第二十一話: Carrying a dream last crop



 ──その年の暮れは、何とも不安定な天気が続いていた。




 まあ、12月といえば、秋から冬へと季節が変わり始める時期だ。


 本格的な寒さが到来する1月、2月に比べたら気温が高い分、気候も変わり易いということなのだろう。


 とはいえ、それでも天気は空気を読んでくれたのか。


 前日まではしとしと雨が降っていたが、その日はうっすらと日が差してくれる程度には天候も回復していた。



 12月○○日、15時○○分、中山競馬場。



 千葉県の船橋市にある、中央競馬の競馬場。そこで、その日、その時間、1年に24回しかないGⅠレースの内の一つが、開催されようとしていた。


 現在時刻は、14時○○分。


 レース開催までまだ一時間以上あるというのに、スタンドには大勢の観客たちでごった返ししている。



 まあ、そうなるのも無理はない。



 以前とは違い、ここ1,2年はドラマや映画などによって競馬に対する見方が変わった者も多い。特に、影響を受けたのが若者だ。


 若者の弱点でもあり強みは、そのフットワークの軽さだ。


 さすがに家族連れで来ている者は少ないが、そういったサブカルチャーに触れた若者が、『一年に一回だけの大きなレース』であることを知って来てくれた人たちが多いからだろう。



 やはり、50代60代の人達ばかりが集うような場所には、若者は行かないのだ。



 出会いを求めて……というわけではないが、そうは言っても、加齢臭漂う場所というのは、好き嫌いを抜きにしても嫌がられるのは自然なことであった。


 それに……この日は、若者に限らず、競馬というモノに触れた者たちにとって、特別な日であった。



 ──『さらば、ホワイトリベンジ!』


 ──『ありがとう、葦毛の復讐者!』



 そんな、送る言葉が飾られた横断幕が、パドックにて幾つも掲げられ、飾られている。


 競走馬たちが興奮しないよう注意しつつも、様々に飾り付けられたソレら。規格こそ定められているが、そのデザインは思い思いにバラバラ。



 けれども、込められた熱意は同じである。



 大なり小なり、誰もが『葦毛の復讐者』と呼ばれた、ホワイトリベンジの最後のレースを見る為にやって来ていた。


 何故、そこまで……それを語るとなれば何ページにも渡ってしまうので省略するが、要は、ホワイトリベンジは人気者であるからだろう。


 彼の登場によって、それまで競馬に欠片の興味も抱いていなかった者たちが、競馬というモノに目を向けた。


 それはドラマという形で、映画という形で、写真という形で、あるいは、彼を題材にした漫画という形で……人々の興味を、そこへ向けさせた。



 その結果が、今日の客入りだ。



 去年、彼は引退するはずだったのを撤回した。しかし、そんなのはファンたちには関係ない。


 たとえ、引退撤回をしてからずっと勝ちから遠ざかっていたとしても。徐々に着順を落として行ったとしても、それでも、最後のレースを見ておきたいと思うのは、当然の事であった。


 そして、その当然は行動として現れ……鮨詰めという言葉は言い過ぎだが、直に言い過ぎではなくなると、来ている誰もがうっすらと考え始めていた。



 なにせ、現在進行形で入場者数は増加している。



 場内放送では定期的に迷子のお知らせが放送され、『場内が混み合っており、十分な寒さ対策を~』といった注意を促す放送が5分毎に流れている。


 増え続ける客入りに対して、安全のために入場制限が掛かるかもしれないという話がSNSに流れるぐらいなのだから、如何にこの日の中山競馬場が混み合っているかが想像出来るだろう。


