第二話の裏: 騎手への道か、母への道か



 ──柊彩音ひいらぎ・あやね、25歳。騎手学校を卒業して、早数年。



 数字だけを見れば若者に区分される年齢だろうが、馬に乗って戦うジョッキーとしては、この時期が分水嶺ぶんすいれいなのではと、最近になって彩音は考えるようになっていた。



 というのも、彩音には一生を共に生きたいと思っている男性が居る。



 彼とはいわゆる幼馴染という間柄で、恋愛を経て結婚となったのは、今から3年前。


 当時は、互いにまだ22歳。


 将来のことなど考えるよりも、目の前の仕事に没頭するばかりで、とにかく社会に馴染み付いて行くだけで精一杯だった。


 それは、騎手である彩音にとっても変わらない。


 世間一般の会社勤めとは全く空気が異なるが、この世界も少し見た目が違うだけで、中身はだいたい同じ。


 つまりは、実力主義だ。いや、そんな生温い言葉では足りないぐらいの、完全なる実力社会。



 なにせ、騎手の世界というは、実力がそのまま年収に直結する。



 どれだけ愛想が良かろうが、勝てなければ何処にも相手にされない。逆に、愛想が悪かろうが、勝てるやつならば馬主たちが放って置かないのだ。


 もちろん、騎手とて馬鹿ではない。今みたいにフリーが主流ではなく、各厩舎に雇われていたお抱え騎手が主流だった昭和とは事情が全く違う。


 今ではよほどバランスが崩れていない限りは圧倒的に馬主が強い。そして、そんな馬主たちからすれば、性格云々よりも前に、勝てるかどうかに重きを置くのがほとんどであった。


 まあ、そうなるのも当然である。馬主たちとて、誰も彼もが石油王ではないのだ。


 仕方がない事とはいえ、だ。競馬という世界において、レースで1着が取れるかどうかで得られる賞金が全く違うのだ。


 例えば、新馬戦ではおおよそ600万or700万円。


 そこで勝てなくて未勝利戦(1着に成った事がない馬などが対象)に挑んで勝てば、520万円。



 これは、あくまで1着を取った場合の賞金だ。



 2着以下になれば得られる賞金がガクンと下がり、それはそのまま騎手の年収へと反映される。


 言い方は何だが、勝てるやつは何千万円と稼ぐのに対して、勝てないやつは引退して就職した方がマシなのではと思ってしまうほどの差が生じてしまう。



 競馬とは、そういう世界なのだ。



 そして、馬の勝利によって恩恵を得られるのは馬主や騎手ばかりではない。調教師や厩務員きゅうむいんにも、幾らか配分されるのだ。


 つまりは……調教師の方からも、勝利数の多い騎手や、勝利数こそ少なくとも腕の良い騎手を勧めてゆく場合が多くなるわけだ。


 もちろん、様々な理由から、全てがそうではない。


 だいたいは馬主繋がりで紹介されるか、各厩舎との繋がりがある気心知れた相手を紹介されるか、あるいは騎手自身が売り込みに来てそのまま……というのが通例であった。



 ……で、話を戻すが、柊彩音25歳、既婚。彼女は今……人生の岐路に立たされているのを薄々感じ取っていた。





 ……。



 ……。



 …………まだ子供のいない彩音にとって、ご飯の準備はそれほど苦ではない。



 厳しい体重制限を課しているために彩音自身はあまり食べられないが、嬉しそうにパクパクと平らげてくれる旦那を思えば、むしろストレスの捌け口みたいなものである。


 実際、料理を作っている間はその事だけに集中していられる。どうしても、暇が出来るとその事ばかりに気が向いてしまうから、最近では前よりも率先的に台所に立つようになっていた。


