらう。


 この際、『飼料調合者フィードマン:要は、馬のシェフ』を兼任している父の源吾が率先して協力してくれた。



 これも、キナコにとって非常にありがたいことであった。



 なにせ、各馬に合わせてある程度は餌の配合を変えてはいるものの、大手のように個別の好みに合わせてまでバラバラに用意するようなことはしていない。


 手間暇だけでなく、純粋に費用が掛かり過ぎるからだ。しかし、源吾は身銭を切る形で、その費用を賄ってくれた。



 その事にキナコは何度も感謝しつつ……合わせて、歩行訓練も始める。



 骨折などで歩けない状態ならともかく、歩行に不安が見られても歩かせなければならない。人間もそうだが、馬の場合は歩かないと特に心肺機能に問題が生じるからだ。


 まあ、訓練といっても、まだ離乳すら済ませていないホワには無理はさせられない。あくまでも、歩こうとするホワが怪我しないように見守るだけである。


 ……しかし、これも、けっこう神経を使うものなのだ。



(お医者さんの話だと、足が奇形だとかそういうのではないらしいけど……)



 医者の診断では、『おそらく、神経の類が原因ではないか?』というものだった。


 そうなれば、現時点で取れる手段はほとんど無いらしい。いちおう、ひづめも診てもらったが、問題無しとのこと。


 蹄に異常があるならば、そこを治療するなり対処すれば改善の余地有りなのだが、脳となると……お手上げた。


 人間とは違い、そういった分野の治療法はまだ確立されていないし、医学的根拠のない民間療法(要は、経験則による治療法)ぐらいしかない……とのこと。



「……ヨシッ!」



 だが、それで泣き言など言ってはいられない。一つ気合を入れたキナコは、ひょこひょこと不恰好に歩く子馬の傍に寄り添った




 ──そう、やると決めたからには、自分がやるしかないのだ。




 一ヶ月二ヶ月ぐらいならまだともかく、競走馬としての訓練を始めとして、諸々の訓練を実地し始めるのが……おおよそ、1年ぐらい後だ。


 ……馬一頭とはいえ、一年間も面倒を見るとなれば相当なお金が掛かる。


 しかも、既に獣医を呼ぶだけでなく、母馬に対して高いエサを与えるという副次的な負担も生じている。



(……最後の最後まで、諦めない! この子なら、絶対に乗り越えられる!)



 ──自分だけでも、この子の未来を信じなくてどうするのか! 



 そう、己に強く言い聞かせ、戒めながら……その日もまた、キナコは精力的に子馬の世話をするのであった。



 ……。


 ……。


 …………そんな中で、だ。



 そういったお世話の最中ではあるが、キナコは、その子馬に暫定的に名前を付けることにした。


 習わしとしては、母馬の名前と西暦の下二桁(例:)を合わせたモノを名前にしたり、何か特徴が有ればソレが名前になったりするのだが……キナコは、『ホワ』と名付けた。


 理由としては、大したモノではない。


 どうにもその子馬は、何処か気が抜けているというか、ぼんやりしておとなしい様子から、『ほわほわな感じ、のんびり屋さん』という、キナコのインスピレーションの結果である。


 とはいえ、センスの有無は別としても、名前が有ると無いとでは愛着の違いが大きく出る。


 『ホワ』と呼ぶキナコのソレがスタッフたちの耳にも届いたのか、何時しか誰もがその子馬を『ホワ』と呼ぶようになった。


 それは、源吾と妙子とて例外ではなかった辺り、誰しもがこの馬を何処か名前の由来通りだと考えていた……のかもしれない。



 ……まあ、そんな感じで。



 ネットや本を頼りにマッサージを行ったり、転んで動けなくなるたびに起きるのを手伝ったり、5カ月を過ぎた辺りで育児放棄をした母馬の変わりを務めたり。


 身体を洗う時にも皮膚に異常が出ていないか、蹄に異常が出ていないか、毎日撮っている写真と見比べ、少しでも変化が現れたならノートに書き残し、場合によっては獣医に連絡して。