 もちろん、JRA側も、この日の混み具合は想定して、警備員などを臨時に増やしていた。


 なので、10万人を越えようとしている状況であっても致命的な問題は生じていない。


 多大な喧騒がそこかしこに起こりつつも、総決算とも言われる『有馬記念』に向けて……誰も彼もが、その時が来るのを今か今かと待ち続けていた。







 ……意外に思う者もいるだろうが、実は馬主席と呼ばれる場所は、馬主以外も普通に入る事が出来る。


 たとえば、馬主より招待された者。


 まあ、これは想像しやすいだろうから、すんなり納得する者は多いだろう。


 そして、これはあまり知られていないことだが……実は、人数に限りがあるものの、一般の人も応募に当選する事で馬主席へ座る事も出来たりする。


 もちろん、毎回行われているわけではないし、JRAも大々的に応募を掛けているわけではないし、最高位であるGⅠレースでの一般招待は行われていない。


 しかし、それでも、今は幸運に恵まれさえすれば、一般人であっても馬主席に行くことが出来る時代には成っているのであった。



 ……。



 ……。



 …………が、しかし。



「……キナコちゃん、そこまで緊張しなくて大丈夫ですよ」



 それでも、『馬主席』というのは、この世界に携わる者たちにとっては、特別な場所であることは変わらず。


 その日、その時……生まれて初めて馬主席へと足を踏み入れたキナコは、車いすに乗った遠藤の気遣いを尻目に、全身をガチガチに緊張させていた。


 その様は、傍目にも分かるぐらいにカチコチである。そりゃあもう、カックンカックンである。



 明らかに、初めて招待された慣れていない人である。



 ドレスコートをしているが、それでも緩和できないぐらいの初々しい姿に、先に馬主席に居た誰もがフフッと笑みを零した。


 全体的に痩せ細り、頬骨が浮き出ている遠藤の車いす姿よりも、よほど注目が集まっている。


 いや、まあ、その遠藤も、ドレスコートでは誤魔化せないぐらいなのだから、どっちもどっちか。



 ……さて、少しばかり話は変わるが、キナコがどうしてあそこまで緊張しているのか。



 それは、簡単な話。実は、キナコ……これまでにも何度か遠藤より馬主席へ招待されていたのだが、全て断っていたのである。


 何故かと言えば、『緊張してレースどころではなくなってしまうから』、あるいは、『ホワを直接見て応援したい』という二つの理由であった。


 それはそれで、失礼に当たる話ではあるだろう。


 『まあ、それもキナコちゃんらしいね』と、大して気に留めない大らかな性格の遠藤だったからこそ……まあ、ソレはソレとして。


 パドックでのキナコの奇行が知られるようになるにつれて、『良かった、あのとき無理強いしなくて……』と、密かに遠藤は胸を撫で下ろして……話を戻そう。



「で、でも、こんな場所に入るのは初めてで……」

「はは、正式に招待されているのですから、気楽に気楽に。僕のようなしぶとい爺がこうしているわけですから、キナコちゃんもリラックス、リラックス」

「は、はい、リラックス、リラックス……」



 促されるがまま、大きく深呼吸。


 一回、二回、三回……たっぷり七回深呼吸して、ようやくまともに会話が出来るぐらいには気が落ち着いてきたキナコは、改めて遠藤へと頭を下げた。



「あの、ありがとうございます。最後のレースに、招待していただいて」

「はは、どう致しまして」



 記憶にある遠藤とは様変わりした、現在の遠藤を前に……キナコはしばし視線をさ迷わせた後、勇気を出して尋ねた。



「あの、お身体は大丈夫なんですか? 招待してくれたのは嬉しいのですけど、その為に無理を……」



 あまり他人に聞かせるような内容ではないので、周囲に聞こえないように声を潜めたキナコに対して。



「いやいや、そういう意味の無理なんてしていないよ。全て、僕のワガママの結果さ」



 遠藤は、笑顔と共に、あっけらかんとした様子で答えた。その笑顔を前に、キナコは……どう答えたら良いか分からず、曖昧に笑みを返した。



 ……キナコが、そうしてしまうのも、無理はない。



 何故なら、こうして車いすに乗ってレースの時刻を待ってはいる遠藤の状態が、ハッキリ言って非常に悪いからだ。


 本来ならば、外出など出来る身体ではない。病院のベッドで絶対安静か、ターミナルケアか。


