第三の裏: 心よ、燃え上がれ



 メイクデビューを華々しく勝利の二文字で飾り付けた、その3日後。




 想定した以上に疲労回復が進んで元気になってきているホワの様子を見て、場合によっては調教の再開を……と、思っていた彩音だが、そうならなかった。


 理由は、前日の夜、調教師の置田に『明日、ホワの今後の展開について話し合いがある』と電話で連絡が来たからだ。



 その際、調教を行うのは明後日からと言われた。



 なので、明日は本当に話し合いとやらに出向くだけで、後はホワとスキンシップを取れば、ひとまず彩音の予定は終了である。


 これがキナコのような顔見知りの牧場であればまだ、お手伝いも可能だが……トレセンのようにキッチリ業務が人員に合わせて割り振られているところには、下手に入ることは出来ない。



 ……というか、さすがにそこは向こうの領分なので、彩音が入るべきではない。



 調教であれば、ホワの信頼を得る意味でも、ホワの状態を確認する意味でも積極的に参加するが……と、そこまで考えた辺りで、彩音は……不思議と落ち着いている自分を自覚した。



(……いずれ、その手の連絡が来るだろうと思ってはいたけど、思ったよりも早かったわね)



 なにせ、勝ったとはいえホワはまだデビューした直後だ。


 どの路線を狙うにしても、完全に回復してからでも遅くないのでは……と、思ったが、思うだけに留めた。


 それに……彩音の脳裏に過るのは、馬主の遠藤さんのこと。


 ロマンチストである彼は、彩音を下ろすつもりはないと最初に話していた。


 彩音が知る限り、あの人はよほどの理由がない限りは、自分の発言をそう易々と撤回したりはしない。


 言い換えれば、理由があるならば乗り換えも行うというわけだ。


 そして、その可能性が現実のモノになるのを前にして……彩音は、特に苛立ちなどは覚えなかった。



「……何かあったのかい?」

「え?」



 だから、翌朝。



 何時ものように朝食を用意して、一緒に食事を取っていた彩音は……旦那の宗司より掛けられた言葉に、小首を傾げた。


 何故なら、彩音には心配されるような心当たりが無かったからだ。


 身に覚えすらないのに『何かあったのかい?』と尋ねられたら、誰だって『何の話?』と首を傾げるだろう。


 それは、彩音とて例外ではない。


 むしろ、そういう意味不明な冗談など口にしない宗司から飛び出したのだから、驚きを通りこして困惑するのは当然であった。



「いや、その、昨日の夜に掛かって来た電話……騎手関係だろう?」

「そうだけど?」

「依頼が有った時は、いつもニコニコしている。でも、昨日はそれが無かったら……もしかして、依頼キャンセルでもされたのかなと思って……」

「え、あ、ああ……ごめんなさい、変に心配させてしまって。アレは違うの、お手馬の事で話し合いがあるから……って電話よ」



 けれども、そう言葉を続けられて……ああ、と彩音はようやく納得した。



 言われてみれば、確かにそうだ。



 夜の電話に限らず、仕事関係での電話は『騎乗依頼』か『騎乗キャンセル』かの二択である。


 区切りを付けている今だからこそアッサリ受け入れられるが、まだまだこれからだと熱意を燃やしていた以前は、キャンセルされる度に落ち込んでいた。


 騎手の仕事というのは、言うなれば実力が物を言う人気商売だ。


 リーディングジョッキーのランキング(勝利数の多い騎手のこと)に載れたら引っ張りダコだが、そうでない騎手は……やはり、地道に顔を売ってコネを繋げていくしかない。


 依頼をキャンセルされるということは、すなわち、そのチャンスを逃したということ。


 何より、その馬が出走取り消し(つまり、走れる状態ではなくなった)になっているならともかく、無事に出走したとなれば……すなわち、馬主は別の騎手を選んだということ。



 これが──堪えるのだ。



 だって、他の騎手と比べられて、そちらを選ばれたのだ。言ってしまえば、彩音の方が騎手としての腕前は下と馬主に判断されたも同然である。


 もちろん、腕前以外の理由もあるのだろう。


