第三話の裏その2: 葦毛の快進撃
──が、しかし。
「……遠藤さん。これは何も、単純に勝ち負けの話をしているのではありません」
そんな、燃え上がる二人の心に水を差すかのような、鈴野下の言葉。大して大きくもないというのに、スッと、高ぶった二人の気分が一気に冷めた。
「……鈴野下所長、それはいったいどういうことですか?」
意味深なその言い回しに、気になった遠藤さんが率直に問い掛ける。すると、鈴野下はキョロキョロと室内を見回した後……おもむろに、語り始めた。
……ソレは、非常に回りくどく、言葉を選んでいるのが第三者にも丸分かりであった。
人によっては、何が言いたいのかと機嫌を損ねていただろう。けれども、鈴野下が全てを言い終えるまで、黙って聞いていた遠藤さんは。
「──つまり、伊藤牧場から嫌がらせをされる可能性がある、と?」
簡潔に、語られた内容を一言でまとめた。
「いえ、そういうわけではありません。ですが、過去に……まあ、色々とトラブルが起こったという話があるのです」
それに対して、鈴野下は……肯定はしなかった。ただし、はっきりと否定もしなかった。
で、そのトラブルの内容を簡潔にまとめると、だ。
まず、トラブルの始まりは、伊藤牧場に所有する馬を売らなかった馬主が居た……ということから始まったらしい。
そりゃあ、馬主をやる理由など、それこそ人の数だ。
税金対策、趣味、実益、夢……色々な理由から、馬主は安くはない資金を投じて馬を所有している。
その中には、遠藤さんのように、浪漫の為に馬主をやっている者もいた。
自分で見つけた愛馬が中央を走り、勝利する姿を見たい……ただ、それだけの為に馬主をやっている人だった。
浪漫だから、金の問題ではない。
自分の馬にそれだけの金額を提示してくれたのは嬉しかったが、そういう問題ではないのだと、その馬主は売るのを拒否したらしい。
……話は、そこで終わる。いや、終わるはずだった。
そこから……あくまで『業界の昔話』らしいのだが、断ってからしばらくして……その馬主の転落が始まったらしい。
まず、その馬主は、馬主であると同時に牧場もやっていたらしいが……そこへの預託(馬を預けること)が激減した……らしい。
鈴野下も詳細は知らないが、おおよそ半数近く、いきなり契約が切られたらしい。
よほどの例外を除き、だいたいの牧場は預託料の収益が経営に直結している。
さすがにいきなり経営破たんする事はないが、無視出来ないダメージを負うのは確実である。
そのうえ、運が悪いことに……その馬主の所有する馬が出るレース出るレース、尽く勝利を逃し、凡走が続いてしまった。
それまで、2,3回に一回は勝利するか掲示板入りして賞金を咥えて戻って来てくれる、孝行馬もいた。
だが、勝てなくなった。どの馬もあと一歩まで行くというのに、不思議と勝てなくなってしまったのだ。
稼ぎ頭だった愛馬だけでなく、所有する馬が全く勝てなくなり、預託金も半減した。
これが、長年かけて少しずつそうなるならともかく、短期間でいきなりそうなれば……ガクンと経営が苦しくなるのも当たり前だ。
そのうえ、その愛馬も……最後にはレース中の事故で安楽死となり、それで心が完全に折れてしまった馬主は牧場を閉鎖してしまい、そのまま行方知らず……というのが、鈴野下の話であった。
「……つまり、『ホワイトリベンジ』を生産したタチバナ・ファームも、同じ嫌がらせをされる、と?」
難しい顔で尋ねた遠藤さんに、「いえ、その可能性は低いと思います」鈴野下は静かに首を横に振った。
「数々の名馬が登場して競馬界が盛り上がっていた昔とは違い、今は競馬界全体が下火になって久しい。そこまで大規模な事が出来たのは、それだけ盛り上がっていた当時だからこそです」
「そういうものなのかい?」
そういうものです……はっきりと、鈴野下は頷いた。
「それに、今はSNSがありますからね。マスコミさえ黙らせてしまえば何とかなる時代じゃありません。そんな事をしていると悪評が立てば最後、自分で自分の首を絞める形になってしまいますから」
「では、どうして?」
「牧場に嫌がらせはしないでしょうが、騎手に対しては……かもしれません。実際、伊藤牧場の機嫌を損ねた騎手が、翌週から予定が真っ白になってそのまま引退した……って話は、少し前にも聞きましたから」
──その瞬間、この場に居る者たちの視線が、彩音へと向けられた。
「……でしたら、問題ありません。『ホワイトリベンジ』の引退が、私の引退です。他の馬に乗る予定は、今のところありません」
そんな、彼らの視線を前に……彩音は、はっきりとそう答えた。
「問題なのは、そこだけではありません。レースに、どれだけ伊藤牧場の息が掛かった騎手が出ているのかを……本当に理解出来ていますか?」
