第二話: レッツらメイクデビュー!
──気付けば、おおよそ2年。彼は、世話してくれる皆様方を見下ろせるぐらいには大きくなっていた。
その間、彼はとにかく思いつく限りの事をやった。
何やら外へ正式に走り回るのが許可されるまで知らなかったが、牧場の外に走り回れるような原っぱがあった……おかげで、走り回る場所には困らなかった。
まあ、今の彼は馬だし、出来る事なんていっぱい飯を食って、いっぱい走って身体を作るぐらいの事だが……とにかく、色々やった。
その内の一つが……走り方の研究だ。
馬の脳で人の意識を保てるのかという疑念はあるが、兎にも角にも、彼は現時点で行使できる己の武器……すなわち、『考える』という行為を最大限活用していた。
というのも、そうなるに至る理由は二つある。
一つは、彼には競走馬の知識が無いということ。要は、何をすれば良いのか未だに分からない。
そして、馬となって2年間生きた彼だが……未だに、他の馬との意思疎通が上手く図れないことだ。
最初はまだ上手く馴染めていないからとも思っていたが、どうやら違う。彼としては普通に話しかけているつもりだが、どうも反応が薄いのだ。
同じく、向こうから話しかけられても、彼の耳には『ヒヒン』とか『ブフフン』とか、普通に馬が鳴いているようにしか聞こえないのだ。
辛うじて……辛うじてだが、相手が怒っているとか楽しんでいるとか、その程度ぐらいなら察せられるようにはなった。
傍からみれば、何をするわけでもなく、若い馬が『ヒヒン』とか『ブフフン』とか鳴き合っているようにしか見えなかっただろうが……とにかく、彼の意思疎通はそこが限界であった。
(幸いにも、除け者にはされていないが……少し距離を取られているのが馬の身でもよく分かるのが辛い……)
故に、彼は……必然的に、スタッフたち……人間たちの傍に居付くようになった。
意思疎通が出来ない故に、馬の社会に入れないのだ。
せめて、言葉さえ通じていたなら……そうでなくとも、多少なり意思疎通が可能であったならば、まだ違ったのだろうが……それらが全く出来ないとなれば、どうしようもない。
まあ、馬に社会があるのかすら分からないので、実際のところは不明だが……とにかく、彼は飼育されている他の馬たちには馴染めず、スタッフたちの傍をうろつくようになった。
(……お?)
──そうして、ある日の事。
その時、この日、彼は見た。スタッフたちがたむろする休憩室にて映し出されていた、馬が走る映像を。
彼は知らなかったのだが、それは関係者や同業者などに内々で融通されたりしている、馬の走りを至近距離で撮った貴重な映像であった。
というのも、映像に映し出されている馬は、有名な馬である。
そういった事にも無知な彼は知らなかったが、競馬を知る一般人が見れば、『え、あの名馬の!?』と飛び上がるぐらいには貴重なモノであった。
どうしてそんなものがあるのかと言えば、それは歩行や走り方によろしくない癖が見受けられる馬に対して、少しでも矯正出来るよう参考になればという優しさからである。
……それだけで癖を矯正出来たら、誰も苦労はしないのだけれども。
まあ、何であれ、その走りは実に綺麗であった。
少なくとも、彼が驚き思わず目をまん丸に見開く程度には。
……実のところ、馬は人間に比べて視力が低いとされている。
人間のように高速でピントを合わせられず、ぼんやりと映る。そして、馬は目よりも耳の方が優れた感覚を持っている。
それは彼とて例外ではないが、しかし、人の視界に慣れていたからこそ、他の馬とは異なり、目で見る事に無意識ながらも集中出来た。
それは、偶然にも先日……キナコが懸賞で当てたらしい大型テレビ(つまり、画面が大きいのだ!)の助けが有ったからこそ……話を戻そう。
(──そうか、コレだ、この走りか!)