 しかし、事実として残るのは、『自分は拒否されて、違う人が選ばれた』という仄暗い敗北感と、火傷のようにジンジンと痛む屈辱感だけである。


 そして、へばり付くその二つの感情に、以前は何度も苛まれた。


 それを知っているからこそ心配してくれた宗司に……彩音は困ったように曖昧に笑うと、改めて説明を始めた。



「──私がね、今のところ乗っている馬の……ホワイトリベンジって馬なんだけど……物凄く強いの」

「それって、前に話してくれたやつ?」

「そう、葦毛のお馬さん。物凄く強くて、物凄く賢くて……なのにとぼけた感じで、私、あんなに強い馬に乗ったのは初めて」

「へえ、君がそこまでべた褒めするのは初めて見たよ」

「そう?」

「そうだよ。今までのだと、素直だし根性もあるけど末脚が足りないとか、言う事をあまりに聞かないせいでスタミナが持たないとか、一個褒めたら一個悪いところがある……みたいな感じだった」

「ああ……そうだったわね」



 堪らず苦笑を零した彩音は、「でも、ホワイト……そう、ホワは違うのよ」程よく冷めた味噌汁を啜り……噛み締めるように、呟いた。



「だから、乗り替わりも不思議じゃないなあ……って、考えていたの」

「乗り替わりって、要は他の騎手が乗るってことでしょ? それにしては、悔しいって顔じゃないけど……?」

「悔しいのは確か。腹立たしいのも確か。でもね、同時に……こんな凄い馬だからこそ、馬主が心変わりしても仕方がないなあ……って、納得出来る部分もあるのよ」

「……そういうものなのかい?」

「そういうものよ。乗り替わりになったら、それはそれで腹が煮えくり返る程に悔しくて堪らないでしょうけど……それでも、ホワがどこまで行けるのかを見てみたい……その気持ちも、嘘じゃないの」



 そう、答えた彩音の顔は……言葉通り、複雑な感情がそのまま表情に出ていた。








 ……で、数時間後。



 事前に指定されていた時間に合わせて、彩音はトレセンの一室へと到着した。


 そこは、主に馬主相手との面談や相談の際に使われる。なので、他の部屋に比べて二段階ぐらい内装が綺麗である。


 昨夜の電話曰く、そっちの方が馬主である遠藤さんの家から通いやすいとのことで、遠藤さんより提案されてそうなった……との事だ。



 ……馬を預かるトレセンも、つまりはお客様である馬主の馬を預かることで金銭を得ている。



 だから、こういう話し合いの場を設ける際、だいたいは馬主の事情が優先される。


 その点に付いて、彩音は特に思う所などない。


 というより、彩音としては遠藤さんには以前から良くしてもらっているし、そもそも遠藤さん自身が高齢だし……この程度は、何の問題もなかった。



「──あ、来た来た。柊さん」

「あ、すみません、お待たせしてしまい──」

「ちょっと聞いてよ、ホワをクラシック路線に進めるって話なんだけど、この人たちは別の騎手に乗り換えした方が良いってうるさいんだよ」

「──すみません、話が全く見えないのですが?」



 だが、さすがに顔を合わせて早々に前置き無しで、いきなり脳天にマグナムを撃ち込むかのような発言が飛び出すのは……些か、問題であった。



 というか……今、この人は何と言った? 



 聞き間違いでなければ、ホワをクラシック路線に進め、その際には別の騎手に乗り換えるべきだとトレセン側から提案された……だろうか。



(……え、なんで?)



 理解すると同時に、思わず彩音は目を瞬かせた。


 視線を遠藤さんより……テーブルを挟んで向こう側にいる、置田と……所長の、鈴野下(すずのした)に向ければ、二人はどうにも気まずそうにしていた。



 ──これは、何かあるな。そう、彩音は察した。



 騎手との関係をわざわざ悪くする馬主は居ないが、0ではない。言うのもなんだが、非常に感じの悪い馬主だって普通に居る。


 選んでやっているのだぞと上から目線で命令する馬主も居るし、より腕のある騎手に話が通せたら、土壇場でいきなり乗り換えする馬主もいる。


 特に、今回のような『ホワイトリベンジ』という優れた素質を秘めた馬を掘り出せた馬主が、それまでの発言を一転させる……なんてのも、ちらほら見聞きした覚えのある話である。


