第十四話: 思わず二度見した(馬目線)
──やっぱりクレイジーボンバー強過ぎて嫌になる。
そう、彼が改めてハッキリと心に刻みつけたのは、『天皇賞・春』を終えてトレセンへと戻り、そこから放牧に出され……いつもの寝床にて目が覚めた時であった。
どうして、そんな事を考えたのか……それはひとえに、物凄く疲れてしまうからだ。
しかも、ただ疲れるだけではない。人間で例えるなら、筋肉痛に似た症状を必ず残してしまうからで。
実際、目覚めた彼が最初に思ったのは、空腹や勝利の実感ではなく、全身を襲う筋肉の軋み……つまりは、筋肉痛であった。
この軋みがまた、辛いのだ。
なにせ、馬というのは歩くことで血流の巡りを補助する。言い換えれば、それが辛い状況というのは、必然的に全身の血流の巡りが悪くしてしまう。
一般的な馬であるならば、多少なり息苦しくても静かにして痛みが改善するのを待つのだろうが……あいにく、彼は普通の馬ではない。
人間が理屈と損得で考え、時には痛みに耐えて無理を通して状況を改善するように、彼もまた……全身の痛みに耐えて、回復に全力を注ぐことが……と、話を戻そう。
とにかく、だ。
クレイジーとの戦いは勝つことが大変であるのもそうだが、彼としては、毎回この疲労感に付き合うのは……精神的にかなり面倒だと思っていた。
……だって、この軋み……すぐには治らないのだ。
もちろん、治す事をサボっているわけではない。単純に、身体が大きい分だけ、人間だった時よりも回復に時間が掛かってしまうのだろう。
ちゃんと治そうと思ったら一週間やそこらでは治らない。それは、おそらく己の世話をしてくれる者たちも理解しているのだろう……と、彼は判断している。
だって、レースが終わった後は絶対に練習には出さない。どこか異常が起きていないか、一日に何度も確認をしに来る。
他のレースの時も確認しに来たが、クレイジーと戦った時は明らかに回数が増える。特に、足回りを重点的にみられる。
それは、骨折前も骨折後も変わらない。
これも、おそらくは……力を振り絞って走っている事に気付いているからなのだろう……と、彼は判断していた。
実際、力を振り絞らなければ勝てない相手である。
加えて、最初の頃からクレイジーは強かったからだ。
というか、最初は負けた。勝てると調子に乗っていたら、あっさり負けてしまった。
あの時は、とにかく悔しくて堪らなかった。
賞金が手に入らないとか、それはまた別の話。とにかく、伸びに伸びきっていた天狗の鼻をボッキーンとへし折られたてしまったのだ。
その後、何とかリベンジを果たしたは良いが……とにかく、クレイジーとの戦いは疲れる……というのが、彼の正直な気持ちであった。
……とはいえ、別にクレイジーを嫌っているわけではない。好きも嫌いも何も、競馬は命を賭けた真剣勝負なのだ。
実際に足を骨折して死にかけた彼も自覚していることだが、遊び半分でやれば命を落としかねない危険な世界である。
そんな世界に、どんな理由や経緯があったにせよ、己と同じようにレースに出る他の馬たちを嫌いになどなれなかった。
……まあ、だからといって、一緒に走りたいかと問われたら、彼は即座に『No!』と叫ぶ程度ではあった。
──だって、疲れるし。ただ疲れるわけではなく、物凄く疲れてしまう。そのうえ、酷い筋肉痛もセットでやってくる。
なので、彼としては、出来る事ならクレイジーとは戦いたくないし、レースにて、いちいち顔を寄せて来るよく分からない馬……という印象が強かった。
……。
……。
…………なんでそう思うのかって、それはまあ、色々と理由がある。
まず、馬の身になって数年(正直、時間の感覚は人間の時よりも薄い)というのに、未だに他の馬の言葉が理解出来ない事。
これはもう正直、彼自身ですら一切理由が分からない。
馬に成ったのだから、同じ馬の言葉をいずれは理解出来るだろうと当初は考えていたが……結果はご覧の有様だ。
