第二十話: おまえは、ホワイトリベンジだろ!



 日も出ていない早朝に、僅かばかり雪がちらつくようになった季節の頃。その日、季節的に見れば気温が高めであった。



 チラチラ、と。



 ホワの様子を横目で見やりながら、『タチバナ・ファーム』の一人娘であるキナコは、何時ものようにホワの寝床を掃除し、新しい藁を敷き詰めていた。


 現在、ホワは馬房を出されて原っぱの方に行っている。ホワは賢いので、よほどの用が無い限りは、こちらから呼ばねば戻ってくることはない。



 これがまあ、他の馬だとちょっと気を付けなければならない時がある。



 どうしてかって、時々ではあるが、遊ぶのが面倒になったり、外でなにかに怯えてしまったりすると、安全な場所だと思っている馬房に戻ってくるからだ。


 いちおう、キナコを始めとして、中で作業をする際には馬房の入口には柵を掛けるのが規則になっていて、終わるまでは馬を中に入れないようにしている。


 とはいえ、それもケースバイケースというやつだ。


 気性がおとなしく、待てと言われたら静かに待ってくれる子もいれば、不機嫌になって柵を蹴ったり、酷い場合になると他の子の馬房に入ろうとしたりする。



 これがまあ、中々に危険なことである。



 人間がそうであるように、馬だって相性がある。同じ場所で生まれ育っても、やはり苛める側、苛められる側に別れることもある。


 相性が良かったり仲が良かったりする子ならともかく、そういった子の馬房の中にうっかり入ってしまうと……なので、『タチバナ・ファーム』では掃除の際にも優先順位が……と。



「……ホワ?」



 背後に気配を感じたキナコは振り返る。


 その視線の先には、やっぱり居た。


 馬房の入口の向こうで、ちょっと申し訳なさそうに佇んでいるホワの姿が。



「……どうしたの? 原っぱでは皆が居るよ。ここはまだ掃除中だから、入るとまだ汚いままだよ」



 そう声を掛けながら、柵を外してホワへと歩み寄る。


 賢いホワは許可が下りるまで中には入ろうとはせず、ジッとその場から動く様子はない。首筋を摩ってやれば、気持ちよさそうに目を細めるが、それだけだ。



 そう、動かない。外は、晴天だ。



 人間にとっては中々に寒い季節だが、馬にとってはそこまで問題にはならない。その証拠に、ホワ以外の馬たちはのびのびとした様子で原っぱを散歩している。


 なのに、ホワだけが戻って来た。グルリと回って全身を確認するが、怪我等を負った形跡もなく、不調が出ている様子も無い。



(……ホワ、この前のレースが終わってから、ちょっと気落ちする事が増えたね)



 それで、何となくだがホワの内心を想像したキナコは、「ごめんね、もう少しで掃除が終わるから」そう言って馬房へと戻る。


 賢いホワは、分かっている。だから、キナコもホワにだけは安心してその場を離れる事が出来る


 普通なら、綱を掛けるなり誰かが傍に付いていなければならない(他の馬なら大騒動になっているところだ)状況でも、ホワだけはちゃんと言う事を聞いてくれると分かっているから……で、だ。



(……どうしたら、いいのかな)



 掃除を再開しながらも、横目でホワの様子を見やる。


 ぼんやりとした様子で、馬房内を眺めている。


 放牧に戻って来た時はぽややんとした顔をすることも多かったが、ここしばらくは違う。


 どうにも、心ここにあらずといった様子が増えた。


 少なくとも、キナコが見た限り……それは良い意味でもぽややんではないように思えた。



(……やっぱり、そうだよね)



 基本的に、馬は広い場所を好む……というより、自由に走り回れる場所を好む。何故かといえば、馬は走ることで本能が刺激されるからだ。


 競走馬たちが我先にと先頭を目指そうとするのも、この本能を刺激させているからこそ。


 そうでなければ、生来的に臆病な性格が多い馬が、他の馬を押し退けてまで前へと行こうとはしないだろう。


 もちろん、性格的にあまり外に行きたがらない子もいる。


 けれども、ここまで天気が良く風も吹いていない日に、理由も無く一人だけ戻ろうとするのは……気分の一言で片づけてよいと、キナコには思えなかった。



(彩音先輩はもう8ヶ月だから……ホワのことでこれ以上心配を掛けるわけにもいかない)