それは、正しく彼にとっては青天の霹靂。
手探りのままに進むしかなく、伸び悩みを自覚していた現状を切り開いた……一筋の光であった。
彼はこれまで、参考となる対象が同じ敷地内で飼育されている、他の馬しかなかった。
だから、それを参考にして、ちょっとずつ走り方を身体に馴染ませていた。
おかげで、今では本気で走っても違和感なく……それどころか、もはや完全に自分の身体を使いこなして走れるようになった。
──そう、そうなのだ。長い月日と数多の献身と愛情を掛けたことで、ようやく彼は意識せずとも走れるようになったのだ。
だが、足りなかった。
足りないと、彼は思っていた。
それは、全速力での……正しく美しい走り方だ。
原っぱに行けば全力で走る事は可能だが、ここで飼育されている馬たちは皆、気が抜けている。
今では断トツで己が速くなったと自負しているが、そんなのは何の自慢にもならない。
中にはヤンチャな馬も居るが、それでも競馬場で見るような全力疾走なんてのは一度として見ていない。
だからこそ、見たかった。
競馬場で一着を勝ち取る馬の走り方を、この目で見たかった。
(なんという……力強い走りだ。同じ馬とは思えない……!)
そして、映像越しとはいえ、多少ぼやけているとはいえ、実際に目にした彼の驚愕は……とてもではないが、言葉では言い表せられなかった。
同じ馬になったからこそ、分かるのだ。
その走りが、如何に美しく力強いのか……ということを。
(なるほど、引退レースの後に撮られた……)
休憩室に集まっているスタッフたちは、映像に気を取られている。開け放たれた窓から彼が顔を覗かせている事に気付いていない。
なので、悪いとは思ったが、盗み聞きする形で彼はスタッフたちの会話を聞いていた。
……それで分かったのだが、どうやらこの映像は、引退して間もなくに撮られたモノらしい。
怪我で引退したわけではなく、順当に年齢が上がって勝てなくなったし回復が遅くなったから、らしい。
おかげか、動きに全く無駄が無い。
芸術的なまでに狂いの無いサイクルで回転する足は、まるで車輪だ。一昔前のモノだからなのか、少しばかり映像そのものにブレが見受けられるが……それでもなお、綺麗だ。
──別格。その言葉が、彼の脳裏を過った。
己はまだ馬の中では青二才もいいところで、相手はトップ層に居る競走馬。本来であれば、比べることすらおこがましい相手だ。
──だが、越えなくてはならない。
過去の映像であるとか、そんなのは関係ない。
強い馬であろうが、競走馬として上に立つ為には、こういう強敵たちを相手に勝たなくてはならないのだから。
……故に、彼は必死になって映像を記憶した。かつてないほどに真剣に、彼は集中した。
馬になった彼は、人との意思疎通が困難である。だから、この映像をまた見たいと訴えても、まず通じないだろう。
まあ、同族である馬とも意思疎通困難という、お前全方向のコミュ症だなと言われたらそれまでだが、とにかく、出来ないモノは出来ないのだ。
なので、彼は全力で見た。大脳に焼き付けろと言わんばかりに目を凝らし、必死になった。
彼に気付いたスタッフたちから『お前、また来たのか?』驚き混じりに笑われたが、構わず彼は映像を切られるまで見続けた。
そうして……翌日。
ぐっすり眠って、飼葉も食べて、糞も出して、気合十分。
──さあ、あの走りを練習するぞ。
そう思って、スタッフに誘導されるがまま外へ出た……までは良かったのだが。
『ほら、今日はこっちだぞ』
(え、何これ、車に乗るの?)
『頑張れよー! 怪我だけはするなよー!』
(え? え? え?)
『それじゃあ、お願いします!』
(え、なに、もうレースに行くの? まだ何の練習もしてないけど!?)
まさかの、今まで見た事が無い、大きくて細長いトラックのコンテナ(少なくとも、彼にはそうとしか思えなかった)に乗せられて、幾しばらく。
馬に成ってからは初とはいえ、車なんて散々乗って来た彼だ。例えそれがコンテナの中であろうとも、大した違いはない。
そこらへんは、元人間というアドバンテージが強く働く。
不安そうにしている他の馬を尻目に、とりあえず目的地に着くまでは暇だなとぼんやり立ちっぱなしで……車が、止まる。
(……あ、着いたの?)