 モルヒネこそ使用していないが、使用出来る中でも一番強い痛み止めを使用している。


 だが、それでもなお抑えきれない、饒舌にし難い苦痛が全身を駆け巡っているはずだ。実際、微量ではあるが体内で出血もしている。



 なのに、遠藤は顔色一つ、表情一つ変えない。



 それは、死の淵より踏みとどまり、亡き妻の夢を叶えてくれた愛馬への敬意と、感謝。


 そして、最初で最後の……愛馬を育て上げた橘キナコへ、少しでも余計な心配を掛けさせない為の配慮であった。



「……何だか、不思議な気分です」

「不思議、とは?」



 けれども、キナコは自己を過小評価する癖はあるが、バカではない。


 そんな、遠藤の気遣いをうっすらと察していたキナコは、あえてその事には触れず……ポツリと、思っていた事を語り始めた。



「ほんの数年前は、オープン馬に成れた、やったーって皆で騒いでいたのに……それが今では、私ってばGⅠの……それも、有馬記念開催の馬主席に居るんですよ」

「なるほど、そう考えてみれば、数奇な運命だ」

「私、最近になって時々考えるんですよ。あの日、あの時、あの瞬間……もしも、ホワを助けず、これまでと同じようにしていたら……どうなっていただろうなあ、って」

「…………」

「そう考えると、不思議ですよね。コレといった確証なんて無かったのに……どうしてかあの時、この子を死なせては駄目──って、思ったんですよ」



 そう言うと、キナコはにっこりと笑みを浮かべると……昔を懐かしむかのように、何処か遠い場所へと視線を向けた。



「……僕も不思議な気分だよ、キナコちゃん」



 対して、遠藤も……キナコと同じように、遠くを……そう、キナコよりもずっと遠い昔を……亡き妻の笑顔と共に、思い出していた。



「あの日、あの時……ホワを見にタチバナ・ファームへ行ったのは……本当に、ただの気紛れだったんだ」

「え、そうなんですか?」

「うん、前にも話したと思うけど、あの時は本当に馬を買う予定は無くてね……歳も歳だったし、最後に挨拶だけして……この世界から完全に離れようと思っていたんだ」

「そういえば、そんなことを話していましたね」

「あの時、僕が気紛れを起こさず……それこそ、行ったのが一ヶ月遅かったら……たぶん、僕はホワに出会えなかったと思う」

「……そうですね。たぶん、一か月後だったら、ホワは……食肉になっていました」

「だからこそ、数奇な運命だと……そう、僕だけじゃない。柊さんもそうだし、その後も……誰か一人でも途中で諦めてしまっていたら、ホワは今日、この場所には立っていなかった」

「……はい」

「不思議だよね、本当に……人生とは、本当に……その時になってみないと、分からないものですよ」



 そう、話した遠藤の目に映る景色が、何だったのか……それは、キナコにはその一端も分からなかった。



「キナコちゃん」

「はい」

「ありがとう、僕に、こんなに素敵な出会いをさせてくれて……本当に、ありがとう」

「……こちらこそ、本当にありがとうございました」



 けれども、きっとそれは……遠藤にとって、とても大切なモノであることだけは……キナコにも分かったのであった。







 ──ヒシヒシと伝わってくる、暮れの冷気。



 普段なら芯まで震えそうな寒さだというのに、この時ばかり……身体中からこみ上げてくる熱気によって、全く感じていなかった。



(……よし、さっき走った時よりちょっと馬場が乾いただけで、全体的に重い感じのままだ)



 パッカパッカ、と。


 パドックを出て、コースへと出てきた将は……ホワの足から背より伝わってくる、馬場の手応えを感じ取りながら……内心にて笑みを浮かべた。



(技術で肉体の衰えを誤魔化すにも限度がある。それ以上を求めるなら、運に賭けるしかない)



 そう、笑みの理由は只一つ……勝利を掴むための条件その1をクリアしたからだ。



 いったい、どうして……それはひとえに、ホワのスタミナの問題であった。



 ホワは、よくやっている。全盛期の頃より落ちるとはいえ、それでもなお、2500m走れるだけのスタミナを維持している。


 しかし、走れるだけでは駄目なのだ。誰よりも速く2500m走りきるだけのスタミナが無ければ、勝利を掴む以前の問題だ。



(この手応え……例年よりもスローペースになると思うが、そこから更に……)



