今、ひとたびの夢を

葛城2号

プロローグ



 ──死んだな、と。




 戸籍には『佐藤優馬』と記載されている彼は、己の死を自覚した。


 死を理解した理由は、何てことはない。長いようで短い54年の生涯において、確実に初めてであろう激痛が脳天より走ったからだ。



 その痛みは、突然であった。



 叩かれたわけでもなく、動悸があったわけでもない。自宅の玄関の鍵を開けて、中に入って靴を脱ごうとした──その瞬間に、起こった。



 ぶつり、と。


 何かが頭の中で切れる音を聞いた。



 直後、サーッと血の気が頭から下半身へと降りて行くのを感じると共に、視界が暗転を繰り返し──何だと思って下駄箱に手を掛けた時に、その痛みは来た。



 ──頭の血管が切れたのだ。



 そう理解した時にはもう、全ては遅かった。いや、そうなる前に気付いたとしても、彼は己の死を免れなかっただろう。


 なにせ、時刻は夜の23時47分。常識的に考えて、そんな時刻に人通りなど多いわけがない。


 加えて、彼の住んでいる場所……繁華街ならともかく、住宅街の一角にひっそりと建っているアパートの1階だ。


 壁に限らず建物全体が安普請やすぶしんであるから、成人男性が倒れた物音はよく響く。


 しかし、その程度の騒音など住民にとっては慣れているからこそ、誰も表に出て様子を確認しに出てこない。何より、どの家も電気が消えている。



 ……即死こそ免れてはいるが、彼はもう助からない。



 ひょいっと視線を向ければすぐに気付かれる位置に玄関があるけれども、視線を向けていなければ素通りされる。


 そんな場所で倒れたのだ。しかも、一秒でも早く治療が必要な脳出血。運良く見つかったとしても、それは早朝……今より5時間も後だ。



 ──っ、──っ。



 暗転する意識の中で、彼はナニカを呟いた。


 しかし、それは『音』でしかなくて。


 彼の遺言は、誰の耳にも届くことはなく……静かに、玄関の照明に照らされた中で、彼の54年の生涯はピリオドを打たれたのであった。



 ……。



 ……。



 …………で、ところ変わって……ふと、彼は目が覚めた。



 いや、目が覚めたというよりは、意識が戻った……だろうか。



 その証拠に、彼は指先一つ動かせなかった。まるでジェルの海に潜ったかのように手足が重く、それでいて、思考が上手く定まらない。


 視界は、真っ暗だ。首を動かそうにも無理だから、仕方なく視線だけを動かすが……何処を見ても、何も映らない。


 何とか声を出そうにも、『う~』、とか、『あ~』とか、舌にスタンガンでも食らってしまったのかと思うぐらいに、まるで言う事を聞かない。


 アルコールでじゃぶじゃぶと脳を洗われたかのような呂律の回らなさに、彼は辟易しつつ……何か状況が変わらないかと、暗闇の中で1人やきもきしている……と。



『希望の転生条件をお答えください:制限時間2分(※希望が必ずしも通るわけではありません)』



 これまた唐突に、彼の眼前にてその文字が表示された。


 真っ暗なディスプレイに、いきなり表示したかのような感覚。心構えが出来ていなかったので堪らず面食らった。


 だが、表示された文字は変わらず、むしろ、はよ答えろと言わんばかりに、その画面をバンバンと手で叩く少女が……え? 



(え、なにこれ? もしかして、神様?)



 何故、そう思ったのか……それは彼自身にも分からない。そして、これまた、何時の間にそこに居たのだろうか。



 少女の外見は、一言で言えば巫女であった。



 紅白の特徴的な衣装に見合う、整った顔立ち。アイドルを目指すならば、あっという間に紙面を飾りそうな……それほどの美少女であった。



 ……で、そんな少女が……ばんばん、と返答を促してくる。



 己の気付かぬ内に現れたその少女だが、不思議と、彼は突然現れた事にこそ驚いたが、少女の存在そのものは、アッサリ受け入れていた。


 それは同時に、己の身に起こっている事も……彼は、彼自身が、不思議に思えるぐらいに納得していた。



 やはり、己は死んだのだ。



 そして今は、死後の世界……次の転生先をどうするかという質問を、神様より行われている……そんな感じなのだろう。



(……だったら、言う通りにしよう)