 ……さて、そんなわけで、この日の晩飯のメニューは、シチューとコッペパンにサラダ、鳥肉のピリ辛焼きだ。


 カレーやシチューのような汁物の主食が好きな夫の為に、彩音がよく作る料理である。


 以前、飽きないのかと尋ねてみたが、毎日でも飽きないと言われたので、一週間に一度は作るようにしている。



「今日も美味しいよ」

「うん、ありがとう」



 御世辞か、慣例となった挨拶か。


 どちらにせよ、お褒めの言葉を言われるのは、彩音としては嬉しい。


 やはり、分かってはいても、言葉に出してくれるのは違うから。


 自分よりも、がっしりとした体格の旦那……柊宗司の食べる姿を横目に、彩音は点けっぱなしにしているテレビに視線を向けた……と。



『──新しい生活、桜舞う戦い──』



 タイミングが良かったのか、悪かったのか。


 パッと挟まったCMに登場したのは、新成人と思わしきスーツ姿の男女……そして、その二人の間を駆け抜けていく一頭の馬。


 その背に乗っているのは……彩音だ。


 CGと化粧で普段よりも2割増しぐらいに綺麗になった彩音が、颯爽と人一人いない芝のレース場を駆けてゆく。


 その背を追いかけるように、耳触りの良いモノローグが流れる。聞き覚えのあるBGM(名前は、思い出せなかった)と共に、彩音の姿は画面外へと消えて。



『──天皇賞・春  5月××日出走!!』



 巨大テロップと共に、それを読み上げるナレーションが流れた後……再び、今しがたやっていた番組が再開した。



 ……。



 ……。



 …………ちょっと、恥ずかしい。



 例えるなら、趣味でやっている演劇の映像を、家族に見られた……そんな感じだろうか。別に悪い事をやっているわけではないから、恥ずかしがる必要性はないのだが……まあ、いい。



「2割増しで綺麗だね、CMの彩音は」

「……ありがとう。自分でもそう思ってた」

「でも、あんまり嬉しくなさそうだね」

「……そりゃあ、そうでしょ」



 不思議そうに首を傾げる宗司に、彩音は……複雑な思いで先ほどのCMを思い返しながら……軽く、溜息を零した。



(だって、これじゃあ騎手ではなくモデルとしてでしか必要とされていないみたいじゃないの……)



 それは、夫の宗司にも言えない……贅沢な悩み。と同時に、己の現状を如実に現しているモノだと、彩音は思っていた。



 そう、そうなのだ。


 彩音は、騎手である。


 けして、モデルではないし、女優でもない。


 確かに、彩音は己を美人だと思っている。


 モデルとしてスカウトされた経験もあるし、今も女性騎手として雑誌に載らないかという話も来ている。



 ──だが、違うのだ。



 彩音は、自身を、狭い門を潜り抜けてプロとなった騎手の1人だと思っている。


 己の腕前は別として、その事に誇りを抱いていた。


 だからこそ、騎手としての腕前ではなく、美貌だけを求められている現状に……歯痒い気持ちを抱いていた。



(でもなあ……今年なんて、1勝しか取れていないのは事実だしなあ……)



 でも、そうなるのも仕方ないという現状も、彩音はしっかり受け止めていた。


 騎手の世界は、実力主義だ。そこに男も女も関係ない。


 この実力というのは、良い馬に巡り合えるかどうかを含めての、実力だ。


 そして、良い馬とは、おおよそ己の腕で掴み取るモノだ。周りが何と言おうが、それが事実だと彩音は思っている。



斤量きんりょうのハンデが貰えなくなってから、ガクンと勝ち星減っちゃったもんなあ……)



 ──斤量とは、要はレースの際にくらに取り付ける重りである。



 どうしてそんなモノがあるのかといえば、それは新人騎手たちに活躍の場を与え、騎手としての成長を促す為のモノである。


 色々と細かいルールがあるのだけれども、これにより、名前が付いていない競争などでは新人騎手が多用されやすく、新人はその間に実力と経験を積み、上を目指す……といった感じである。