もちろん、それは鈴野下も知っていることであった。
だからこそ、鈴野下は……あえて、言葉にして二人に言い聞かせた。
「偶然にも、柊さんの馬を囲うようにレースが進んだ……ルールに則って敗北させることだって可能ですし、それが出来るだけの力がある相手なんですよ」
「それは……」
……その光景を想像した彩音は、思わず言葉を失くした。
ありえない……とは、言い切れない。
騎手学校時代に限らず、そういう怪しいレースが行われたという話は何度か見聞きした覚えがあるからだ。
如何に強い馬だとしても、ルールは関係なく適応される。すなわち、強引に動けば、反則負けを食らうのはこちら側だ。
今の話の通り、囲われてしまえば抜け出すのは難しい。
本当に偶発的にそうなったのであればともかく、意図的に囲ったのであれば、ゴールするまで包囲網が解かれる事はないだろう。
「『ホワイトリベンジは強い馬なので、マークしたら結果的に複数で囲う形になってしまった』と言われたら、おしまいです。そのリスクを背負ってでも、柊さんを……主戦騎手として起用するおつもりですか?」
ジロリ、と。
鈴野下の視線が、遠藤さんへと向けられる。
しかし、そこには先ほどの、どこか本心を隠した気配はない。
本当に、遠藤さんを……『ホワイトリベンジ』の今後を想う、1人のホースマンとしての……真摯な眼差しが、そこにはあった。
「──ならば、勝てばよろしい」
しかし、それ以上に……遠藤さんの眼差しの方が、強かった。
「鈴野下さん。正直に言わせて貰うと、僕にとってホワは最後の愛馬なのです。この後は居ないし、今後も続けようとは思っておりません」
「遠藤さん……」
「嫌がらせで負ける? 手を組んだ騎手に包囲される? けっこう、それで負けたのであれば、そこまでの馬だったというだけの話です」
グイッと、遠藤さんは……身を乗り出した。
「僕の見る目が甘かった。期待よりホワが弱かった。思うより柊さんが下手だった。理由など幾らでも用意出来ます。しかし、それは諦める理由にはなりません」
そう、はっきりと告げた遠藤さんに……鈴野下所長も、置田調教師も、それ以上は何も言えなかった。
……。
……。
…………結局、それでその場はお開きとなった。
実際、一昔前ならいざ知らず、今はトレセン側の一存で騎手の乗り換えなんぞ命令出来るわけもない。
そもそも、最初から無理筋の提案なのだ。
○○よりも××の方が良いからそっちに変えましょうなんていう話は、それ自体はまあ、出過ぎではあるが有ってもおかしくはない。
しかし、昔とは違う。
騎手……この場合は彩音だが、その態度があまりに目に余り、馬主である遠藤さんの立場にまで悪影響を与えるといった、よほどの理由が無い限りは、余計な御世話でしかないわけだ。
それは……鈴野下所長も、置田調教師も、本音では如何に大馬鹿な話をしているかを分かっていた。
だから、という言い方も変な話ではあるが、それ以降彼らは一切乗り換え云々の話はせず、真摯に……いや、他の馬よりも、ちょっとだけホワをよく見てくれた。
たぶん……それは、マナー違反の罪滅ぼしというか、まあ、そういう意味なのだろう。
察していた彩音は、あえてその事には触れず、以前の通りに調教を行った。
……そうして月日は流れ、3週間ほど。
彩音は……千葉県の船橋市に来ていた。
そして、新馬戦の時と同じく、何時ものように気を落ち着かせ、再びホワの背に乗って……レースが始まるのを、静かに待っていた。
レース名:芙蓉ステークス(2歳OP)
距離:芝・2000メートル(中距離)
天候は晴れ、馬場状態は『良』
全10頭、事前出走停止無し
……新馬戦を勝ち抜いた猛者ばかりが集う、中山競馬場の、このレース。
OPレースとあって、新馬戦の時よりも客入りは多い。
加えて、葦毛という目立つ特徴をしているからだろうか。
大声で呼びかける者はいないが、新馬戦の時とは違う理由で、ホワを見つめている客が居るのを彩音は感じ取る。
(……客だけじゃ、ないわね)
その中で……いや、客ではない。
己と同じく、同じレースに出場する騎手たちの……全員ではないが、明らかにこちらを意識している者をこっそり確認した彩音は、内心にて軽く息を吐く。
マークされる可能性は、想定していた。
それは伊藤牧場の件とは関係なく、新馬戦にて強い勝ち方をしたからこその警戒。それ自体は、強い馬に降りかかる必然の試練なので、特に思う所はない。
しかし……ここまで露骨に一頭だけマークに掛かるのは、明らかにそれ以外の理由があると……彩音は思った。
(マークされるのはもう少し後になると思っていたけど……目立つ前に、ホワの戦績にケチを付けるつもりかしら?)