 だから、彼は次々湧き起こる疑問その他諸々を胸中へと押しやりながら……とりあえず、眼前の問い掛けに答えることにした。


 とはいえ、希望を出せと言われても、そんなにあっさり出て来るわけもない。


 どうせ希望なのだから幾らでも大きく出来るだろうが……そう思って少女を見やれば、『無理です駄目です』と言わんばかりに首を横に振られた。


 ……どうやら、○○で○○で○○で……といった感じで、言葉遊びみたいに条件を増やすと、ほぼ希望は通らないようだ。


 何となく、彼はそう理解した。まあ、下に注意書きがある辺り、察してはいたけど。


 それならばと、○○な××という感じならどうかと言葉無く訴えれば、『それならセーフ』だと言わんばかりに首を縦に振られた。まあ、それも注意書き……で、だ。



(……どうしたものか)



 わざわざ注意書きをしている辺り、どんな些細な願いでも通らない可能性があるのだろう。


 つまり、通るか通らないかはその時の運……というより、眼前の女神様が了承するかどうかに全てが掛かっているのだろう。


 しかも……お答えしろと言う辺り、口に出して言えということなのだろうが……視線でどうにかならんかと訴えれば、少女は無言のままに首を横に振った。



 ……やはり、この痺れた舌で、頑張るしかない。



 しかし、急に希望を出せと言われても……しかも、制限時間付き。グダグダ質問している間にも、残りは30秒を切っている。


 わざわざ時間制限を付けているあたり、制限を越えたら自動的に『希望無し』になりそうな予感が……笑顔で頷かれたので、彼は慌てて動きの悪い脳みそを一生懸命回転させる。



 と、とりあえず、住む場所……! 



 安全で金持ちの家の子供……駄目だ、条件が一つ多い。首を横に振る少女を見やりながら、意外と出せる条件少ないぞと彼は条件を改める。


 かといって、色々考える余裕も……と、とにかく、何か、何か希望を……そうだ、容姿だ、顔を良くしておけばとりあえず悪い事にはならない。


 あとは……そうだ、後は、とりあえずスペックを上げよう。でも、スペックが高いとか言っても、どういう意味でスペックが高いと判断されるのか……ああ、よし、もうこれだ! 




『ゆうしゅうなびじん』




 もつれる舌を何とか動かして、彼はそう答えた。


 すると、少女はニコッと可愛らしく微笑むと、パンと手を叩いた。



(うおっ!? 眩しっ!?)



 瞬間、少女より放たれた膨大な光。


 それは目が眩むどころか焼け付く程に強く、痛みすら覚え……フッと、意識が遠のくのを彼は何となく感じていた。



 ……。



 ……。



 …………そうして、次に彼が意識を取り戻したのは……何と言えばいいのか、温かい空間の中であった。



(……?)



 どんな言葉が当てはまるのか……強いて当てはめるのであれば、ひと肌程度に温められた湯の中で目が覚めた……といった感じだろうか。


 息苦しさは、全く感じない。先ほどまであって妙な億劫さもなく、たっぷり8時間の睡眠を取った後のように思考がスムーズだ。


 けれども、どうしてか手足の感覚は鈍いままだ。折り畳んだ姿勢になっているのは分かるが、それ以上が分からない。


 いや、これは鈍いというよりは、正座をした時の両足の痺れ……どうにも、ソレに似ているような気が……それに加えて、周囲が真っ暗な事には変わらない。


 湯の中で目を開けているというのに、目に湯が浸みる感覚もしない。むしろ、湯の中に居るという錯覚なのではと思ってしまうぐらいに、身体が馴染んで……んお? 



 お? 



 おお? 



 おおお!? 



 じ、地震だ!? 



 そう思うと同時に、ぐらぐらと世界が揺れる。目を開けても全然景色が変わらないが、世界が揺れて動いているのが分かる。


 振動というか、波紋というか。そういう外からの力を感じる。いきなりの事に驚いた彼は、何とか逃げようと手足を動かそうと……思ったが、無理だった。


 何時からそうなっているかは分からないが、折り畳んだままの姿勢で居た時間が長かったのだろう。自分の足の位置が、どうにも掴めない。


 足を伸ばして地面を蹴ろうにも、自分の足がどのように折り畳まれているのかが分からない。逃げようにも、ジタバタと身動ぎするだけで精一杯。



 ──あ、足が!? 