もしかしたら、人間の魂がインストールされているからなのかもしれないが……おそらく、理由が判明する事はないだろう。
次に、これは競走馬に成って初めて知った事なのだが……想像していたよりもずっと、他の競走馬と顔を合わせる機会が少ない事。
これはもう、ハッキリ言おう。
競走馬の世界というのは、一般人が考えている以上にずっと閉じられた(けして、排他的ではない)世界であり、それは彼とて例外ではないのだ。
まあ、落ち着いて考えてみれば、当たり前の話ではある。
犬や猫とは違い、馬というのは基本的に巨体だ。当然ながら、飼育出来る環境は非常に限定されており、また、飼育には然るべき機関より許可を得る必要がある。
そして、馬の中でも様々な宿命を背負った競走馬というのは、生まれたその時から生きる為の競争がスタートする。
歩行に異常が見られたら、良血(あるいは、相当に素質が見込まれない限り)でない限りはだいたい殺処分。
良血であっても競走馬として致命的な異常が確認されると殺処分される可能性が生じ、治療不可となればそこで未来が決まる。
そうでなくとも、爪が割れやすい、体調を崩し易い、輸送に弱い、ストレス過敏、食が細いといった、一つ一つは大した問題ではなくとも、それが二つ三つと重なれば赤信号。
日常生活を送るうえで、基本的には問題無いのが大前提。
そこから更に、競走馬として戦っていけるかどうかが不安視されると黄色信号。すぐに殺処分はされなくとも、売れ残り続ければ、最後に待っているのは……である。
──そして、無事に競走馬としてデビュー出来たとしても、安心ではない。
ただでさえ、年間のサラブレッドの生産数が7000~8000頭のうち、未勝利を勝ち上がれるのは1400頭にも満たないとされている。
そう、既に何度もレースで勝利を掴んでいる彼は実感しにくいことなのだが、一度でもレースに勝つ……それだけでも、競馬の世界では大金星なのである。
つまり、日本全国掻き集めても、競走馬の世界(引退場・乗馬用等を除いて)で生き残る馬はそれだけしかいない……さらに、馬の家(部屋)となる馬房の数にも上限が定められている。
そして、競走馬というのは基本的に買うのも育てるのも高額であり、所有するにも様々な条件をクリアする必要がある。
……見方を変えれば、競走馬というのは走る黄金も同然の存在なのである。
なので、一般人が考えるよりもずっと『関係者以外立ち入り禁止』が徹底され、破る者に対して厳しい対応が度々取られている。
それが、ある種の閉じられた世界を作り出す要因になっているのであった。
……。
……。
…………さて、脱線した話を簡潔にまとめると、だ。
彼は、馬の言葉が分からない。ヒヒンと鳴かれても、彼の頭には『ヒヒン』という鳴き声でしか認識しない。加えて、中身が馬の知識皆無の人間である。
これは、牧場にて生まれ育った時からずっと変わらない。なんとなく、喜怒哀楽の片鱗ぐらいは感じ取れるようにはなったが……それは、あくまでも牧場の馬限定だ。
トレセンに居る時は、基本的に他の馬と同じ部屋に入れられることは無い。トレーニングの最中は、背に乗った彩音の指示に意識を向けているので、他の馬に気を配る余裕はない。
しかも、この時の馬たちも毎回一緒というわけではない。けっこうな頻度で顔ぶれが変わるし、そもそも顔の区別が全く出来ていない。
なので、何か起こって怪我をすると嫌なので、必要時以外は近寄らないようにしている。安全第一、彼の好きな言葉である。
それに、彼としては言葉も感情も読み取れない他の馬と一緒に居るよりも、会話が出来ないとはいえ言葉を理解出来る職員たちの雑談を盗み聞きしている方が、はるかに楽しいのだ。
その結果、彼は未だに馬たちに対する認識が人間だった時の頃とほとんど変わらず、馬に対する『よく分からない生き物』という大前提が変わっていなかった。
(……ん? なんか馬たちが騒いでいるな?)
