プロローグの裏: 期待外れのラストクロップ




 ──所有している母馬が、無事に仔馬を出産した。




 それ自体は、とても喜ばしいことである。なにせ、人間に限らず子供の出産というのは命がけだ。


 夜も更けた時刻とはいえ、だ。


 タチバナ・ファームの厩舎きゅうしゃ内の最奥にある馬房ばぼうは、深夜とは思えない熱気が満ちていた。


 厩舎とは、言うなれば馬が暮らす小屋で、馬房とは馬たちのプライベートスペース。つまりは、厩舎がマンションで、馬房は各部屋みたいな……さて、話を戻そう。



 その馬房には、タチバナ・ファームに勤めているスタッフたちが集まっていた。言うまでも無く、母馬と仔馬の状態を確認したい為だ。



 ファームの仕事は、基本的に体力勝負。そして、馬が好きでなければそう長くは勤まらない仕事だ。


 日が暮れ始めた頃、母馬が馬房内をウロウロし始めた辺りで、スタッフたちは察していた。そして、監視カメラにて馬が出産を始めたのを確認してから、様子を見に来たわけである。


 もちろん、母馬を刺激しないようにゆっくり静かに、だ。


 その点に付いては慣れたモノだし、母馬もコレが初めてではない。出産直後ゆえに少しばかり警戒の目を向けたが、特に暴れることはなかった。



 ……だが、しかし。



 出産自体は無事に終わったのだが……問題が一つ。


 それは、胎盤が剥がされ、ペロペロと舐められている仔馬の反応が……鈍かったのだ。



 これにはスタッフたちも驚いたが、手を出すかどうか迷った。



 というのも、母馬が生まれたばかりの我が子を舐める行為は、本能に基づく行為。言うなれば、母馬と仔馬との間に行われる、最初のコミュニケーション。


 ここで母馬より引き離して処置を行うと、母馬と仔馬との間に形成される絆、親子の繋がりを阻害する形になってしまい、場合によっては育児拒否に繋がる恐れがある。


 仔馬が明らかに死んでいる、あるいは死に直面している状態ならば話は別だが、スタッフたちが見たところ……あくまでも、反応が鈍いだけ。


 母馬が舐めれば顔を動かすし、鼻先で軽く押せば、ピクピクと四肢を動かしている。つまりは、外部の刺激に反応し、心臓も動いているわけだ。


 これで、そのまま動きがさらに鈍くなるようなら……と、思っていると、仔馬が動き出した。



 ──その瞬間、スタッフたちは1人の例外も無く安堵のため息を零した。



 ひとまず、死産ではない。


 まず、第一関門を突破した事にスタッフたちは笑みを浮かべ……しかし、長くは続かず、緩やかに曇った。


 それは……仔馬の動きが、明らかに悪いからだ。


 より正確に言えば、立ち上がり方に異常が見られた。


 生後間もないので、どの馬も基本的には足腰立たずに震えながらではあるが……その仔馬の動きは、ソレでは説明が付かなかった。



「が、頑張れ! 立て、あとちょっと!」


「立て! 立つんだ! ガンバレ!」



 それでも、立ち上がってほしいと誰もが願う。


 だって、そうしないと生きられないからだ。人間とは違い、馬は肉体の構造上、立てなければいずれ衰弱死する。


 母馬の乳を飲めないのもそうだが、歩くことで心肺をアシストして、血液を全身に巡らせる。


 つまり、その前段階である『立つ』という行為が出来ない時点で、安楽死させる必要というか、選択肢が出て来るのだ。



 そうして……応援の効果が出たのか、それは誰にも分からない。



 生まれたばかりのその馬は、2時間近く掛けた後で壁に身体を預けるようにして、立ち上がる。


 そして、傍に来ていた母馬へと、ひょこひょこと頼りなく……やはり、不自然な動きで近寄ると、やっとこさ母乳を飲み始めたのであった。



 ……そこまでして、ようやく……スタッフたちは肩の力を抜いた。



 だが、誰もが……先ほどと同じような気持ちで、仔馬を見る事が出来なかった。理由は、言うまでもなく……今しがたの光景である。



 ……。



 ……。



 …………。



 「       」



 スタッフの一人が零した、その呟き。


 それは無意識のうちに零された小さなモノだった為、誰一人その言葉を正確に認識していなかったし、出来なかった。


 おそらく、零した本人も気付いてはいない。でも、それでも……1人の例外も無く、皆が同じことを考えた。



 重苦しい沈黙が、スタッフたちの間を流れる。



 何故なら、こういう馬が生まれてしまった場合……取る手段は、おおよそ一つしかないことを知っているからだ。


 ゆえに、スタッフたちの視線が……このファームの責任者であり社長でもある、橘源吾たちばな・げんごへと向けられる。



 何故なら、全ての決定権は彼にある。



 スタッフたちが止めたところで、源吾が首を横に振れば安楽死。逆に、スタッフたちが安楽死を進めたところで、源吾が駄目だと言えば延命となるからだ。



 そして、そんな中で……言語は、しばしの間……固く目を瞑り、思い悩むように腕を組んで唸った。



 源吾は、がっしりとした体格の、昭和のオヤジといった感じの風貌をした男である。そんな男が唸り声を上げれば、何とも言えない威圧感を周囲に与えてしまう。