 しかし、トレセン側から一方的に別の騎手を勧めるというのは、大して長くない彩音の騎手人生においても、初めて聞く話であった。



「……あの、とりあえず座りましょう。まだまだ残暑が厳しいですし、あまり怒ると暑いですし、疲れてしまいますから」

「うん? あ、まあ、そうだね、うん、そうだ。僕としたことが、少々頭に血が登ってしまったみたいだ……」



 促されたことで、少し冷静さを取り戻したのか。


 遠藤さんはトレードマークのテンガロンハットを胸に抱いて軽く深呼吸をしてから……おもむろに、ソファーへと腰を下ろした。



 ……無言のままに促された彩音が遠藤さんの隣に腰を下ろす。



 既に目の前に置かれていたお茶のグラスには、薄らと水滴が張り付いている。その具合は、他のグラスも同じぐらいだ。


 何時頃から話し合いが始まったのかは分からないが、どうやら、彩音が知らぬ間に遠藤さんとトレセン側との間に話し合いが行われていたようだ……と。



「──遠藤さん。改めて申しますが、『ホワイトリベンジ』は強い馬です。上を狙い、勝ち負け出来る強い馬です……だからこそ、少しでも勝率を上げる為には、より腕のある騎手に頼んだ方が良いと私共は考えております」