 その為にも、将は祈っていた。有馬記念前日に雨が降り、当日は晴れて、馬場状態が絶妙に重くなる状態になるのを。


 結果は、見ての通り、感じた通り……現時点で、風は間違いなくホワに、そして、己に向いていると将は思った。



 だが、それはあくまでも第一段階。あくまでも、スタートラインに立てた程度のこと。



 なにせ、GⅠレースに出て来る馬たちもそうだが、相手取る騎手たちとて一筋縄ではいかない。


 負けるつもりは毛頭ないが、それでもなお、勝てるとは断言出来ない騎手たちが勢ぞろいしている。


 それがGⅠレースであり、有馬記念なのである。


 だからこそ、将は……己の実力意外に、運を味方に付けるしかないと思っていた。



(問題なのは、ここから……さて、どうやって他のやつらにプレッシャーを掛けるかどうか、だが……)



 ちらり、と。


 気付かれない程度に、ライバルたちの顔色を窺った将は……内心にて、深々とため息を零した。



(やっぱり、緊張はしているけど硬くはなっていない。さすがはレジェンド……大ベテランの名は伊達じゃないってわけね)



 とはいえ、グチグチと弱音を吐いたところで、状況は欠片も好転しない。


 返し馬も終わり、ファンファーレも終われば、もう間もなくレースという段階だが……さて、どうしたものかと将は頬を掻いて……ふと、ホワに目を向けた。



「どうした、ホワ? 何を探しているんだ?」


 ──ブフフン。



 伝わってくる挙動より、ホワが何かを探して視線をさ迷わせているのを見やった将は、ふむ、と考え……ああ、と思い至った。



「橘さんか? 橘さんなら、今回は馬主席の方に居るらしいぞ。なんでも、遠藤さんと一緒に見るそうだ」


 ──ブフフン? 



 まるで、『それって何処だっけ?』と言わんばかりに軽く首を振るその姿に、「なんだ、寂しいのか?」将は軽く笑みを浮かべ……馬主席の方へと指差した。



「ほら、ホワ、分かるか? さすがに顔は見えないが、あそこに馬主席がある。あそこのどっかで、俺たちを見て──」



 そして、その瞬間……将は、思わず面食らった。


 何故なら──このレースを共に戦う相棒が、見せたのだ。



(テイオー……ステップ!)



 それは、かつて……『天皇賞・春』にてホワが一度だけ見せた、伝説のステップ。


 驚異的な関節の柔軟性を持つ馬にのみ許された、帝王と呼ばれた名馬だけが行えたとされる、独特の動き。


 それを……ホワは、この場で行った。


 考えるまでもなく、此処にはいないキナコに、自分を見付けてもらうための行動であるのは……が、将にとっては、だ。



(──よっしゃあ! 楔が出来たぞ!)



 流れが、少しずつ己へ傾いている事を強く実感した。


 これが、ただのGⅠ馬がやっただけではそこまでにはならなかっただろう。


 幾度の常識を打ち破って来た、ホワだからこそ。


 骨折から立ち直り、ステップを踏んで天皇賞春を勝ち、その勢いで秋も制したホワイトリベンジだからこそ。




 ──生きるのだ。この、土壇場のテイオーステップが。




 ほんの、僅かで良いのだ。ホワイトリベンジならば、もしかしたら……心の端っこに、そう思わせることさえ出来れば良いのだ。


 百戦錬磨のライバルたちの心に、迷いの種を植え付けることさえ出来れば……後は、ホワのこれまでが栄養となって、花をつけてくれる。



(条件その2はクリア……後は、条件その3だが……これはもう、俺がどうこう出来る事じゃない)



 だからこそ、将は。



(最後の最後……そこまで、引っ張る事が出来たら……)



 その、最後の一瞬の為に。



(我慢だぜ、伊藤将。天才の意地ってやつを見せてやる……ホワも頼むぜ、最後の最後は、お前の頑張りが全てだからな)



 将もまた……ホワと一緒に、忍耐のレースへ挑む覚悟を、改めて固めたのであった。


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