 どうにもならないままで居ると、足先がスポッと何処かへ抜けた。途端、ひやりとした冷気を感じると共に、どんどんそこへ身体が吸いこまれ──と、思ったら、全身がそこへ抜けた。


 どてん、と。


 何か、柔らかいモノの上に落ちた。強かに身体を打ち付けたが、ソレがクッションになってくれたことで、特に怪我らしい怪我を負う事は……え? 



(で、デカい!?)



 時刻は、夜なのだろう。


 ぼやけた視界には、外の暗さと、己を照らすライトの光が広がっている。その、光の中で……自分よりも巨大な影が、一つ、二つ、三つ……いっぱい居る。


 まるで、巨人に見下ろされているかのような感覚だ……いや、正しく彼にとって眼前のそいつらは巨人であった。



 恐れた彼は、何とか巨人たちから逃げようとした。



 しかし、上手く出来ない。理由は地面一杯に敷かれた藁に足を取られてしまう事と……どうも、痺れた身体と感覚が噛み合わないせいで、足が縺れてしまうからだ。



(な、何だコレは……ワイヤーで身体を縛られているのか?)



 その違和感は、もはや痺れの一言では誤魔化せないぐらいに強く、気付けば彼は己が今、とても不自由な状態になっている事を理解した。


 指を広げようと思っても、指先の感覚が非常に薄い。ガッチリと固められてしまったかのような不快感だけは感じ取れる。


 そして、どういうわけか……どうやっても手足を伸ばせない。四つん這いの状態が一番近しい感覚ではあるが、その状態から手足を伸ばせないのだ。


 両腕を頭上に、両足をピンと伸ばす。それをやろうと少し頑張るだけで、筋肉の可動域が限界に達してしまい、どてんと転んでしまう。


 不幸中の幸いというべきか、地面に敷かれた藁のおかげで痛みこそないが、それでも、これでは逃げられないと……ん? 



(……なんだコレは?)



 ごろんと横になったことで、気付いた。


 というより、転んだことが刺激になったのか、ちょっと頭にリセットが掛かったのだが……で、気付いたこと。


 それは、視界が異様に広いということだ。例えるなら、ワイド画面みたいな感じだろうか。


 横になって真正面を見ているはずなのに、真横が見えている。かと思えば、正面を見ているのに、正面の距離感というか焦点というか、どうにも噛み合わない。



 そして、何より気になるのは……己を見下ろしている人間たちの中に、『馬』が居た事だ。



 そう、馬だ。馬のような人間ではない。


 どう見ても馬にしか見えない馬が、倒れている己に向かって心配そうに顔を近付けて……いるのかは分からないが、とにかく、馬がそこに居た。



『──ヒンッ』



 初めて馬を間近にして、思わず彼は悲鳴を上げた──つもりだったのだが。



(……えぇ?)



 思わず、彼は仰け反ろうとしていた動きを止めた。


 理由は単純明快、己の口が発した言葉が、明らかに人のソレではなかったからだ。声が引き攣ったとか、そんな生易しいモノではない。


 まるで、生まれたばかりの動物のような、頼りなくか細い鳴き声……ん、いや、待て。



(……鳴き声?)



 瞬間、ぎくり、と。


 彼は身体を固くした。



 脳裏を過る嫌な予感から目を逸らしたかったが、それでは埒が明かないということを、彼は既に察していた。



 ……。


 ……。


 …………で、やはりというか、何と言うか。



 えっちらおっちら、思うように動かない手足……いや、両足を動かし、身体を捻って、広がった視界の端に捉えた己の下半身を見て……彼は、理解した。




 ──う、馬になってるぅぅ!? 




 己が──人ではない、馬に生まれ変わっているということに。


 正直、滅茶苦茶驚いた。だが、驚きよりも何よりも、彼の心に湧き起こったのは……疑問である。


 それは、あの少女の姿をした女神に出した要望が、何一つ通っていなかった……ということだ。


 いや、正確には、始めから通らない可能性があると注意書きしてくれていたから、100%通らないのは分かっていた。


 だから、通らなかったこと、それ自体は驚いていない。


 しかし、気になるのは……出した要望に欠片も掠ることなく、1%も通っていなかった……ということだ。



 ──だったら、あの無駄な問答は何だったのだろうか? 