 タイミングを見計らっていた鈴野下が、そう話を切り出した。鈴野下はちょっと強面なので、妙な迫力がそこにはった。


 そして、改めてと前置きするだけあって、既に聞き飽きているのだろう。


 遠藤さんは全く気にした様子もなく、出されたお茶を一口飲んで……おもむろに首を横に振った。



「所長さん、何度も言うけど、僕が競馬に求めているのは浪漫だ。勝ち負けも大事だけど、僕は金儲けの為だけに預けているわけではないよ」

「もちろん、それは私たちも同じ気持ちです。しかし、それだけではやっていけないのも、御理解いただけると思っております」

「そうだね、浪漫だけで食っていけないのは重々承知しているよ。けどね、そういうのは余計なお節介というやつだよ……僕にとってはね」



 その言葉と共に、ジロリと……二人を睨みつけた。



「そもそも、こういうのは駄目でしょ。騎手の当てが居ない馬主に紹介するならともかく、主戦騎手を決めている馬主に、乗り換えの提案を持ちかけるのは」

「それは……その、重々承知しております」



 ──そりゃあ、そうだろう。



 おそらく、この場の誰もが同じことを思った。


 もしかしたら、提案した鈴野下も……そう思わせるぐらいに、その顔には……何とも言い難い苦々しさが滲んでいる。



 たしかに……遠藤さんの言い分は一理通り越して十里も百里もある。



 状況によってはトレセン等に立場が逆転する事はあっても、基本的には馬主が上。つまり、この場合は遠藤さんの言い分というか、意見が圧倒的に上なのである。


 トレセンが遠藤さんに口出し出来るのは、所有している馬の予定(つまり、どういう路線に進ませるか)を聞き出し、それに合わせて調教を行う……これが基本である。


 馬主が求めているレースに対して、その馬の距離適性などが明らかに噛み合っていない場合、路線変更を暗に促すという感じで修正した方が良い場合もそうだ。



 共通しているのは、あくまでも馬に関する事だ。騎手の乗り替わり云々は、余計な話でしかない。



 遠藤さんの言う通り、騎手が決まっていない(怪我などで負傷したなど)場合ならば、まだ分かる。


 騎手というのは、電話一本で集められるわけではない。万が一を考えて、別の騎手にも声を掛けておくというのは、別に不思議な話でもない。


 だが、それはあくまでも主戦騎手が乗れなくなった場合を想定した、セーフティみたいなものだ。


 関係が悪くなっているなどの理由があるならばともかく、現状に問題が生じていない馬主にそんな話を持ちかけるのは、マナー違反を通り越して異常であった。



「鈴野下さん、いったいどうしたの? 僕の知っている君は、こんな事は言わない人だったでしょ? いったい何があったの?」



 だからこそ……遠藤さんは怒るよりも前に、だ。


 どうしてそんな変な事を言い出したのか……それが気になった遠藤さんは、率直に理由を尋ねた。


 それは、彩音自身も気になった事なので、あえて口を挟まずに鈴野下の返答を待った。



 ……。



 ……。



 …………鈴野下の沈黙は、思いのほか長かった。



 隣に座る置田は事情を知っているようだが、己が言うわけにはいかないと思ったのか……非常に居心地悪そうにしている。



 ……で、たっぷり10分ほど。



 そろそろ話してくれないかなと焦れ始めた彩音の内心に反応したかのように、鈴野下は……俯いていた顔を、ゆっくり上げた。



「実は……伊藤牧場いとうぼくじょうから、話が来まして……」

「──伊藤牧場?」



 そうして、鈴野下の口から零れたその名称に……遠藤さんのみならず、この場に居る全員が首を傾げた。




 ──伊藤牧場。




 それは、日本の競馬界に身を置く者に、その名を知らぬ者はいないとまで言われている、日本最大のサラブレッド牧場である。


 だいたいのレースには伊藤牧場所有の馬が出ていると言われており、一番酷い時には新馬戦全9頭レースにて内5頭が伊藤牧場所有の馬が出てきたという話が残っているぐらいには、規模が大きい。


 1勝、2勝、3勝どころか、重賞レースですらも、その名を見ない日は一日も無い。『強い馬は、ほぼ伊藤牧場が所有』と揶揄されるぐらいに力のある牧場である。



 ……その伊藤牧場が、どうして? 



 遠藤さんと彩音の両名が、首を傾げる。


 伊藤牧場ほどの規模より言われてしまえば、一声だけでも掛けておかねばならないと思う気持ちはよく分かる。


 会社に例えるなら下請けが、元請けに仕事を投げている大会社より、名指しで言われたようなものだ。


 競馬界は一般的な会社とはかなり勝手が違うけれども、ビビッてしまって動いてしまう気持ちはよく分かる。


 しかし、他所が所有している馬の騎手の入れ替えを提案すること事態、異例。というか、普通は考えない。


 そのうえ、質も量も兼ね備えた伊藤牧場だ……そんな事をしなくとも、自分のところにある馬を使えば良い。


 なのに、掟破りというわけではないが、わざわざマナー違反を犯してまで……そう思った二人を前に、鈴野下は……非常に言い辛そうに視線を逸らしながらも……ポツリと、告げた。



「乗り換える予定の騎手は、伊藤将いとう・まさ騎手だ」



 ──伊藤将。その名は、これまた競馬界では有名である。



 伊藤牧場の生まれにして、生まれついての騎手と言われているぐらいに才能を見せ付けている、リーディングジョッキーである。


 その乗馬技術は、天才の二文字だ。事実、既に重賞を幾つも勝利している。


 天運に恵まれていないのか、未だ『ダービージョッキー』の称号こそ得ていないが、それも時間の問題とすら言われている。


 『将が乗れば馬が変わる』という競馬実況があるぐらいだから、その腕前が如何に化け物染みているかが窺い知れるだろう。



「──げっ!」



 だが、しかし。


 その名を聞いた瞬間、思わずといった様子で彩音が悲鳴を上げた。


 普段の物静かな振る舞いからは想像も付かない下品な仕草に、全員の視線が集中する。



「……もしかして、個人的な知り合い?」



 代表する形で遠藤さんが尋ねれば、彩音は少しばかり気恥ずかしそうに視線をさ迷わせた後で……学校時代の同期だと、告げた。



「ただ、私はあの人は嫌いです。悪い人ではないですけど、私は嫌いです。腕は確かに超一流、悔しいですけど、私では逆立ちしたってその足元にも及べません」

「……何か、あったのかい?」

「何もありません。ただ、あの人……こう言ってはなんですけど、ナチュラルに人を煽るんです。『そりゃあそうだけど、お前が言うな』、という話を全く悪気無く口にしちゃう人なんですよ」