 そう、だからこそ。



(遠藤さんは、ホワが自分で乗り越えなければならない事って曖昧なことしか言わなかったけど……でも、こんなにホワは苦しんでいるのに……)



 キナコは、ここしばらくずっと思い悩んでいた。


 悩みの種は、言うまでもない。


 『天皇賞・秋』を終え、生まれ故郷である『タチバナ・ファーム』へと放牧のために戻って来ているホワイトリベンジこと、ホワである。


 そのホワがどうして悩みの種なのか……それはひとえに、ホワが以前に比べて明らかに気落ちしている事が増えたからだ。


 おそらく……あくまでも推測だが、ホワが気落ちしている理由は分かる。



 それは、レースに勝てていないからだ。


 そして、ホワはソレを理解している。



 己に与えられたチャンスが、いよいよ残り一回になってしまったということを。


 それは誰かに教えられたというわけではなく、ホワが本能的に理解していること。


 たぶん、年月を重ねるに連れて実感を強めている、『老い』がそうさせるのか……馬の感覚など分からないキナコだが、当たっているだろうなあと思っていた。



 ……。



 ……。



 …………だが、そうして悩んだところで答えなど出るわけがないし、方法なども見つかるわけがない。



 だって、キナコは実際にレースに出た事が無いからだ。



 本当の意味でホワが感じている(と、キナコは思っている)不安や焦燥感を、キナコは想像でしか理解出来ない。


 だから、ホワが焦っている事に気付きつつも、どうして良いのか分からない。


 そうして、今日も何時ものように手早く馬房の中を掃除し終え、藁を敷き終え、最後に目視で状態を確認してから、さあとホワを呼ぼうと顔を上げ──っと。



「あ、ここに居たか」



 ホワの横よりにゅっと顔を覗かせたのは、父の源吾。「昨日話した、『新入り』がもうすぐ到着するから来てくれ」源吾はそれだけを告げると、足早に馬房を後にした。



 ……。



 ……。



 …………『新入り』とは、『タチバナ・ファーム』で使われている隠語の一つ。



 内容は、『新しいお馬さん』。つまり、他所から新しく競走馬(乗馬用も含めて)を一時的に預かるという意味だ。



 基本的に、『タチバナ・ファーム』では他所の馬を扱う機会はそう多くは無い。何故かといえば、人手と馬房の数の関係でそれほど受け入れられないからだ。


 なので、『タチバナ・ファーム』では『新入り』を預かる際には事前に打ち合わせをして、不備が出ないかをちゃんと確認してから受け入れるようにしている。



(……『伊藤牧場』さんの馬は、金払いも良いから、私たちにとっても有り難いことではあるんだけど)



 それなのに、昨日の今日で受け入れが決まった理由は……この業界において最大手である『伊藤牧場』からの依頼であったからだ。


 両親曰く、『以前、クレイジーの状態を改善させたおかげ』らしが。


 幸いにも、受け入れられる余裕はあったので、キナコとしても喜ばしい話ではある。


 だが、それはそれとして、いきなりだと色々と準備も居るので、出来るならもっと早めに依頼してほしい話だけれども。



 ──うん、まあ、やる事をやるしかない。



 モヤモヤとした思いを、そんな思考と共にパッと横に置いといて。



「ごめんね、ホワ。掃除終わったから、入っても大丈夫だよ」



 そう、ホワに声を掛けたキナコは、柵を外す。


 それだけで、勝手が分かっているホワはのっそりと馬房の中に入り……よっこいしょといった調子で座り込んでしまった。



(……ホワ、やっぱり落ち込んでる)