 けれども、この場においては誰一人、彼に対してそんな事は感じなかった。何故なら、誰もが……源吾が思い悩んでいる事を察したからだ。



 ……言うまでもなく、馬の妊娠&出産には、相応の月日と費用と労力が注がれている。



 ここで安楽死を行えば、これまで掛けていたお金が全て無駄に終わる。結果として残るのは、疲弊した母馬とマイナスのマークが付いた赤い数字だけ。


 しかも、源吾を悩ませる理由はそこだけではない。



 今回、子を産んだ母馬に種付けした馬の名は、『マッスグドンドン』。


 このタチバナ・ファームの経営を長らく支えてくれた功労馬こうろうばであり、今回の出産が彼のラストクロップ……つまりは、マッスグドンドンの最後の子供だ。



 思い入れのある馬の、最後の子供。それを、安楽死という形で幕引きさせるのは、源吾としても非常に辛い選択であった。



 しかし、経営者として考えるのであれば、安楽死以外の選択肢は無い。何故なら、その責任は源吾一人が取るものではないからだ。


 奇跡的に足の動きが改善し、走れるようになれば良いのだが……あいにく、マッスグドンドン産駒さんくは、いわゆる良血とされる血統ではない。


 健康的に育ってくれたら買ってくれる馬主さんや御得意さんは居るのだが、それでも、歩行に難が見られても、可能性に賭けて買ってくれるような実績が無いのだ。



(育てる期間が長ければ長い程、赤字は膨れ上がる……か)



 それを、源吾は言葉にはしなかった。


 けれども、スタッフの誰もが内心のその言葉を察していた。


 彼ら彼女らとて、生き物を育てている以上は、その死を何度も目撃していたし、大人である以上は、そうする必要があることも分かっていたからだ。


 悲しいが、生き物を取り扱う以上は、こういう事は何処かで必ず起こることだ。


 実際、タチバナ・ファームにおいても、安楽死はこれが初めてではなかった。



「──お父さん、待って!」



 けれども、この日、この夜……何度か行われていた事の中に、初めてが起こった。



「……キナコ」



 そう、源吾が呼んだのは、己の子供。『橘キナコ』という名の、目に入れても痛くないぐらいに内心自慢しているし溺愛している、愛娘であった。


 なにせ、キナコは親の贔屓目ひいきめを抜きにしても、文句なしの美女だ。それでいて、反抗期もほとんど無かった。


 よくもまあ、自分たちからこんな美人で出来の良い子が生まれたと幾度思ったことか……基本的に父親は娘を溺愛する傾向にあるらしいが、源吾もまた、親バカな一面が……話を戻そう。



「お願い、お父さん。この子だけは殺さないで」



 キナコと源吾より呼ばれた娘は……初めて、娘の立場を利用してまで、必死に源吾を……父親を引き留めようとしていた。


 薬液を取りに行こうとした源吾の袖を、掴む。その力は弱かったが、父親である源吾の動きを止めるには十分すぎた。


 そう、娘が見せた、おそらくは初めてかもしれないワガママを前に……思わず、源吾は言葉を失くしてしまった。



「お願い、この子は私が面倒をみるから……」

「……キナコ、お前は分かっていてそれを言うのか?」



 何とか、それだけを絞り出した源吾だが、「──分かってる」強く言い返されてしまえば……それ以上は何も言えなかった。



 何故なら……キナコがこのようなワガママを見せたのは、これが初めてだったからだ。



 幼い時より動物が好きで、馬たちの世話も自ら買って出てくれた。


 ……いくら本人が好きでやっていると豪語しているとはいえ、娘に甘えているのもまた、事実。


 誰よりも精力的に、そして、情熱的に馬の世話をし、元気いっぱいに駆けまわる姿を、これまで日常的に目にしていた。


 年頃の娘がやるような遊びにはほとんど手を出さず、朝から晩までファームの為に働いてくれているのは、親としては情けなくとも、経営者としては非常にありがたい存在であった。



 そんな娘が……生まれて初めて、親の決定を覆すようなワガママを見せた。



 少なくとも、その瞬間……源吾が抱いた感覚は、驚きと困惑と……ワガママを見せてくれたという、ほのかな喜び。


 そして、だからといってという経営者としての感覚であった。



 ──助けてやりたい。それ自体は、源吾にとっても偽りのない本音であった。



 キナコの気持ちは、源吾とて痛い程に分かるのだ。


 源吾だって、資金に余裕さえあれば、即決で面倒を見ようと思っただろう。



 ──しかし、馬を飼うのは犬や猫とはワケが違う。



 しかも、この馬はポニーではなく、サラブレッド。交配と淘汰を繰り返して生まれた、走る事に特化した馬だ。


 体重は400kg~500kgにもなり、身体つきこそ全体的にスマートではあるが、怪我しやすく気性も総じて繊細で、肉体的にも精神的にもデリケートな面が多い。


 食費だけでも毎月数万~十万円近くは掛かるし、世話をするのだって負担が大きい。文字通り命に係わるから、それこそ存命中は何があっても優先させるぐらいの覚悟が必要となる。