 そう、吐き捨てるように言い放つ……彩音の脳裏を過ったのは、騎手学校時代において、散々周囲を苛立たせた伊藤将の言動である。



「たとえば、遠藤さん……騎手を目指す子って、どういう子たちか分かりますか?」

「どうって……そりゃあ、馬に触れ合ってきた子たちとか、馬が好きで騎手に憧れている、とか?」

「だいたいそんな感じです。そりゃあ、実家が牧場だとか、馬に限らず動物に接してきた子は多いですけど、ほとんど触れ合ったことが無い子だってけっこう多いんですよ」

「へえ、そうなんだ」

「はい……で、こんな事を騎手の私が言うのもなんですけど……やっぱり、幼い頃から馬に乗っている子って、その分だけ他より前に居るんですよ」

「ああ……それはまあ、何と言えばいいのか……」

「どうしようもないんです。結局は当人の実力が物を言うわけですけど……でもね、分かりますでしょ? 分かっていても、それを口に出したら駄目でしょって事が」



 そこまで話した辺りで、彩音は……苦々しく顔を歪ませた。



「やっぱりですね、幼い頃から馬に触れ合って、馬に乗れて、世話の手伝いしたり癖を学んだり、レースとまではいかなくとも、速度を出した馬に慣れていると、違いが出るわけですよ」

「ああ、まあ……」

「そのうえ、伊藤牧場って騎手専用のトレーニング装置があるらしいんですよ。それこそ、プロの騎手でも早々触れる事が出来ない最新設備にだって触れているんです」

「……あ~、なるほど」

「分かります? 入学した時点で、札束の階段で得たアドバンテージが有るわけです。もちろん、当人には当人の悩みがあって、彼にしか分からない苦悩や努力を重ねてきたのは事実だと思います」



 そこまで言われてようやく察した遠藤さん(あと、他の二人も)を他所に、彩音は「──でもね」、深々と吐いた溜め息と共に、言い捨てた。



「彼には、空気のように当たり前の事なんです。自宅に設備があって、馬に乗れる環境が。だから、その当たり前がどれだけ恵まれたモノなのかを理解出来ない。理解しているフリはするけど、本心では『お前の努力が足りないからだろ、言い訳するな』……っていうのが言動の端々に滲み出ているんですよ」

「……居るよね、僕の昔の知り合いにもそういう人居たよ」

「嫉妬や妬みって言われたらそれまでですけど、やっぱり思うわけですよ……お前だけは言うな、って」



 ……。



 ……。



 …………とまあ、そんな感じで、だ。



 とりあえず、同期ゆえに知り得ている伊藤騎手について分かったが……それで、どうして彼を乗せようと動いたのかが分からない。


 順当に考えれば、だ。


 伊藤牧場の人が、息子の為に将来有望な馬をあてがいたいという親心(マナー違反ではあるが)のようにも見えるが……この場合は、違う。



 なにせ、伊藤牧場だ。強い馬を、何十頭と所有している。



 新馬戦を強い勝ち方をしたとはいえ、わざわざ3流4流の血統の『ホワイトリベンジ』を、引っ張り込もうとするだろうか? 


 だいたい、伊藤牧場ほどの規模であるならば、騎手の乗り換えではなく、『ホワイトリベンジ』そのものを買収に動くはず。


 実際、自分の所に限らず、光るモノを感じた馬を何億という資金を出して購入したという話は有名である。



 ……それに、だ。



 性分は何であれ、騎手としての伊藤将の腕前は超一流。それだけは、彩音だけでなく、騎手であるならば誰もが知っている。


 ──そんな彼が、わざわざ実家の馬ではなく、他所の馬に乗ろうとするだろうか? 