 その姿に、どうにも出来ない己の無力さにキナコはギュッと拳を握りしめ……一つ息を吐くと、足早にその場を後にした。



 ……。



 ……。



 …………で、それから15分後。



「……あの、一つ聞いてよいでしょうか?」

「ん、なに?」



 到着した馬運車を出迎えに行ったキナコは、まず、下りてきた人を見て思わず目を瞬かせた。


 運転手ではない。助手席より降りた、男の人。キナコより背が高く、線が細く、かといって華奢というわけではない。


 一目で分かる、騎手の身体だ。


 そして、競馬の世界に携わる以上は知らぬ者は居ないと思われる、その顔をマジマジと見つめたキナコは。



「もしかして……伊藤将さんですか?」

「そうだけど、俺の事知っているの?」



 率直に、尋ねた。ほぼほぼ分かってはいたが、まさかねという疑念を消せなかったから。


 対して、尋ねられた男……伊藤将もまた、あっけらかんとした様子で答え……そこで初めて、キナコは状況を理解した。



「い、い、伊藤将騎手!?」

「だから、そう言っているじゃん」

「ど、ど、ど、どうしてここに!?」



 キナコが驚いて言葉が詰まってしまうのも、致し方ないことである。


 なにせ、今の時期はGⅠレースが一ヶ月に三つも四つも開催されている。


 そういったレースに出る騎手たちはみな、持ち馬とのコミュニケーションに始まり、色々とした雑事に追われているはずだ。


 当然ながら、それを知らないキナコではない。


 天才と謳われている騎手の将が、こんな場所に居られる時間などない。そう思っているからこそ、キナコは驚いた……のだが。



「どうしてって、そんなのホワとのコミュニケーションを兼ねて、さ。今度の有馬記念まで、俺は泊まり込みでホワの調教をするから」

「え?」



 ──泊まり込みって、あの泊まり? 