 その間、けして己の仕事をおろそかにすることなく……本当に、目が回るような忙しい日々であった。



 おかげで、キナコは痩せた。それは、けして健康的な痩せ方ではなかっただろう。



 艶やかだった髪は痛んでほつれ、何度も転んだホワを助け起こしたおかげで手足は太く、指先は男の手のように分厚くなっていた。


 けれども、キナコはそれを苦にしていなかった。


 体力的にも精神的にも限界が近づいてきているのを感じていたが、それでもキナコは……キナコだけは、ホワを信じてやれるだけの事をやり続けた。



 ……そうして、ホワが生まれてから、間もなく一年が経とうとしていた……そんな頃であった。





「──キナコちゃん、お久しぶり。半年ぶりだけど、僕の事は覚えているかい?」

「あ……遠藤さん、お久しぶりです」



 自宅を出て、少し行ったところにある牧場へと向かおうとした時、ばったり出くわした。


 いや、というよりは、待ち構えていたのだろうが……とにかく、目の下の浮かぶ隈も何のその、驚きに眠気と疲労が吹き飛んだキナコは、深々と頭を下げた。


 眼前の御方は、業者やスタッフではなく、滅多に来ないが観光で訪れる客ではない、お得意様。


 タチバナ・ファームを尋ねてきたのは、昔からの付き合いである、『遠藤さん』であった。



 ──遠藤さんは、御年70代後半の男であり、不動産業を営んでいる馬主さんだ。



 長らくタチバナ・ファームの馬を購入してくれているお得意様であり、2年ほど前にも『マッスグドンドン産駒』の馬を購入してくれていた、キナコにとっても足を向けて寝られない相手である。