正直、窮屈だし退屈だったので早く出してほしい。まあ、これを降りたらレースなのだけれども。
そう思いながらも、見慣れぬ職員(だと、彼は思った)の視線を受けながら、ぶっつけ本番だな頑張るぞと気合を入れながら外へと降りて……はて、と彼は内心にて首を傾げた。
何故なら……想像していた光景と違うからだ。
いや、レースを行うと思われる広いスペースは確認出来る。坂のようなモノだってあるし、グルリと大きく回る形のコースらしきモノも確認出来た。
けれども……観客席らしき設備が何一つ見当たらない。かつて競馬場に足を運んだ時、年期こそ感じはしたが、ちゃんと客が入れるスペースが確保されていた。
なのに、ここにはソレがない。どうにも、彼はソレが不思議でならなか……あ、いや、待てよ。
(もしかして……まだ、レースではないのか?)
出来るなら尋ねたかったが、『ヒヒン』と鳴いたところで誰も気付いてはくれない。
『ほらほら、落ち着け~、甘いのやるからな~』
それどころか、何故かは知らないが宥められた。
まあ、甘いのと言われて口の中に放り込まれた氷飴が美味かったので、とりあえず黙って従う。
そうして歩いていると……何やら、己よりも大きな身体の馬たちが、人を乗せた状態でコースの中をカッポカッポと小走りに駆けているのが……あ、なるほど。
──そうか、ここはトレーニング・センターみたいなものなのか。
そう考えてみれば、納得した。
と、同時に、当たり前の話だと彼は思った。
人間の魂が入っていて、何故か以前と同じように考える事が出来る己ならともかく、普通の馬にいきなり乗ってレースをさせるなんて、土台無理な話だ。
実際、彼と他の馬とでは、土台からして違うのだ。
スタッフの業務を理解して、トイレは必ず決めた場所で行い、食事は決められた量を食べきって、スタッフが近づいて来たら自分から駆け寄る。
口やら顔に紐を回されても、必要なのだろうと思って大人しく従ったし、背中に乗られるのだって、それが必要だと思ったから大人しく従った。
しかし、他の馬たちは違う。
特に、己とそう変わらない大きさ(おそらく、歳も近いのだろう)の馬は、当たり前なのだろうが、落ち着きというモノがない。
元気いっぱいというやつで、気の向くままに走ったかと思えば横になり、身体中を泥まみれにして戻ってくる時もある。
気分が乗らなければスタッフから離れて遊ぼうとするし、服を噛んだりして気を引いたかと思えば、鬱陶しそうに蹴ろうとする仕草もする。
そんな若い馬に、人を乗せて走らせようなんていうのが本来は無茶な話なのだろう。実際、何度か騎手なり職員なりが落馬しているのを彼は目撃していた。
馬自身が、まだ慣れていないのもそうだが、この状態でいきなり本番に向かうのはお互いに危険だ。
同じ馬となった彼の目にも、『こいつは何とも危なっかしいやつだ』と思う時が多々あるぐらいだから……まあ、何事も練習する必要があるのだろう。
(……家のより広いな)
そうして、トレーニング……いや、トレセンのスタッフより綱を引かれるがまま案内された彼は……新たな寝床となる場所へと連れて来られた。
……前よりちょっと広い。おそらく、ここが今後の寝床になるのだろう。
大人しくしとけよ~、と呟きながら柵に鍵を掛けて小屋を出て行くスタッフを見送った彼は。
(トレーニングはこの後か、あるいは明日からか……まあ、それまで休憩させてもらうとしよう)
……とりあえず、何時の間にか設置されている水桶にて軽く喉を潤すと、ゴロリと横になるのであった。
──さて、彼が予想していた通り、トレーニングは翌日から始まった。
内容は、そこまで語る事はないだろう。とりあえず、想定していたモノからそこまで離れていなかった。
ただ、やはりというか、やっている事はこれまでの発展形ではあるが、専門的なトレーニングをしているのだなと強く実感した。
人を乗せて走るのは慣れていたが、ここに居る人たちは専門家なだけあって、牧場の人達よりも格段に乗るのが上手い……そう思った。
何と言えば良いのか、大して重さに違いがないはずなのに、格段に楽なのだ。
身体が揺れても、上の重心が合わせてくれるから、こちらがバランスを取る手間が無くなるのは有り難かった。
この時よく乗ったのは、
この人は、牧場に居た時からちょくちょくお付き合いのある人だ。詳しくは知らないが、キナコさんとは先輩後輩の間柄……らしい。
なので、気持ちとしては非常に楽だった。