 あまりに想定外の状況に、いよいよキナコは言葉を失くした。


 いや……泊まるというのは理解出来る。というか、スタッフの何名かは泊まり込みで働いてくれる時があるので、その為の施設も小さいながらちゃんと用意してある。



 なにせ、馬の世話というのは時に時間を選ばない。



 完全に24時間体制というわけにはいかないが、日も出ていない早朝から世話を始めるのはよくある事だ。


 だから、その点については驚かない。


 ただ、キナコを驚かせたのは、だ。


 今年のリーディングジョッキーに選ばれるかもと噂されている伊藤将が、ホワに乗る。


 その一点に尽きた。



「まあ、昨日の今日だしな、連絡の行き違いだよ。あとで遠藤さんから連絡があると思う──っ」



 ごつん、と。


 馬運車の中より、打突音。


 その音にハッと我に返った将は、「すまん、話は後だ」幾分か慌てた様子で運転手と共に馬を下ろす作業に入り。



「……え?」



 そして、奥よりのそっと下りてきた『新入り』の顔を見て。



「え? え? え?」



 キナコは、非常に珍しいことではあるが、完全に動転した様子を隠せず。



「……あ、あの、一つ良いでしょうか?」

「ん、なに?」

「……もしかしなくても、そのお馬さん……クレイジーボンバーですか?」

「お、やっぱり分かる?」

「いや、そりゃあ……分かりますよ、それぐらい」



 ただただ……ホワの最強のライバルである、クレイジーボンバーの登場に。



「……えぇ」


 ──ヒヒン。



 よう、久しぶり。



 そんな感じでクレイジーより鳴かれたキナコだが、ぽかん、と呆けることしか出来なかった。







 ──そうして、翌日。



 原っぱにて、見る者が見れば絶句し、興奮のあまりカメラの筆頭でも向けてしまうような光景が、そこには生まれていた。



 悠然と佇むのは、有馬記念を2連覇し、王者として勝利と共に引退した、クレイジーボンバー。


 対面して佇むのは、そのクレイジーボンバーに唯一黒星を付けたばかりか、天皇賞春秋を同年制覇した、ホワイトリベンジ。



 それは、見ようと思っても早々に見られない光景である。


 そして、そんな、かつてのライバルが向き合う最中……居心地悪そうにクレイジーの綱を持っていたキナコは、緊張した様子で将へと尋ねた。



「あの……本当に、私で良いんですか?」

「ああ、橘さんだからいいんだ」


 ──いいんだ、と言われましても。



 そう、言いたかったキナコだが、言えなかった。


 どうしてかって、仕事だからだ。


 両親からも、遠藤さん(電話で)からも、よろしく頼むと言われてしまったからだ。



「で、でも、GⅠ馬に私なんかが畏れ多くも……」

「GⅠ馬は、ホワも同じだろ。大丈夫、クレイジーは賢くて優しい子だ。ゆっくり走るだけ、ただ乗っているだけで十分だから」



 そう言うと、将はサッと手を差し出す。


 それを見て、クレイジーが少しばかり馬体を下げ、キナコが乗り易いように身体の向きも合わせてくれた。



 ……本当に、賢い子だとキナコは思った。



 そこまでされてしまえば、キナコにはもう断る口実が無い。


 とにかく、クレイジーを傷付けないように気を付けつつ……将の手を足場に、パッとその背に乗った。



「さすがは、元騎手学校の生徒。基礎の部分だけでも、ちゃんと訓練していると動きが違うな」

「ちゃ、茶化さないでくださいよ……!」

「はは、ごめんね──それじゃあ、ホワに、橘さん」



 気恥ずかしそうに睨んでくるキナコに、将は笑いながら軽く頭を下げると……次いで、ホワの首筋をポンと叩いた。



「改めて言うけど、これから君の調教を行う。俺の指示をよく聞くんだよ」


 ──ブフフン、と。



 まるで、了解だと言わんばかりに鼻息を吹いたホワに、将は破顔すると……ヒョイッと、重力など感じさせない身軽さでホワの背にスルリと乗った。



「それじゃあ」

「……あ、は、はい、分かりました!」



 その身のこなし……信じ難い軽やかさに、思わず言葉を失くすキナコではあったが、改めて指示が出されたキナコは、とりあえずは言われるがままクレイジーへと命令する。


 すると、クレイジーは手綱より送られる命令に従い、ゆっくりと歩き出す。緩やかな加速によって、ほとんどキナコは負荷を覚えることなく……気付けば、クレイジーは小走りになっていた。