 神様だから、常人の理解が及ばぬ事の結果、アレをやっているのかもしれないが……もしかしたら、アレはからかい半分の悪戯だったのだろうか? 



(それだったら、なんと性格の悪い神様だ……)



 悪態を吐きたくなったが、そもそも、アレは転生した際に見た幻なのかすら分からない。


 ……とりあえず、今はそんな事よりも現状をどうにかする方が先だ。


 そう判断した彼は、未だ上手く動かせない身体を四苦八苦しながら転がして……どうにか、離れたところで己を見下ろしている人たちを見上げた。



(……え?)



 その瞬間……彼は、己の状況も何もかもを忘れて、絶句した。


 何故なら……己を見上げる者たちの顔ぶれの中に、もう会えない者たちの……中学生の時に死に別れた、かつての家族の顔が有ったからだ。



(と、父さん!? 母さん!?)



 生まれたばかり故に、あるいは、馬の視力がそこまで高くないからなのかは不明だが、全体的にぼんやりしている。


 けれども、彼には分かった。記憶にあるそれよりも年老いて、全体的な風貌が変わってはいても、それでも、彼には分かった。



 ──確かに、前世の俺の……昔に死に別れた両親だ……と。



 だが、それを伝える術が今の彼にはない。だって、今の彼は馬だ。声を出そうにも、ヒヒンと馬特有の鳴き声が出るだけ……と、とにかく、だ。



 ……まずは、自分の身体をどうにかしなくては、話にならない。



 そう思って、何とか両親(だと思われる)たちの声を聞こうとするが……とりあえず、どうにも声が上手く聞き取り辛い。


 何と言えば良いのか、耳元で早口言葉を話されているかのようで、どうにも理解が追い付けない。



(『立て』、『がんばれ』、『立て』、『がんばって』……とにかく、立ち上がれば良いのか?)



 とりあえず……単語だけなら何とか聞き留める事が出来るのだが……とはいえ、だ。



(そ、そう簡単に立てと言われても……む、む、む……感覚が上手く掴めないのだぞ、こっちは……!)



 言うなれば、赤子が最初に泣くのと同じ行為なのだろう。


 生まれた己との関係は不明でも、聞こえてくる声には敵意を感じない。それは、かつての両親以外の者たちも、同様だ。


 だから、何とか皆様方も含めて安心させる為にも、立ち上がってやりたい……のだが。


 二足歩行としての感覚というか、癖が魂にまで染み着いてしまっているのだろうか。


 前足(感覚としては、両手?)に力を入れようとすると、後ろ足(感覚としては、両足?)の力が抜けてしまう。


 かといって、後ろ足に力を入れようとすると、前足の力が抜ける。


 おそらく、本来は力を入れない場所に力を入れてしまうから、それが邪魔をして上手く立てないのだろう……と、彼は推測する。


 出来るならば、応援してくれている皆様方に手伝ってほしい所存だが……規則でもあるのか、声こそ掛けてくれるが、誰一人手を貸そうとはしてくれない。



(ふん、ぬ、ぬぉぉ!!)



 なので、何とか頑張って頑張って頑張って……藁を蹴って蹴りまくって辿り着いた壁に身体を預けるようにして立ち上がった時にはもう、彼は疲れ果ててしまっていた。



 ……とてもではないが、生まれたばかりの赤子にさせるような事ではない! 



 そう愚痴を零したくなったが、そうするよりも前に、己を見下ろしていた馬……いや、己を産み落とした母馬が近づいてきた。


 すると、途端に湧き起こる……食欲。


 ああ、己はお腹が空いていたのか……それを思い出すと同時に、気付けば彼は……母馬の乳首に吸いつき、ミルクを飲んでいた。


 恥ずかしいとか、違和感とか、そんな考えは頭からすっ飛んでいた。


 これが、馬の本能。というより、赤子の本能というやつか。


 とにかく腹が空いて仕方が無かった彼は、空腹を満たす為に必死に喉を鳴らし続け……そして。



 ──すやぁ。



 腹いっぱいになった彼は、そのまま力尽きる様にして藁の中へと寝転がった。


 兎にも角にも、疲れ果てていた。


 泥のように纏わりつく眠気に抗う気力など有るわけもなく、彼は……己が馬になっている事も、己の身に起こっている境遇も一時的に忘れ、そのまま静かに目を閉じたのであった。






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