頭では分かっているが、どうせ乗られるのであれば、やっぱり気心知れた人に乗ってもらいたいと思うのは馬の身体になっても同じ事。
(彩音さんが俺の背中に乗るようになったのは少し前からだけど……この人優しいから、俺としてはこの人に乗ってもらいたいな)
……まあ、正直なところ、だ。
最初は女性騎手も居るのかと驚き、この人が己の背に乗る事が有った時、それで勝てるのかと不安を覚えた。
かといって、自分だけの力で勝てるのかと言えば、それもまた不安でもあった。
なにせ、牧場に居た時とは違い、此処では強そうな馬がいっぱい居る。というか、実際にいっぱい居た。
今の己では手も足も出ないような相手と併走した時、より強くそれを実感した。おかげで、彼は彩音に対して不安を抱いていた。
だが、いざ蓋を開けてみれば……これがまた、意外や意外、この彩音さんとやらは、大そうな腕前だった。
何と言えば良いのか、しっくり来るのだ。それでいて、指示が柔らかいというか、穏やかなのだ。
牧場に居た時もそうだし、ここでも数名背中に乗られたが、この女性とは違っていた。正直、大人しく背中にしがみ付いていた方がマシだとすら思っていた。
でも、それでは勝てない。まっすぐ走るだけならともかく、全速力を出している間は、他の事を考えている余裕などない。
他の馬を警戒しながら走るのもそうだし、何よりも、そんな事をしていたら酸欠で頭がクラクラしてしまうからだ。
だから……彼は、彩音さんとならば、レースで勝てるのではないか……そう、思った。
……で、だ。
そんな彩音さんを乗せて、コースをぐるぐる回るのは中々に気分爽快だ。
気持ちよく走らせてくれるのが楽しくて、辛いトレーニングも何とかこなす事が出来た。
たとえば、牧場には無かった坂道ダッシュ……スタッフたちの話では、『
名前からして大変そうだが、坂道ダッシュは陸上競技においても効果的なトレーニング。何だか足腰に効きそうだし、頑張った。
……まあ、実際に走ったらすぐに後悔したけど。正直、走っている最中は、彼とて悪態吐きまくりだった。
だって、この坂路とやら……お前、こんな冗談みたいな坂道をマジで走らせんのかと、思わず蹴りの一つでも食らわしてやりたいぐらいに辛かったのだ。
でもまあ、やらなければならないのは分かっていたので、精一杯頑張った。他の馬たちは疲れて速度を緩めていたが、彼だけは毎回最後まで頑張った。
他には、プールだろうか。
彼も最初にそれを見た時は驚いたのだが、競走馬はプールを利用したトレーニングも行う。というか、強い馬を作る為にはプールは必須である。
なにせ、プールトレーニングは、サラブレッドの種族的弱点である足への負担を軽減させながらも、スタミナを強化させることが出来るからだ。
なので、けっこうプールはやらされた。正直、競走馬の世界も、人間と同じくアスリートの世界なのだなと彼はあっぷあっぷと必死になりながら、そう思った。
(さ、さすがに坂道ダッシュをやった後で飯を食うのは少々辛いぞ……)
そうして、他にも細やかなトレーニングを行った後で出されるのが……食事。
すなわち、現在の主食である
ぶっちゃけると、飯を食う前に一眠りさせてくれと思ったが……まあ、思うだけだ。
食わねば身体が強くならないのは、人間だった時も同じ。
馬ではあるが、馬界隈におけるアスリートの卵として生まれたからには、食えないとは言えない。
ちなみに、坂道ダッシュに比べたらプールの方が体力的には楽ではある。ただし、精神的な疲労はこっちの方が大きい。
どうにも、プールに慣れないからだ。
たぶん、万が一溺れた時のことを想像してしまうからだろう。人間の時とは違い、壁や手すりなどにしがみ付くことが出来ないから。
(味は悪くない……いや、むしろ、今の味覚だと中々美味いと言える味なのだが……いちいちしっかり噛まないとならないのが面倒だな……)
出来るならばミキサーにでもかけて食べやすくしてほしい……と望むのはワガママなのか……いや、普通はそんな事考える馬がいるなんて夢にも思わないか。
──とにかく、食べる事もトレーニングの内だと思うしかない。
苦しかろうが、何だろうが、気合と根性で無理やり飼葉を胃袋に押し込む。
ここでへこたれていてはレースに勝つなんて不可能だから。
今の己に出来ることは、今の己が成さねばならないのは、レースに勝つために己を鍛え上げること。
(たとえ馬になったとしても、世界が違っていても、前世の俺とは何の関係もないとしても……かつては出来なかった恩返しを、せめてあの人たちの為にも……俺は……!)