だからこそ、彼はその時……何かに対して嘶いたり、忙しなく歩き回る他の部屋の音が聞こえてきても、何が起こっているのかさっぱり分かっていなかった。
……。
……。
…………彼がもう少し『馬』に対して積極的であったならば、少しばかりは状況を察せられただろう。
何故なら、その馬たちの反応は、部外者への敵対反応であり、または異物が入り込んだ事による不安や緊張を表すサインであったからだ。
けれども、彼はソレを認識出来なかった。
せいぜいが『朝から元気だな……』と思う程度であり、おとなしく待っておけばご飯が来るのに……と思いながら、二度寝に入る程度の話であった。
(……ん?)
だからこそ──ブルルン、と部屋の出入り口より聞こえてきた、馬の唸り声に、彼はよっこらせと顔を上げた、直後。
(……ファ!? クレイジー!? なんでお前ここにいるの!?)
──ブルルン!
何故か居る、レース場以外では見掛けるはずのないライバルが、やっと気づいたのかと言わんばかりに唸った。
そんなクレイジーの姿に、彼は思わず痛みも忘れてビクッと身体を起こしたのであった。
──経緯はサッパリ分からないが、どうやらクレイジーは彼の故郷である、タチバナ・ファームで静養するらしい。
(……なんで?)
もしゃもしゃ、と。
飼葉を食べながらも、チラリと横を見やれば……何故か、張り合うように飼葉を平らげてゆくクレイジーと目が合った。
(……なんで?)
おかわりを催促すれば、負けてたまるかと言わんばかりに隣のカゴ(飼葉を入れる器)もガチャガチャと蹴られる。
そうして、食べ過ぎない程度に追加された飼葉へと再び顔を突っ込みながら……何故か、勝ち誇った様子でフンフンとこちらを見やるクレイジーと目が合った。
(……なんで?)
それが、クレイジーと顔を合わせて小一時間経ってもなお変わらない、彼の正直な感想であった。
と、いうのも、だ。
競馬の世界に関して、彼はほとんど無知ではあるが、全くの無知というわけではない。断片的な情報だが、それでも内情というのを少しばかりは耳に入れている。
なので、彼は知っている。『クレイジーボンバーのお家は、凄い金持ち』だという事を。
……だからこそ、意味が分からない。そんな金持ちが所有しているクレイジーが、どうして此処へ来たのか……ということが。
いや、まあ、気分転換を兼ねて環境を変えるというのは分かる。しかし、それはあくまでも人間の基準であり、馬にそれが通じるかは全くの未知数だ。
と、いうより、生まれ育った場所ならともかく、見知らぬ土地で1人(1頭)だけ放り出されて、気が休まるだろうか。
少なくとも、彼の場合は気が休まらない。おそらく、一般的な馬も気が休まらないだろう。
人間の心を持っているとはいえ、伊達に馬たちと共同生活を送っているわけではない。
なんとなくではあるが、馬たちが、その巨体とは裏腹に神経質な一面があることを、彼は感覚的に感じ取っていた。
それなのに、クレイジーは来た。
それも、特に交友があったわけでもないから、馬だけでなく、働いている職員たちもまた、困惑を隠しきれないようであった。
……とはいえ、そこはプロの矜持だ。
初日こそ困惑していた職員たちも、翌日には慣れた様子で他の馬たちと同様に世話を行い……クレイジーがここへやってから早5日が経つ頃には、ひとまずの落ち着きを取り戻していた。
(……すっげー気まずい。なにコイツ、なんで朝から晩まで俺と張り合おうとするんだろう)
ただ1人(一頭)、彼だけを除いて。
(いちいち俺に構わんでも……)
彼が、思わず内心にてそんな愚痴を零すのも、致し方ない話であった。
なにせ、このクレイジー……どうしてなのかは知らないが、兎にも角にも彼の傍を離れず、あの手この手で張り合ってくるのだ。
今みたいに、食事の早食いもそうだ。