そう、ひとまずの結論を出した彩音は……指示に従って、パカパカとホワを走らせ……他の馬と同じく、返し馬を行う。
……。
……。
…………その最中、彩音は思う。
全ての馬が名を馳せたわけではないが、後に名を馳せた馬たちが、何頭もこのレースにてキラリと光るモノを見せている。
というのも、芙蓉ステークスは距離2000メートルの中距離。
この2000メートルを無事に(もちろん、好タイムで)走り切れるかどうかというのは、競走馬にとっては非常に重要である。
何故なら、日本においてグレードの高いレースというのは大半がマイル~中超距離に固まっている。
つまり、1400メートル~2800未満の間だ。
その中でも、中距離と定められている1800メートル~2200未満を走り、そして、走った後にどれほど余力を残しているか、それが今後の方針を決める重要な要素になる。
とはいえ、このレースで全てが決まるわけではない。
今は1200メートルの短距離でも、成長して中距離を走れるようになる場合もある。中には、
もちろん、今後の成長頼りも、過信はよろしくない。なにせ、まだホワは若いのだ。
成長次第でスタミナを伸ばすことは可能だが、無理をさせるとその分だけ馬の命を縮める。体質的に、適性距離を伸ばせない場合も出て来る。
なので、ここでピッタリスタミナを使い切るようであれば、もっと身体が出来上がるまではマイルレースに集中し、場合によってはクラシック路線を諦める必要性も出て来るわけだ。
その、『ホワイトリベンジ』にとっては二度目の試金石とも言える、今回のレース。
ゲート前……一頭ずつゲート入りを果たす中、悠然と歩くホワの首筋を、優しく摩る。
(返し馬の感じから見て、異常は無し。輸送の疲れも、ほとんど無し。この図太さは本当にありがたい。調子を崩さないだけでも、怪我のリスクは下げられる……)
新馬戦の疲れは完全に癒えたばかりか、その時以上に気合が入っているのを感じ取る。心なしか、足取りも軽そうに感じる。
前回に比べて、此度の馬たちは強い。何故なら、だいたいの馬が一度は勝利を勝ち取っているからだ。
(……でも、ごめんなさいね)
しかし、そんなライバルたちに並んでゲートに入る最中。
(うちのホワの方が、ずっと強いから!)
──ガタン、と。
ゲートが開かれた瞬間──彩音を乗せたホワが、グッと総身を加速させ、先頭に躍り出た。
一気に視界が開け、身体が風を切る。左右を瞳だけで確認すれば、馬の頭が見えない。
けれども、音は聞こえる。びゅうとすり抜ける風の音と共に、ターフを削る
だが、それも、ホワが加速を続ければ小さく、遠ざかってゆく。
ぐん、ぐん、ぐん、と。
まるでギアを切り替えるが如くスピードを速めて行けば、次第に音は風に紛れ、何時しか風の音しか聞こえなくなった。
先ほどよりも少しばかり大きめに後方を確認する。
辛うじて、視界の端で一頭だけ付いて来る……レース前にこちらを強く見ていたやつなのを見やった彩音は、手綱を引いて指示を送る。
(──ホワ、少し速度を緩めるわね。ギリギリ追い付けなくはない、そう相手に思わせるために!)