もしゃり、と。
桶に入れられた最後の飼葉を平らげた彼は、疲れた身体に血行を巡らせるために、部屋の中をぐるぐると旋回しながら、ゆっくり身体を動かすのであった。
……。
……。
…………そして、トレセンに来てから数か月後の月日が流れて……セミの声が真っ盛りになった頃。
(──ヨシッ! やるぞ!)
ついに、彼は……競走馬としての最初の一歩であり、デビュー戦が行われる……レース場に降り立ったのであった。
いつぞや乗せられたトラックから出た彼は、スタッフに綱を引かれるがままにレース場へと向かう。
見慣れぬ者たちの視線に、見知らぬ建物と、嗅ぎ慣れぬ人工物の臭い。ざわざわと、話し声がそこかしこより聞こえてくる。
(……ヨシ、とりあえず今日は俺にとって状況が有利に働いてくれている)
まだ外の世界に慣れていない他の馬たちは、暴れてこそいないが何処となく浮足立っているように彼には見えた。
──まあ、無理もない。そう、彼は思った。
他の馬たちが暮らす牧場やトレセンがどうなっているかを彼は知らないが、都会より遠く離れた場所にあるのは想像がつく。
スタッフたちの忙しなさとは裏腹に、どちらも空気そのものは
これも馬に成って分かったことなのだが、馬の聴覚というのは人間の比ではない。
車のクラクション一つ離れたところで鳴らされただけでも、ビクリと身体を硬直させ、落ち着きを失くすぐらいなのだから……ん?
(なんだ、すぐにレースを……ああ、そうか、そういえば、昔に競馬場に来た時も、こんな感じでクルクル周回する馬を見物したっけか?)
そのままレースが始まるのかと思えば、違った。
楕円形の……陸上トラックのような場所を、客や関係者に見守られながら、スタッフに綱を引かれる形でグルグルと回らされる。
視線を客たちに向ければ、誰も彼もが真剣な……いや、中には楽しそうにカメラを向けている者も居たが……とにかく、大勢の人達が回る馬たちを見つめている。
……何だか、懐かしいな。
人間だった時ですら、もう数十年も前の話、思い出である。
加えて、数回しか言っていないというのに、妙な懐かしさを覚えずにはいられなかった。
……。
……。
…………と、思っていると。
『ホワ~、頑張って~』
(え、キナコさん、来てくれたのか!?)
まさかの、キナコさん登場。
牧場とレース場との距離は不明だが、ちょっと行って帰るなんて出来ない距離なのは確実だ。人間だった時も、けっこう電車を乗り継いだ記憶がある。
だからこそ、嬉しくなった彼はスタッフを引きずるようにしてキナコの下へと駆け寄る。『ちょ、ま、待て、止まれって!』慌てたスタッフが宥めようとするが、無駄である。
馬の体重は、最低でも成人男性の5倍以上はある。
そして、そんな馬の気分をレース直前に害してしまえば、勝てる勝負も勝てなくなる。だから、あまり強引に押し留めることも出来ない。
『ホワ~、大きくなったね、立派だね。すっかり綺麗な葦毛(あしげ)になって、綺麗だよ』
(やりますよ、キナコさん! 貴方の為にも、俺はやりますよ!)
『でもね、無理しちゃ駄目だよ、怪我だけはしないでね。怪我するぐらいなら、途中で力を抜いてもいいからね、約束だよ』
(大丈夫です、俺は勝ちますよ! 勝って、勝ちまくって、皆を楽にさせますから!)
故に、ヒヒンヒヒンと挨拶をする彼が、見かねた職員が駆け寄ってくるまでその場より動かないのも……必然で。
そうして、様子を見ていた他の客たちからもちょっと笑われながら、彼は……遅れてやってきた彩音さん……いや、彩音ジョッキーと共に、戦いの場へと向かうのであった。
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