おそらく、先に食べ終わった方が勝ちだと思っているのだろう。
おかげで、彼はクレイジーが来たその翌日から、意識してゆっくり食べるようにしていた。
というのも、何時ものように食事を済ませようとすると、クレイジーは相当な早食いをしてしまう。
それはもう、様子を伺いに来た職員が驚くぐらいの速さだ。
それが……彼も先日まで知らなかったが、馬の身体にはかなり負担を掛ける行為らしい。
最初に気付いたキナコさんが『ひえ!? ちょ、その早食いは駄目ぇ!!!』と悲鳴をあげ、他の馬たちをビックリさせてしまったぐらいなのだから、相当にやってはいけない事なのだろう。
他には、キナコさんたちに綱を引かれて敷地内を散歩する時も、そうだ。
急ぐ事でもないし、人間で言えば疲労回復のストレッチみたいなモノなのだから、ゆっくりのんびりやれば良いというのに……何故か、いちいち突っかかってくる。
常に、彼よりも少し前。
張り合うつもりなどない彼の前へ、何故かクレイジーは常に移動する。その度に、ブフフン……と、勝ち誇った顔で振り返るのだ。
おそらく……いや、考えるまでもなく、それがクレイジーにとっての勝利なのだろう。
馬は人間のように多彩に表情を変えないので分かり難いが、それでも分かる部分はある。その点を考えて、クレイジーは……正直、めちゃくちゃ分かり易かった。
言葉にされなくても、分かる。
ドヤァ、そんな感じの事を考えているのが、これでもかと伝わって来るから。
あとは……そう、ブラッシングもそうだ。
彼からすれば、ブラッシングは中々に気持ちが良い行為だ。ぼさぼさになった髪の毛を、綺麗に梳いて整えてくれている……といった感覚だろうか。
こう、絡まった毛玉が解れて、籠っていた熱気がポロッと外れてくれる感覚。これがまあ、実際に体毛で体温を保持する動物になってみないとわからない感覚である。
……で、これもまあ、どうしてか……クレイジーくん、張り合ってくるのだ。
ブラッシングで何をどう張り合おうというのか……正直、基準は分からない。
しかし、ブラッシングを終えた後……ドヤッと勝ち誇った顔で振り返るあたり、何かしらの決着が付いているのだろう。
……。
……。
…………正直、どう対応するのが正しいのか、彼にはさっぱり分からなかった。
今でこそ馬の身ではあるが、前世はそれなりに社会人をやっていた。つまり、大人の対応というものを彼はしっかり身に付けている。
互いに怪我を負うような事態になると、お互いに挽回不可能な溝が生じてしまう可能性を、薄々と察してもいた。
だから、彼はクレイジーが突っかかってきても、特に慌てることなくソッとやり過ごすよう心掛けるようにしていた。
だって……相手は超金持ちの馬だし、別に攻撃されているわけではないから。
(いくらだっけ……なんか、彩音さんたちが、すごく高い馬だって話していたような……う~ん、思い出せない)
それに、クレイジー自体が、相当に高い馬であるのは間違いない。だから、金持ちの感覚で相当に大事にされてきたんだろうなあ……と、彼は思っていた。
(……まあ、それもあるけど)
と、同時に……チラリ、と。すぐ隣を付いて来るクレイジーの横顔を、見やる。
ブラッシングも終わり、夕方ぐらいまでダラダラと歩いて身体を解す……たったそれだけですら、張り合おうとするクレイジーの姿に。
(……歳の離れた、生意気盛りの弟がいたら、こんな感じなのかな?)
なんとなくだが、彼はそんなことを考え……どうにも、苛立ちを覚えることもなかったのであった。
……その態度が、余計にクレイジーの心にガソリンを注いでいることに、彼はまだ気付いて……まあ、彼にも原因があるわけであった。
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