 理由は定かではないが、『遠藤さんと呼んでくれ』と言われたので、誰もが彼の事を『遠藤さん』と呼んでいる。ちなみに、本名は普通にある。


 さて、彼の特徴は何と言っても一年を通してのトレードマークになっているテンガロンハットとサングラスである。


 最近は少し足腰が弱くなったのか、杖を持っている事が多い。


 まあ、本人曰く『所詮は、転ばぬ先の杖よ』と笑っているあたり、家族からうるさく言われた結果なのだろうが……と。



「ああ、いいよ、二人は呼ばなくて。ちょっと、キナコちゃんに用があるんだ」



 ストン、と。


 遠藤さんの持っている杖が、キナコの方へと軽く向けられた。



「……私に、ですか?」



 何時もと違う流れに、キナコは首を傾げた。以前なら、キナコへの挨拶はそこそこに、両親の下へ向かうところだ。


 というのも、基本的に馬の販売(つまり、購入など)に関して、キナコは直接的には関わらない。


 キナコの仕事は、あくまでも馬全般のお世話と雑事だ。


 お客様を案内するぐらいならやれるが、それ以上となると両親が対応する事になっているし、そうしろと言われている。


 それぐらいは、遠藤さんも知っているはずだ。


 なにせ、彼はキナコがまだ小さい時からの付き合いなのだから。


 それに……年齢ゆえに、以前よりも少しばかり小さくなった身体を見て、キナコは気まずそうに視線を逸らした。



「聞いたよ……あの子……まだ、育てているんだって?」

「え……あ、はい……」



 言われて、すぐにキナコは察した。遠藤さんの言う『あの子』とは、すなわちホワの事だから。


 ……長い付き合いなだけあって、両親は遠藤さんにもホワのことを話しているのだろう。その事について、特にキナコは何も思わなかった。



「……もしかして?」



 というより、ちょっと期待した。



「いや、もう馬はいらないよ。アレが、僕にとっての最後だ」



 でも、すぐに首を横に振られた。


 その言葉を受けて、少しばかりの寂しさと、仕方がないなという諦めが半分返事に混じってしまった……が、キナコに落ち度はないだろう。


 キナコがそうなるのも、致し方ない。よほどの理由がない限り、馬は安い買い物ではないからだ。


 それに……自然と、キナコは……遠藤さんが最後に購入した馬の……『エンドウオトオリ』へと想いを馳せた。



 ──『エンドウオトオリ』とは、ホワと同じく『マッスグドンドン産駒』の馬であり、主にダート路線を走っていた馬である。



 重賞勝ちこそ成し得なかったが、コツコツと入着しては賞金を咥えて戻って来てくれる、遠藤さんにとっては特別思い入れのある馬であった。


 年齢的にも『そろそろ潮時かな』と零していただけあって、『エンドウオトオリ』が引退した後の事も考えて、キナコの両親とも話をしていた。



 ……その矢先に、事故が起こった。



 競馬の世界では悲しいまでにありふれた……レース中の事故。最後の直線に差しかかるカーブの辺りで、エンドウオトオリは……足を骨折したのだ。


 幸いにも、カーブを曲がる為にある程度減速し、横に飛ばされたおかげで後続との接触を避けたことで騎手の命に別状はなかったが……馬の方は、駄目だった。



 ──予後不良よごふりょう、それが『エンドウオトオリ』に下された診断であった。



 人間とは違い、馬にとっての予後不良は意味合いが重い。だいたいにして、安楽死処置が適当であると判断された時に下される診断であるからだ。


 そうして、遠藤さんは晩年の愛馬を失った。


 その訃報ふほうを聞いた時、キナコも血の気が引くような悲しみを覚えたもので……当事者である遠藤さんの辛さを思えば、掛ける言葉が思い浮かばなかったぐらいだ。


 そして、それが原因で……遠藤さんは馬主業から身を引いた。


 タチバナ・ファームにも最後の挨拶をした後は、暑中見舞いなどの季節の挨拶を除いて、めっきり姿を見せなくなっていた……のだが。



「少し、見せてもらってもいいかい?」

「……いいですよ」



 これが観光客とかだったら拒否していたが、相手は遠藤さんだ。


 長年馬主をやっていたし、同類だからこそ分かる。辛い思い出だとしても、遠藤さんはやっぱり馬が好きなのだということを。



 だから、キナコは許可を出した。



 本当なら、両親から許可を取る必要があるけれども……相手は遠藤さんだし、その遠藤さんがこっそり見たいと仰っているのだからと、キナコは己に言い訳をした。



「やあ、すまないね、こんな朝早くに……」

「いえいえ、遠藤さんの頼みですから」



 まあ、それでも、他のスタッフが居るといちいち説明する必要があるのだが……幸いにも、この時、厩舎にスタッフたちの姿はなかった。


 ……まあ、誰よりも早く来ているのだから、当然と言えば当然だけれども。


 そう考えれば、本当に遠藤さんはこのためだけに来たのだなと納得したキナコは、馬房の奥……そこに居る、ホワへと身を乗り出すようにして声を掛けた。



「……人懐っこい子だね」



 すると、ホワと呼ばれた馬は……少なくとも、聞いていたよりもよほどしっかりした歩調で歩み寄ってきた。


 その事に軽く驚きつつも理由を尋ねれば、「母馬が途中から育児放棄をしまして……」なるほど、だからこうまで素直に近寄ってくるのかと納得し、改めて……ホワの馬体を見つめた。



「……葦毛あしげかい? でも、どうして葦毛に? この子の親は、両方とも栗毛くりげだろう?」



 ──葦毛とは、いわゆる灰色の毛並みを持つ馬の事だ。そして、栗毛とは、黄褐色(要は、栗色)の毛並みの馬を差す。



「はい、そのはずなんですけど、どうしてか葦毛に……血統を辿れば、もしかしたら先祖に葦毛が居たのかもしれませんけど……」

「ははあ、なるほど。それじゃあ隔世遺伝、先祖返りというやつかな……一頭だけ葦毛だから、目立つね、彼は」

「ふふ、そうですね」

「そういう意味でも、中々に浪漫な育ちじゃないか」

「はあ、そう思いますか?」

「うん、僕は好きだよ」



 ……。


 ……。


 …………えっ、と? 



 それっきり、何を言うでもなく、黙ったままホワを見つめ続ける遠藤さんの姿に、キナコは首を傾げた。


 ホワは、確かに生まれこそハンデを背負ってはいるが、特別目立つような違いが見た目に有るかといえば、無い。


 いや、まあ、葦毛という特徴こそあるが、それが生きるのは、やはり乗馬用などの、見た目も重視される場合だ。


 競走馬において、やはり一番重要なのは速さだ。


 グッドルッキングホースという言葉が競馬にはあるが、アレも結局のところは速くて強い馬だからこそ映えるワケだ。


 ──それぐらい、遠藤さんなら百も承知のはずだが……? 


 そう思いながらも、話し掛ける事も出来ないまま、キナコはぼんやりと、遠藤さんとホワの顔を交互に眺めていた……と。



「──買いましょう」

「え?」



 唐突に呟かれたその言葉に、キナコは目を瞬かせた。



「買いましょう、この馬を、ホワを。1500万円出します、それで僕に譲ってくれますか?」

「え? え? え?」



 一瞬、キナコはこれが夢かと思った。


 反射的に頬を抓ってみたが、現実は変わらない。


 ……え、いや、マジで? 