賢いホワは、指示をすぐに理解して加速を緩める。
距離を取った分だけ、追い付くまでには時間が掛かる。
ほんの僅かではあるが、遠ざかっていた気配が近づき始めたのを感じ取った彩音は……前へ行きたがるホワを宥めながら、速度を一定に保った。
……基本的に、前へ行きたがりのホワに、『逃げ』はあまりやらせたくはない。おそらく、性格的に『逃げ』は向いていないのだろう。
というのも、『逃げ』というのは、要は最初から最後まで先頭を走り続けるという作戦である。
だがこれは、馬の気性や能力によって結果が大きく左右される。
怖がりで馬群に入るとやる気を失くす馬や、とにかく先頭を行きたがるといった馬であれば有効ではある。
しかし、道中にてスタミナを切らし易く、最後辺りで息切れして凡走に終わりやすい。また、必然的にハイペースになりやすいので、消耗具合も考慮しなければならない。
そして……ホワは、ハイペースに陥りやすい馬だ。
これまでの調教から考えれば、一匹狼なところはあるけれども、馬群を嫌うわけではない。顔に多少なり泥を被っても、やる気は衰えない。
(あの騎手が伊藤牧場の息が掛かった馬なら、前に回られたら最後、反則ギリギリで妨害されかねない)
だから、出来るならば後方からの競馬も試したかったが……分かってはいても、今は『逃げ』をするしかなかった。
実際、出来る限り早めに『差し』や『追い込み』を試しておく必要はあるけれども、それで負けてしまえば本末転倒だ。
──チラリと横目でハロン棒を見やる。
コーナー半ばの段階で、まだ後ろが追い付く気配は無し。続いて、後続が追い付いて来る気配も無し。
どうやら……直接の妨害は諦めて、最終直線にて差すつもりのようだ。
(まあ、今から前に回ろうとするのは自殺行為だものね……)
一つ目のコーナーを回り切り、直線へ。
そこで、後方の馬が再び加速を始めた……のを、近づいて来る蹄音から察した彩音は、ホワに指示を送る。
(……うん、元気げんき! ホワの調子は変わらない、このまま距離を保つ!)
クイッ、と。
少しばかり加速を始めれば、近づく蹄音が、それ以上大きくなる気配はない。
並みの馬ならば、下手すればこの時点で少し足が鈍り始める。けれどもホワのスタミナは彩音の想定を上回っていた。
ときおり、速度を緩めて息を付かせながら、最終コーナー。
そこに入った段階でもまだ、ホワは頭を上げる気配を見せない。
それどころか、新馬戦の時と同じく、気持ちよさそうに走り続けている。まだ、余裕を感じ取れる。
──やはり、ホワは強い!
そう、彩音は幾度となく思い知った事を、改めて実感する。
内ラチ側を悠々自適に走れているおかげで、ロスも少ない。後ろの馬に如何ほどの足が残されているかは不明だが、ホワはまだ十分に足を残せている。
そうしてコーナーを抜ければ、待っているのは直線。約310メートルしかない、ゴールへと続く短い中山競馬場の最終直線。
チラリと後ろ見やれば、2番目のすぐ後ろに3番目が居るだけで、4番目以降はそこから2馬身後ろの団子がばらけた状態。
(──イケる!)
確信を得た彩音は、グイッとホワの首を押す。意図を察したホワは、再び加速を始める。
鞭は、振るわない。それをしなくても、グングン加速を始める今のホワには十分過ぎた。
(強いよ、ホワ! 君は強い! 君が走り続ける限り、私も一緒に──!)
──持ったまま。
──持ったまま、悠然と一人旅。
──ホワイトリベンジ、圧巻の大逃げを炸裂させた!