 新人女性騎手として出発した彩音も、当初はこの制度に従って経験を積んだ。


 映えるような成績ではなかったが、ポツポツと勝利を重ね、徐々に馬主たちの間にも名が広まり、いずれは重賞じゅうしょうレースにも……そんな夢も抱いていた。



 だが……現実は、そうならなかった。


 彩音は、勝てなかった。



 いざ、減量制度から外れて、男たちと同じ立場になってレースに臨んだ結果……涙すら出てこないぐらいに、勝てなくなった。


 入着にゅうちゃく(賞金が支給される5着までに入ること)までは行けても、1着を取れなかったのだ。



 もちろん、当時の彩音は頑張った。



 栄養学の本を片手にギリギリまで筋肉を維持しつつ体重を落とし、生理が止まるほどに己を追い込んだ時期もあった。


 でも……それでも、戦績は思ったより伸びなかった。


 時折勝利を収めることは出来ても、斤量の有利が有った時に比べたら、半分にも満たなかった。しかも、この時の無茶が原因で体調を酷く崩してしまった。


 悔しさと共に、思い知った。これを続ければ、確実に命を削る、と。


 そうして、歯痒い焦燥感が積み上がっていくに連れて、一つ、また一つとオファーが減っていき……気付けば、先月は騎手として一日も仕事が無いという状況にまで陥っていた。



 ──『引退』。



 その二文字が、今までより強く彩音の脳裏を過り始めたのは、その時からだった。


 この先、騎手として己の腕が劇的に良くなる可能性。


 幸運にも、強い馬に恵まれて勝ち星を拾える可能性。


 そんな、宝くじを引き当てるかのような、己にとって都合の良い妄想が脳裏を過る。しかし、現実はおおよそ、妄想の通りにはいかないものだ。



 ……母親になるにしても、そろそろ始めた方が良い時期でもある。



 仲良くしている宗司の姉からは、『子供作るならとにかく早めに作れ、何億掛けようが歳は戻せないよ!』と何度も言われているからこそ、余計に……と。



 ──唐突に、自宅の電話が鳴った。



 いや、電話は唐突に鳴るものだけど、とにかく思考のるつぼに入りかけた彩音の意識が浮上した。



「──ああ、私が出るから」



 位置的には、宗司の方が近い。だが、タイミング悪くパンを口に入れた直後だったので、彩音が電話を取った。



「もしもし、柊ですけど」

『──あ、あの、彩音先輩ですか?』



 電話口より聞こえてきた女の声に、彩音は一瞬ばかり思考を止めた後……ああ、と思い出して笑みを浮かべた。



「キナコさん? お久しぶりね、どうしたの?」

『──あ、その、こんな時間に突然な話で申しわけないんですけど、騎乗依頼してもいいでしょうか?』

「え?」



 一瞬ばかり、彩音は動きを止めた。


 反射的に宗司を見やれば、宗司は笑みを浮かべて両手で○を作っていた。『キナコ』という名前から、電話口の相手が誰で、どんな用件なのかを察したようだった。


 それを見て……これも縁かと苦笑した彩音は、次いで、軽く気を引き締めつつ……何時のレースなのかを尋ねた。



『──その、違います。レースじゃなくて、ホワの……馬の調教の手伝いをお願いしたいのです』



 しかし、思っていたのとは違った。


 レースではなく、調教。


 本番で乗る騎手に慣れさせるために、事前にその馬に騎乗してもらうという調教は知っているが……が、そういう馬は、重賞などに出て来る強い馬がほとんどだ。


 言っては何だが、彩音が知る限り、橘キナコの牧場……『タチバナ・ファーム』に、それほどの強い馬が居るという話は聞いた事がない。


 実際、『タチバナ・ファーム』の馬である『マッスグドンドン産駒』の馬には何度か乗った事はあるが、OPが限度では……という感想を抱いた覚えがある。



(期待の馬が生まれた? いや、でも、だったら私じゃなくて他に……いくら学校からの知り合いだからって、情でこっちに振るほどお人好しではないし……)



 ──これは、何か有る。他には頼みにくい、何かが。



 そう、彩音は直感的に思った……が、断ることなく、キナコの依頼を受けることにした。


 理由は、単純だ。


 引退の二文字を考えるようになった今、最後に己を慕ってくれていた後輩の頼みを聞いて夢を終わらせるのも悪くはないから。


 そして、マッスグドンドン産駒の馬は……彩音にとって初勝利をもたらした、思い出深い話があるわけで。



(区切りを付けるには、良い機会なのかもね……)



 そう、思ったからだった。







 そうして、数日後。


 そういえば、マッスグドンドン産駒の馬は何度も乗ったけど、その馬たちが生まれた牧場へ来るのは初めてだな……と、思いながら『タチバナ・ファーム』へとやって来た彩音は。



「依頼を受けてありがとうございます、彩音先輩!」

「……え、あの、キナコさん? ダイエットでもしたの?」



 出迎えてくれたキナコの顔を見て、開口一番……困惑の言葉を零した。


 何故なら、久しぶりに拝見したキナコの顔が、記憶にあるそれよりも一回り小さく細くなっていたからだ。


 いや、顔だけではない。全体的に丸っこいフォルムだったはずなのだが、目の前に居るキナコはそうではない。


 文字通り、モデルのような線の細さだ。


 仕事途中で来てくれたのか、半袖の恰好だからこそ、余計にそれが分かる。現役騎手の己と同じくらいに、細いのだ。


 ダイエットならば相当に努力を重ねただろうから褒め称えてやりたいが、そういう理由以外で痩せた可能性を思えば、迂闊に褒めることも出来ず……結果的に、困惑するしかなかった。