「上手い上手い、その調子でゆっくり原っぱを回ってくれるだけでいいから」

「は、はい!」

「クレイジーは賢いから、多少なり姿勢が崩れてもすぐに修正してくれるから、緊張せず頑張ってくれ」

「はい、頑張ります!」



 世辞なのかどうかは分からないが、良いと言われた以上はその通りにキナコは従う。その、すぐ横で……ホワに乗った将が、同じ併走する形になった。


 そのまま……約2,3分ほどだろうか。


 何をするでもなく、ただゆっくりと原っぱを囲う柵に沿って走り続ける。


 これが調教なのかと疑問が脳裏を過ったが、それよりもキナコは……両親の前では言えなかった事を尋ねた。



「あの、伊藤さん」

「ん?」

「どうして、ホワに乗ろうと思ったんですか?」

「どうしてって……それを、ホワの育ての親が聞くのか?」



 呆れた様子で聞き返して来た将に、「だ、だって、伊藤さん……他にもいっぱい居るでしょ?」キナコは納得いかないといった様子であった。


 そう、それはキナコのみならず、この業界に携わる者であれば、誰もが首を傾げるようなことを、将はしているのだ。



 ……と、いうのも、だ。



 まず、将は売れっ子騎手だ。それこそ、数ヶ月先の予約が埋まっていても不思議ではない。



 それに、少し話は変わるが、クレイジーもそうだ。



 競走馬というのは、一般人が思うよりもずっと苛酷な生涯を送る。


 その中でも、極一部の……強運に恵まれるのを除けば、上澄みに当たる馬たちだけが、種牡馬しゅぼばと呼ばれる役目を与えられる。


 その役目の中身は、名前の通りであり……言葉を変えれば、種馬たねうまである。


 そして、この種牡馬に成れるかどうかで、現役引退後の生活が大きく変わる。


 人気がある種牡馬となれば、種付け料として収益を得られる。反対に、種牡馬にしても人気が無ければ、種付け出来る牝が来てくれず、そのまま……というわけだ。


 そして……キナコが想像していた事なのだが、クレイジーボンバーは種牡馬としての準備が進められていると思っていた。


 だって、有馬記念を2連覇し、GⅠレースを五つも取った名馬だ。そうでなくとも、受け継がれている血統の価値は計り知れない。


 常識的に考えて、だ。


 競走馬としての高ぶっていた気質を抑えつつ、栄養価の高い飼葉を与え、体力維持トレーニングを並行して行いつつ、順番待ちをしている牝馬へ……と、なっているとばかり思っていたのだが。



「どうして、ホワに乗ろうと思ってくれたんですか? 伊藤さんなら、それこそより取り見取りだと思っていたのですが……」

「そりゃあ、俺が乗りたいと思ったからだよ。あと、より取り見取りじゃないぞ。これでも、色々考えながら選んでいるからな」



 まさか、そのクレイジーボンバーが、種牡馬の役割を横に置いといてまで、わざわざ『タチバナ・ファーム』に来るとは、さすがのキナコも想像すらしていなかった。


 しかも、クレイジーだけではない。


 その鞍上を務めた将も、セットで来た。


 トレセンへ向かうまでの間、ギリギリまでクレイジーも一緒だと言う……その目的は気分転換のリフレッシュ……ではない。



「でもね、俺は本気だ。全力で、ホワを有馬で勝たせるつもりだ」



 そう、将の目的は、只一つ。


 それは、今度の有馬記念にてホワに乗って、勝利を掴み取る事。


 しかも、この話は遠藤さんから……ではなく、なんと将から遠藤さんに話を持って行ったらしいのだ。


 どうして……そう尋ねても、返される答えは同じ。



 ──俺が、そうしたいから。



 そう言われてしまえば、キナコはそれ以上何も言えなかった。


 だって、いくらキナコの実質的な育ての親とはいえ、あくまでも現在のホワイトリベンジの持ち主は遠藤である。


 そして、その遠藤より了解を得た伊藤将が、ホワの調教を行う事になっている。


 そこに、キナコが入る余地は無い。


 いや、たとえ余地が有ったとしても、キナコは……とてもではないが、自分にその資格は無いと思っていた。



(やっぱり、プロに成れた人は凄いなあ……こういう人だからこそ、プロに成れたんだろなあ……)



 なぜならば、キナコは騎手ではない。


 かつては騎手を目指し、競馬学校に入る事は出来た。


 だが、体質的に太り易く、成長期も早かった。減量に身体が耐えられないとドクターストップが掛かってしまい、退学した身だ。


 その為、キナコは実際のレースを知らない。


 当時、よく相談にのってくれた彩音より話を聞く機会は多かったが、結局、模擬レースに出る事すらも出来ないままに……一般の高校へと転入する事となった。



(私が……私もプロに成れていたら、ホワの気持ちに寄りそうことが出来たのかな……)