 いざ乗ったところで、どうせクラシック路線やGⅠなどには、自分の所で所有している馬で出て来るに決まっているはずなのに。



「……あ、なるほど、そういうことですか」



 伊藤牧場の意図が分からず、誰しもが頭を悩ませる中……不意に、ポツリと呟いて手を叩いて納得したのは、遠藤さんだった。


 ──いったい、どうしたのか。


 気になった誰もが、何か分かったのかと遠藤さんに理由を尋ねる。すると、遠藤さんはグラスのお茶で軽く唇を湿らせた後……おもむろに語り出した。



「つまりはね、これは僕の推測ですけど……要は、偵察なんですよ」

「え?」

「おそらく、伊藤騎手はクラシック路線に乗る馬を既に決めています。そして、それまでに知っておきたいのは……ライバルになり得る馬の能力です」



 ……語り始めた遠藤さんの推測をまとめると、こうだ。



 伊藤騎手(あるいは、伊藤牧場)は、来年のクラシック路線に出て来る可能性の高い有力馬を、既にリサーチしている。


 つまり、伊藤牧場のライバルになるかもしれない馬だ。


 しかし、いくら伊藤牧場とはいえ、そんな馬たちを片っ端から買収していては破産してしまう。


 将来性未知数のセレクトセールならともかく、新馬戦とはいえ、既に結果を出している馬を買い取るとなると、値段は倍では済まないだろう。



 だから……伊藤騎手……いや、伊藤陣営は考えた。お互いにwin-winに持って行けば良いのではないか、と。



 まだ若いが、伊藤騎手は数多の馬を勝利に導いている天才ジョッキーだ。是非ともうちの馬に乗って欲しいと思う馬主は大勢いる。


 馬主からすれば、頼んでも断られる可能性が高いリーディングジョッキーが、向こうから乗ってみたいとお願いしてきたのだ。


 自分の馬が、それほどの騎手から評価されているとあっては、嬉しく思わない馬主はいないだろう。


 しかも、伊藤騎手は強い。『将が乗れば馬が変わる』と言われるだけあって、実際に勝利に導くのだから堪らない。



 その結果……残るのは、だ。



 馬主には、勝利した賞金と実績、伊藤騎手にはその馬の癖や強さ。2回、3回と重ねれば、データはより詳細になる。


 一見すれば互いにwin-winで終わっているが、よくよく見やれば、ライバルとなる馬の能力が丸裸にした伊藤騎手の方がはるかに利益を得ているだろう。


 なにせ、伊藤騎手の本命はGⅠ……すなわち、花形とも言える最高グレードのレースに勝利することだから。



「──ね? 推測ですけど、これなら伊藤陣営のやろうとしていることに、ひとまず納得する事が出来ませんか?」



 ……。


 ……。


 …………遠藤さんの、その推測に……誰もが、何も言えなかった。



 荒唐無稽と言われてしまえばそれまでだが、完全には否定出来ない。何故なら、それが出来る腕前を伊藤騎手は持っているからだ。


 それに、実際にGⅠを勝利している馬は伊藤牧場所有の馬が多い。伊藤騎手が取れていないダービーも、結局は向こうの馬が勝利している。


 多少なり勝利を他所へ配っても、一番大きな宝を手にする……それが伊藤陣営の狙いなのでは……というのが、遠藤さんの推測であった。



「…………」

「…………」

「…………」



 誰もが、何も言えなかった。


 それは嫌悪感とか、そういう理由ではない。


 競馬という世界に居る以上、やろうと思えばそういう事が出来てしまう事を知っているからだ。


 だが、それはあくまで絵空事。やろうと思っても、出来るものではない。


 上手くやればGⅠ戦を有利に進められるが、一つ歯車が狂えば他所に勝利を与えるだけに終わってしまう。


 非常にハイリスク&ハイリターンな作戦であり、並みの騎手と陣営がやれば、まず失敗するだろう。


 けれども、上手く事を運べば……それを可能とする超一流の騎手と、豊富な資金と馬が用意出来れば……絵空事ではなくなる。


 その可能性に思い至ったからこそ、誰もが言葉を失くし、呆然とするしかなかった。



「──ふふふ、いいですね、燃えますよ、まるで映画のような話じゃないですか」



 だが、1人だけ……不気味に笑う者が居た。



「買収する程ではなく、能力を盗めば十分……そう思われているわけですか、『ホワイトリベンジ』は……!」



 それは、遠藤さんであった。


 くしゃり、と。


 トレードマークになっているテンガロンハットを握り締めた遠藤さんは、一つ、二つ、三つと、何かを決めるかのように静かに頷いた後。



「柊さん」



 ギラリと、熱が灯る瞳を彩音に向ける。



「勝ちましょう、伊藤将騎手に。勝って当然だと考えているやつらに、レースに絶対は無いと……教えてやりましょう!」



 それを向けられた、彩音は。



「……はい!」



 チリチリ、と。


 胸の奥にて灯る……新馬戦の時にも感じた、かつての熱気が再び灯るのを感じ取りながら。



「──勝ちましょう! 伊藤将騎手に!」



 強く、強く……おそらく、騎手になってから一番強く、それでいて力いっぱい……彩音も、宣言したのであった。




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