 最後まで面倒を見るというのは、そういうことなのだ。



 なにより……馬は、何事もなければ20年~30年は生きるとされている。


 今なら、まだ瞬間的に抱いた未練を仕方がなかったと押し流す事が出来る。でも、一ヶ月、二ヶ月と時が経てば、嫌でも愛着が湧いてくるというものだ。


 特に、普段からキナコは馬に対して人一倍愛情を持って接している。他の馬であれば、まだ割り切る事が出来ていただろう……が、だ。


 そうなれば、今後面倒を見きれなくなったとき、果たして娘は耐えられるのだろうか? 



(だが、キナコのワガママはこれが初めてだ……出来るならば、叶えてやりたいが……)



 これが一般的なペットだとか、服だとか車だとか、金で用意出来る物であれば、源吾は無理を押してでも首を縦に振っただろうが……と。



「アナタ、キナコ、言い合いはその辺りにしなさいな」



 その時、張り詰めた空気の中へ……スルリと入り込んだのは、源吾の妻であり、キナコの母である妙子たえこであった。


 妙子は、源吾よりもリアリストなところがある女性である。そして、妙子……母が口を挟んだことにより、キナコは我知らず身を固くした。


 と、いうのも、だ。


 何だかんだ言いつつも何処かロマンチストかつ義理人情で動く部分が有る源吾とは違い、妙子にはそれが……無いわけではないが、源吾よりも決断が早い。


 そんな妙子からすれば、だ。


 立ち上がるまでが遅く、歩行にも異常が見られる仔馬。現時点では見込みの可能性が皆無なうえに、それが改善する可能性も成長しなければ分からない。


 と、なれば、だ。



「た、妙子……ちょ、ちょっとだけ考えさせてくれないか?」



 キナコだけでなく、長年連れ添った源吾すらもドキッとしてしまうのも、当然と言えば当然であった。



「……はい? 何を言っているのよ。考えるなんて、当たり前でしょう。ちゃんと考えなさいよ」



 だからこそ、あっけらかんとした様子で言い放ったその言葉に……父と娘のみならず、成り行きを見守っていたスタッフたちも、呆気に取られたのであった。



「……え、あ、あの、お母さん、いいの?」



 誰しもがポカンと呆けている最中、真っ先に我に返ったキナコがそう尋ねれば、「いいに決まっているでしょう」妙子は不思議そうに首を傾げた。



「他の馬ならいざ知らず、マッスグちゃんのラストクロップでしょ。そりゃあ、私だって嫌よ、こういう最後は」

「じゃ、じゃあ……」

「気が早い、言ったでしょ、考えなさいって。貴女もこれまで馬の世話をしてきたなら、販売しない馬をずーっと面倒を見る事の重みぐらい、分かっているでしょう?」

「え、あ、うん……」

「だから、よく考えなさい。運良く歩行の異常が治って販売するにしても、そうならなくて面倒を見るにしても、どちらを選んでも大金が掛かるのだから」

「……はい!」

「よし、良い返事ね」



 そう言うと、妙子は集まっている他のスタッフたちに深々と頭を下げた。



「皆様も、今日はお疲れの中、ありがとうございます。とりあえず、この話は少し時間を置いてから決めます。今は私もそうですけど、気が高ぶっておりますから……」



 その言葉に、スタッフたちは一様に笑みを零した。



 言われてみれば、誰も彼もが疲れていた。そりゃあ、普段の仕事に加えて、晩飯もパパッと済ませてからずーっと見守っていたのだ。



 とりあえず、出産は無事に終わった。異常が見られるといっても、懇意にしている獣医が来るのは明日以降。


 ちゃんと乳は飲めているし、仔馬自身も疲れたのかさっさと眠ってしまった。


 最大の心配でもあった育児放棄も起きなさそうだし……後はもう、自分たちに出来る事はほとんどない。


 今は母馬も気が立っていて馬房には入れない。何をするにしても、翌朝になってから……そう、スタッフたちも判断して、厩舎を後にしたのであった。



 ……。


 ……。


 …………もちろん、それは。



「あっ、キナコも、もう休みなさい」

「え?」

「え、じゃないわよ。それとも、無理やりにでも休ませるわよ」

「あ、はい」

「言っておくけど、アナタもよ」

「はい、分かりました」



 源吾とキナコも、例外ではなかった。



 母は強し……スタッフたちの暗黙の了解ではあるのだが、『タチバナ・ファーム』の影の権力者は、間違いなく妙子であった。



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