「あ、いえ、違うんです。ちょっと、うちのホワを育てるために無理し過ぎちゃって……」

「ホワ? 電話でも話していたけど、そのホワってこれから私が調教のお手伝いをする馬よね?」

「はい、そうです! 凄く可愛いから、先輩もすぐに好きになると思いますよ!」

「そ、そうなの、分かったから、少し落ち着きなさい」



 グイッと身を乗り出すようなアピールに、思わず彩音は仰け反って堪えると……そっと、居住まいを正した後で。



「……ワケありの馬なんでしょ? ここまで来て断ったりはしないから、ちゃんと説明してくれないかしら」



 ハッキリと……聞いておくべきことを尋ねた。


 何故ならば、電話にて簡単に話を聞いた時、キナコはナニカを隠しているということに、彩音は気付いていた。


 でなければ、わざわざ落ち目の現役騎手を調教の助手として使おうだなんて手法、根が素直なキナコが思いつくわけがないと彩音は思っていた。



(──まあ、キナコさんのことだから、単純に私に迷惑を掛けたくないから……と思ったのでしょうけれども)



 気付いていて、受けたのだ。


 そうして、ホワという馬が居る厩舎へと向かう道中にて、非常に気まずそうな様子で語り始めたキナコの話を一通り聞き終えた彩音は。



 ……深々と。それはもう、深々と……溜息を吐いたのであった。



「あ、あの、ごめんなさい、彩音先輩……」

「ああ、違うわよ、貴女に対しての溜め息じゃないから」



 そう、それはキナコに対してではない。この溜息は、誰一人キナコに手を貸さなかった同期たちに対しての、淡い失望であった。



 ……いや、まあ、分かるのだ。同期たちの、気持ちも。



 ただの馬ならばともかく、幼少期に麻痺の症状(キナコは、歩行不安と誤魔化していたけれども)が見られていた馬の騎乗なんて、普通は怖くて出来ない。


 麻痺は改善したと言われても、それが本当なのかは分からない。ふとした拍子に、麻痺が表に出て転倒する可能性もある。


 万が一、己の騎乗中に事故が起こって怪我でもしようものなら、責任の所在はどうなるのか。いや、所在云々の話ではない。


 レース中ならともかく、調教中に故障させたとなれば、それこそいくらでも責任を騎手に擦り付けることだって可能だ。


 タチバナ・ファームの人達がそんな事をするとは思えないが、そうされる可能性が少しでも脳裏を過ってしまえば、そりゃあ怖気づくのも仕方がないだろう。


 なにせ、今は圧倒的に馬主の力が強い。下手に悪評でも流されたら、その時点で事実上の引退確定になってしまう。


 そうでなくとも、己が怪我をする可能性もある。かすり傷程度で済めば良いが、骨折でもしようものなら、下手すると他の馬の騎乗予定にも影響が……いや、止めよう。



 ──内心、彩音は首を横に振った。



 己がそんな事を言えるのは、いざとなれば引退して家庭に収まる事が出来るという余裕があるからだ。


 ……仮に己がまだ独身で、理解してくれる彼氏も居なかったら、どうしていただろうか? 



(たぶん、適当な理由を考えて断っていたでしょうね……)



 結局のところ、同期たちより少しばかり恵まれているだけの己が、如何な理由で彼ら彼女らを見下せるのだろうか。



 ……やはり己はもう、引退するべきなのかもしれない。



 そんな考えが改めて脳裏を過る中、彩音は……傲慢な己の考えに苦笑しつつ、キナコに案内されるがまま厩舎へと向かう。



(と、なれば、このタイミングで私のところへ連絡が来たのも、ある意味では幸運だったのかもしれないわね)



 ──そう、そうだ。


 これも、受けると決めた時にも思ったが、これも縁だ。


 明日引退しようが来年引退しようが、未練を捨てられないのは分かり切っている。ならば、いっそのこと、怪我の一つでもすれば、踏ん切りが付くかもしれない。



 そんな、誰に対しても失礼な事を思いながら……ぼんやりと、近づいて来る厩舎を見上げた。



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