 だからこそ、キナコは何でもない事のようにホワを操る将の姿を横目にしながら……何とも言い表し難い気持ちに──。



「橘さん、ホワがここまで強くなれたのは、間違いなく貴女のおかげだ」



 ──なりかけたところに、その言葉は……スルリと、キナコの胸中へと届いた。



「胸を張っていい。ホワは、貴方が居なかったらここまで来られなかった」

「い、伊藤さん……?」

「ごめん、不躾に。ただ、今の橘さんを見ていると……なんか、昔の自分を見ているみたいで、言わずにはいられなかった」


 ──ブフフン、と。



 まるで、将の言葉に呼応するかのように、ホワが唸った。


 それを見て、しばし呆気に取られていたキナコは……フッと、肩の力を抜いて……笑みを浮かべた。



「……そうか、私のおかげ、か」

「そう、貴女のおかげだ。なので、いちいち悩んでいる暇はない。だって、有馬記念までもう時間が残っていないから」

「あはは、そうですね」

「そうそう、その調子。周りが笑顔で居てくれる方が、馬だって調子が出るってもんだ」

「うふふ、そうだね、そうだよね」



 ……現金なモノだな、とキナコは思った。



 今の今まで思い悩んでいたというのに、真正面からそんな慰めの言葉を掛けられた途端、フワッと心が軽くなったのだから。



「よし、それじゃあ次はホワより少し先を取ってくれ。とにかく、感覚でいいから一定の速度で走るように心がけてくれたらいい」

「はい、分かりました」



 それでも、軽くなった心に引っ張られるがまま、キナコはクレイジーよりアシストされて、将の指示に従って少し先へと進み……将たちより数メートルほど前の位置を取った。



 ……。



 ……。



 …………そうして、一瞬ばかり振り返って手を振ったキナコが、再び前を向いてクレイジーの操縦に集中し始めたのを確認した将は。




「……何時までも情けないつらを見せるな、ホワ」




 ホワにだけ聞こえるように……首筋を軽く叩いた。



 ──ブフフン。



 対して、ホワは少しばかり面食らったかのような……そんな様子で軽く唸った。



「なんだ、怒ったのか? でもな、自分でも分かっているだろ。おまえの情けない面が、橘さんを心配させているってことを」



 けれども、将は欠片も気にした様子はなく、キッパリと言ってのけた。



「しゃんとしろ、ホワイトリベンジ。おまえ、自分を誰だと思っているんだ?」


 ──ブフン。


「クレイジーに唯一泥を付けた男、ホワイトリベンジだぞ。クレイジーは、そんな情けない面をした男に負けたわけじゃない」


 ──ブフン。



 その瞬間、ホワの目が僅かばかり大きく見開かれた……ように、見えた。


 いや、ハッキリと、将には見えて……ニヤリと、将は意味深に笑みを浮かべると。



だ、ホワ。おまえは、我慢を覚えなければならん」



 ホワに、言い聞かせるように……将は、その目を見つめたまま答えた。




「今までのおまえは、我慢なんざしなくても勝てた」


「勝てる力を持っていたし、最低限の我慢以外は一切させない、


「でも、


「ただ闇雲に走るだけなら、何度やっても負ける。賭けてもいい、100回やって、100回負ける」


「勝つためには、我慢だ。耐える競馬をしなければならん」


「たとえ周りが前に行っても、たとえゴールが近づいて来ても、1人後ろに残されても……我慢しなければならない時もある」


「いいか、ホワ、我慢だ。勝利に向かって、耐え忍ぶんだ」


「今のおまえが勝つには、それしかない」


「勝つために、俺を信じろ」


「俺が、おまえを勝てる位置まで連れて行く。その場所まで、必ずおまえを案内する」


「だから、それまで耐え続けろ。その時まで、我慢するんだ」


「我慢して、我慢して、我慢して、我慢して」


「俺が合図を送る、その瞬間まで……ジッと息を潜めるんだ」


「いいな、それしかないんだ」


「成功すれば、おまえなら勝てる。逆に、失敗すれば俺たち揃ってドンケツだ」


「でも、俺は負けるつもりなんてない。おまえも、そうなんだろう」


「いいか、しっかり覚えておくんだぞ」


「俺の合図が来るまで、ジッと耐えるんだ。その時が来るまで、我慢するんだ」


「そして、俺の合図が来た、その時は」


「──ただ、走れ」


「何も考えず、走れ」


「我を消して、疾く走れ……それさえ出来たら、俺たちは勝てるぞ」



 それらの言葉をぶつけると、パシンと……理解したのかと確認代わりに、ホワの首筋を叩いた。



 ──ヒヒン。



 対して、ホワは……ただ、小さく嘶いて……答えたのであった。



 ……。



 ……。



 …………それは、後年になってからようやく知られる事になる。



 とある葦毛の馬と、天才と謳われた騎手の……静かな、一人と一頭の間にだけ行われた、作戦会議であった。


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