そんな実況の声を、脳裏に夢想した彩音は……視界の端で、ゴール板が通り過ぎたのを……確かに、見やったのであった。
……。
……。
…………傍から見れば、それは非常に印象強い勝ち方であった。
新馬戦に続いて、二度目のレースも大逃げ勝ち。昨今ではあまり見られなくなった、最初から最後まで逃げ続ける戦法。
逃げ戦法を取る馬は、確かにいる。どのレースにも、1頭2頭は逃げを行う馬(騎手の作戦もある)はいる。
けれども、『逃げ』というのは対策を取られやすい。
馬群に呑まれない(土被りなど)、他の馬の妨害を受けないというメリットはあるが、その分だけリスキーな面もある。
加えて、馬というのは本能的に前に行こうとする性質がある。
よほどマイペースな馬、騎手の指示に従う従順な馬ではない限り、どうしてもペースを崩し易く、ゴール前の直線にて抜かされやすいのだ。
後続が距離を詰め切れず、『ホワイトリベンジ』は逃げ切った。だが、逃げ馬の傍にてプレッシャーを掛けて自滅させるのは、対逃げ馬への常套手段である。
実際、逃げ馬は最後まで逃げ切って華々しく勝利するか、ペースを崩して惨敗するかの二択だと言われている。
ゆえに、それから更に約一か月後の……その日。
レース名:第○○回 デイリー杯2歳ステークス(GⅡ)
距離:芝・1600メートル(マイル)
天気:曇り・馬場状態は『良』
全12頭・事前出走停止無し
阪神競馬場にて行われる、ホワにとっては通算3戦目となる、その日のレース。
GⅢを通り越していきなりGⅡレースに出走した『ホワイトリベンジ』は、全騎手よりマークされる形になった。
まあ、仕方がない。1戦目、2戦目、ともに持ったままの強い勝ち方をしたのだ。
それも、『逃げ』戦法による華やかな逃げ切り勝ちだ。それで、意識するなという方が無理な話である。
その中には伊藤牧場より指示を受けた者が居ただろう。
けれども、指示などなくとも、この場にいる誰もが『ホワイトリベンジ』を警戒するのは間違いなかった。
それに、意識しているのは騎手ばかりではない。
馬券を握り締めた観客たちもまた、前走の逃げ切り勝ちを思い浮かべ、また逃げ切ってくれるのかと熱い視線を向けていた。
……。
……。
…………だが、しかし。
そんな、騎手たち(観客も含めて)の思いと警戒を他所に、これまでと同じく悠々とゲートに入った『ホワイトリベンジ』は。
『──っと、出遅れた! 一番人気のホワイトリベンジ、出遅れました!』
ただ一頭だけ、1テンポ遅れてしまった。
これによって、観客たちは一斉に悲鳴を上げた。
逃げ馬が、出遅れる。
レースに絶対は無いが、スタートが出遅れた逃げ馬が、そのままズルズルと凡走してレースを終えるのは、ありふれた光景であったからだ。
これに対して、騎手たちは……瞬間、意識を切り替えた。
差しや追い込みが出来るかは分からないが、既に2勝した馬だ。逃げ戦法が失敗したとはいえ、油断して良い相手ではない。
しかし、明らかにやる気を失くしている。加速はするが足は鈍く、最後尾からの脱出が上手く出来ていない。
加えて、阪神競馬場は前半部分に負荷が掛かり易く、最終直線は約470メートル強。
ゴール前に急な上りがあるのもあって、溜めた足を最後に発揮する差しや追い込み馬が有利だと言われている。
──ゆえに、スタートしてから300メートルを走った時点で、騎手たちは『ホワイトリベンジ』へのマークを外した。
多少なり順位を上げて来ても、そこから巻き返して上位(つまり、掲示板入り)に食い込む可能性は低い……そう、騎手たちは判断した。
それは、伊藤牧場の息が掛かった騎手とて例外ではない。『ホワイトリベンジ』の凡走が確定した以上、後はもう……己の勝利を目指すだけであった。
……。
……。
…………だが、しかし。
ホワの馬権を買った客の誰もが、もう駄目だと諦めた後。
騎手の誰もが、ホワイトリベンジを思考から追い出した後。
実況アナウンサーですら、ここまでかと注意を外した後。
『──最後方のホワイトリベンジは大外を回って──上がって来た? 上がって来ました! 凄い脚だ!』
誰もが、改めて思い知った。
レースに、絶対は無いのだということを。
『柊が押す! ホワイトリベンジ捲って伸びる! ぐんぐん加速してゆくぞ、殿一気を狙うか!?』
『伸びる伸びる! ホワイトリベンジ並ばない! 一頭、また一頭と
『あっという間に先頭集団へ2馬身、1馬身……並んだ! いや並ばない! 交わした! ホワイトリベンジ先頭へ出た!』
『負けてなるものかと追いかける! しかし並ばない!
『追いかける! 追いかける! しかしホワイトリベンジ! ホワイトリベンジ並ばない! 1馬身のリードを保ったまま──今、ゴールイン!』
誰もが、予想すらしていなかった。
レース後方にて、ポツンと凡走に終わる姿を想像していた。
『──見事! お見事! 阪神競馬場に葦毛が駆け抜けた! ホワイトリベンジ、その名の通りに逆境を跳ね除け、勝利を掴み取りました!』
だが、そうはならなかった。
誰もが予想していた未来を覆し、敗北を思い浮かべた人たちの心へ、強烈なリベンジを見せ付けた。
『3戦3勝、無敗の葦毛が、第○○回デイリー杯2歳ステークスを制しました!』
その名を──ホワイトリベンジ。
今、ひとたびの夢を……鮮やかな逆転劇によって、観客たちの心に植え付けたレースであった。
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