「もちろん、引退した後はここへ戻します。僕はあくまでも、レースを走らせる為に馬主となる……そう思って構いませんから」

「え、あ、いや、その、ちょ、待ってください!」



 理解が追い付かず、キナコは堪らず両手を突き出して制止した。


 そのまま、大きく深呼吸を3回、4回、5回……そうしてから、ようやく状況を呑み込んだキナコは……震える唇を軽く噛み締めてから、尋ねた。



「えっと、冗談……じゃないですよね?」

「君も知っているだろう? 僕はこの手の冗談が嫌いだ。本気で、ホワを1500万円で買いたいと話しているのだよ」

「……ど、どうしてですか?」

「うん? どうして、とは?」

「だ、だって、話は聞いているでしょう? だったら、この馬にそれだけの……もしかして、同情ですか?」



 それは、客観的に見ても非常に失礼な問い掛けであった。


 両親が傍にいたら、頬の一つや二つは引っ叩いていたぐらいの暴言でもあった。



「いや、違うよ。僕はね、君の姿と、この馬を見て……胸を打たれたんだ。僕なりの言葉で言い表すのであれば、浪漫だよ」

「ろ、浪漫、ですか?」

「そう、浪漫だ。僕は、蕾を付けるはずのない枝葉に蕾を付かせた……君が起こした小さな奇跡に、夢を見た」



 困惑するキナコに、遠藤さんは……エンドウオトオリが亡くなって以来かもしれない、ほがらかな笑みを浮かべた。



「僕が話を聞いた時、正直に言わせてもらうならば、いずれ駄目になるだろうと思っていた。何故なら、サラブレッドのガラスの足では、そういった異常に耐えられない。体重の増加に合わせて、もっと悪化するだろうと思っていた」


「…………」


「君も知っての通り、サラブレッドの足はガラスに例えられるぐらいに脆い。なにせ、全速力で走っただけで足を痛めてしまうことがある。自然の生き物では、ありえない弱点だ」



 そう言うと、遠藤さんは……改めて、ホワを見つめる。



「なのに、彼は乗り越えた。君が、乗り越えさせた。検査を通るかは不明だが、少なくとも、僕が見た限りでは何の異常も見られず……健康的な馬体にしか見えない」



 だから──僕は、最後の浪漫に賭けたくなった。


 そう、遠藤さんは言い切った。



「だから、僕は最後にホワを……彼を、走らせてやりたいと思った。それじゃあ、不服かな?」



 ……。


 ……。


 …………キナコの返事は、無かった。



 遠藤さんの言葉を無視している……いや、違う。キナコが返事をしなかったのは、それが出来なかっただけで。




「……うぐ、ふう、ううう~~~」




 そして、出来なかった理由は……次から次へとあふれ出てくる涙と嗚咽が邪魔をして、言葉を発せなかったからだった。



 ──安心した。心から、キナコは安堵した。



 だって、売れたのだ。


 キナコ自身、心の何処かでタイムリミットが近づいてきているのを察していた。だからこそ、目を背ける意味でも、とにかく身体を動かし続けた。



 それが……報われた。



 それも、タチバナ・ファームとは長い付き合いの遠藤さんが、1500万円もの大金を出してまで欲しいと言ってくれた。



 ──嬉しかった。己のやって来たことが、無駄ではなかったと……言われたような気がした。



 ぽろぽろ、ぽろぽろ、と。頬を伝う涙が、地面に落ちてゆく。


 これ程に涙を流したのは、何時以来だろうか。


 湧き起こる感情を処理しきれず、身体が震える。


 本来ならば、こんな場所で泣いたりせずに、速やかに両親の下へ行って売買の約束をしたと報告し、契約書を作るのだが……だが、出来なかった。


 駄目だとは分かっていても、その場にへたり込んだキナコは……涙で濡れた顔を両手で押さえながらも……心の底より、安堵したのであった。



 ……。


 ……。


 …………そうして。


 泣き崩れるキナコを優しい瞳で見下ろしながら……遠藤さんは、改めてホワへと向き直ると。



「それじゃあ、ホワくん。彼女の為にも、もっと強くなるんだぞ」

『──ヒヒン』



 まるで、期待してくれと言わんばかりに、ホワは頷いた……少なくとも、遠藤さんにはそう見えたのであった。






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